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阿弥陀如来とは?

阿弥陀如来あみだにょらいは、阿弥陀仏とも言われます。

如来・仏の意味については下記をご覧ください。
仏(如来)と菩薩と神の違い

全国の寺院の半数以上の本尊は阿弥陀如来という、
仏教で非常に重要な仏様です。

では、阿弥陀如来はどのような位置づけの仏さまなのでしょうか?
この記事では、
・阿弥陀如来とはどんな仏さまだとお釈迦さまが説かれているのか、
・阿弥陀如来はどんな宗派で説かれているのか
・どんな人が阿弥陀如来に救われたのか
・阿弥陀如来の本願とは何か、
などについて分かりやすく解説していきます。

阿弥陀如来とは

阿弥陀如来について、最初に辞書をみてましょう。

阿弥陀
あみだ[s:Amityus][s:Amitbha]
大乗仏教における最も重要な仏の一つ。<阿弥陀仏><阿弥陀如来>と呼び、略して<弥陀>ともいう。
【原語と訳語】
サンスクリット原名は二つあり、Amityusは<無限の寿命をもつもの、無量寿(むりょうじゅ)>、Amitbhaは<無限の光明をもつもの、無量光(むりょうこう)>の意味で、どちらも<阿弥陀>と音写された。漢訳仏典では、この阿弥陀と並んで<無量寿>という訳語がよく用いられているが、これは字義どおりにはAmityusに相当するにしても、実際にはAmitbhaの訳語として用いられることも少なくない。無量寿仏、無量光仏。

辞書の内容は少し難しいので、より詳しく解説します。

阿弥陀の意味

阿弥陀如来」の「阿弥陀」には、2つの意味があります。
1つは、「アミターバ(阿弥陀婆)」で、
光明無量ということです。「光明」とは仏様のお力です。
阿弥陀仏の光明の届かないところはありませんので、空間的に限りがないということです。

もう1つは「アミターユス(阿弥陀庾斯)」で、
寿命無量ということです。
阿弥陀仏の寿命は限りがないので、時間的に無限ということです。

その空間的にも時間的にも変わらない、すべての人を本当の幸せにする真理です。

本来はそんな色も形もない、心も言葉も及ばない、言葉を離れた真如ですが、
それでは私たちの認識に乗りませんので、救うこともできません。

そこで、私たちと直接関係を持てる立場になって、
私たちを救う縁手がかりを作ろうと、
形を現されたのが阿弥陀如来
です。

ちょうど、水の因に、風の縁が加わって、波と姿を変えるように、
真理としての仏は私たちに分かりませんので、
苦しみ悩むすべての人を何とか救ってやりたいという大慈悲心の風にゆられて
真如の働き実現するために人格的に体現されたのが
阿弥陀如来なのです。

阿弥陀如来立像・坐像

阿弥陀如来と聞くと、木像を思い浮かべる人もいるでしょう。
木像には立像と坐像があります。

観無量寿経』では、阿弥陀如来について「無量寿仏、空中に住立したまう」と説かれています。
阿弥陀仏が空中に立った姿で現れられたということです。
これは座ったままで救いが間に合わないということがないように、煩悩ぼんのうで苦しみ悩む十方衆生を今すぐに救う姿を現されています。

これを善導大師ぜんどうだいしは、『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』の解説書である『観無量寿経疏かんむりょうじゅきょうしょ 』に、このように「 立撮即行りっさつそくぎょう」といわれています。

もし足を挙げて、以て迷を救わずんば、業繫の牢ろう何に由ってか勉まぬかるることを得ん。
この義を為もっての故に、立撮して、すなわち行って、端坐して以て機に赴くには及ばず。
(漢文:若擧足 以救迷 業繋之牢 何由得勉 爲斯義故 立撮即行 不及端坐以赴)

これは、もし阿弥陀如来が立ち上がられなければ、自らの悪業に縛られ、永遠に迷い続ける私たちはどうして助かることができるだろうか。
そんな助かる縁手がかりのない私たちを救うために、阿弥陀如来のほうから近づいて来られ、ガチッと抱きしめて、浄土へ連れて往ってくだされるのだ、ということです。
阿弥陀如来の立像は、この立撮即行の御心を表されたものです。
すべての人を救い切るまで、阿弥陀如来は座ってはおられないのです。

