生まれ変わりとは?
生まれ変わりというのは、死んだ後、何か別の生命に生まれることです。
よく転生ともいわれます。
ヒット曲にもよく生まれ変わりが歌われていますが、生まれ変わりとは一体どんなものなのでしょうか?
この記事では、
・生まれ変わりが歌われている歌
・生まれ変わりの研究(前世の記憶)
・西洋での生まれ変わり(哲学・キリスト教・心霊研究)
・バラモン教の生まれ変わり
・仏教の生まれ変わり
・生まれ変わる世界の種類
・生まれ変わりの法則
・生まれ変わる瞬間
・前世と来世の関係
・永遠に生まれ変わり続ける原因
について分かりやすく解説して行きます。
生まれ変わりの歌
昔から恋愛を歌う時、生まれ変わりを前提としていることがよくあります。
人間に生まれる前からであれば、例えば
「前前前世から、君を探しはじめた」とか、
「一万二千年前から愛している」とか、
「果てしない時空を超えて二人は巡り会えた」
などと歌われます。
生まれ変わった後、来世も、ということであれば、
「生まれ変わったらまたここで会おう」とか、
「生まれ変わっても君とまた出逢って恋をして」とか
「何度生まれ変わっても、手を繋ぎたいだけ」
などと歌われます。
人間に生まれている期間には残念ながら限りがあるので、愛も一時的になってしまいます。
そこで、生まれる前からとか、これから生まれ変わった後も変わらない愛を歌っているのです。
このように、前世や来世を信じている人は、かなり多くあります。
では、現実の生まれ変わりはどうでしょうか?
生まれ変わりの研究
世の中には、生まれ変わりの研究をした人があります。
それが、ヴァージニア大学教授、イアン・スティーブンソン(1918-2007)です。
生まれ変わりを研究したといっても、「前世を語る子ども」を調査した、ということです。
イアン・スティーブンソンは、インドや東南アジアを中心に、前世を語る子供2000人以上と面接し、その内容を調査しました。
その結果、幾つかの傾向がありました。
まず、前世を語り出すのは2歳くらいで、8歳くらいで語らなくなるということです。
そして、半分以上は死んだ時の様子を覚えているということです。
そのような人物が本当に実在するのか調査したところ、70%位は該当する人物が発見できたといいます。
それが子供が知るはずのない地域のこともあるため、イアン・スティーブンソンは、前世を語る子供は、ウソや偶然ではなく、その前世の人物の生まれ変わりであると結論づけています。
この研究は、科学的でもなければ、医学的なエビデンスにもなりませんが、神経や精神病に関する科学雑誌に掲載されたことがあります。
西洋の生まれ変わり
西洋哲学では
西洋ではあまり生まれ変わりは受け入れられませんでしたが、最初に提唱したのは、ギリシアのピタゴラスです。
ピタゴラスは、何度も転生することを繰り返して、魂が浄化されていくと考えていました。
しかしながらピタゴラスのグループは、外部には教義を秘密にする秘密結社だったので、あまり伝わりませんでした。
その後、プラトンも魂を生命のイデアであり、それは不死であると考え、魂の転生を論じています。
その弟子のアリストテレスは、魂を必ずしも不死だとは考えていませんでしたが、不死である可能性はあるとしています。
キリスト教では
その後の西洋では、キリスト教の復活が取って代わり、2000年以上受け入れられてきました。
キリスト教の復活は、プラトンの思想とは異なり、魂は自然なイデアではなく、神の力によるものです。
1968年には、教皇パウルス6世が、復活は象徴的な意味ではなく、文字通り復活すると改めて宣言しています。
それによれば、死にゆく人すべての魂は、煉獄で浄化されるにせよ、すぐに天国に行くにせよ、やがて復活の日に再び肉体と合一するとのことです。
この場合、生まれ変わりのように、死んだ後、別の生命に生まれるのではなく、死んだ人自身が、元の肉体で再生するという意味の復活ですので、生まれ変わりとは少しニュアンスが違います。
この復活の教えがあるために、キリスト教では、死んだ人を火葬にせずに土葬にするのですが、土葬でも肉体が朽ち果てるのは同じです。
