般若心経を唱えてはいけない本当の理由とは?

般若心経
「般若心経を唱えてはいけないって本当?」
「毎日唱えていたけど大丈夫?」
『般若心経』は、日本で最も親しまれているお経です。
毎朝、お仏壇の前で唱えている人もあれば、
心を落ち着けるために写経をしている人もあります。
それだけに、「般若心経を唱えてはいけない」と聞くと、
「罰が当たるのでは」
「悪いことが起きるのでは」と、
不安になるのではないでしょうか。
世間では、唱えてはいけない理由として、
「宗派によっては唱えない」
「霊が寄ってくる」
「夜に唱えてはいけない」
などといわれ、多くは「誰が唱えても問題ない」と結ばれています。
ところが仏教では、唱える時間や場所よりも、
もっと大切なことが教えられています。
それは、どんな心で『般若心経』を読むか、ということです。
その答えは、『般若心経』に何が説かれているかを知ると、ハッキリします。
では、『般若心経』を唱えてはいけない本当の理由とは、
どんなことなのでしょうか?
世間でいわれる般若心経を唱えてはいけない理由
『般若心経』を唱えてはいけない理由として、
世間では、主にこのようなことがいわれます。
- 浄土真宗や日蓮宗では唱えない
- 霊が寄ってくる
- 夜に唱えてはいけない
- 神社で唱えてはいけない
般若心経を唱えない宗派
浄土真宗では、葬式や法事でも、『般若心経』を唱えません。
浄土真宗は、阿弥陀仏の本願の力によって救われる教えで、
『般若心経』は、自分の修行でさとりを目指す教えを説いたお経だからです。
これは、他力と自力の違いです。
また日蓮宗でも、『法華経』を重視するので、
『般若心経』は唱えないとされています。
どちらも、『般若心経』が悪いお経だとか間違いということではなく、
その宗派でもっと重視する教えがあるということです。
霊・夜・神社にまつわる俗説
世間では、
「般若心経を唱えると霊が寄ってくる」
「夜に唱えてはいけない」
「神社で唱えてはいけない」ともいわれます。
ですがお経は、そういうことが説かれているわけでもなければ、
そういうものでもありません。
夜に唱えないのは、昔の家では夜の読経が近所に響いたからで、
神社で唱えないのは、神社の作法に合わないからだといわれます。
霊が寄ってくるどころか、
「耳なし芳一」という怪談では、平家の怨霊から身を守るために、
『般若心経』を書いています。
宗派の決まりは事実ですし、俗説にも、それぞれの謂れがあります。
誰が唱えても、罰が当たることはありません。
ですが結論としては、『般若心経』を唱えても構わないという人ばかりです。
世間でいわれる理由は、いつ、どこで、誰が唱えるかを問題にしていますが、
肝心の『般若心経』に何が説かれているかには、触れていないからです。
では、『般若心経』には一体何が説かれているのでしょうか。
般若心経に説かれていること
『般若心経』の始まりには、このように説かれています。
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。
(漢文:観自在菩薩,行深般若波羅蜜多時,照見五蘊皆空,度一切苦厄)(出典:『般若心経』)
「観自在菩薩」とは、観音菩薩のことです。
その観音菩薩が「深般若波羅蜜多を行じし時」とは、
深い般若の智慧を完成する修行をされた時、ということです。
「五蘊皆空なりと照見して」とは、
「五蘊」とは私たちの身心のことで、
「皆空」とは実体がないということですので、
私たちの心と体には実体がないと照らし見て、ということです。
これは理解しただけではなく、体得したということです。
その時「一切の苦厄を度したまえり」とは、
すべての苦しみや災いから救われた、ということです。
『般若心経』の心臓部分は、この「五蘊皆空」です。
『般若心経』の中でも一番有名な「色即是空」も、
五蘊の1つ目の色(体や物)について同じことが説かれていますので、
五蘊皆空を詳しく説明しているだけです。
詳しくは以下の記事で分かりやすく説明してあります。
⇒色即是空の恐ろしい意味を分かりやすく説明
観自在菩薩が苦しみから救われた時