他の仏との関係

お釈迦さまは阿弥陀如来について、『大無量寿経』や『阿弥陀経』をはじめ、『法華経』にも『華厳経』にも『般若経』にも『涅槃経』にも、経典の至るところに説かれています。
そのため天台宗荊溪湛然けいけいたんねん(711-782)は、『摩訶止観まかしかん』の注釈書の『止観輔行傳弘決しかんぶぎょうでんぐけつ』にこう書いています。

諸教に讃ずる所、多く弥陀にあり。
(漢文:諸教所讃多在彌陀)

弥陀」とは阿弥陀如来のことですから、お釈迦さまが、多くのお経に讃えられているのは、阿弥陀如来のことである、ということです。

それというのも、阿弥陀如来は、大宇宙にガンジス河の砂の数ほどましますと説かれる
大宇宙の仏方の『本師ほんし本仏ほんぶつ』だからです。

本師とは先生

本師」とは、先生のことです。
阿弥陀如来が諸仏の先生であることを、お釈迦さまは『般舟経はんじゅきょう 』に、こう説かれていると『口伝鈔』に教えられています。

三世の諸仏は、弥陀三昧を念じて等正覚を成ず。
(漢文:三世諸佛 念彌陀三昧 成等正覺)

三世の諸仏」とはすべての仏のことです。
弥陀三昧を念じて」とは、阿弥陀仏のお力によって、
ということです。
等正覚を成ず」とは、仏のさとりを開かれた、
ということです。

このように、すべての仏は、
阿弥陀如来のお力によって仏のさとりを開かれましたので、
阿弥陀如来は、大宇宙の仏がたの先生なのです。
大日如来も、薬師如来も、釈迦如来も、
阿弥陀如来のお弟子です。

補足:阿弥陀如来と大日如来どちらが偉い?

阿弥陀如来と大日如来は大日如来の方が偉いのではないか、と言われる人がありますが、阿弥陀如来の方が大日如来よりも偉いのは明らかです。

阿弥陀如来と大日如来の関係については、以下で詳しく書いていますのでご覧ください。
大日如来とは?意味や真言(ご利益)阿弥陀如来との関係┃偉い仏はどちらか?

本仏とは根本の仏

次に「本仏」とは、根本の仏ということです。

阿弥陀如来が諸仏の根本の仏であることを、お釈迦さまは『楞伽経りょうがきょう』に、こう説かれています。

十方のもろもろの刹土に於ける衆生と菩薩の中の、あらゆる法報身と化身と及び変化身とはみな無量寿の極楽界中より出ず。
(漢文:十方諸刹土 衆生菩薩中 所有法報身 化身及變化 皆從無量壽 極樂界中出)

十方のもろもろの刹土に於ける衆生と菩薩の中の
あらゆる法報身と化身と及び変化身
」とは
大宇宙のあらゆる仏ということです。

無量寿の極楽界中」とは阿弥陀仏の極楽浄土のことです。
すべての仏は、阿弥陀仏の極楽浄土から出てこられた
ということですから、
阿弥陀如来は、一切の仏の本仏なのです。

このように、仏教を説かれたお釈迦さまが、
阿弥陀如来は一切の仏の先生であり、根本の仏である
と説かれているわけですから、浄土宗浄土真宗だけでなく、ほとんどの宗派で阿弥陀如来について説かれています。

説かれる宗派は?

例えば比叡山などの、天台宗を開いた天台大師智顗ちぎは、『摩訶止観まかしかん』にこう書いています。

もし弥陀を唱うれば、すなはちこれ十方の仏を唱うると功徳まさに等し。
ただ専ら弥陀をもって法門の主とす。
(漢文:若唱彌陀 即是唱十方佛功徳等 但專以彌陀爲法門主)

奈良の興福寺などの、法相宗を開いた慈恩大師窺基ききも、『西方要決』の最後にこう書いています。

聖を去ることこれ遙かなり 。
道、三乗に預かりて契悟するに方なし。

(中略)必ずすべからく跡を娑婆に遠くして心を浄域に栖ましむべし。
(漢文:去聖斯遥 道預三乘無方契悟 (中略)必須遠跡娑婆栖心淨城)

これは、お釈迦さまがお亡くなりになってはるかに時間が経った今では、
悟りを開く道がなくなってしまったので、
阿弥陀如来の浄土を目指すべきだ、ということです。

禅宗を開いた達磨も晩年は念仏三昧を行じたといわれ、
奈良の大仏のある東大寺などの、華厳宗を開いた杜順とじゅんも阿弥陀仏の救いを求め、
三論宗を開いた嘉祥寺の吉蔵も阿弥陀仏の救いを伝えています。

