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生きる意味を、知ろう。

殺生とは?

殺生せっしょう」とは、大阪では、ひどいことや無慈悲なことを「そんな殺生な」と言いますが、
仏教では、大変恐ろしい罪で、地獄行きのたねまきです。
寿命も縮まります。

殺生とは一体どんな罪なのでしょうか。

殺生とは

殺生とは、生き物を殺す罪です。

参考までに辞書の内容を紹介します。
まず、仏教の辞典にはこうあります。

殺生
せっしょう
生きものを殺すこと。
生命あるものを殺すことは仏教の罪の中で最も重く、<殺生戒>(不殺生戒。生きものを殺してはならないという戒)は五戒八斎戒はっさいかい十戒じっかいの第一にあげられ、在家者もこれを犯してはならないとされる。
ちなみに不殺生(ahiṃsā)は、ただ殺さないというだけではなく、その生命をより良く生かしきるという積極的な意味をも含む。

国語辞典にはこのようにあります。

せっ‐しょう【殺生】(‥シャウ)
1 (-する)生き物を殺すこと。特に、人を殺すこと。「殺生を忌む」*続日本紀‐天平九年八月癸卯「月六斎日、禁断殺生」
2 (形動)むごいこと。残酷なさま。*浄・蘭奢待新田系図‐一「誠と心得て恨み歎くはきつい殺生」
3 「せっしょうかい(殺生戒)」の略。

どちらも、生き物を殺すということでは共通しています。

生き物を殺すといっても、人間を殺すのが恐ろしい罪なのは、たいていの人はすぐ分かると思います。

このことに関連して、なぜ人を殺してはいけないのか、ということについて
詳しくは以下の記事をご覧ください。
なぜ人を殺してはいけないのか

仏教で教えられる殺生は、人間を殺すだけではありません。
人間以外の生き物も殺せば殺生罪です。
具体的には、ネコやネズミ、牛やブタなどの動物、魚はもちろん、蚊やゴキブリ、クモなどの虫も殺せば殺生罪です。
それについてお釈迦さまはすべての生き物は殺してはならないと、このように説かれています。

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

これは、もう少し漢文調では、
「すべての生類は刀杖を恐れ一切の人は死をおそれる。
自己に思いくらべて殺すべからず、殺さしむべからず」
と言われることもあります。

殺生の罪の報い

仏教では、自業自得で、自分の行いが自分の運命を作ります。
では、殺生をすると、どんな結果を受けるのでしょうか。

殺生という恐ろしいたねまきの結果は、
もっとも苦しみの激しい世界である地獄界や、餓鬼界畜生界に生まれることになると
お釈迦さまはこのように説かれています。

殺生の罪は能く衆生をして地獄、畜生、餓鬼に生ぜしむ。
若し人中に生ぜば二種の果報を得。一には短命、二には多病なり。

(漢文:殺生之罪 能令衆生墮於地獄畜生餓鬼 若生人中 得二種果報 一者短命 二者多病)

これは、殺生の罪を造った人は、地獄や餓鬼、畜生に生まれる。
たとえ人間に生まれたとしても、病気も多く短命で終わるということです。

このような、お経に説かれている殺生の報いを、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の『 大智度論だいちどろん 』にはこのようにまとめられています。

殺生に十罪あり。何等をか十となす。
一には心に常に毒を懐いて世世に絶えず。
二には衆生憎悪して眼に見ることを喜ばず。
三には常に悪念を懐いて悪事を思惟す。
四には衆生これを畏るること蛇虎を見るが如し。
五には睡る時、心怖れ、覚めてまた安んぜず。
六には常に悪夢あり。
七には命終の時、狂い怖れて死をにくむ。
八には短命の業因縁を種。
九には身壞れ命終りて泥梨(地獄)中に墮す。
十にはもし出でて人となっては常にまさに短命なるべし。

(漢文:殺生有十罪。何等爲十。
一者心常懷毒世世不絶。
二者衆生憎惡眼不喜見。
三者常懷惡念思惟惡事。
四者衆生畏之如見蛇虎。
五者睡時心怖覺亦不安。
六者常有惡夢。
七者命終之時狂怖惡死。
八者種短命業因縁。
九者身壞命終墮泥梨中。
十者若出爲人常當短命)

これはどういう意味かというと、
1.心に常に悪を懐いて生まれ変わり死に変わり絶えることがなくなります。
2.人々から憎まれて、姿を見たら嫌悪されます。
3.常に悪い心を懐いて、悪い事を考えるようになります。
4.人々は蛇か虎を見るように怖れるようになります。
5.寝る時には、誰かに寝首を掻かれないかと怖れ、目が覚めても不安にかられます。
6.寝ている時には常に悪夢にうなされます。
7.臨終には狂い怖れて醜くく死にます。
8.短命の種をつくります。
9.肉体が滅びて命が終わると地獄に堕ちます。
10.もし地獄の刑期が終わって人間に生まれることができても短命になる、
ということです。

