法然(ほうねん)上人の生涯と教え

法然上人(1133−1212)は、浄土宗の宗祖で、源空(げんくう)上人ともいいます。
それまでの仏教は、出家して戒律を守り、厳しい修行をしなければ助からない教えと思われていましたが、お釈迦さまの教えられた、どんな人も救われる道を明らかにしました。
一体どんな道を歩み、何を明らかににされたのでしょうか?

9歳・父の死

法然上人のお父さんの漆間時国(うるまときくに)は、源氏の流れを汲み、美作国久米(岡山県久米郡久米南町)の押領使(おうりょうし)でした。
押領使とは、兵を率いて治安を維持する警察のようなものです。
お母さんは秦氏(はたうじ)といいます。

2人には長らく子供がありませんでしたが、ある晩、秦氏がカミソリを飲む夢をみて子供を宿したといわれます。
やがてその子が生まれたとき、屋敷には紫雲がたなびいたと伝えられています。

生まれた子は「勢至丸」と名づけられ、すくすくと育っていきました。
ところが、そんな家族の幸せは長くは続きませんでした。

勢至丸9歳の春、かねてから時国に恨みを持っていた源定明の軍勢が夜襲を受けます。
不意を突かれた時国は一人で奮戦しますが、ついに切り伏せられてしまいます。
物音に目を覚ました勢至丸が、隠れながら庭に出ると、大将の源定明を見つけました。
勢至丸が小さな弓に矢をつがえ、発射すると、見事定明に命中します。
それは、これ以上の戦いを続けることが難しいほどの深手だったため、定明の軍勢は退却していきました。

勢至丸が時国の寝室に駆けつけると、お父さんが血を流して倒れていました。
お父さま!
駆け寄る勢至丸に時国は、虫の息でこう言います。
「勢至丸か、ワシはもうこれまでじゃ」
「……寝首をかくとは武士の風上にもおけません。何と卑怯な奴らでしょう。
父上のかたきは私が必ず討ってご覧に入れます」
「勢至丸よ、さすがは武家の子じゃ。立派になったのう。
しかし考えてみればなあ、ワシが夜襲を受けて今晩死んで行くのも、自業自得なのじゃ。
まさしくワシのたねまきが悪かったのじゃから、お前は定明を恨んで敵討ちをしようとは決して思ってはならぬ。
もし敵討ちをすれば、次はお前が定明の子から敵として討たれるのじゃ。そうなれば今度はお前の子が定明の子を討つ。
敵討ちは敵討ちを呼び、何代かけても尽きることはない。
そんなことよりお前は出家して仏道を求め、本当の幸せになるのじゃ」
こう言うと、時国は念仏を称えて息絶えてしまいました。
父親のこの最期の言葉は、勢至丸の心に深く刻み込まれます。

武士道では敵討ちは美徳とされる所です。
ましてや自分を苦しめた者への復讐です。
それを制止して仏教を聞けとの時国の臨終の一言が、仏教の歴史を変えたのです。

源定明は、このあと、夜襲によって人を殺したことから、その報復で次は自分が寝首をかかれるのではないかと夜も眠れないほど不安になり、行方をくらましてしまいました。
引っ越した先でも、人を殺した罪の報いから、この世も死後も苦しむことを心配し、やがて法然上人に帰依して子々孫々まで浄土宗を伝えたといわれています。

15歳・比叡山に登る

勢至丸は9歳にして父を亡くし、母一人子一人の寂しい生活となりました。
その母親の弟の観学得業(かんがくとくごう)という人が学問のあり、近くの菩提寺という寺の住職だったので、勢至丸は叔父について学問を学びました。
ところが1を聞いて10を知り、一度聞いたことは二度と忘れない勢至丸は、ただ人ではないことは誰の目にも明らかでした。
やがて15歳の春、叔父の紹介で岡山県から京都の比叡山に登り、源光(げんこう)の弟子となったのです。

