僧兵とは

僧兵(再現)
僧兵は、平安時代から戦国時代までに存在した、寺院の私兵です。
権勢を誇った白河法皇(1053-1129)が、世の中で思い通りにならないのは、
鴨河の水、双六の賽、山法師(僧兵)の3つだけ、といったほど強力でした。
しかし、仏教では殺生が禁じられているのに、まさか僧侶が人を殺していたのでしょうか。
僧兵の実態と成立の理由を分かりやすく解説します。
僧兵の語源
「僧兵」というのは、実は寺院の私兵がいなくなり、
江戸時代になってからできた言葉です。
1715年『閑際筆記』に「本朝中世の僧兵甚だ盛んなり」と書かれたのが
今のところ一番古い用例です。
なぜ江戸時代に「僧兵」という言葉ができたかというと、
儒学者や国学者が盛んに仏教排斥論を唱えていたことと、
武家社会では、武装は武士だけが許されるという
特権意識から生まれたといわれています。
仏教の影響力が大きかった過去を、否定しようとする言葉だそうです。
ですので、寺院が私兵を持っていた当時は、「僧兵」とは言われていませんでした。
その代わりに「山法師」とか「寺法師」とか、
「山徒」とか「堂衆」などと言われていました。
それらをまとめて「大衆」とか「衆徒」といも言われています。
ですがこの記事では、江戸時代にできた仏教を非難する言葉だそうですが、
分かりやすいように「僧兵」という言葉を使っておきたいと思います。
仏教では人を殺してもいい?
仏教には、不殺生戒という決まりがあります。
不殺生戒というのは、生き物を殺さないという決まりです。
これは、仏教では、在家の人でも守らなければいけない、五戒の一つです。
五戒について、詳しくはこちらをご覧ください。
➾五戒とは?仏教でやってはいけないことを分かりやすく解説
もし生き物を殺すと、もう来世は人間に生まれることはできません。
在家の人にさえ不殺生戒があるわけでから、ましてや出家の僧侶は尚更です。
出家の人が守らなければならない代表的な戒律の条項を述べた
『四分律比丘戒本』では、こう説かれています。
若し比丘、故らに自ら手もて人命を断じ、刀を持ちて人に授け、死の快きを歎誉して死を勧むらく「咄、男子、此を用って悪活と為す。寧ろ死して生きざれ」と。是の如き心の思惟を作し、種種に方便して死の快きを歎誉して死を勧む。是の比丘波羅夷にして不共住なり。
(漢文:若比丘,故自手断人命,持刀授与人,歎誉死快勧死,咄男子,用此悪活為。寧死不生。作如是心思惟,種種方便歎誉死快勧死。是比丘波羅夷不共住)(引用:『四分律比丘戒本』大正22巻1015頁下)
これはどういう意味かというと、もし出家の人が、故意に自らの手で人の命を断ったり、
刀を持って人に渡し、死ぬことはすばらしいとほめたたえて
「おい男、これって悪い生活じゃないか、むしろ生きていないで死んだほうかいいよ」と勧めたりする。
こんな出家者は、波羅夷という罪で、共に住むことはない(追放である)
ということです。
波羅夷というのは、戒律の中で最も重い罰則がある罪です。
仏教で死刑はないので、教団からの追放になります。
天台宗では、このような小乗の具足戒ではなく、大乗戒のみで出家しますが、それでも同じです。
大乗戒の説かれる『梵網経』には、こう説かれています。
若し自ら殺し、人に教えて殺さしめ、方便して殺しを讃歎し、作すを見て随喜し、乃至呪殺す。殺因、殺縁、殺法、殺業あり。乃至一切の命有らん者は故に殺すを得ざれ。是れ菩薩はまさに常住の慈悲心、孝順心を起こし、方便して一切衆生を救護すべし。而して自恣心もて快意に殺生するは、是れ菩薩の波羅夷罪なり。
(漢文:若自殺,教人殺,方便讃歎殺,見作随喜,乃至呪殺。殺因,殺縁,殺法,殺業。乃至一切有命者不得故殺。是菩薩応起常住慈悲心孝順心,方便救護一切衆生。而自恣心快意殺生者,是菩薩波羅夷罪)(引用:『梵網経』大正24巻1004頁中)
