戒律とは
仏教では、在家の人には五戒という5つのルールがあります。
出家して僧侶になるには、「具足戒」を守らなければなりません。
具足戒には、男性なら二百五十戒、女性なら三百四十八戒あります。
(女性の三百四十八戒は、きりのいい数字で「五百戒」ともいわれます)
さて仏教の戒律は、一体どんな内容なのでしょうか?
戒律とは
戒律とは一体どんなものでしょうか。
参考までに仏教の辞典を見ておきましょう。
戒律
かいりつ
漢語としての<戒>はいましめの意、<律>はおきて、さだめの意。
<戒律>は仏教特有の術語である。
<戒律>に対応するサンスクリット語は多様であり、単純に決めることはできない。
śīla、śikṣā、saṃvaraが「戒」と訳されたり、vinaya、saṃvaraが「律」と訳されたり、vinaya、prātimokṣa、saṃvaraが「戒律」と訳されることもある。
シーラとは修行規則を守ろうとする自律的な決心で、修行を推進する自発的な精神であり、ヴィナヤは教団(僧伽)の規則の意であると区別される。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
つまり「戒律」の「戒」と「律」ではもともとは意味が違います。
戒を守ることを持戒といい、戒を守らないことを破戒といいますが、
「戒」は、さとりを目指して個人的に頑張る決まりです。
善い習慣のようなものです。
「律」は僧侶の集まりの生活上のルールで、罰則があります。
学校でいえば校則みたいなものです。
『四分律』とか『十誦律』といった律蔵に記されています。
律蔵というのは、お釈迦さまが説かれた律を記してある典籍のことです。
しかし「戒」と「律」の2つは混同されて、
男性の僧侶の二百五十戒は正確には「律」ですが、
「二百五十戒」とも「具足戒」ともいわれます。
以下でも分かりやすいように、両者をどちらも「戒律」として説明します。
では、戒律は何のためにあるのでしょうか。
戒律の働き
戒律の働きについて、『首楞厳経』にこのよわうに説かれています。
心を摂するを戒と為す。
戒によって定を生じ、定によって慧を発す。
(漢文:摂心為戒 因戒生定 因定発慧)(引用:『首楞厳経』)
仏教では、さとりを目指すのに、
「戒・定・慧」
の「三学」が必要です。
「心を摂する」というのは、心をおさめることです。
煩悩をおさえ、心を統率することを「戒」といいます。
その戒によって「定」を生じます。
「定」は煩悩をさえぎる修行です。
心を一つにします。
その定によって慧をおこすことができます。
「慧」は煩悩を断つ修行をいいます。
煩悩が断ち切られたのが悟りです。
戒によって定が生じ、定によって慧を発すのですから、悟りを得るのに戒律は必要不可欠です。
戒律は、さとりを求める上で、非常に重要なのです。
戒定慧の三学については、こちらをご覧ください。
➾悟りを開く方法、戒定慧の三学について
在家の人の戒律
では、仏教の戒律は、具体的にはどんな内容なのでしょうか?
五戒
まず、在家の人でも守らないといけないのが、
「五戒」です。
在家の男性は「優婆塞」
在家の女性は「優婆夷」
といわれますので、「優婆塞戒」とか「優婆夷戒」ともいわれますが、
どちらも以下の同じ5つの決まりです。
ところが、実は在家の人でも、
まだ時々守らなければならない戒律があります。
それが八戒です。
八戒
八戒は、「八戒斎」ともいわれ、
在家の人が毎月6日間、あるいは4日間、一日一夜行います。
この6日間は、8日、14日、15日、23日、29日、30日で、
これを「六斎日」といわれます。
4日間の場合は、1日、8日、15日、23日になります。
この日は、在家の人も、五戒の中の不邪淫戒が
不淫戒になります。不倫や浮気だけではなく、
配偶者でもアウトです。
さらに五戒に加えて、
6.香油塗身戒…化粧・装身具を使わない
7.歌舞観聴戒…歌や踊りなど娯楽を見聞きしない
8.高広大床戒…快適なベッドを使わない
9.非時食戒……午後以降、明朝まで食事をしない
が加わります。
たいてい欲望を抑えるようなものばかりですが、なぜ快適なベッドはいけないのでしょうか。
それは、身分の高いお金持ちが使うような立派なベッドは控えましょう、ということです。
ではベッド以外の家具はいいのかというと、これはもともと出家の人を想定した戒律で、出家者の持ち物は三衣一鉢といって服3着と、托鉢でお布施を受けるお椀のみで、あとはベッド位しか家具がないからです。
八戒なのに9箇条あるのは、
9番目は「斎
」といわれるからです。
八戒と斎を合わせて八戒斎となり、それを八戒といっています。
ですから、八戒斎をまとめるとこうなります。
在家の人でも、毎月6日間は、この八戒斎を守るのです。
出家の人の戒律
十戒
20才未満で出家したい人は、
男の子は「沙弥」
女の子は「沙弥尼」となります。
その場合は、責任もって面倒をみる阿闍梨と、
戒律を授ける戒師が必要です。
戒師は阿闍梨が兼ねることができるので、
最低限1人の阿闍梨が必要です。
戒律としては、八戒斎に
以下の1つ加えた十戒を守ります。
10.捉金銀宝戒…お金に触れない・所有しない
十戒をまとめるとこうなります。
具足戒
大人が出家するときには、受戒しなければなりません。
受戒には、戒律を授け、僧侶になった後、責任を持って指導する戒和尚と、
受戒の儀式を主催する羯磨阿闍梨、
受戒する人に問題がないか調査する教授阿闍梨の3人と、