真言宗を開いた弘法大師空海にまで、
空海の心の中に咲く花は 弥陀より外に知る人はなし
という言葉が伝えられているほどです。

それというのも、インドでは、八宗の祖師といわれる中観派のナーガールジュナが『大智度論だいちどろん』、『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』に阿弥陀如来の救いを説かれ、
ナーガールジュナ自身、こう言われています。

我かの仏の本願力を帰命す。
(漢文:我歸命 彼佛本願力)

私は阿弥陀如来の本願に救われた」ということです。

唯識派の世親菩薩は、『浄土論』に阿弥陀如来の救いを説かれて、世親菩薩も自らこう言われています。

我一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつる。
(漢文:我一心 歸命盡十方 無碍光如来)

尽十方無碍光如来」というのは阿弥陀如来のことですので、
私は阿弥陀如来に救われた」ということです。

また上座部(テーラワーダ)の説一切有部の『法蘊足論ほううんそくろん』にも、こう説かれているほどです。

「まさに(阿弥陀仏の浄土である)安楽界に生ず」
(漢文:當生安樂界
彼岸の涅槃に到り、無余の極楽を証す
(漢文:到彼岸涅槃 證無餘極樂)

このように阿弥陀如来は、お釈迦さまがお経の至るところに説かれ、各宗派で説かれている、仏教では非常に重要な仏さまなのです。

では、阿弥陀如来とはどんな仏さまなのでしょうか?

阿弥陀如来のご利益

利益とは、仏教では仏さまのお力、功徳を意味します。
つまり阿弥陀如来のご利益とは、阿弥陀如来のお力、功徳のこと。
阿弥陀如来に、どのようなお力があるかといえば、一般的には、ただ単に「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるだけで死後私たちを救う(往生させる)力があると思われていますが、全くの誤解です。

阿弥陀如来のお力は、平生、生きている時に私たちを絶対の幸福に救うお力です。
そして、絶対の幸福になるのは、いつかというと、南無阿弥陀仏の名号を聞いた一念だと、ブッダは教えられます。

その名号を聞きて信心歓喜しんじんかんぎせんこと乃至一念ないしいちねんせん。
(漢文:聞其名号 信心歓喜 乃至一念)

「信心歓喜」というのは、絶対の幸福のことです。
その名号を聞いた一念に、絶対の幸福になれるということです。
一念というのは、何億分の一秒よりも短い時間の極まりです。
阿弥陀如来には、生きている今、一念で絶対の幸福にするお力があるのです。
それが阿弥陀如来のご利益です。

南無阿弥陀仏の名号について詳しくは、下記をご覧ください。
南無阿弥陀仏(念仏)の意味をわかりやすく解説!南無妙法蓮華経との違いも

阿弥陀如来の菩薩行

そもそも阿弥陀如来がもの凄いお力・功徳をもたれた発端は、私たちが、
果てしない遠い過去から生まれ変わり死に変わり苦しみ悩み続けていたことにあります。
生まれがたい人間に生まれても、
人間に生まれてよかった」という生命の歓喜がなく、
どれだけお金があっても、どれだけやりたいことをやっても、
心からの安心も満足もなく、一時的な楽しみは、はかなく消え失せ、
次から次とやってくる苦しみにあえぎながら、
苦しみ悩みの人生を送っています。
そして、この先も永遠に苦しみ迷いの旅を続けなければなりません。

法蔵菩薩の願い

そんな過去久遠の昔、53の仏が世に出られ、
54番目に、世自在王仏せじざいおうぶつという仏が現れられました。

その時、1人の国王があって、世自在王仏の説法を聞いて、深く喜び、
国も王様の地位もなげうって出家され、
法蔵菩薩ほうぞうぼさつ」と名乗られました。
これが阿弥陀仏の菩薩のときの名前です。

ある日、法蔵菩薩が世自在王仏の前に手をついて、
お師匠さま、今日はお願いがあって参りました
「なんじゃ法蔵。どうしたのじゃ」
はい、すべての人のありさまを見ておりますと、
何のために生まれてきたのか分からず、
どう生きるかばかり考えて苦しんでいます。

