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目連(モッガラーナ)とは?

目連(興福寺)
目連(興福寺)

目連もくれん」は、サンスクリット語ではマウドガリヤーヤナ、パーリ語ではモッガラーナといい、目犍連もくけんれんを略して目連といわれます。
お釈迦様の十大弟子の一人で、「神通第一」といわれる強力な神通力を持ちます。
母を餓鬼道から救い、お盆の由来になったエピソードもよく知られています。
舎利弗しゃりほつと共に釈迦二大弟子とまでいわれますが、断片的に名前が出てくるだけで、どんな生涯を送ったのかは意外と知られていません。
一体、目連はどんなお弟子だったのでしょうか?

目連とは

目連とは、どんな人なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。

目連
もくれん
サンスクリット語 Maudgalyāyana(パーリ語 Moggallāna)に相当する音写。
マウドガリヤーヤナ。
目犍連もくけんれん>とも。
また、しばしば<大目犍連>(Mahāmaudgalyāyana)とも呼ばれる。
仏十大弟子の一人。
マガダ国の首都王舎城おうしゃじょうの北方のコーリタに生まれる。
本名は村名と同じコーリタ(Kolita)という。
釈尊しゃくそんに帰依する前にはサンジャヤという懐疑論者の弟子であった。
後に釈尊の弟子馬勝比丘の勧めで釈尊の弟子となる。
ウッパラヴァンナー比丘尼と並んで目連は弟子の中で神通じんずう第一といわれた。
釈尊の説法を邪魔する神龍を降伏ごうぶくさせたとか、釈迦国を滅ぼそうとする軍隊を撃退しようとしたなど、神通力によって釈尊の身辺の護衛を行なったことが文献に記述されている。
強引な伝道活動もしたようで、神通を行使してうらみを買い、ジャイナ教徒などから迫害を受けたという。
提婆達多だいばだったの弟子たちによって暗殺されそうになったこともあった。
また地獄で苦しむ母を救い出したといわれ、この故事に基づいて7月15日の盂蘭盆会うらぼんえが行われるようになった。

このように、目連についてとても簡単に説明されていますので、
ここでは辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。

目連の出家するまで

目連は、マガダ国の首都、王舎城の近くの村に生まれました。
お父さんは、王家を指導する大富豪のバラモンでした。
お母さんの名前を目犍連といい、目連の本名は倶律陀くりたといいましたが、一人っ子で、お母さんの名前から目犍連子とか目犍連と呼ばれていました。

面倒見のいい親分肌でしたが頭も良く、小さい頃から勉強が好きで、当時のあらゆる本を読み、すぐに理解してしまいました。
やがて目連は、成長すると、男らしく、りんとした青年になりました。

隣村には、同年代の舎利弗という頭のいい青年がいて、共に学び、遊んでいるうちに、親友になります。
ある日、舎利弗と共に、「たまには息抜きをしよう」と一年に一度の大きな祭りに行ってみました。
たくさんの人で賑わい、みんな楽しそうに騒いでいます。
最初は物珍しさもあり、気分転換によかったのですが、自分たちもそこに加わってみようかというと、大したことをやっているわけではありません。
あれのどこが楽しいんだろう?
というと、舎利弗も
いや、分からん
と言います。
そんな飲めや歌えのどんちゃん騒ぎが延々と続き、いつまで経っても終わりそうもありません。
これ以上見ていても虚しい気がしてきて、2人でもっと静かな林のほうへ歩いて行きました。
そして、2人で語り合っているうちに、その祭りの騒ぎを鏡として、自分たちの人生も、ああやって欲望に動かされているうちに、儚く終わってしまうのではないかと思えてきたのでした。
それではなんのために生きているのか分からない
いいようのない焦燥感にかられた2人は、共に出家することにしたのでした。

家に帰って両親に出家すると告げますが、バラモンの良家で一人っ子だったため、そう簡単に許されるはずがありません。両親は驚いて慌てふためきました。
ところが、目連は小さい頃から非常に賢く、立派な行いをしていたため、今まで判断を誤ったことがありません。
両親はかわいい我が子の意思を尊重し、泣く泣く送り出したのでした。

仏教との出会い

出家といっても、当時はまだお釈迦様仏のさとりを開かれていなかったため、仏教はありませんでした。
そこで目連と舎利弗は、当時有力だったバラモン教も、それ以外の六師外道といわれる教えも全部聞いてみた結果、六師外道の一人、サンジャヤ(刪闍耶毘羅胝子・さんじゃやびらていし)という人に弟子入りしました。