物質的に同じ肉体に戻ってこなければ復活にならないので、現代では、西洋でも文字通りの復活はほとんど受け入れられなくなっています。
心霊研究では
19世紀のアメリカで、スピリチュアリズムといわれる心霊研究が始まります。
それらはほとんど共通して、アストラル体という物質かエネルギー体が、魂を包んでいるとしています。
そして、人が死んで、物質ではない魂が、肉体を離れる時などに観察できると考えています。
そのアストラル体に包まれた魂が、魂の世界と物質的な肉体のある世界を行ったり来たりして生まれ変わるというのが、スピリチュアルの心霊研究の代表的な考え方です。
このような心霊研究の場合、アストラル体には意志はなく、客観的に観察できる科学的な傾向があります。
このように、西洋の生まれ変わりは、あらかじめ物質的な世界があって、そこへ魂が生まれ変わると考えています。
バラモン教(ヒンドゥー教)の生まれ変わり
東洋では、インドのバラモン教で、生まれ変わりがあると伝えられています。
バラモン教では、死ぬと火葬された煙と一緒に、天に昇っていきます。
やがて雨になって地上に戻り、米や麦、草木、ごま、豆などになります。
それから人や動物に食べられて体内に入り、精子となって新たな人や動物に生まれ変わる
と『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』に教えられています。
バラモン教では、梵天(ブラフマー)という天地創造の神がいて、その神が造り出した世界に、繰り返し生まれ変わるのです。
バラモン教もやはり、西洋の考え方と同じように、もともと世界があって、そこへ魂が生まれ変わるのです。
ところが仏教では全く違います。
この世界や人々は何によってできている?
仏教では、生まれ変わりについてどのように教えられているのでしょうか。
お釈迦さまは『大悲経』にこのように説かれています。
お釈迦さまが80歳になられ、沙羅双樹の間でお亡くなりになる時のことです。
まもなくお釈迦さまが涅槃に入られる時、あらゆる大地は振動して、天上界でも、仏教を守護する神、梵天(ブラフマー)の宮殿は、輝きを失いました。
その時、日頃からこの世界や人間は自分が造ったものであると思い込んでいた梵天も、自分の宮殿が光を失っていくのに気づきました。
「どうしてこんなことが起きたのだろう」
と大宇宙をあまねく見渡すと、お釈迦さまがもうすぐ涅槃に入られるために表された神通力によるものだと分かりました。
そのことに言い知れない恐怖を感じた梵天は、部下を連れてお釈迦さまのもとへ駆けつけます。
するとお釈迦さまは、こう言われます。
「梵天よ、私はそなたに尋ねたいことがある。
そなたは日頃から、自分が人々を造り、世界を造ったと思っているであろう」
「仰せの通りでございます」
「ではそなたを造ったのは誰か」
これには梵天は答えられず、黙ってうなだれてしまいました。
そこでお釈迦さまは、
「では質問を変えよう。世の中の人々の美醜、貧富、才覚などの違いは、そなたのしわざか」
「お釈迦さま、それは私のしわざではありません」
「では世の中の人々のあらゆる悪い行いやその報いは、そなたのしわざか」
「お釈迦さま、それは私のしわざではありません」
「では世の中の四苦八苦や、すべてが無常であることは、そなたのしわざか」
「お釈迦さま、それは私のしわざではありません」
「では人々の欲望や怒りや愚痴、執着はそなたのしわざか」
「お釈迦さま、それは私のしわざではありません」
「では人々が生まれ変わり死に変わりする迷いの世界や、その原因は、そなたのしわざか」
「お釈迦さま、それは私のしわざではありません」
このようにお釈迦さまは、本当に梵天が世界や人間を造ったのか、色々な角度から問いただされますが、梵天は何一つ満足に答えられません。
梵天は、それらの問い一つ一つが、今まで考えてもみなかった深さを持つことに驚きました。
こうして梵天は、自分が世界や人間を造ったのだという自惚れがすっかり打ち砕かれてしまったのです。
「梵天よ、そなたは何を聞いても『違う』と言うが、それでは何を根拠に人々やあらゆる世界は自分が造ったと思っていたのだ」