このときの観学得業から源光にあてた手紙には、
文殊の像を一体進上する
とありました。

源光が天台宗の教義を教えてみたところ、目を見張るような賢さに驚き、
これはとても私にこの子を教える資格はない
と、皇円という僧侶に勢至丸を託します。
これが勢至丸15歳の4月のことでした。

皇円は、勢至丸を未来の比叡山の法主にして、大いに勢力を伸ばそうと張り切り、
3年間、自分の教えられるすべてを与え尽くします。
ところが勢至丸の学問の目的は名利のためではなく、本当の幸せに救われることでした。それにはお金や名誉ではなく、生死の一大事を解決しなければなりません。
方向性が違いましたので、皇円から学べるものを学び尽くすと、18歳の9月、黒谷の叡空のもとへ赴きます。
父の遺言が今も耳の底から離れません。私の出家の目的は、名利の為ではなく、生死の一大事を解決して、本当の幸せになるためです
と弟子入りを願い出ると、この尊い志に喜んだ叡空は、「法然」という号を与え、最初の師匠の源光と、叡空から一字ずつとって、「法然房源空」と名づけたのでした。

法然上人は叡空のもと、24歳までの5年間、一心不乱に仏教を学びました。
これひとえに生死の一大事の解決のためです。

法然上人は柔和なお姿が描かれていますが、生死の一大事の解決のためには、師匠といえども一歩も譲りませんでした。
ある時、『往生要集』の講義で、叡空師が
「観無量寿経に説かれる真身観の
光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨
の『念仏の衆生』は、仏を観念する衆生のことで、
雑念を払い観念しなければ私たちは極楽に往生できないのじゃ」
と言われました。

受講していた弟子の法然上人は、
「お待ち下さい。あれは仏を念じる観念の念仏ではなく、南無阿弥陀仏と称える称名念仏ではないでしょうか。
観無量寿経』の真身観の仏は、下三品の火車来現、苦逼失念の者が相手ですから、観念できるはずがありません。源信僧都の『往生要集』の最初にも
余が如き頑魯の者、あにあえてせんや。往生の業は念仏を本とする。
とあるではありませんか」
「だが、総相観から極略観までみな観々と説かれているだろう」
「しかし下々品に、
汝若し念ずること能はずば、応に無量寿仏を称すべし
とあるではありませんか」
これには叡空は絶句してしまいました。

このような質疑応答により、時には叡空から木枕を投げつけられ法然上人が血を流されたこともありました。

どれだけ学んでも一向に生死の解決のできない法然上人は、
今死んだら一体どうなるのか
と迫り来る無常に居ても立ってもいられなくなり、ついに24歳のとき、比叡山を去って、生死の解決の道を教えてくださる先生はいないかと探し回ったのです。

24歳・明師を求めて

まず奈良の興福寺は法相宗の有名な学者、蔵俊僧都を訪ねます。
かねてから疑問に思っていたことを質問すると、僧都はこれは仏か菩薩の化身であろうと一生の間法然上人を供養しようと誓ったといわれます。

次に京都の醍醐の三論宗の有名な学者、寛雅律師を訪ねて自分の思いを述べたところ、律師は秘蔵の書を取り出して、
「これは教えに通じた人に進呈しようと思っていた秘蔵の書物じゃ。
初めて理想的な人にめぐりあったので、すべて進ぜよう」
と言われたといいます。

そのほか、仁和寺の慶雅に華厳宗を尋ね、中川の実範に真言宗の密観と四分律の具足戒を受けるなど、各宗の奥義を極めましたが、どうしても生死の解決はできませんでした。

心をしずめようとすればするほど散り乱れ、善をしようとすればするほど自己の罪悪が知らされて、いずれの宗派の教えによっても救われなかった法然上人は、比叡山の黒谷に戻り、報恩蔵といわれる経蔵にこもります。

この時の法然上人心境はこのように伝えられています。
「凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとえば猿の枝につたふがごとし。
まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。
いかでか悪業煩悩のきづなをたたんや。
悪業煩悩のきづなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を解脱することをえんや。
かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。
ここに我等ごときはすでに戒・定・慧の三学の器にあらず。
この三学のほかに我が心に相応する法門ありや」
こんな極悪最下の法然を救う教えがどこかに説かれていないものかと、七千余巻といわれる一切経を読破すること5回。
寝食を忘れて求めましたが、それでも救われることはできませんでした。