ところが目連も舎利弗もあっという間にサンジャヤの奥義まで会得してしまい、サンジャヤの弟子250人を任される師範代となりました。
それでも2人は迷いの解決ができず、心からの安心も満足も得られませんでした。

そこで、2人のうちどちらかが、迷いの解決まで導いてくだされる真の先生に会ったなら、お互いに教え合おうと約束したのでした。
ところが、そんなすぐれた先生にはなかなか会うことができず、光陰矢の如しで、数年の歳月が飛ぶように過ぎて行ったのでした。

そんなある日、舎利弗が
おい、目連、大変だ
と飛び込んできました。
見ると顔はほころんで、目を輝かせています。
どうした舎利弗、お前らしくもない
というと、
まことの先生がおられた
舎利弗は、その日、お釈迦様の最初のお弟子・五比丘の一人である、アッサジに出会ったのでした。
何?本当か。どんな教えを説くんだ?
その方のお弟子に聞いたんだが、すごいんだ。
 諸法は因より生じ、諸法は因より滅す。
 生と滅とかくのごとし。沙門はかくの如く説き給う

(『仏本行集経ぶつほんぎょうじっきょう』)

それは……それを説かれた方はまことの方だ
目連は大きな衝撃を受けました。
これは「すべての結果には原因がある、原因がなくなれば結果はなくなる、すべてはこのようにできているとお釈迦様は説かれている」、
という意味で、仏教の根幹の因果の道理です。
目連が今までサンジャヤの教えを聞いても、あいまいで疑問に思っていたことが、その一言で明快に解決したのでした。

その方はどこにおられるんだ?
今、王舎城の竹林精舎に来られている、お釈迦様という方だ
こうなるともうじっとしてはいられません。
目連は、舎利弗と共に、師匠のサンジャヤの元へ行き、今までお世話になったお礼を丁寧に述べると、竹林精舎に向かったのでした。
その時、サンジャヤの250人の弟子たちも、サンジャヤより目連と舎利弗のほうがいいと思ってついてきてしまったために、サンジャヤは血を吐いて倒れたといいます。

こうして、目連は、舎利弗と共にお釈迦様から戒律を受け、お弟子になったのでした。
時にお釈迦様が35才で仏のさとりを開かれた翌年で、目連は20代の後半でした。

目連の厳しい修行

それから目連の厳しい修行が始まりました。
静かなところで一人瞑想していると、いつしか眠くなってウトウトし始めました。
するとお釈迦様が忽然と現れ、
目連よ、睡眠をむさぼってはならぬ
と注意を受けます。
もし眠くなったら、今まで聞いた仏教を暗唱せよ。
それでも眠くなるなら、誰かに仏法の話をせよ

と戒められます。
また「眠くなったら全身に冷水を浴びよ」とか、
屋根にのぼれ」と厳しく注意を受けます。

こうして目連が一心に修行に励んで行くと、天賦の才もあり、やがて心が一つになり、一瞬、高い瞑想の境地に入ります。
しばらくするとまた気が散って瞑想から覚めてしまうと、またお釈迦様が忽然と現れて、
目連よ、心のままに任せてはならぬ、心を一つにせよ
と叱責を受けます。

このようなお釈迦様直接の厳しい指導により、目連はごく短期間のうちに、悟りを開くことができたのでした。

目連の神通力

目連は「神通第一」といわれ、強力な神通力の持ち主でした。
同様の強力な神通力を持つ舎利弗が「智慧第一」といわれて、明晰な頭脳を備えていたのに対して、目連は豪快で爽やかな性格を持っていました。
それが分かるエピソードがお経にたくさん説かれています。

他人の心が見える

例えば『中阿含経ちゅうあごんきょう』には、こんなことが説かれています。
ある時、お釈迦様のご説法に集まると、沈黙されたまま、一言も話されません。
1時間経ち、2時間経ち、3時間経っても4時間経っても一言も話されません。
やがて阿難が礼儀正しく、
お釈迦様、どうか教えをお説きください
と言うと、お釈迦様は、
この中に清らかでない者がいる。ここでは清らかな教えを説くことはできない
と言われました。