立ち会う僧侶7人の合計10人の僧侶が戒壇上に立って、
儀式をする必要があります。
これを三師七証といいます。
一応、地方なら三師二証の5人でも可能ですが、
それでも最低5人の僧侶が必要です。
東大寺の戒壇院
日本では、鑑真が中国から弟子を引き連れて来日し、754年に東大寺に戒壇が築かれ、初めて正式にできるようになりました。
鑑真は、律宗の中でも『四分律』に基づく南山宗を伝えたので、『四分律』の具足戒を授戒します。
戒壇というのは、戒律を授ける儀式をする場所のことです。
最初は東大寺の大仏殿前に臨時の戒壇が設けられましたが、翌年には、戒壇院が建立されて授戒の根本道場になっています。
戒体
戒律を受ける儀式では、戒和上が、「これこれの戒律を受けるや否や」と尋ねます。
それに対して戒律を受ける人は、必ず「これこれの戒律を受けます」と口に出して言わなければなりません。
口に出して言うことによって、その瞬間、目には見えませんが「戒体」というものが心の中にできます。
戒体というのは、戒律にしたがって、悪い行いをやめて善い行いをさせる原動力となるようなものです。
それが無表色という物質だという派もあれば、唯識派のように、種子という精神的なものだという派もあります。
鑑真の伝えた南山宗では、戒体は種子です。
いずれにせよ、口に出さなければ、戒体ができないので、戒律を受けたことになりません。
それは、戒律を破り、破戒するか、戒を捨てると宣言するまで存在します。
戒を捨てると宣言するのは、戒律を受けていない状態に戻れば、戒律はないので、戒律違反がなくなるからです。
ですが、一度戒律を捨てると基本的には二度と戒律を受けられません。
僧侶であるかどうかは、この戒体があるかどうかで判断されます。
従って、受戒をした人が、出家の僧侶です。
それは戒律を全部守るということです。
具足戒の5つのレベル
戒律は男性二百五十戒、女性三百四十八戒あります。
これが具足戒です。
つまり具足戒は、戒律全部の総称です。
戒律は、罰則が思い順に5つに分類されています。
波羅夷、僧残、波逸提、提舎尼、突吉羅の5つです。
一番重いのは波羅夷で、永久追放になります。
全部で4箇条があり、
男女の交わり、殺人、大泥棒、悟っていないのに悟ったという大嘘の4つです。
次に重いのは僧残です。
懺悔すれば追放されずに済みます。
別の所に謹慎して7日間懺悔するもの13箇条があります。
誤って異性に触れる、規定以上の大きさの家に住むなどです。
その次は、波逸提で、所有に関する罪30箇条です。
懺悔して、所有し過ぎたものは没収になります。
僧侶は三衣一鉢で生活しなければならないので、
例えば4着目以上の衣や、2個目以上のお碗は没収です。
もちろんお金は所有してはいけないので没収です。
その次は提舎尼で90箇条あります。
嘘や、両舌、飲酒、非時食などがあります。
ちなみに前のと合わせてこれら120箇条の規則には
「地獄に堕ちる罪」という名前がついています。
その他にも、突吉羅があと113あります。
女性の場合、永久追放になる罪も、
7日間懺悔になる罪も、4箇条ずつ増えます。
その他、男性より100箇条近く増えます。
この具足戒を守る人が、出家の僧侶であり、
女性なら尼さんです。
大乗仏教の戒律
中国では、天台宗でも禅宗でも浄土宗でも、
出家すると具足戒を受けます。
ところが日本では、「大乗戒」を受けます。
大乗戒とは、「菩薩戒」ともいわれ、
その内容は「三聚浄戒」です。
これも鑑真が、出家も在家も共通して受ける戒律として用いました。
三聚浄戒
「三聚浄戒」とは、以下の3つです。
- 摂律儀戒…悪いことをやめる
- 摂善法戒…善いことをする
- 摂衆生戒…苦しむ人に仏法を伝えて救う
1番目の摂律儀戒が、五戒・八戒・十戒・具足戒
とされることもありますが、天台宗を日本に伝えた最澄は、
『梵網経』の
「十重禁四十八軽戒」として、
具足戒をやめました。
これを「梵網戒」「円頓戒」ともいいます。
十重禁四十八軽戒
「十重禁四十八軽戒」とは、
「十重禁戒」と
「四十八軽戒」の
2つです。
「十重禁戒」は、以下の10項目です。
「四十八軽戒」は、四十八箇条あるので省略しますが、
肉を食べないとか、にらなどを食べてはならない、
戒律を破った人を見過ごしてはならない、
捕まっている動物は逃がさなければならない
犬や猫を飼ってはならない
仏教講座が開かれているのに欠席してはならない
などがあります。
さらに厳しいものとしては、
「新人はまず身体や腕、指を焼いて諸仏に布施しなければならない」とか
「大乗の戒律を、自分の皮をはいで、自分の骨を筆として、自分の血で書写しなければならない」
というものすごいものもあります。
このように、大乗仏教の戒律が、
具足戒を採用しないからといって、
簡単なわけではありません。
大乗戒のすぐれた特徴
このように三聚浄戒の1番目、摂律儀戒の、善いことをすることも、
2番目、摂善法戒の悪いことをやめることも、
小乗の具足戒にも含まれています。
なぜかというと、小乗戒は普通、防非止悪とされるからです。
それに善を行うことも加えて、止悪、行善とされることもあります。
ところが、大乗戒は、3番目の摂衆生戒という衆生利益の戒があります。
そのため、摂衆生戒に表れる利他性は、具足戒にはない、大乗戒のすぐれた特徴の1つです。
小乗仏教と大乗仏教の違い
果たしてこれらの戒律は、誰か実行可能なのでしょうか?