43歳・絶対の幸福に救われる

やがて法然上人は、『観無量寿経』の解説書である善導大師の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』を拝読中、
「おや?自力の教えでは、凡夫がすぐれた浄土に往生することはできないとされているのに、この書には凡夫が往生できると書かれている」
と気づきます。それから『観無量寿経疏』を読破すること2回、3回目の拝読中、ついに
一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者これを正定の業と名く。彼の仏願に順ずるが故に
という一文を読んだ瞬間、苦悩の根元が断ち切られて生死の一大事が解決され、絶対の幸福に救われたのです。
承安5年(1175年)、法然上人43歳の時でした。

それから法然上人は、比叡山を下り、吉水に草庵を結ばれて、すべての人が本当の幸せに救われる道を説き明かされたのです。

54歳、大原で自力諸宗を撃破

当時、貴族同士の争いから武士である平清盛が台頭する、保元の乱が1156年に、平治の乱が1160年に起こりました。
世は貴族から武士へと移り変わる時代の変わり目でした。
そこに大地震などの天変地異が数多く起こります。
1177年の大火では京都の町の3分の1が焼け、1181年には、京都で4万人以上が餓死する養和の大飢饉が起こり、民衆は不安と恐怖のどん底でした。
出家して戒律を守り、修行しなければ助からない奈良や比叡山の仏教は、そんな民衆を救う力を持たなかったのです。まさに末法濁乱の世でした。

そんな混乱の時代に、すい星の如く現れた法然上人が、一切の修行を必要とせず、すべての人が救われる真実の仏教を明らかにし始めたのです。
民衆だけでなく、貴族や武士も道俗男女を問わず、法然上人の元へ群をなし、吉水の教団は、日増しに大きくなっていきました。
法然上人に帰依する人は雲霞のごとく、その学識の深さ、他力信仰の高徳に、後白河法皇も教えを請い、後鳥羽上皇、高倉天皇と共に法然上人から授戒しました。

そして10年が過ぎたある日、比叡山天台宗の座主、顕真僧正が、法然上人に面会して尋ねました。
「どうすれば生死の一大事を解決することができるでしょうか」
「それはあなたの思われる通りにされたらいいでしょう」
「法然殿はすでにそれを果たされたといわれる、それを教えてくだされ」
「それは他力によって苦悩の根元が断ち切られれば、どんな人でも生死の一大事は解決できます」
その日は、それで顕真は帰ったのですが、法然は少し心が狭い所がある印象を受けたと感想をもらしました。
それを聞いた法然上人は、
「なるほど人間というものは自分の知らないことには疑いを起こすものであるな」
と言いました。
それを伝え聞いた顕真は、
「なるほどそれも一理ある、自分は今まで名利のための学問であったので、一つ生死の解決のために、他力の仏教を学んでみよう」
と京都の大原にこもって100日間、他力の書を研究しました。
それでも他力の教えには腑に落ちないところがあったので、自力の宗派の学者を集めて、法然上人を問いただしてみようと思い立ちました。
そして、奈良や比叡山に通達を流して、当時の仏教学者をすべて集め、大原の勝林院にて法然上人に質問したのです。
質疑応答は一日一夜に及び、法然上人は仏教のあらゆる宗派の学者の質問によどみなく答え、他力の教えのすぐれていることを明らかにし、完膚なきまでに打ち破ったのでした。
居合わせた人たちは、法然坊は阿弥陀如来の化身かとすっかり心服し、最後は疑問が氷解して心から納得した顕真が念仏を称えはじめると、居並ぶ人達もそれに合わせて念仏し、三日三晩、念仏の声は京都の町に響き渡り、山谷にこだましたといわれます。
これが世に有名な仏教の大論争「大原問答」です。
こうして吉水の教団はますます隆盛することになったのです。