この時、目連が瞑想に入り、参詣者の心を見たところ、清らかでない者を2人見つけました。
その2人の前に立ち、
お前たち、早々に立ち去れ
と言うと、2人は無視します。
すると目連は、2人の肘をつかんで引きずって行き、門の外へ放り追い出すと、
お前ら、どっか遠くへ行け
と門を固く閉ざしました。
目連が席に戻ると、お釈迦様は、
今より教えを説こう
と説法を始められたといわれます。

他の人に見えない生き物が見える

雑阿含経』には、お釈迦様が王舎城の竹林精舎におられた時のことが説かれています。
ある日、目連ともう一人の仏弟子が托鉢中、目連の表情が一瞬変わったことに気づきました。
理由を尋ねると、目連は、
今は答える時ではない
と言って竹林精舎に戻りました。

お釈迦様のもとへたどり着くと目連は、共に托鉢に歩いた仏弟子に、表情を変えた理由を語り始めました。
私はあの時、ある生き物を見ました。
身体は楼閣のように大きく、苦しみうめき、泣き叫んで空中を飛んで行く。
それを見て表情を変えたのです
」。

その時お釈迦様はこう説かれています。

その時世尊、諸の比丘に告げたまわく
「善哉、善哉、我が声聞中、実眼、実智、実義、実法に住し、決定して通達せるは是の衆生を見るなり。
我れもまた此の衆生を見て、而も説かざるは、人信ぜざるを恐る。
ゆえんはいかん。
如来の所説を信ぜざらん者あらば、是れ愚痴の人にして長夜に苦を受くればなり」。

(漢文:善哉善哉 我聲聞中 住實眼實智實義實法 決定通達見是衆生 我亦見此衆生而不説者 恐人不信 所以者何 如來所説有不信者 是愚癡人長夜受苦)

これはどういう意味かというと、
私の弟子の中、真実の目、真実の智慧を備えて、真実の義、真実の法の真相を決定して深く心得ている者は、この生き物を見る。
私もかつてこの生き物を見たけれども、人々が信じないことを恐れて説かなかった。
なぜなら如来の言葉を信じない愚か者は、長く苦しみを受けねばならないからだ

ということです。
さらにこの生き物は何なのかをこう教えられています。
この大きな生き物は、かつて王舎城に住んでいたが、牛を屠殺した殺生の罪の報いで地獄の苦しみを受け、今地獄は出てきたが、まだ余罪があってこのような形で、憂いや悲しみ、苦しみ悩みを受けている。
目連の見たことは決して誤りではない

このように、輪廻転生している他の人には見えない生き物や、その過去世も見えるのです。

人や物を動かせる?

また『増一阿含経』によれば、ある時コーサラ(拘薩羅)国の軍勢が、お釈迦様の故郷であるカピラ城へ攻め込もうとしていました。
それを知った目連が、お釈迦様に
神通力で軍勢を他の世界に投げ捨てましょうか
とお尋ねしたところ、
そなたは過去のを他の世界へ投げ捨てられるか
と言われました。
そこで目連は、敵を攻撃するよりも味方を護ろうと思い、
それではカピラ城を空中に浮かせましょうか
とお尋ねしたところ、
そなたは過去の業を空中に浮かせられるのか
と言われました。
目連は、確かに因果応報の過去の業の報いは止められないと考えて諦めたといいます。

給孤独長者の子供を守る

ある時、目連が祇園精舎を出発して、舎衛城を托鉢し、祇園精舎の建立で尊いお布施をされた給孤独長者の家に行くと、子供がバラモン教の本を暗唱していました。それを見た目連は、
外典は鉄のザクロのようなもので、どんなに頑張っても食べられません。
それなのに仏教は、初めから終わりまですばらしいから、よく飲み込めば、涅槃に赴きます。
なぜ仏教を学ばせないのですか?

いや、教えてくれる人があれば、ぜひお願いしたい
それなら私がお教えしましょう
こうして目連は、給孤独長者の子供を教育することになりました。

ところが、給孤独長者の家から、祇園精舎までは4キロくらい離れていて、途中には暗い林もあります。
給孤独長者の子供は、従者と一緒に通っていたのですが、ある日、林の中で身代金目当ての盗賊に誘拐されてしまいました。
命からがら逃げ帰った従者が長者に報告すると、長者は王様に訴えて、盗賊を捕らえる軍勢を出してもらうことになりました。
ところが、この軍勢がなかなか出発しません。

