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源信僧都と往生要集

源信僧都自画像
源信僧都自画像

源信僧都(げんしんそうず)(942-1017)は、恵心僧都(えしんそうず)とも言われ、日本に浄土仏教を明らかにしました。
当時の最高権力者、藤原道長の帰依を受けた上に、後には浄土宗を開いた法然上人、浄土真宗の親鸞聖人に大きな影響を与え、現代でも浄土仏教は、日本の仏教の半分以上を占めています。
文学の面でも、紫式部の『源氏物語』や芥川龍之介の『地獄変』には、「横川(よかわ)の僧都」として登場し、主著の『往生要集』に描かれた地獄の有様は、現代の日本人の地獄のイメージになっています。

このような大きな影響を残した源信僧都は、
一体どんな道を歩み、何を明らかにされたのでしょうか?
分かりやすく解説します。

源信の生涯

源信は、日本の仏教界に影響を与えただけでなく、
中国の仏教界からも「日本小釈迦源信如来」と称えられていました。

主な著書は以下のものがあります。
『往生要集』3巻
『横川法語』
『一乗要決』3巻
『因明論疏四相違略注釈』3巻
『阿弥陀経略記』
『観心略要集』(源信の名に仮託した作とも言われる)

源信について、参考に辞書を確認してみましょう。

源信
げんしん
942(天慶5)-1017(寛仁1) 平安中期の天台僧。
大和(奈良県)の出身。
幼くして比叡山に登り、良源に師事、13歳で得度受戒した。
その秀れた才学によって33歳のとき、法華会(ほっけえ)の広学竪義(りゅうぎ)にあずかり、名声を謳われたが、いつの時か、名利を嫌って横川(よかわ)に隠棲した。
44歳の年、往生極楽の教行(きょうぎょう)こそ「末代の目足(もくそく)」であって、「頑魯(がんろ)の者」のための道であると断じて『往生要集(おうじょうようしゅう)』3巻を完成し、日本浄土教史に一大金字塔を打ちたてた。
これを指南とした念仏結社<二十五三昧会>が結成され、源信はこの結社のために毎月15日を念仏の日と定めるなど12条の細則(起請十二箇条)を作っている。
62歳のときには弟子寂昭の入宋に託して四明知礼に『天台宗疑問二十七条』を書き、64歳の年には『大乗対倶舎抄』、翌年には『一乗要決』を著した。
『一乗要決』は、長く争われて来た法相宗(ほっそうしゅう)との対論の中で、天台の一乗思想を宣揚するものである。
晩年には霊山院(りょうぜんいん)釈迦堂を建て、法華経に基づく釈迦信仰を実践した。
源信はその住した恵心院によって世に<恵心僧都(えしんそうず)>と敬称されるが、実際は権少僧都に任じられた63歳の翌年、これを辞退している。

首楞厳院廿五三昧結縁過去帳

また源信僧都の伝記、『首楞厳院廿五三昧結縁過去帳』には、
源信僧都について以下のように書かれています。

住山修學し、学業既に成り、仏道の英雄となす。
論義決択し、世に絶倫と称う。
時に公の請いに赴き、得る所の物あり。
貴きを撰びて母に贈る。
母、泣きて報じていわく「送る所の物、喜ばずにあらずといえども、伿世修道、我が願う所なり」と。
すなわち母の言に随い、永に万の縁を絶ち、山谷に隠居し、浄土の業を修す。

(漢文:住山修學、学業既成、為仏道英雄、論義決択、世称絶倫、時赴公請、有所得物、撰貴贈母、母泣報云、所送之物、雖非不喜、伿世修道、我所願也、即随母言、永絶万縁、隠居山谷、修浄土業)

意味は、
源信僧都は、比叡山で修行し、学業はすでに完成し、仏道において英雄である。
論義決択においては、この世で飛び抜けてすぐれた者と言われた。
公から恩賞を頂いた際に、母に贈ったことがある。
その時母は、泣いて返信をする。贈り物は嬉しいが、ただこの世で仏道を修めることが私の願いだと。
この母の言葉に従い、多くの縁を絶ち、浄土の業を修した、ということです。