「お釈迦さま、私は間違っておりました。私の考えには何の根拠もありません。
そうするとお釈迦さま、一つの疑問が起きてきたのですが、この世界や人々はどなたが造られたのでしょうか?」
そこでお釈迦さまはこう答えられたのでした。
「梵天よ、あらゆる世界も人々も業が造ったものだ」
(出典:『大悲経』)
これが仏教で教えられる世界の起源です。
このことを『スッタニパータ』ではこのように説かれています。
世〔界〕は、行為によって転じ行き、
人々は、行為によって転じ行きます。(引用:『スッタニパータ』652)
世界も、人々も、業によって造られたものだ、ということです。
「業」とは、行いのことです。
このように仏教では、世界を創造した神はありません。
それどころか、あらかじめ世界があって、そこに人が生まれてくるのでもありません。
私たちは世界の中に生まれてきたのではなく、その反対に、私たち一人一人が、自分の住む世界を生み出しているのです。
仏教の生まれ変わり
私たちは生まれた時に始まって、死んだ時に終わるのではありません。
それは肉体のことです。
肉体は、確かに死んだら焼いて灰になって滅びてしまうのですが、私たちには、生まれる前、果てしない遠い過去から、死んだ後、永遠の未来に向かって、生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返している永遠の生命がある、と仏教では教えられています。
その永遠の生命を「阿頼耶識」といいます。
「阿頼耶識」の「阿頼耶」とは蔵のことで、蔵のような心ということです。
蔵というのは大事なものを納めておくところです。
お金や財産、米などを蔵におさめておくと、母屋が火事になっても、蔵は焼け残りますから、またそこからお金や財産を取り出して、母屋を建て直すことができます。
そんな蔵のように、私たちが心と口と身体で何かの行いをすると、それが業力となって阿頼耶識におさまります。
業力をおさめて一瞬一瞬変わりながら続いているのが阿頼耶識です。
ですから、阿頼耶識はキリスト教や神道でいわれるような、固定不変な霊魂ではありません。
常に変わり続けるので、天親菩薩は『唯識三十頌』にこう言われています。
暴流の如し。
(天親菩薩『唯識三十頌』)
「暴流」とは、滝のことです。
滝は、遠くから見ると、一枚の布のように見えますが、近づくと、小さな水滴がものすごい勢いで流れています。
ちょうどそのように阿頼耶識も、業力をおさめて常に変化しながら続いているのです。
そして、肉体の命が終わると、それまで阿頼耶識に蓄えられていた業力によって、因果の道理にしたがって、次の生を生み出すのです。
こうして私たちは、生まれたり死んだり、生まれたり死んだり、果てしなく生死を繰り返すと教えられています。
ではどんな世界に生まれ変わるのでしょうか?
生まれ変わる世界の種類
生まれ変わるというと、次も人間に生まれられると思っている人が多くありますが、必ずしも人間に生まれられるとは限りません。
阿頼耶識に蓄えられた業力によって、人それぞれ限りなく多種多様な世界に生まれ変わります。これを大きく6つに分けたのが「六道」、
5つに分けたのが「五趣」です。
「六道」とは、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の6つの迷いの世界です。
その「六道」から修羅界を六道の人間界におさめて5つに分類したのが「五趣」です。
それぞれどんな世界かというと、
地獄界というのは、もっとも苦しみの激しい世界です。
餓鬼界というのは、飢えと渇きに苦しむ世界です。
畜生界というのは、動物の世界です。
修羅界というのは、争いの絶えない世界です。
人間界というのは、今私たちが生まれている世界です。
天上界というのは、比較的楽しみの多い世界です。
しかし、天上界といっても苦しみ迷いの世界であることに変わりはありません。
このような6つの世界を生まれ変わり死に変わり、果てしなくぐるぐる回っていることを「輪廻転生」といいます。
生まれ変わりの法則
では、どんな法則にしたがって、私たちは生まれ変わるのでしょうか?