このことを神通力で知った目連は、祇園精舎への道に盗賊が出てはよくないと思い、懲らしめることにしました。
そこで、神通力で王様の軍勢を現し、猛烈に太鼓を鳴らして大挙、盗賊のアジトへ攻め寄せ、周り中を包囲しました。
驚きあわてた盗賊たちは、給孤独長者の子供を捨てて、一目散に逃げて行きます。

それを見届けた目連は、王様の軍勢をおさめると、帰り道の木の下で座禅を組んでいました。
やがて長者の子供が通りかかると、「明日もちゃんと勉強にくるんだぞ」と言って、帰っていきました。
長者の子供はそのまま舎衛城へ歩いて行くと、なぜか、さっき助けてくれたはずの王様の軍隊が向かってきます。
本物の王様の軍隊がようやく出陣したのです。
子供が将軍に「先ほどは助けて頂いてありがとうございました
とお礼を言うと、将軍は内心、はて、これから助けようと思っていたのにどういうことか、と思いつつも、
おおそうかそうか。それで今来た道で誰かに会わなかったか?」と尋ねると、
さっき途中で目連先生に会いました
といいます。
さては神通第一の誉れ高き目連尊者が神通力を現して、功を他人に譲られたものだろうと、その徳の高さに敬服したといいます。

鹿子母ろくしも講堂の建立

舎利弗が祇園精舎の建立の監督を務めたように、目連は、鹿子母ろくしも講堂の建立の監督を務めました。

建立のお布施をしたのは、毘舎佉(びしゃきゃ・ヴィサーカー)という女性です。
当時のインドの十六大国の中でも一番東のアンガ(鴦伽)国の長者の家に生まれ、小さい頃から仏縁深かった毘舎佉は、舎衛城の長者・鹿子ろくしの息子に嫁ぎました。
ところが、毘舎佉が非常に尊かったために、鹿子の一家全員が仏教に帰依するようになります。
特に、義理の父親である鹿子は、仏教を喜んで、嫁の毘舎佉を母のようだと言っていました。
それで、毘舎佉が、鹿子母ろくしもといわれるようになりました。

その鹿子母が、祇園精舎で仏教を聞いていたのですが、当時、そこには2人の代表的な比丘尼がありました。
一人は瞑想を得意とし、もう一人は読経を得意としていました。
ところが、瞑想中は読経を控えなければならないため、争いが起きたわけではありませんが、どうしても修行は交代で、本当はできるはずの半分しかできませんでした。

そこで鹿子母は、お寺をお布施することにしたのでした。
祇園精舎の東北に数キロメートル離れた所に良さそうな場所がありましたが、調べると国有地だったため、舎衛城の波斯匿王はしのくおうの娘、勝鬘夫人しょうまんぶにんに許可を得て、莫大な金額で買い求めました。

お釈迦様にお願いすると、監督として目連尊者を派遣されましたので、寺院の建立が始まったのでした。
やがて一階に500部屋、二階に500部屋の大寺院が竣工し、鹿子母講堂と言われるようになりました。
または東園とか、東寺、鹿堂ともいわれます。
こうして仏教は、ますます勢いを増し、多くの人に広まって行ったのでした。

目連と舎利弗の違い

目連と舎利弗の違いがよく分かるエピソードが、戒律を記された『毘奈耶びなや』に伝えられています。

画家と彫刻家

昔、すぐれた画家が旅をした時、すぐれた彫刻家の家に泊まりました。
主人の彫刻家は、木で美女を彫り、化粧をして美しい着物を着せ、部屋に侍らせておきました。
部屋に通された画家は、旅の疲れからうっとりして、
こっちへおいで」と手を取ると、手が取れたので、びっくり仰天しました。
よく見ると彫刻なので、騙されたと思い、壁に絵を描いて、明け方に旅出って行きました。

翌朝、昼頃になっても、客が起きてこないので、昨日のいたずらもあって気になっていた宿の主人は、部屋に起こしに行くと、画家が自殺しています。
さては自分に騙されたと思って死んでしまったかと思い、警察を呼んで検死をしてもらうと、それは壁に描かれた絵でした。
この彫刻家が過去世の目連で、画家が過去世の舎利弗だと言われます。

どちらも本物と見間違える凄腕ですが、彫刻は時間をかけて立体的に作られていますが、絵画は二次元であっという間に描かれています。
真面目で質実剛健な目連と、機転を利かせて当意即妙に切り返す舎利弗の性格を暗示しているようです。