また、源信僧都げんしんそうずの『往生要集おうじょうようしゅう』には、殺生の罪を造ると地獄に堕ちると教えられています。

だからお釈迦さまは、不殺生を在家の人が守るべき五戒の一つにあげられています。
五戒については、こちらに詳しく解説してありますので是非ご覧ください。
五戒ごかいの意味・お釈迦さまが説かれた地獄へ行かず、また人間に生まれる仏教の方法

こうなると、ほとんどの人は、
小さい頃に虫を殺してしまったり、
夏の夜に蚊が飛んできたのでつぶしてしまったりして、
もはや手遅れではないでしょうか。

ところが中には、
危なかったー、私は虫も殺せないし、蚊も殺してないから、
 地獄には行かずにすんだ

と思う人もあるかもしれません。

では、生き物を殺していなければ、殺生罪ではないのでしょうか?

殺生の3通り

お釈迦さまは殺生をしてはならないことについて、このように3通り教えられています。

自ら生を殺さず、他を教えて殺さず、殺を随喜せず。
(漢文:不自殺生 不教他殺 不隨喜殺)

これは、殺生に3通りあるということです。
この3通りの殺生について、1つ目は 自殺じさつ、2つ目は他殺たさつ、3つ目は随喜同業ずいきどうごうといわれます。

3通りの殺生
  1. 自殺じさつ
  2. 他殺たさつ
  3. 随喜同業ずいきどうごう

それぞれどんな意味なのでしょうか?

1.自殺じさつとは

最初の「自殺」とは、首を吊って死ぬような、
自ら命を絶つことではなくて、自分が直接生き物を殺すことです。

子供が田んぼや用水に行くと、ザリガニを釣ったり、
カエルを捕まえて殺してしまいます。
また、夏になると、林に行って、セミやカブトムシを捕まえて、
秋になると、トンボやコオロギを捕まえてきては、
殺してしまいます。
大人になっても、蚊やハエ、ゴキブリがいると、
反射的に殺してしまいます。
車で高速道路を走ると、ナンバープレートやバンパーのところに
たくさんの虫がこびりついて死んでいます

このように、自ら生き物を殺すことを自殺といいます。

2.他殺たさつとは

次の「他殺」とは、自分は直接殺さなくても、
他人に命じて殺させる殺生を「他殺」といいます。

私たちは、肉や魚をスーパーで買ってきて食べますが、
ほとんどの人は、直接殺しているわけではありません。
実際に殺しているのは、肉屋さんや魚屋さんです。

しかし、もし魚や肉を買って食べる人がいなければ、
肉屋さんや魚屋さんは、商売が成り立ちませんから、
殺生をすることはありません。

肉屋さんや魚屋さんに、牛や豚を殺させているのは、
肉や魚が好きで、買って食べている私たちですから、
自分で直接殺さなくても、肉や魚を買って食べれば、
他殺」の殺生罪を犯していることになります。

もちろん中には
私は動物愛護のためにベジタリアンですから大丈夫です
という人もあるかもしれません。
確かにベジタリアンは、肉は食べないと思いますが、
お米や野菜は食べると思います。
実はお米や野菜をつくるとき、農家の方は、
農薬やその他のもので、たくさんの生き物を殺しておられます。
たとえベジタリアンでも、農家の方に沢山の生き物を殺させている
他殺の殺生罪は免れないのです。

3.随喜同業ずいきどうごうとは

3番目の「随喜同業」とは、
他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同じ殺生罪になります。

例えば、牛を食べながら「おいしいおいしい」と思ったら、
牛を自分が殺したのと同じ罪になります。

実際、霊長類の脳の中では、ミラーニューロンという脳神経が発見されています。
ミラーニューロンとは、鏡のように、
誰かがやっているのを見ただけで活性化してしまい、
自分がやっているのと同じに感じてしまう脳神経です。
誰かが殺生をしているのを見ただけで、大変危険なのです。

台所にゴキブリが出ると、
奥さんは、「キャーッゴキブリ、あなた早く殺して!
と言って、旦那さんに頼みます。
旦那さんが、ゴキブリを追いかけて、見事殺すと、
子供が「お父さん、やったやった」と喜びます。

この場合、旦那さんは、自殺という殺生罪、
奥さんは、他殺という殺生罪です。
見て楽しんでいた子供は随喜同業の殺生罪ですから、
一家そろって殺生罪です。

どんな生き物も、生命をいとおしみ、死を怖れるので、相手の立場に立って、生き物を殺してはならないし、殺させてもいけないということです。

なぜ動物や魚や虫を殺生してはいけないの?