この内容について、以下では詳しく説明します。

7歳・父の死と遺言

源信僧都は大和国、今の奈良県の当麻の里に生を受けました。
お父さんは占部正親(うらべまさちか)、お母さんは清原氏といい、始め2人の女の子が生まれましたが、男の子がなかったので、何とか男の子が欲しいと思っていました。

やがて30歳で3番目の子供が宿ると、少しでもいいものを食べ、悪い行いをしないようにして身を慎んでいました。
やがて月満ちてついに生まれた子供が念願の男の子だったので夫婦共々大いに喜び、幼名を「千菊丸(せんぎくまる)」と名づけました。
ようやく授かった男の子だったので特に大切に育てられ、千菊丸はすくすくと成長して行きました。

ところが、千菊丸7歳の頃、お父さんが重い病にかかりました。
日に日に容態は悪化し、どうしても治すことができません。
もはやこれまでと覚悟を決めた父、正親は、千菊丸を枕元に呼ぶと、
目に一杯涙をためながら、こう言いました。
「千菊丸よ、私はもうすぐ旅立たねばならぬ。
幼いお前を残してこの世を去らねばらぬのは残念で仕方がないが、
私の亡き後は、どうか出家して、多くの人々を救ってもらいたい
」
と遺言し、まもなく死出の旅路へと赴いたのでした。

お母さんは、女手一つで3人の子供を育てることになりましたが、
非常に立派な婦人で、もともと占部家の世継ぎにと思っていた千菊丸でしたが、
父親の遺言通り、一日も早く出家できるように、厳格に育てたのでした。

9歳・旅の僧との対決と出家

千菊丸が9歳になったある日、村の友達と小さな川の近くで遊んでいると、
一人の旅の僧侶が通りかかり、その川の水で乞食に使う鉄の鉢を洗い始めました。
子供たちは「何だろう」と好奇心を懐いて近づいていきます。

しばらく見ていた千菊丸は、
「おじさん、あっちにもっときれいな川がありますよ」
と親切に教えてあげます。
それを聞いた旅の僧は、にっこり笑って
「おお坊や、親切にありがとう。だがな、仏教では、『浄穢不二(じょうえふに)』と言って、
あっちの水がきれいだとか、こっちの水が汚いというのは、凡夫の迷いなのじゃ
」

すると千菊丸は、
「『浄穢不二』なら、どうして鉢を洗うの?」
と言います。
僧侶は唖然として言葉につまっていると、
子供たちは向こうへ行って、石拾いをして遊び始めてしまいました。

しかし当時の知識人である僧侶たる者、子供に言い負かされて
黙っているわけにはいきません。
子供たちが、小石を拾って1つ、2つ、3つ……と数えているので、
そこへ近づいて行き、こう尋ねました。
「おいおい坊やは頭がいいな。
そうしたら、ワシには一つ分からないことがあるから、教えてもらえないかな。
今、小石を数える時に、1つ、2つ、3つと、みんな『つ』をつけて数えるのに、
どうして10
(とお)だけは『つ』をつけないのかな」
これには答えられないだろう、と思っていると、
千菊丸はさらりと答えます。
「それはねおじさん、5つの時に、『いつつ』と『つ』を2つ使ったから、
10の時には足りなくなったんだよ
」

それを聞いた旅の僧は、あまりの聡明さに
「これはただ人ではない」と目を見張り、
「もし出家すれば、仏教の流れを変え、歴史に偉大な足跡を残す僧侶になるかもしれない」
と思い始めたのでした。

「坊や、お父さんはいるかな?」
「うん、いない、もう死んじゃった」
「じゃあお母さんは?」
「うん、いるよ」
「じゃあ、ちょっと会わせてもらえないか」
「うん、こっち」
僧侶は村はずれの千菊丸の家に行くと、今あった出来事を伝え、
自分の師匠の良源の元へ出家させてもらえないかと、こんこんと勧めたのでした。

お母さんも、突然のことに一度は驚きましたが、
もともと出家させようと思っていたので、すぐに心を決めたのでした。

数日後、良源からの迎えの使者が来ると、お母さんは、
「今日からお前もお山に入って良源上人のお弟子となるのじゃ。
どうかお師匠さまの教えをよく守り、真剣に勉学に励んで、
すべての人が救われる道を伝えておくれ。
立派な僧侶になるまで決して帰ってくるでないぞ
」
と言うと、お父さんが肌身離さず所持していた『阿弥陀経』を与えたのでした。
千菊丸は、泣く泣く『阿弥陀経』を受け取ると、
お母さんやお姉さんに見送られ、比叡山に向かって旅立ったのでした。