これはどういう意味かというと、もし自ら殺し、人に教えて殺しをやらせ、そのために殺しを称讃し、殺しを見て喜び、はては呪い殺すに至る。
そこに殺しの因、殺しの縁、殺す方法、殺しの業がある。
そういうわけだから、いかなる命ある者も、故意に殺してはならない。
菩薩はまさに変わることのない慈悲の心と、孝順の心を起こし、
手を尽くして一切衆生を救い護りなさい。
それなのにわがままな心に任せて、楽しみ殺生をするのは、菩薩の波羅夷罪である
ということです。
大乗戒でも、やはり殺人は重罪です。
当たり前ですね。
さとりを求める上では論外です。
仏教の目的
仏教の目的は、生まれ変わり死に変わりを繰り返す生死の問題を解決して、
涅槃に至ることです。
それが数あるさとりの中でも最高のさとりである、
仏のさとりを得ることでもあります。
さとりについて、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾悟りを開くとは?52段階の悟りと不退転位・真如の境地を分かりやすく解説
さとりを開くための方法は色々説かれていますが、
一言でまとめれば戒・定・慧の三学となります。
「戒」とは煩悩を抑える決まり、
「定」とは心を一つにすること、
「慧」とは煩悩を断ちきる智慧です。
その戒定慧の関係を『首楞厳経』には、こう説かれています。
戒に因って定を生じ、定に因って慧を発す。
(漢文:因戒生定,因定発慧)(引用:『首楞厳経』大正19巻131頁下)
「戒」によって煩悩を抑え、心を一つにしやすくします。
「定」によって、智慧を生じます。
智慧によって煩悩を断ちきり、さとりを開くのです。
それでさとりを求める人は、出家して戒律を守り、厳しい修行に打ち込むわけです。
ですから、さとりを開くには必ず出家しなければならないですし、
戒律を守らなければなりません。
煩悩のままに悪いことをしていては、さとりどころではないので、
まず出家して戒律を守るところからスタートです。
さとりを目指し、戒律を守っているはずの僧侶が、
本当に「僧兵」となって人を殺していたのでしょうか?
僧兵の装備
僧兵はどんな武器を持っていたのでしょうか。

武蔵坊弁慶
僧兵の姿で思い浮かぶのは、まず武蔵坊弁慶(不明-1189)です。
鎌倉幕府が編纂した歴史書の『吾妻鏡』に義経の従者として名前が出てくるので、
実在の人物ではないかとされています。
もともと熊野の別当の子といわれ、比叡山に預けられましたが、
乱暴ばかりして追放されたそうです。
その時に剃髪して弁慶と名乗ります。
その後も四国や播磨を転々として、京都で千本の太刀を奪おうとしていた時に
義経に出会って従者になります。
弁慶は色々な物語に出てきて脚色されていますので詳しくは分かりませんが、
挿絵では薙刀を持っているイメージです。
そして布で頭を包んでいます。
この頭を包んでいる布を「裹頭」といいます。
僧兵は、たいてい模様のない素絹の衣の下に腹巻をして、裹頭します。
そしてズボンではなく葛袴をはきます。
高下駄をはいていたといわれますが、
それでは戦う時に動きが鈍くなりそうなので怪しいものです。
南都北嶺の僧侶を天狗に例えて風刺した天狗草紙という鎌倉時代の絵巻にはその姿が描かれています。

天狗草紙絵巻・延暦寺巻
そして太刀か長巻を持っていたといわれます。
長巻というのは、太刀ですが、束を1m位にしたもので、人や馬の足をなぎ払います。
これが薙刀に見えたかもしれませんが、
太刀なのでつばもあります。
僧兵はどこの誰?
こんな武器を持った人たちが、本当に僧侶だったのでしょうか?