なぜ動物や魚や虫など、人間以外の生き物も殺してはいけないのかというと、仏教では、すべての人は、生まれ変わり死に変わり、
六道ろくどう 」という6つの迷いの世界をへめぐっているからです。
その生まれ変わりする6つの世界には、
鳥や動物や魚、虫などの畜生界もありますから、
仏様のまなこからご覧になると、
すべての生命は同根で、上下はない
のです。
そのことをこのように説かれています。

一切の衆生は無始よりこのかた生死の中にありて輪廻りんねしてやまず。
かつて父母・兄弟・男女・眷属ないし朋友・親愛・侍史となり、生をかえて鳥獣等の身を受けざるはなし。
いかんぞ、中に於いてこれを取りて食わんや。

(漢文:一切衆生 從無始來在生死中 輪迴不息 靡不曾作父母兄弟男女眷屬乃至朋友親愛侍使易生而受鳥獸等身 云何於中取之而食)

一切の生きとし生けるものは、始まりのない始まりから、生まれ変わり死に変わり輪廻転生りんねてんしょうしてとどまることはない。
かつては自分の両親や家族や友達、親友や召使いだった者が、生まれ変わって鳥や獣にならないものはない。
どうして鳥や獣をとって食べることができようか、ということです。

輪廻転生については、以下に詳しく解説してあります。
輪廻転生りんねてんしょう・迷いの無限ループ

人間の命だけが尊いとするのは、人間の勝手な言い分で、
牛もニワトリも魚も虫も命は全部尊いのです。
ですからどんな小さな生き物でも、殺せばそれは殺生罪です。

牛が屠殺されるときに涙を流すのも、
ニワトリが首を絞められてバタバタもがくのも、
魚が船の甲板にあげられてピチピチはねているのも、
虫を捕まえようとすると、サーッと逃げるのも、
死にたくないからです。
どんなに人間を恨んでいるか知れません。

もしウルトラマンのように、
宇宙から人間よりも強くて賢い高度な生命体が現れて、
自分たちの命だけは尊く、あとの生き物は食べてもいい」と、
私たちや家族を殺して食べ始めたらどうでしょう。
そんな自己中心的な生命体は、恐ろしい極悪怪獣で、
誰も容認することはできないでしょう。

ちょうどそれと同じことをしているのが人間です。
食べなかったら死ぬじゃないか
生きるためには仕方がない
と自分たちの都合で他の生き物を殺して食べているのです。

仏教では、生まれ変わり死に変わり、色々な生き物にも生まれ変わる
すべての生命の尊さは平等ですから、
そんな自己中心的に他の生物を殺すのは、
大変恐ろしい罪だと教えられています。

殺生罪を説かれた理由

では、お釈迦さまはなぜ殺生罪を説かれたのでしょうか。

世の中には、殺生罪をお釈迦様が説かれた理由は、「命に感謝するため」とか「命の大切さを知るため」だと言う人もいます。
命をいただかずに生きていけない以上、殺生をしても仕方がないとか、罪は許されると言う人までいます。

確かに、命をいただかなければ生きていけない以上、命に感謝し、より自己を向上させる姿勢は大切ですが、だからといって、それで殺生が許されるわけでもなければ、それが殺生罪を説かれた理由ではありません。と
命を奪っている現実は間違いないからです。

殺生罪により罪を造っている事実、因果応報で自分に待ち受けている運命を知らせ、それを解決した本当の幸せに導くために、お釈迦様は殺生罪を説かれているのです。

殺生罪を造らない人いる?

殺生罪といっても、自分で手にかけて殺すだけでなく、自殺、他殺、随喜同業という、3通りの殺し方のどれもが殺生罪となります。
肉屋さんや魚屋さんなど、他人に殺してもらったり、肉を食べて喜んだりするだけで殺生罪なので、私たちは、どれだけおびただしい殺生罪を造っているかわかりません。

スリランカや東南アジアで、出家して修行している
テーラワーダ仏教僧侶でも、自覚がないだけで、同じことです。

自分は菜食主義だから大丈夫だと思っても、野菜を作る時は農薬を使いますので、どれだけの生き物を殺しているか分かりません。
肉を食べていなくても、肉を食べたいと思えば、心で殺生をしているのです。

このように、すべての人は殺生罪を造っている、ということです。

殺生罪を造るまま救われる方法

もし殺生罪によって地獄に堕ちて助からないとすれば、
すべての人は一人として助かりません。

誰も救われないのであれば、仏教を説かれた意味がありませんので、
真実の仏教には、そんなおびただしい殺生をせずには生きられない
深い業をかかえた私たちが、そのまま、
六道輪廻の根本原因を抜いて、
この世から永遠の幸せになれる道が説かれています。

ですから、無益な殺生は慎まなければなりませんが、
肉を食べずに健康を害して仏教を聞けなくなってしまうより、
肉を食べても、それで頑張って仏教を聞けるようなら、
そのほうがいいのです。

ではどうすれば迷いの根本を抜いて、本当の幸せになれるのか、
ということについては、分かりやすいように
メール講座と、電子書籍にまとめておきました。
ぜひ一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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