15歳、天皇に講義する

弟子入り先の師匠の良源は、当時、名声世に聞こえ、
やがて40代で比叡山の最高の地位である座主となり、
後には天台宗の中興と言われる傑出した僧侶でした。
仏教を学び始めた千菊丸は、みるみる頭角を現し、
驚いた師匠の良源も心を込めて指導しました。

千菊丸が13歳になった時、良源は将来を期待して自ら戒律を授け、
自分の名前から「源」の一字をとって、「源信」という法名を与えます。
源信はみるみる学問を身につけ、比叡山に並ぶ者のない学者として、
評判が周囲に広まりました。
やがて、時の村上天皇の耳に入り、源信15歳の時、
『阿弥陀経』の異訳のお経である『称讃浄土経』を講義するよう
勅命が下されたのでした。

感激した若き源信は、天皇や群臣の居並ぶ中、見事、講義を成し遂げたのです。
その分かりやすく、さわやかな弁舌に感嘆しない者はなく、
喜んだ天皇は、源信を法華八講という法会の講師に選任し、
きらびやかな衣や宝物、「僧都(そうず)」の位を与えたのでした。

努力が報われ、有頂天になった源信は
「今こそ自分がどんなに立派な僧侶になったか母に知ってもらいたい、
そして故郷に錦を飾りたい
」
と、事の次第を手紙に書き、褒美の衣や宝と共に母親に送ります。
ところが、母親からの返信は、意外なものでした。

母親からの手紙

お前が旅立ってから、明けても暮れてもお前のことを忘れたことはありません。
きっと立派な僧侶になってくれるだろうと喜んでいたのに、世間の交わりによって、地位が高くなって衣の色が変わり、天皇からもらった布施を喜ぶ、名利の僧となり果てるとは、何と情けないことでしょう。
ただ命のある限り敝衣粗食に身をやつし、質素な生活でもただ生死の解決を求めてもらいたいと出家させたのに、世俗の地位の高い人々と交遊し、僧都に出世し、名声を得るために説法し、利益の為に布施をとるのは、生死の解決には何一つ役立ちません。
きっとまた輪廻の身となり、永遠に苦しむことになるでしょう。
せっかく聞き難い仏法を聞いたなら、何としても生死の解決をすべき所、悲しくも一時の名利に我を忘れるとは、これほど愚かなことはありません。何と勿体ない、残念なことかと悔しくてなりません。
こんなことを立派なことだと思うとは、まさしく迷いです。
夢の世に、同じ迷いの人々にほめられてどうなるというのでしょう。
仏の教えに救われて、仏にほめられる身になりなさい。
「後の世を 渡す橋とぞ 思いしに
   世渡る僧と なるぞかなしき
」
こんなものには何の価値もありません。
源信に返します。

返送された衣や宝についていたその手紙を読んだ源信は、
ポロポロと涙をこぼし、深く自分の間違いを悔いました。
そして天皇からもらった衣や宝は焼き払い、僧都の位も返上しました。
二度とこんな間違いを犯さぬぞと心に刻み、以後、生死の解決一つに打ち込むのでした。

30歳、横川への隠棲

源信僧都は、ただひたすら生死の一大事の解決の道を求め、
ブッダの説かれた一切経七千余巻を5回繰り返して読まれました。
そして天台宗はもちろん、大乗仏教も小乗仏教も、
当時のあらゆる仏教の奥義を究めたのですが、仏教を求めれば求めるほど、
自分の煩悩の盛んなことに悩まされ、少しも生死の解決はできませんでした。

やがて30歳の時、比叡山の根本中堂から北に5.5キロの所にある
横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に隠棲されました。
現在、横川中堂といわれている所です。
そのため、源信僧都のことを「首楞厳院」ともいわれます。
やがて横川の恵心院(えしんいん)に移られたので、「恵心僧都」ともいわれます。

源信僧都は、その後34歳の時に山をおりて、奈良の東大寺の学者奝然(ちょうねん)、修学院の勝算と仏教上の論争をして撃破した以外は、晴れ舞台に出ることなく、
横川の草庵にこもって生死の解決一つに打ち込まれたのです。