比叡山延暦寺では、犬神人という非人集団を組織して使っていました。
また、荘園から召し出された兵士がいました。
他にも天台座主に世俗の傭兵らしき「精兵」も随行したこともありました。
ですから、僧兵といっても、僧侶ではない人がたくさん混じっています。
以前は、身分が高く、学問をする僧侶を学侶とか学生といい、
僧侶ではあっても、雑務をしている身分の低い人が武器をとったのであろうといわれていました。
ですが、学侶も所領の荘園の年貢の取り立てや、
悪党の鎮圧には武装して向かいます。
また攻め込まれた時には全員が武器をとって戦いますので、
やはり僧侶も僧兵になったのです。
そんな僧兵たちがどこにいたかというと、特に勢力があったのは、
興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺です。
その他にも、高野山・金峯山・熊野・多武峰・白山・彦山などの諸山にもいたといわれます。
また、醍醐・鞍馬・根来・播磨大山・伯耆大山の諸寺などです。
特に興福寺の僧兵は奈良法師、延暦寺は山法師、園城寺は寺法師と呼ばれました。
僧兵の強訴
では、白河法皇(1053-1129)が畏れた「強訴」の時はどうだったのでしょうか。
ある時の強訴の記録があります。
承暦3年(1079)の千人を超える強訴集団の装備は、
600人が『大般若経』(全600巻)1巻ずつ、
200人が『仁王経』(2巻)1巻ずつ、
200人が甲冑に弓矢でした。
8割の僧侶は、古くから転読の儀式に用いられた『大般若経』と、
護国三部経の1つである『仁王経』を装備し、武装が2割です。
強訴の攻撃力の中心は神輿や経典などの精神的なもので、
武力は二の次だったことが分かります。
僧兵は殺生しなかった?
では、僧兵は殺生しなかったのでしょうか?
神輿や経典などを主に装備していた強訴でも、
実際に武力衝突をしたこともありました。
永久元年(1113)4月、興福寺の「僧兵」は、官軍と対峙します。
ところが、その両軍の間に鹿が飛び出します。
官軍が射ようとしたため、攻撃を受けると思った強訴の一団が反撃し、
武力衝突が発生したのです。
その結果、興福寺側の僧侶に30名の死者が出たといいます。
このことから、僧侶は戦闘のプロには負けるため、
強訴においては武力衝突を極力控えていたものと考えられます。
ところが相手が朝廷ではなく、僧侶同士の勢力争いとなると、話は別です。
永保元年(1081)4月、延暦寺を本寺とする日吉社の祭を
園城寺が数百の兵を率いて妨害したため、武力衝突が始まりました。
延暦寺と園城寺の各数千人が対峙しましたが、
朝廷は祈りの停止を望まないため、園城寺の追討を命じます。
園城寺が逃亡したので、それに乗じて延暦寺は園城寺を襲撃し、園城寺を焼いたという。
その結果、経典などが相当燃えてしまったといいます。
これが比叡山の焼き討ちです。
やがて信長に焼き討ちされるのも自分たちが焼き討ちをしていた報いで、
自業自得かもしれません。
やがてその焼き討ちの報復のためか、園城寺300人が9月に比叡山に攻め込みます。
源俊房(1035-1121)の日記である『水左記』によれば、
9月14日、園城寺の「法師」が襲撃したことは以下のように書かれています。
三井寺の法師、龍尾の方より登り、丑の時、警固屋を□する間、宿直の者、或いは刃傷せられ、或いは殺害せらる。
千寿院に到りて追い帰し了んぬ。
合戦の場、両方傷を被り、並びに死者其の数有り
(三井寺方は死者廿七人、山方は知らずと云々、又た傷を被る者互いに其の数を知らざるか、此の外に谷に転入せる死者数ありと云々)(引用:源俊房『水左記』)
三井寺の法師は丑の時(午前二時)に刀で攻撃を行い、
宿直の者が傷つけられ、殺された。
合戦による死者は、園城寺側は27名、延暦寺側は不明。
けが人は数知れず、それ以外に谷に転落死した人もいたとか。
これでは、僧侶同士が刀で戦い、傷つけ殺し合ったことは疑いありません。
この時代の僧侶は、なんと殺生をしていたのです。
どうしてこんな僧侶が出現したのでしょうか?
僧兵の産みの親は良源?