仏教では、私たちの運命は、自分の行いによって、因果の道理にしたがって造られると教えられています。
因果の道理というのは、このような法則です。
善因善果
悪因悪果
自因自果(お釈迦さま)
「因」とは、行いのことであり、業のことで、
「果」というのが運命です。
「善因善果」とは、善い行いが善い運命を生み出す
「悪因悪果」とは、悪い行いが悪い運命を生み出す
「自因自果」とは、自分の行いが自分の運命を生み出す、ということです。
仏教では、自分の運命のすべては、自分の行いの結果であり、因果応報なのです。
この因果の道理にしたがって、私たちは生まれ変わります。
六道を順番に生まれ変わるのではなく、善い行いをした人は、善業力を蓄えて善いところへ生まれ、悪い行いをした人は悪業力を蓄えて苦しい世界へ生まれます。
阿頼耶識の生まれ変わり方
私たちが生きている世界というのは、人それぞれ、自分で過去に造った業力によって生み出した世界です。
つまり、阿頼耶識が生み出した世界です。
私たちが生まれ変わる六道の中で、今生きているのは人間界といっても、
人それぞれ違う業力で、まったく違う世界に生きています。
例えばアメリカの人が生み出している世界と日本の人が生み出している世界は違います。
日本人でも人それぞれ違う世界に生きています。
生まれた時期や場所が近かった小学校の同級生でも、それぞれの行いによって、違う学校に行き、違う仕事について、今ではまったく違う世界を生きています。
そうやって私たちは、阿頼耶識に蓄えられた業力が生み出した世界を生きています。
阿頼耶識が転生するというのは、これまで生み出していた人間界を生み出すのを終わり、次の世界を生み出し始めるということです。
阿頼耶識が今まで生きてきた人間界を生み出さなくなることを死といい、死ぬまでに造った業力によって、新しい世界を生み出し始めるのを生といいます。
こうして生まれては死に、生まれては死に、永遠に生死を繰り返して行くのです。
ではどうすれば、前世はどんな世界で、死んだ後生まれ変わる来世はどんな世界かを知ることができるのでしょうか。
前世と来世の関係
自分の前世や死んだ後に生まれる来世を知りたければどうすればいいのかというと、お釈迦さまはこのように教えられています。
過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ。(因果経)
「過去」というのは今より過去のすべてです。
前世も入りますし、もっと昔の過去世も入ります。
「現在」というのは今のことですし、広い意味では生まれてから死ぬまでの現在世のことです。
私たちは、過去にどんな行いをしたか、ほとんど忘れています。
ですが、もし過去にどんな行いをしたか知りたければ、
「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ」
今の結果を見れば分かる、ということです。
同じように、私たちは過去世にどんなことをしたかはまったく分かりませんが、現在世に生まれた結果を見れば分かるということです。
また、「未来」というのは、今より未来のすべてですが、死んだ後の未来世も入ります。
私たちは、未来に何が起きるかほとんど分かりませんが、もし未来の運命が知りたければ、
「未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
今のたねまきを見れば分かる、ということです。
それと同じように、私たちが死んだ後、未来世にどんな世界に生まれるのかは、死ぬまでの行いによって、自業自得で決まると教えられています。
永遠に生まれ変わり続ける理由
ところが私たちは、欲望や怒りや愚痴の煩悩によって悪業を造ります。
その悪業が悪業力となって阿頼耶識におさまりますので、お釈迦さまは、こう教えられています。
この三毒はこれもろもろの苦の因なり。
なお種子のよく芽を生ずるがごとし。
衆生はこれをもって三有に輪廻す。(引用:『過去現在因果経』)
「三毒」とは、欲望と怒りと愚痴の3つの煩悩のことです。
この三毒の煩悩で悪業を造りますので、それが苦しい運命の原因となります。
ちょうど植物でもたねをまくと芽が出るように、悪いたねをまけば悪い結果が現れます。
「三有」というのは、三界のことで、六道を3つに分けたものです。
私たちは、自ら造った悪業によって、苦しみ迷いの世界を生まれ変わり死に変わり、永遠に輪廻転生を続け、離れることができないのです。
この永遠に繰り返される生まれ変わりを断ち切るには、苦しみ迷いの根本原因を知り、それを断ち切らなければなりません。
では苦しみ迷いの根本原因とはどんなもので、どうすれば断ち切れるのかについては、メール講座と、電子書籍にまとめておきましたので、今すぐ読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)