66歳・『選択本願念仏集』完成

法然上人65歳の頃、当時の平均寿命からすれば高齢になられ、病気をされるようになりました。
そこで、法然上人に深く帰依していた前の関白の九条兼実が、
他力の教えの最も重要なところを本に著して頂けないでしょうか」
とお願いしました。
法然上人はその願いを聞き入れ、翌1198年の元日から一室にこもり、心血を注いで念仏の奥義を上下二巻の本におさめられたのです。
これが『選択本願念仏集』です。
その中には、自力を捨てて他力に帰すべきこと、他力念仏の行が詳しく明らかにされています。

法然上人は、完成した『選択集』を弟子に託して九条兼実に届けるとき、
「ご要望を頂きましたもの、力不足を顧みず、真実の仏教を明らかにいたしました。
ただ願わくば、一度ご覧になられたら、壁に埋めて、机の上に残さないでください。
もし真実の仏教を理解できない人が見て、この内容を謗ったならば地獄に堕ちてしまいますので」
といわれています。

こうして『選択本願念仏集』は法然上人のお弟子でもなかなか見せてもらえず、秘中の秘とされました。

69歳・親鸞聖人との出会い

やがて1201年、法然上人69歳のとき、憔悴した若い僧侶が尋ねてきました。
それは、当時29歳の親鸞聖人でした。
20年間の比叡山での修行で生死の解決ができず、どうすればこの一大事を解決できるのかと、夢遊病者のように京都の町をさまよっていたとき、たまたま出会った法友の聖覚法印の紹介で訪ねてきたのでした。

法然上人は、自ら救われた体験から、深さも知れない他力の教えを説法されたところ、たちどころに親鸞聖人の苦悩の根元は断ち切られ、絶対の幸福に救われたのでした。
すぐに弟子になった親鸞聖人を、法然上人は最も信頼し、水魚の交わりを結びました。

そのため、わずか4年後の1205年には、秘本『選択本願念仏集』に自筆で親鸞聖人の名前をしたためて親鸞聖人に与え、書写までも許しました。さらに、法然上人の像を描くことを許し、南無阿弥陀仏をはじめとする仏教の重要な言葉を書き与えました。
このように、入門後わずか4年の親鸞聖人に破格の優遇を与えたのは、他力の教えを最も正確に理解していたので、この教えを誤りなく伝えてもらいたいということです。

法然上人と親鸞聖人の教えの違い

親鸞聖人は浄土宗ではなく、浄土真宗という異なる宗派の宗祖とされていますが、教えが異なるのではないのでしょうか。

現在伝えられている浄土宗は3つの流派があり、
聖光房弁長の浄土宗鎮西派と
善慧房証空の浄土宗西山派と
親鸞聖人の浄土真宗の3つです。
この中で、浄土宗鎮西派と西山派の教えの場合、自力が役立つとしています。自力が混じるとすべての人は救われなくなりますので、法然上人の浄土宗と一番近いのは、他力信心を明らかにされた浄土真宗です。

ではなぜ法然上人の教えは「他力念仏」なのに、
親鸞聖人の教えは「他力信心」なのでしょうか?

実は他力念仏と他力信心は同じです。
他力念仏とは、他力信心で称える念仏のことです。
他力念仏よりも他力信心のほうが本質的なため、法然上人も『選択本願念仏集』に、他力信心を教えられています。
ではなぜ法然上人は他力念仏を全面に打ち出されたのかというと、当時、自力の修行をする仏教に対して、他力信心による無条件の救いといっても理解されなかったので、念仏行を打ち出されたのです。
これを「行々相対(ぎょうぎょうそうたい)」といいます。
それに対して、親鸞聖人の時代には、すでに念仏が流行し、
ただ口に念仏さえ称えれば救われる
と誤解されていたので、
他力念仏の本質である、他力信心を明らかにされたのです。
これを「唯信別開(ゆいしんべっかい)の絶対門」といいます。