迫り来る無常に驚き、どこかに悪しかできない者でも救われる道はないかと探し続けた結果、中国の善導大師の著作から、どんな極悪人も救う阿弥陀如来の本願を知らされ、
ついに阿弥陀如来の本願によって生死の一大事を解決し、
本当の幸せに救われたのでした。

この生きている時に本当の幸せになったことを源信僧都は、
主著『往生要集』にこう言われています。

光明あまねく十方世界を照らし、念佛の衆生を摂取して捨てたまはず。
我また彼の摂取の中にあれども、煩悩まなこをさえて見たてまつること能わずといえども、
大悲ものうきことなくして、常に我が身を照らしたまう。

(漢文:光明遍照十方世界 念佛衆生摂取不捨 我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身)

「我」というのは源信僧都のことです。
源信僧都は、阿弥陀如来の光明に摂取されたと言われています。
阿弥陀如来の本願によって、後生の一大事を解決して頂き、
本当の幸せに救われたということです。

ですが、煩悩がまなこを妨げて、阿弥陀如来を拝見することができないと言われていますので、煩悩は少なくなったり、なくなるわけではありません。
阿弥陀如来に救われても、煩悩は変わりませんが、
阿弥陀如来の大慈悲は、途切れることなく、
常に、照らし護り続けてくだされている
、と言われています。

42歳、母親への臨終説法

生死の解決ができた喜びから、
「今度こそ母上に心から喜んで頂こう」
と、源信僧都は故郷へ向かって旅立ったのでした。

京都を過ぎて奈良へ行き、生まれ故郷に近づいた頃、
いつも比叡山に母からの手紙を持ってきてくれる人にばったり出会いました。
「これはちょうどよい所へ、お母様から手紙を持って行こうとしていた所です」
嫌な予感が胸をよぎった源信僧都は急いで中身を確かめると、
お姉さんの代筆でした。
「母上は先日ふとしたことから風邪をこじらせ、みるみる弱ってしまい、
今は危篤に陥りました。
どうか早くお帰りなさいませ
」

驚いた源信僧都は、そこから走り出し、無我夢中で我が家にたどり着くと、
母親は、村の人や姉に囲まれて、息も絶え絶えで、病の床に伏していました。
耳元で「源信、ただいま帰りました」
と言うと、かすかに目を開けて、
「おお、源信か。もう二度と会えないと思ったが、よく帰ってくれた」
とつぶやきます。
9歳で家を出てより、33年ぶりの再会でした。

「申し訳ございません。30年間他国へ出たきり、何の親孝行もできず、
どうかこの不孝をお許しください。
しかし源信は遂に生死の解決を果たし、後の世を渡す橋となって帰って参りました
」
涙ながらに源信僧都が言うと、決死の臨終説法が始まったのでした。

やがて夜が更けていき、東の空が白み始める頃には、
お母さんも生死の解決を果たされ、往生を遂げたといわれます。
72歳でした。

このことを源信僧都は、このように述懐しています。

我れ来らずんば、恐らくは此の如くならざらん。
ああ、我をして行を砥かしむる者は母なり。
母をして解脱(げだつ)を得しめし者は我なり。
この母とこの子と、互いに善友となる。これ宿契なり。

ああ、私に仏道を勧めたのは母であり、母に生死の解決を伝えたのは私であった。
母と子と、お互いに仏教の先生となったのは、過去世からの因縁である、
ということです。

こうして源信僧都が横川に戻り、書き上げたのが、主著『往生要集』でした。
『往生要集』の内容は、下記「往生要集の内容」で詳しく説明します。

65歳、一乗要決を記す

源信僧都は65歳のとき、病床に伏しながらも『一乗要決(いちじょうようけつ)』を書き上げました。
『一乗要決』を書いた時の思いを、このように書き残しています。

仏性に遇うと雖も、仏意を了せず。若し終に手を空うせば、後悔何ぞ追わん。
(漢文:雖遇仏法 不了仏意 若終空手 後悔何追)