よく、僧兵の産みの親は、源信僧都(942-1017)の先生の
良源(912-985)だといわれます。
それは、室町時代の『山家要記浅略』に、
天台座主の良源が、収入を確保し、他宗の攻撃を退けるため、
「愚鈍・無才の僧俗を武門一行之衆徒にした」と書いてあるからです。
才能のない僧侶や俗人を、武芸専門の人々にしたということです。
これが後に徳川光圀が始めた『大日本史』に受け継がれて
僧兵の起源とされました。
ところが実際確認してみると、970年に良源が定めた『二十六條式』にはこうあります。
聞くが如くは、僧等、党を結び群を成し、恩を忘れ、怨みを報い、懐中に刀剣を挿し著けて恣に僧房に出入し、身上に弓箭を帯持して、猥りに戒地を往還して傷害意に任せ、彼の屠児に異ならず。
暴悪身に遍き、猶酔象に同じ。
一宗の恥辱、三宝の澆醨、愁吟山を動かし、謗毀世に喧し。
是れ則ち或いは師長弟子の悪行を呵責せず、或いは弟子師長の教誠に随順ざるの故なり。
自今以後、殊に禁遏を加え、師弟共に身口の戒律を守り、日夜常に賢聖の威儀を習い、刀杖弓箭一々永く奔て、慈悲喜捨念々に専修し、国家を誓護し、生界を利安せん。(引用:良源『二十六條式』19条)大正蔵になし
これは、聞くところによると、僧たちが徒党を組んで、群れをなして、
恩を忘れ、怨みを晴らそうとして、懐に刀剣を差して自由に僧房に出入りし、
身体に弓矢を携帯して、みだりに戒律の場である境内を行き来しては、
思い通りに人を傷つけ、あの屠殺人と変わるところがない。
荒々しく悪い心が全身にあふれ、あたかも酔った象と同じである。
これは一宗の恥辱であり、仏・法・僧の三宝を薄くし、
嘆きの声は山を動かし、世間のそしりは満ちている。
これはとりもなおさず、或いは師が弟子の悪さを注意せず、
弟子が師の注意に従わないからである。
本日ただ今からは、特に厳しく禁制を加え、
師も弟子も共に身体と口の戒律を守り、
日夜つねに賢者・聖者の正しいふるまいを習い、
刀・杖・弓・矢の一つ一つを永遠に捨て去って、
慈・悲・喜・捨の四無量心を一瞬一瞬ひたすら修め、
国家を護ることを誓い、生きとし生けるものすべてを幸せにし、
安心させようではないか、ということです。
このように、聞くところによる、聞僧侶などが、
刀剣や弓矢で自由に人を傷つけるようになったそうだが、
それは、天台宗の恥だと述べ、刀剣や弓矢を捨て、戒律を守るよう説いています。
そして、僧徒が裹頭にて堂内に入り行法を妨げることを禁じ、
また武器を帯し寺内を横行する僧徒の捕縛を定めています。
ということは、実際には生みだしたのではなく、
すでにできていたのを統制しているわけです。
どうしてこのような僧兵が生まれてきたのかというと、
平安時代の最初の頃には、僧侶は国から給料をもらっていたのですが、
朝廷の財政が悪化して、だんだん給料が出せなくなります。
中世には、自立せざるを得なくなり、
大寺院は荘園の寄進を受けて、その収入で経営するようになります。
そのような荘園ができたことにより、防衛のために武装する必要ができたといわれています。
ですが、寺院内を刀や弓を持ち歩き、自由に人を傷つけるとなると、荒れ放題です。
救いを求めて比叡山から離れた人々
仏教の目的はさとりを得ることです。ですがこのような状況では、さとりを求めるどころではありません。
こんな比叡山でも、中には本当にさとりを求める人も皆無ではありませんでした。
そのような人は、どんな気持ちで仏道を求めていたのでしょうか。
法然上人
後に浄土宗を開いた法然上人(1133-1212)が、
救いを求めていた時の心境はこのように伝えられています。
凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、たとうるに猿のごとし。
まことに散乱してうごきやすく、一心しづまりがたし。
無漏の無智なにによりてかおこらんや。
もし無漏の智剣なくは、いかでか悪業煩悩のきづなをたたむや。
悪業煩悩の絆を断ぜずは、何ぞ生死繋縛の身を解脱する事をえんや。
かなしきかな、かなしきかな。
いかがせん、いかがせん。
ここに我がごときはすでに戒・定・慧の三学のうつはにもあらず。
この三学の外にわが心に相応する法門ありや。