たとえるなら法然上人は「財布が大切ですよ」と教えられたのですが、それは当然、お金の入った財布です。
ところがそれを誤解してカラの財布を持つ人がたくさん現れてきましたので、親鸞聖人は、財布からお金を取り出して、「お金が大事ですよ」といわれたのです。
これなら間違いようがありません。
このように、法然上人と親鸞聖人の教えは一つなのです。
親鸞聖人は、自分が浄土真宗を開いた自覚はなく、
智慧光のちからより 本師源空あらわれて
浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまう

といわれています。
本師源空」とは法然上人のことですから、浄土真宗を開かれたのは法然上人だということです。

75歳・承元の法難・土佐へ流刑

七箇条の起請文

法然上人の精力的な説法により、他力の教えが隆盛を極め、日本全国へ広まりつつあったので、他力の教えを誤解して悪いことをする者が現れたり、法然上人をねたんで迫害する者が現れてきました。
特に法然上人を苦々しく思っていたのは、奈良や比叡山の僧侶たちです。
1204年、法然上人72歳のとき、比叡山の僧兵が会合をもって、他力念仏を停止すべしと議決し、当時の天台座主・真正(しんしょう)に訴えました。
それを聞いた法然上人は、『七箇条の起請文』を作り、80名以上のお弟子の連名で、天台座主に提出しました。親鸞聖人も綽空という名前で入っています。
それは、以下のようなものです。
1.根拠もなく真言宗天台宗を否定し、諸仏・菩薩を謗らない
2.好んで論争をふっかけない
3.他宗の人を嫌い、笑わない
4.他力の仏教に戒律はないといって悪を勧めない
5.自分の考えで仏教の教えを乱さない
6.仏教を知らない人たちに間違ったことを教えない
7.仏教ではないことを師匠の教えだといわない
これによって、妨害を防ぎ、弟子たちの反省を促したのです。
九条兼実も天台座主と手紙のやりとりをし、
12月29日には、朝廷から、
他力の教えを誤解して風紀を乱す者が現れたのは、法然上人の責任ではない
という宣旨がくだり、一件落着したかに見えました。

承元の法難

しかしながら迫害のくすぶりは消えず、1206年、法然上人74歳の9月には、法相宗の奈良の興福寺から、「興福寺奏上」が朝廷に提出されます。
これは、他力の教えを批判し、他力念仏の禁止を求めたものです。

ところでこの年の夏の7月15日、お弟子の住蓮と安楽がお盆の法要をつとめていました。
これが大いに評判となり、参詣していた上皇の女官、19歳の松虫と、17歳の鈴虫というが生死の解決をしたいと思い、続けて仏教を聞くようになったのです。

やがて半年後には仏縁深き2人の聞法心が燃え上がり、12月、上皇が熊野詣でのために留守にしたすきに、出家してしまったのです。
帰ってきた上皇は、それを聞いて激怒し、比叡山の告げ口により、住蓮、安楽や、法然上人に嫌疑がかかります。

翌年2月9日、住蓮、安楽が召し出され、罪の裁きを受けました。
あまりに濡れ衣で裁きが進んで行くため、安楽房は最後、善導大師の『法事讃』の
修行することあるを見ては瞋毒を起こし、方便破壊して競いて怨を生ず。
かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。
大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず

と大声で叫びました。
これは「真実の仏教を謗る者は、長く地獄に沈むぞ」という意味です。
それを聞いた裁判官は激怒し、ついに住蓮・安楽は六條川原で死刑となりました。

それでも上皇の怒りはおさまらず、法然上人も死刑となりますが、九条兼実のはからいで、罪一等を減じられ「藤井元彦」の俗名をつけられ、土佐(高知県)へ流刑となります。
他力の教えは布教禁止、法然上人の教団は解散、僧侶4名が死刑、法然上人と親鸞聖人を含む7名が流刑という大弾圧が承元の法難です。