観自在菩薩が一切の苦厄から救われたのは、
深般若波羅蜜多を行じた時です。
般若の智慧を完成する修行を成し遂げて、
すべての苦しみから救われています。
『般若心経』の後半にも、菩薩も、過去・現在・未来の仏方も、
みな般若波羅蜜多によって、さとりを開かれたと説かれています。
『般若心経』を唱えると、心が落ち着くという人もありますが、
『般若心経』に説かれた道で苦しみから救われようとすれば、
私たちも、観自在菩薩と同じように、
深般若波羅蜜多を行じなければなりません。
では、深般若波羅蜜多を行ずるとは、どんなことなのでしょうか。
深般若波羅蜜多を行ずるとは
深般若波羅蜜多を行ずるとは、六波羅蜜を実践することです。
六波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の、
6つの修行です。
「波羅蜜」とは、彼岸に到る、ということです。
苦しみの迷いの世界(此岸)から、さとりの世界(彼岸)へ渡ることです。
そのためには、出家して戒律を守り、禅定を行って、
煩悩を抑え、断ち切っていかなければなりません。
欲や怒りの煩悩を断ち切って減らしていき、さとりを開く。
これが、『般若心経』に説かれている、苦しみから救われる道です。
舎利弗も渡れなかった布施の河
この修行が、どれほど難しいものか。
龍樹菩薩の『大智度論』には、
お釈迦さまの十大弟子の中で、智慧第一といわれた
舎利弗の、過去世のことが記されています。
舎利弗は、遠い過去世で、
60劫という長い間、菩薩の修行を続けています。
1劫は、4億3200万年ともいわれる、計り知れない長さです。
ある時、布施の修行を完成させようとしている舎利弗のもとに、
1人の男がやってきて、こう言います。
「あなたの目をください」
舎利弗は答えます。
「目をもらっても、何の役にも立たないでしょう。
体や財産がほしいのなら、差し上げます」
男は言います。
「体も財産もいらない。目がほしいのだ。
本当に布施の修行をしているのなら、目をくれ」
そこで舎利弗は、片方の目をえぐり出して、男に与えます。
ところが男は、受け取った目の匂いを嗅ぐと、
「臭い」と言って唾を吐きかけ、地面に捨てて、足で踏みつけます。
舎利弗は思います。
「こんなひどい人たちを救うことは難しい。
それよりも、自分の心を整えて、早く迷いを離れたほうがいい」
こうして舎利弗は、すべての人を救う菩薩の道から退いて、
自分だけのさとりを求める小乗の教えに向かってしまいます。
『大智度論』には、このように記されています。
舎利弗の如きは、六十劫の中に於いて菩薩道を行じて、布施の河を渡らんと欲す。
(中略)
是を思惟し已りて、菩薩道に於いて退いて小乗に迴向す。
是を彼岸に到らずと名づく。
(漢文:如舎利弗,於六十劫中行菩薩道,欲渡布施河。(中略)思惟是已,於菩薩道退迴向小乗。是名不到彼岸)(出典:龍樹菩薩『大智度論』)
「六十劫の中に於いて菩薩道を行じて」とは、
六十劫もの間、菩薩の修行をしていた、ということです。
「布施の河を渡らんと欲す」とは、
布施の修行を完成させて、彼岸に渡ろうとしていた、ということです。
「是を思惟し已りて」とは、そのように思って、ということです。
「菩薩道に於いて退いて小乗に迴向す」とは、
菩薩の道から退いて、小乗の教えに向かった、ということです。
「是を彼岸に到らずと名づく」とは、
これは、波羅蜜を完成して彼岸に到ることができなかった姿だ、
ということです。
智慧第一の舎利弗でさえ、六十劫かけても、
6つの修行の中の1つの布施も完成できずに退いています。
まして、五戒すら守れない私たちが、
六波羅蜜を完成して煩悩を断ち切ることなど、
決して届かない高嶺の花です。
煩悩は死ぬまでなくすことができませんので、
『般若心経』に説かれた道で救われようとすれば、
私たちは死ぬまで助からないのです。
どんな人も本当の幸せになれる道
では私たちは、決して救われることはないのでしょうか。
お釈迦さまは、そのような私たちのために、仏教の結論として、
出家ができない人でも、
戒律が守れない人でも、
修行ができない人でも、