わが身にたへる修行やあると。(引用:『黒谷上人語燈録』大正83巻237頁上)
自分の心は変わりやすく、猿のようなものである。
本当に散乱して動き易く、一心に鎮めることができない。
これではどうして清らかな空の智慧が起きるだろうか。
もし清らかな智慧の利剣がなければ、
どうして悪業煩悩の束縛を断ち切ることができるだろうか。
悪業煩悩の束縛を断ち切らなければ、
どうして輪廻に縛られた身を解脱することができるだろうか。
悲しいかな、なんと悲しいことか。
どうしたらいいのか、どうしたらいいのか。
ここに私のようなものは既に戒・定・慧の三学の器ではない。
この三学以外に私の心にかなう教えがあるだろうか。
私の身体でできる修行があるのだろうか。
法然上人は戒律を生涯守られましたが、それでも心を一つにする定ができませんでした。
定ができなければ智慧がおきません。
智慧がおきなければ、煩悩を断ち切って解脱することができないと嘆かれています。
さとりを得たいのに三学ができずに苦しむ法然上人と、
刀や弓で武装して争う他の僧侶の言動には大きな隔たりがあります。
親鸞聖人
また、その後に浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173-1262)もそうでした。
9歳で出家して29歳まで、比叡山で20年間修行しました。
下山する直前の心境は、このようであったと伝えられています。
定水を凝らすと雖も識浪頻に動き、心月を観ずと雖も妄雲猶お覆う。而るに一息追がざれば千截に長く往く。何ぞ浮生の交衆を貪って徒に仮名の修学に疲れん。須らく勢利を抛って直ちに出離を悕うべし。
(漢文:雖凝定水識浪頻動,雖觀心月妄雲猶覆。而一息不追千截長往。何貪浮生之交衆徒疲假名之修學。須抛勢利直悕出離)(引用:存覚『歎徳文』:大正83巻757頁上)
これは、心を一つにして平らな水面のように動かないようにしようとしたが、心の波はしきりに動き、心にさとりの月を拝もうとしても、煩悩の雲が覆い隠してしまう。
未ださとりは得られないのに、今一息切れれば永遠に苦しみの世界に沈まねばならない。
どうして浮世の交わりに身をやつして、無駄な学問に打ち込んでいられるだろうか。
何としても権勢や利益を捨てて、出離解脱を求めなければならない
ということです。
また、親鸞聖人の妻、恵信尼(1182-1268)は
親鸞聖人が下山してからの経緯をこう伝えています。
やまをいでゝ、六かくどうに百日こもらせ給て、ごせをいのらせ給けるに、
九十五日のあか月、しやうとくたいしのもんをむすびて、じげんにあづからせ給て候ければ、
やがてそのあか月いでさせ給て、ごせのたすからんずるえんにあいまいらせんと、
たづねまいらせて、ほうねん上人にあいまいらせて、
又六かくだうに百日こもらせ給て候けるやうに、又百か日、
ふるにてもてるにも、いかなるたいふにも、まいりてありしに、
たゞごせの事は、よき人にもあしきにも、おなじやうに、
しやうじいづべきみちをば、たゞ一すじにおほせられ候しを、
うけ給はりさだめて候しかば(後略)(引用:『恵信尼消息』)
親鸞聖人は、比叡山を降りて、六角堂に百日こもり、後世の解決を求めたところ、
95日目の暁、夢に聖徳太子のお言葉を頂いたので、
六角堂を出て後世の助かる縁を探し歩き、法然上人にめぐりあった。
六角堂に百日こもったように、また百日、雨の日も風の日も参詣したところ、
後世のことについて、善人も悪人も同じように生死を出離する道ただ一つを説かれた。
それを聞いて信心決定した。
このように、戒律を守らないばかりか、安易に人を傷つけ、殺してしまうほど興廃した比叡山では、
真剣にさとりを求めようとする人は、山を下りて仏道を求めたのでした。
そして、どんな人でも本当の幸せになれる仏教の真髄を知り、
それを明らかにされています。
僧兵は戦国時代になると、織田信長の比叡山焼打ち、豊臣秀吉の根来寺焼打ち、刀狩など、武士の猛攻によって消えていきます。
ですが、仏教に説かれたすべての人が本当の幸せになれる真理はその後も伝えられています。
それがどんなものかは、仏教の真髄ですので、
分かりやすく電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