仏教では、私たちの行いを、心と口と身体の3方面から見られ、
中でも心を最も重く見られます。
不殺生戒であれば、
生き物を実際に殺すのはもちろんだめですし、
口で「殺してやるー」と言ってもだめです。
さらに、心の中で「死ね」とか「死んでくれたらいいのに」
と思ったら、心で殺す殺生罪です。
また、肉屋さんや魚屋さんが殺した肉を
「美味しそうだ」とか「食べたい」と思ったら、
もうアウトです。
大乗仏教では、このように心を最も重視するのですが、
小乗仏教の具足戒では、口と身体だけ守れば、
心は守らなくても問題にされません。
口や身体で守るだけでも大変ではありますが、
心を重視するお釈迦様の教えからいえば、
形だけになっています。
戒律を守るなら、当然心まで守らなければ
教えにしたがっていることにはなりません。
では、心まで守れるのでしょうか?
戒律が守れなければ助からない?
このように仏教で説かれる戒律は大変厳しく、
天台宗を日本に伝えた最澄は、このように言っていると『教行信証』に教えられています。
末法の中に於いては、ただ言教のみありてしかも行証なけん。
もし戒法あらば破戒あるべし。
すでに戒法なし、いずれの戒を破せんによりてか而も破戒あらんや。
(中略)
たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり。
市に虎あらんがごとし。これたれか信ずべきや。
(漢文:於末法中但有言教而無行証若有戒法可有破戒既無戒法由破何戒而有破戒(中略)設末法中有持戒者既是恠異如市有虎此誰可信)(引用:『末法灯明記』)
末法というのは、お釈迦様がお亡くなりになってから、1500年後から1万年の間のことです。
末法になると、仏教の教えの通りに修行する者も、悟りを開くものもないとお釈迦様は予言されています。
それを受けて最澄は、末法には、戒律は存在しないから、破戒もないし、
もし持戒の人がいたら、
市場に虎がいたような驚くべきことで、
誰も信じないだろうと言っています。
最澄の時代は、まだ末法ではなかったため、もうすぐ末法になったら大変なことになるから、今のうちに頑張れ、と激励できました。
しかし、現代はもう末法の時代になってしまっています。
このような厳しい決まりは、
とても守れるものではない、ということです。
これでは、もし戒律を守らなければ助からないとすれば、
誰も助からなくなってしまいます。
このことについて浄土宗の開祖法然上人はこのように教えられています。
もし持戒持律をもって本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望を
絶たむ。しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。
(漢文:若以持戒持律而爲本願則破戒無戒人定絶往生望
然持戒者少破戒者甚多)(出典:『選択本願念仏集』)
意訳すると、もし戒律を守ることが本当の仏教(本願)であるならば、
戒律を守れない人は絶対に往生することはできない。
しかも戒律を守る人はおらず、破戒の人がほとんどだ。
ということです。
もちろん仏教は戒律を守れなければ救われない、という教えではありません。
お釈迦様は、すべての人が本当の幸せになれる教えを説かれています。
戒律を守れない人が救われる方法
今回は、戒律について詳しく解説しました。
戒律は厳密にいえば、「戒」と「律」で意味が異なります。
「戒」は、さとりを目指して個人的に頑張る決まりです。
「律」は僧侶の集まりの生活上のルールです。
一般的には、戒も律も「戒律」として混同して使われています。
この戒律は先述したとおり、非常に難しいものであり、現代で守れる人はいません。
もし戒律が守れないと救われないということでは、
全人類は誰も仏教を聞いて幸せになれないでしょう。
しかし仏教には、
戒律を守れない人でも、すべての人をありのままで救う道が説かれています。
それについては、仏教の真髄なので、
電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)