このままでは、どんなに頑張っても
永遠に苦しみから離れることができません。
あまりにかわいそうで、とても見ていることができませんので
どうか助けさせてください

すべての仏に見捨てられた者

「なんじゃ法蔵、そのことか。
そなたも知っての通り、かつて我々三世の諸仏も、
すべての人を助けようと一度は立ち上がったのだ。
しかし、すべての人は、煩悩の塊で、
あまりに罪が重く、とても助けることはできないと、
さじをなげてしまったのだ

これは、『悲華経』にこう説かれています。

煩悩多き衆生は賢劫の一千四仏が放捨する所
(漢文:諸衆生 多行貪婬瞋癡憍慢 悉當調伏於三乘中 是一千四佛所放捨者 所謂衆生厚重煩惱)

賢劫けんごう」とは、現在のことです。
現在の一千四仏には、お釈迦さまも含まれています。
お釈迦さまも含むたくさんの仏様に捨てられているのです。

不空羂索神変真言経』にはこうも説かれています。

十方三世の一切の諸仏菩薩摩訶薩の常に棄捨する所
(漢文:十方三世一切諸佛 菩薩摩訶薩 常所棄捨)

大宇宙の過去、現在、未来のすべての諸仏からも菩薩からも
捨てられているということです。

お師匠さま、それはじゅうじゅう存じております。
しかし、それならなおさら、私が助けなければ、
すべての人は絶対助かりません。
どうか助けさせてください

「それはな、法蔵。そなたの願いは尊いのだが、
すべての人は、金輪際助かる縁手がかりのない者なのだ。
そなたに無駄な苦労はさせたくない、やめておけ」

それはよく存じております。
存じておりますが、できるかできないかよりも、
かわいそうでじっとしておれないのです。
たとえできなくて、どんな苦しみの中に終わっても、決して後悔はいたしません。
どうか助けさせてください」

「いや、やつらは金輪際幸せとは無縁なのだ、
無駄な苦労はやめておけ」

このような
助けさせてください
やめておけ
助けさせてください
やめておけ
という押し問答が、
何度も何度も繰り返されたあと、ついに世自在王仏は、
法蔵菩薩よ、たとえ大海の水でも、わずか一人の人間がますでくみ取って、
何億年とも知れない長い間ながい間続けるなら、
ついには底までくみほして、海底の珍しい宝を手に入れることができるように
まごころこめて一心不乱に道を求めて止まぬなら、
必ず、その目的を果たしとげ、どんな願いでも成就せぬことはないであろう

と仰せられたのです。

阿弥陀如来の本願

喜ばれた法蔵菩薩は、煩悩の塊で永遠に助かる縁手がかりのない者を
どのように助けるか、五劫という長期間考え抜かれ、48の本願をおこされました。

これを「阿弥陀仏の四十八願」といいます。

その四十八願の中でも、18番目の本願である十八願に本心がお約束されています。

その十八願が、
どんな人も、苦しみの根本を抜き、絶対の幸福にする
と誓われた
阿弥陀仏の本願」です。

これは、大宇宙の仏方が、一仏もおこすことのできない
とてつもない内容の本願でした。

そして、兆載永劫のご修行をなされ、
ついに法蔵菩薩は本願を成就して、十劫という遠い昔に仏のさとりを開かれ、
阿弥陀如来となられた
のです。

それで、大宇宙の仏方はみな、
ものすごい仏様だ
さすがはわれらの先生だ」と
口をそろえてほめたたえておられます。

そのことをお釈迦さまはこのように説かれています。

我今その光明を称するのみにあらず、
一切の諸仏・声聞・縁覚・諸菩薩衆も、
ことごとく嘆誉したまうこと、またまたかくの如し。

(漢文:不但我今稱其光明 一切諸佛 聲聞 縁覺 諸菩薩衆 咸共歎譽 亦復如是)

阿弥陀如来のお力を、お釈迦さまだけでなく、
大宇宙のすべての諸仏も菩薩も称讃されているのです。

こうして、苦しみの根元を抜き、
絶対の幸福に救う法は完成していますので
あとはそれを受け取るだけです。

この阿弥陀如来の本願を、お釈迦さまが2600年前に説かれたことによって、
ナーガールジュナ、世親菩薩をはじめ、インド、中国、日本のどれだけ多くの人が、今日までに本当の幸せに救われたか分かりません。

この阿弥陀如来の本願に救われるには、苦しみの根元を抜いて頂かないといけないのですが、
苦しみの根元とは何かについては、
電子書籍とメール講座にまとめてあります。
ぜひ確認しておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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