これは、「遇い難い仏法に遇ったとしても、釈迦の真意がわからず、
もし全く得るものがなかったならば、後悔しても取り返しがつかないだろう
」
ということです。
たった一度の人生を、そして真実の仏法に出会えたチャンスを無駄にしないためにも、正しい教えを明らかにしてくだされたのでした。
『一乗要決』で明らかにされたのは、
真実の仏教は、すべての人を救う教え(一乗)であるということです。
この書を書き上げた時の気持ちを、このように記されています。

既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨みを遺さん。
(漢文:既開今生蒙 何遺夕死之恨)

この意味は「私は今生きている時に、迷い苦しむ者のために真実の教えをあきらかにできた。
今晩死んでも恨みを遺すことはない
」
ということです。
源信僧都が、心から満足しておられることが分かります。

76歳源信僧都 示寂

源信僧都は、70歳を過ぎてから体調が思わしくありませんでしたが、
病床の中でも、『首楞厳院廿五三昧結縁過去帳』や『阿弥陀経略記』など
多くの著書を書き記し、またお弟子の覚超との問答なども精力的にこなしています。
そして1017年6月10日にお亡くなりになられました。

源信僧都の生涯について、詳しくはこちらもご覧ください。
➾源信僧都とは|その生涯と往生要集に記された地獄から救われるただ一つの念仏

以下では、源信僧都の主著『往生要集』について分かりやすく解説します。

往生要集の内容

源信僧都の著作は約160に上りますが、その沢山の著作の主著が『往生要集』です。
お経やその解釈の中から、浄土往生に重要なお言葉を集めたものです。

『往生要集』は、京都や奈良の僧侶に読まれただけでなく、
広く一般の人にも読まれました。
現代人にも伝わる地獄や極楽のイメージもここから形成されています。

往生要集の影響

時の天皇の皇后、藤原道長の姉の藤原詮子(あきこ)(961-1001)は仏縁深く、まだ若く美しい29歳で髪を下ろして仏門に入り、女院となりました。
その女院から『往生要集』の最初に明かされた地獄と極楽のありさまを絵に描いて欲しいといわれ、源信僧都が精魂込めて描かれました。
それが宮中に展示され、多くの人の目にとまるところとなりました。
ところが、夜な夜な閻魔大王の判決の声がしたり、獄卒の鬼が責め立てる声や、罪人の叫びやうめき声がしたりするという噂が宮中に広まり、宮中の女官が夕方以降は廊下を歩かなくなってしまいました。
それほど人々を脅かす、真に迫った地獄図だったので、
源信僧都に返却されたといわれます。
ですが弟の藤原道長は『往生要集』を持っていました。

この『往生要集』は、中国の宋にも広まり、時の皇帝もこれを読んで深く源信僧都を敬っていました。
源信僧都のお弟子が宋に渡り、都で皇帝に謁見すると、
「『往生要集』に深く感動した。このような方が日本の地におられようとは。
ぜひ源信僧都を宋にお招きしたい
」といわれます。
「それは叶いません」とお弟子がお断りすると、
「ならばお姿を写した絵だけでも見せてはもらえぬか」と言います。

弟子の帰国後にそれを聞いた源信僧都は、自ら筆をとって
鏡に映して自画像を描き、皇帝に送りました。
受け取った皇帝は、大いに喜んですぐに寺院を建立し、
源信僧都の自画像と『往生要集』を安置して、
「源信如来」と礼拝したといわれます。
如来というのは仏のことですから、中国の皇帝が仏のごとく敬ったということです。

その後、明末四大名家の一人、雲棲袾宏(1535-1615)も『阿弥陀教疏鈔』に浄土の十楽を讃嘆しているため、大変長期間の影響を与えています。

また、『往生要集』は後世にも大きな影響を与えました。
後に浄土宗を開かれた法然上人は、こう言われています。
「余宗の人、浄土にその志あらんには、まず『往生要集』をもってこれを教えるべし」
浄土宗以外の宗派の人で、浄土の教えを学びたいと思う人には、
まず『往生要集』によって教えるとよい、ということです。
そして、『往生要集』の解説を4冊も作られています。

では『往生要集』にはどんなことが書かれているのでしょうか?