2人の画家

またある時、2人のすぐれた画家があり、互いに技を競っていました。
ある時、2人で王様のもとへ行くと、それぞれ宮殿の壁画を描くことになりました。
一人は、精妙な壁画を描き始めました。
もう一人は、まず壁面を磨き始めました。

半年後、壁画が完成したと聞いて王様と群臣が見に行くと、すばらしい壁画が2つ、完全な左右対称に仕上がっていました。
ところがよくよく見てみると、片方は鏡のように磨かれた壁面に映し出された影像でした。

実際に壁画を描いたのが過去世の目連、壁を磨いたのが過去世の舎利弗だといわれます。

目連と舎利弗がこのように説かれていることからすると、互角の力を持ちながらも、豪快な直球で勝負する目連と、変幻自在の変化球で勝負する舎利弗という性格の違いがうかがえます。

目連のお母さんとお盆

盆と正月」という言葉があるように、日本で正月に次ぐ大きな休みは、お盆です。
毎年帰省ラッシュで大渋滞が起こります。
そのお盆の由来になったのが、『仏説盂蘭盆経ぶっせつうらぼんきょう』に説かれる目連尊者のお母さんのエピソードです。

ある時、目蓮尊者が、亡くなったお母さんが、今頃どこにいるだろうと思って、神通力で見てみたところ、餓鬼道に堕ちて苦しんでいるのを見つけます。
餓鬼道というのは、欲の深い人が行くところで、食べたいものも食べられず、飲みたいものも飲めず、ガリガリに痩せ細って飢えと渇きに苦しむ世界です。
目連尊者は大変親孝行な人だったので、餓鬼道で苦しんでいるお母さんを何とか助けてあげたいと思って、お釈迦様にご相談しました。
するとお釈迦様は、
そなたの母親の罪は深いので、一人の力ではどうにもならない。
今度7月15日にたくさんの僧侶が集まるから、その僧侶に布施すれば布施の功徳は広大だからお母さんは餓鬼道の苦しみを抜けられるだろう

といわれます。

目連がその通りに実行すると、お母さんは、天上界に救われたといわれます。
それで目連尊者が踊り上がって喜んだのが、盆踊りの始まりともいわれます。

これはあくまで六道の中で、餓鬼道から、天上界という比較的苦しみの少ない世界に救われたということで、輪廻転生を離れたわけではありません。
母親は、自分の育てた子供を縁に、相対的に苦しみが減っただけで、天上界にも苦しみはあります。
これは一時しのぎの対症療法ですので、仏教には、これとは別に苦しみ迷いの根本的な解決が教えられています。

目連の殉教

お釈迦様が80才になられた時、すでにダイバダッタも死んで、当時最強のマガダ国のアジャセ王も仏教に帰依し、仏教はますます一世を風靡していました。
ところが、それを面白くないと思った外道の人々が、仏教の勢いをくじくには、まず釈迦の高弟から殺そうと企て、すでに70代の長老になっていた目連が歩いているのを見つけ、大勢で取り囲んで石や杖で殴りかかりました。

袋だたきにされて、全身が真っ赤に染まり、傷まないところがない位の重傷を負いながらも、神通力で命からがら逃げ出した目連は、死を自覚して、舎利弗の家に逃げ込みました。
血だらけで飛び込んできた目連に驚いた舎利弗は、
どうした目連!?
と尋ねます。
今そこで外道にやられた。もうダメだ。これで涅槃に入ろうと思う
お前は神通第一といわれる強大な力を持っているのに、なぜそれ位のことを避けられなかったのだ?
これは過去世の業の報いだ。因果応報の因果の道理は仏様でも曲げることはできない。
だから最期に挨拶に来た

少し待て。それなら私はもう病におかされているから、先に涅槃に入る
こう言って舎利弗は、生まれ故郷に帰って、病気で亡くなりました。
その知らせを聞いた目連は、神通力でお釈迦様に今までの尊いお導きのお礼とお別れを述べ、涅槃に入ったのでした。

多くの人に仏教を伝えれば、信じる人も増えますが、反対する人もそれに比例して増えて行きます。
最期に外道に殺されて殉教するということは、目連が、一生の間にどれだけ多くの人に多大な影響を与えてきたかが分かります。
それだけ目連は、仏教に教えられた変わらない幸せを喜び、一人でも多くの人に伝えたいと思っていたということです。

ではその仏教に教えられる本当の幸せとはどんな幸せなのか、どうすればその幸せになれるのかについては、以下のメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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