どんな人でも本当の幸せになれる道を明らかにされています。
確かに私たちを苦しめている原因は煩悩ですが、
苦しみ悩みの根本の原因は、
煩悩よりももっと深い所にあると教えられています。
その苦しみ悩みの根元を断ち切れば、
煩悩はそのままで、どんなことがあっても変わらない幸せに救われます。
これが、お釈迦さまの明らかにされた、どんな人も救われる道です。
このことをお釈迦さまは『大無量寿経』に、このように説かれています。
如来、世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。
(漢文:如來,所以出興於世光闡道教,欲拯群萌恵以真実之利)(出典:『大無量寿経』)
「如来」とは仏のことです。
「世に出興する」とは、地球上に現れたということですので、
この如来はお釈迦さまのことです。
お釈迦さまが地球上に現れた「所以」というのは目的ということです。
お釈迦さまが地球にお生まれになられて、仏教を説かれた目的は、
「道教」とは、導くための方便の教えということで、
『般若心経』もこれに入ります。
本気になれば修行ができて、煩悩をなくせると自惚れていますので、
ならばやってごらんと、煩悩をなくす修行を説かれています。
「群萌」とは、すべての人のことです。
修行どころか出家もできない、戒律も守れない者でも救うために、
真実の利によって救われるところに導こうとされています。
真実の利というのは、どんな人も本当の幸せにする絶大な働きのことです。
それを説くために、お釈迦さまはこの世に生まれてきた、
といわれています。
般若心経を唱えてはいけない本当の理由
『般若心経』というお経が悪いのではありませんし、
唱える時間や場所が悪いのでもありません。
説かれている通り、厳しい修行をして六波羅蜜を完成できれば、
煩悩をなくしてさとりが開けます。
ですが、欲や怒りや愚痴の煩悩から離れられない自分の姿を知らされれば、
それは野球でいえば、バットも振れないのに、
大リーグでホームラン王になるよりも、
はるかに難しいことです。
本当の幸せを遠ざける心
それにもかかわらず、
「本気になれば何とかなれる」
「何とかすれば何とかなれる」
という自惚れ心があります。
この心はなかなか気づかないので、
「そんなこと思っていませんよ」
「私みたいなお粗末な者が善なんかできませんよ」
と言う人でも、心の底では、
「その気になれば何とかなる」
「自分の力で幸せになれる」
と思っています。
この心が、すべての人を本当の幸せにする働きを
はねつけている心です。
この心がある間は、本当の幸せになれませんので、
そういう自分の力で幸せになれるという心で『般若心経』を読んではならない
と教えられているのです。
開運やおまじないのために唱えるのも同じ
もちろん、開運のため、
いいことが起きるおまじない、
悪霊に取り憑かれないように、と唱えるのも同じです。
病気が治るように、願いが叶うようにと唱える祈祷も同じです。
お経を唱える力によって自分の思い通りに幸せになろうとする心だからです。
この自惚れて、本当の幸せにする働きを受け取ろうとしない心が、
果てしない過去から苦しめてきた怖ろしい心です。
『般若心経』を読んではならないといわれる理由は、
この心がある間は、本当の幸せにはなれないから、
もし、煩悩のままで本当の幸せになりたければ、
自分の力で幸せになれるという心で、
『般若心経』を読んではならない、ということです。
これが、『般若心経』を唱えてはいけない本当の理由です。
煩悩あるがままでなれる変わらない幸せ
仏教に説かれている、すべての人が本当の幸せになれる道は、
どんな人も、煩悩ありのままで、変わらない幸せになれます。
男も女も、老いも若きも、「人間に生まれてよかった」と大満足できます。
そして人間に生まれたのはこれ一つだったと
明るく楽しい人生を送れるようになります。
では、煩悩あるがままで救われる道とは、どんな道なのか、
どうすれば、その変わらない幸せの身になれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