往生要集の構成

『往生要集』は、3巻10章からなっています。
1.厭離穢土(おんりえど)
2.欣求浄土(ごんぐじょうど)
3.極楽証拠(ごくらくしょうこ)
4.正修念仏(しょうしゅねんぶつ)
5.助念方法(じょねんほうほう)
6.別時念仏(べつじねんぶつ)
7.念仏利益(ねんぶつりやく)
8.念仏証拠(ねんぶつしょうこ)
9.往生諸行(おうじょうしょぎょう)
10.問答料簡(もんどうりょうけん)

1章の「厭離穢土」では、地獄のありさまを中心に、私たちが生まれ変わり死に変わりする迷いの世界、六道のありさまを教えられ、
2章の「欣求浄土」では、極楽浄土のありさま、
3章の「極楽証拠」では、往生する先として、弥勒菩薩の兜率天と、十方の浄土と、極楽浄土の3つの中で、極楽浄土が一番いいことを教えられています。

次に、どうすれば極楽往生できるのかについて、
4章の「正修念仏」で天台宗の止観念仏、
5章の「助念方法」では止観念仏を助けるものが説かれます。
6章の「別時念仏」ではお彼岸などの特別な時の念仏、
7章の「念仏利益」では念仏の利益、
8章の「念仏証拠」では念仏のすばらしい理由、ここまでが念仏往生です。
念仏往生とは念仏による往生です。

それに対して9章の「往生諸行」では諸行往生が説かれます。
諸行往生というのは、念仏以外の色々な善い行いによる往生です。
10章の「問答料簡」はそれまでのQ&Aです。

往生要集の構成

法然上人の指南

この『往生要集』の読み方について、法然上人が『往生要集釈』に3通り教えられています。
広(こう)、略(りゃく)、要(よう)の3つです。

1つ目の「広」は、『往生要集』をよく経典で行われるように、
序分、正宗分、流通分の3つに分ける読み方です。
『往生要集釈』にはこのようにあります。

この往生要集について、広・略・要あり。
広とは、この一部三巻に序・正・流通あり。

序分は経典が説かれる経緯で、1章から3章です。
正宗分は本論で、4章から9章です。
流通分は何を後の時代に伝えていくかという結論で、10章です。
「もし雑修せずして専らこの業に行ぜば、
これすなわち執心牢固にして定めて極楽国に生ぜん
」
といわれ、信心の変わらない他力の念仏によって、
極楽に生まれることが説かれています。

2つ目の「略」は5章の「助念方法」に焦点を当てます。
『往生要集釈』にはこうあります。

略とは助念方法の中の総結要行の七法これなり。

助念方法には、大菩提心、護三業、深信、至誠、常、念仏、随順の七法が説かれていますが、
中でも念仏が要だといわれています。
「もし相好を観念するに堪えざることあらば、(中略)一心に称念すべし」(『往生要集』正修念仏)と称名念仏を勧められています。

ですがこの念仏は、大菩提心などに助けられている念仏です。
法然上人は、
「本願の念仏には、ひとりだちをさせて助をささぬなり。
助さす程の人は極楽の辺地に生まる
」
と教えられ、この念仏では結論ではなく、まだ途中です。

3つ目の「要」は、『往生要集』の真意です。
法然上人はこう言われています。

三に要とは念仏の一行に約して勧進する文これなり。

『往生要集』では、表面的には4章から6章に説かれた、仏を念ずる観念の念仏が中心のように見えます。
ところが、『往生要集』の眼目は、8章の「念仏証拠」にあります。

往生要集の真意

源信僧都は、天台宗の僧侶ですから、天台宗の『摩訶止観(まかしかん)』にあるように、
仏を思い浮かべる観念の念仏など、色々な念仏が広く説かれています。
ところがその本心は、善導大師の指南によって阿弥陀仏の本願他力に救われ、
南無阿弥陀仏と称える他力の称名念仏を勧められたのです。

なぜなら、4章の「正修念仏」の中に、こう言われています。

もし相好を観念するに堪えざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。
(漢文:若有不堪観念相好 或依帰命想 或依引摂想 或依往生想 応一心称念)

これは、もし観念の念仏ができないようなら、一心に称名念仏をしなさい、
ということです。

では、源信僧都自身は、どうだったのでしょうか?
あれだけ15歳で天皇に講義し、藤原道長の帰依を受け、
中国の皇帝から仏の如く敬われる立派な源信僧都でしたが、
『往生要集』の冒頭には、こう言われています。