西阿の破門

法然上人は3月に流刑の地へ出発となり、その直前まで、見送りに来た人たちに、他力の教えを説いていました。
そこへ、かねてからかわいがっていた弟子の西阿が
「お師匠さま、今そこに役人が来ております。他力の教えは今しばしお控えください」
と申し上げました。すると普段は温厚な法然上人の顔色がさっと変わり、
「何?そなたお経のお言葉を見ていないのか?」と問い返されます。
「はい、確かにお経の通りではありますが、お師匠さまにこれ以上の刑罰があってはと思うばかりでございます」
それを聞いた法然上人は激昂され、
「何を言うか!西阿。この法然、身は八つ裂きにされようとも、真実の仏教を曲げることはできないのだ。
釈尊出世の本懐を叫んで殺されるなら、仏法者の本望ではないか。
駛路はこれ聖者の行くところなり。謫所は、また権化の住処なり。愁とするに及ばず。
そなたは今日限り、私の弟子ではない。立ち去れ!」とその場で破門されます。
法然上人としても、弟子の西阿が案じてくれるまごころは有り難いものの、ことは生死の一大事、50年か100年のこの世のことと違います。
未来永遠の浮かぶか沈むかという生死の問題ですから、この世のこととは重さがけた違いなのです。
その問題の重さから、どんな迫害や弾劾にも一歩も譲らず、命をかけて真実の仏教を明らかにしようとしている自分の気持ちが全くわかっていない、と即座に破門されたのでした。

80歳・往生

法然上人が京都を出発された後、法然上人の赦免を嘆願していた九条兼実は病気になってしまいました。
もう先は長くないと知った兼実は、
「この世に思い残すことは何もないが、たった一つ心残りなのは、法然上人のことだ」
と、日々、憂い嘆いていました。臨終が近づくと、腹心の部下を呼び、
「機会を見て何とか法然上人の赦免を嘆願するように」
と遺言し、58歳で往生の素懐を遂げました。

その遺言は固く守られ、12月には、法然上人の赦免の宣旨が出たのでした。
しかし、京都に入ることは許されなかったため、神戸から大阪に滞在していました。
やがて法然上人79歳の11月、ようやく許しが出て、京都へ戻ることができました。
多くの人が会いに来ましたが、80歳の翌年1月2日には、疲労が重なり、寝たきりになってしまいました。
念仏の声は絶えず、寝ている間も口が動いていたといわれます。
1月23日、貴族の車に揺られて一人の謎の女性がお見舞いに現れました。勢観房というお弟子が、
「法然上人はお疲れですので面会にはなられません」
と伝えても、何としてもお会いしたいと譲りません。
法然上人にお伺いすると「それなら会おう」といわれます。
その女性は、法然上人の枕元で色々語った後、最後に
「『選択本願念仏集』の御心をわかりやすく書いて頂けないでしょうか」
とお願いしました。
法然上人が「しからば」と書かれたのが「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」です。
それを拝読した女性は、涙を流して喜び、
「今生はこれでお別れとなりますが、やがて浄土でお礼申し上げます」
と涙ながらに帰って行きました。
一部始終を見ていた勢観房が、
「私にも同じものを頂けないでしょうか」
とお願いすると、
「お安いご用だ」
と法然上人の教えのすべてがおさまった一枚起請文を勢観房も頂いたのでした。

こうして、24日には念仏の声も微かになり、25日、法然上人はついに浄土へ還られたのでした。

法然上人の影響

仏教の歴史における法然上人の影響はことのほか大きく、現代の仏教の宗派で一番多いのが浄土真宗、二番目が浄土宗です。 法然上人が、すべての人が本当の幸せになれる道を明らかにされたことにより、
当時もたくさんの人が救われました。
親鸞聖人をはじめ、関東一の剛の者といわれた武士の熊谷直実、平清盛の女官であった仏御前、大泥棒の耳四郎など、枚挙にいとまがありません。
どんな人でも、仏教を聞けば煩悩あるがままで、苦悩の根元が断ち切られて、本当の幸せに救われるのです。

ではその苦悩の根元とは何か、どうすれば苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になれるのかについては、仏教の真髄ですので、
わかりやすく小冊子とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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