利智精進の人は、いまだ難しとなさず。
予がごとき頑魯の者、あにあえてせんや。

(漢文:利智精進之人未為難 如予頑魯之者豈敢矣)

「頑魯の者」とは、頑固で愚かな者ということですが、
源信僧都はご自分のことを頑魯の者といわれ、とても観念はできないと言われています。
4章の「正修念仏」でも、
「我また彼の摂取の中にあれども、煩悩まなこをさえて見たてまつること能わず」
と言われている通りです。

また、源信僧都が自画像に書かれた言葉である「横川法語」にも、こうあります。

妄念はもとより凡夫の地体なり、妄念のほかに別の心はなきなり。

「凡夫」とは人間のことです。
人間の心は妄念以外にないということです。

そんな観念のできない自分の本当の姿が知らされた者に、
「もし相好を観念するに堪えざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし」
と言われています。
「一心に」というのは、他力の信心ですので、
帰命の想も、引摂の想も、往生の想も一心におさまります。
「一心に称念すべし」というのは、他力の称名念仏を勧められているのです。

では、そんな観念のできない、妄念しかない私たちはどのように救われるのかというと、
8章の「念仏証拠」に、こう明かされています。

極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得。

(漢文:極重悪人無他方便 唯称念仏得生極樂)

これは、極重の悪人と知らされた時、そのまま浄土往生間違いない身に救われた念仏を喜ばずにおれないのだ、これ以外に、私の救われる道はなかった、
と他力の念仏を教えられています。
この一文に、源信僧都の教えはすべておさまるのです。

では、どうすれば他力の念仏を称える身になれるのかというと、
ただ念仏さえ称えていればいいのではありません。
自力の念仏と他力の念仏では何が違うのか、その念仏を称える心の違いを、
源信僧都は10章の「問答料簡」に、
「救われる前は、信心が不牢固(ふろうこ)である。
それが救われたら、信心が牢固(ろうこ)になる
」
と、極楽往き間違いなしに救われる前と救われた後の信心の違いを
ハッキリ分けて教えられています。
「牢固(ろうこ)」とは、しっかりとして固いということで、変わらないということです。

不牢固と牢固では正反対ですから、心がガラリと変わります。
そこがゴールです。
源信僧都は後生の一大事を解決して本当の幸せに救われる、
人生のゴールを明らかにされているのです。
その身になることが本当の生きる目的であり、生きる意味なのです。

阿弥陀如来の光明に摂取されて、変わらない幸せに生かされて、
それから途切れることなく常に照らされ、守られ続けますので、
救われたのに気づかないということはありません。

他力の念仏とは、そのように阿弥陀仏の本願に救われて、絶対変わらない他力の信心を獲得して称える念仏のことです。
そのことを「横川法語」には、「本願深きゆえに、たのめば必ず往生す」と言われています。
「たのむ」とは、お願いすることではなく、他力の信心のことです。

往生要集の真意

こうして源信僧都は、厳しい修行ができなければ救われない天台宗の僧侶でありながら、
どんな極悪人でも救われるたった一本の道を開かれたのです。

臨終の質疑応答

源信僧都は、はじめのうち、和歌というものは単なる遊びで、無駄なことだと思っておられました。
ところが、若いお弟子の一人が和歌を詠んでいるのを聞いているうち、
仏教を伝えるのに役立つと思い、自らもよく和歌を詠まれるようになりました。

よもすがら 仏の道を求むれば
  我が心にぞ たずね入りぬる

この歌が『続古今和歌集』に採録されているのをはじめ、
22首が勅撰和歌集に掲載されています。

こうしてブッダの説かれた一切経に精通され、
すべての人が本当の幸せになれる仏教の真髄を教えていかれた源信僧都に、
ついに臨終が近づいた時、お弟子たちを集めて、こう言われました。
「今生で会えるのはこれが最後である。
何か仏教についてまだ疑問があるようなら、今、全部質問しておきなさい
」

このように、最後の最後まで真実の仏教を明らかにして、
76歳で浄土へ往生されたのでした。

源信僧都が明らかにされた、どんな人でも、生きている時に
他力の念仏を称えて、煩悩あるがままで、本当の幸せに救われる道ですが、
どうすれば他力になれるのかについては、仏教の真髄ですので、
分かりやすく電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。