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生きる意味を、知ろう。

諸行無常とは?「響きあり」の本当の意味は「はかない」ではない

「諸行無常って、この世ははかない、ということ?」
「それとも、だから今を大切に、ということ?」

「諸行無常(しょぎょうむじょう)」とは、
この世のすべてのものは続かない、という意味です。
『平家物語』の冒頭の
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり」
で覚えている人も多いと思います。

そこから、「この世ははかない」と寂しく受け取る人もあれば、
「だからこそ今を大切に」
「辛いことも、ずっとは続かない」
と、前向きに受け取る人もあります。

どちらも、まったくの間違いというわけではありません。
ところが、『平家物語』に出てくるあの鐘が、
どこで、誰のために鳴らされていたのかを知ると、
諸行無常の響きが告げていたのは、
そのどちらでもなかったことが分かります。

では、お釈迦さまが諸行無常を説かれたのは、
私たちに何を知らせるためだったのでしょうか?

「諸行無常」とは、
「諸行」はこの世のすべて、
「無常」は、常がない、続かないということですから、
この世の一切は続かないということです。

そしてこの「諸行無常」こそ、他の宗教にない仏教だけの旗印であり、
ほとんどの人は気づいていませんが、
あなたの人生に甚大な影響を及ぼすのです。

諸行無常とは?意味と読み方

「諸行無常」は、「しょぎょうむじょう」と読みます。
『平家物語』の冒頭で有名なので、その作者の言葉だと思われることもありますが、
元は、今から約2600年前、インドでお釈迦さまが説かれた仏教の言葉です。
「諸行」と「無常」に分けると、意味がよく分かります。

「諸行」とは、この世のすべて

諸行無常の「諸行」は、色々な行いのことではありません。
仏教では、物事のことを「行」といいます。
ですから、パソコンも諸行に入ります。
スマホも諸行、インターネットも諸行の1つです。
人間の体も心も諸行に入りますし、
この世で最も固いダイヤモンドも、
地球全体も、大宇宙全体も諸行に入ります。
「諸行」とは、この世の森羅万象、すべてのものです。

「無常」とは、続かないこと

その諸行が「無常」である、と説かれています。
「常」とは続くということですから、
「無常」とは、続かないということです。

普通、私たちは、常なるものがあると思っています。
「ダイヤモンドは永遠」といわれて、この愛は永遠に続くんだと、
結婚する時にダイヤモンドの指輪を贈ることがあります。
そのような、自分の特に大切なものは、変わらずにずっと続くと思っています。
今の状態が続くことを前提として、
明日はこれをやって、
来月はこれをやって、
来年はこれをやって、
と、自分が死ぬのも忘れて、未来の計画を立てています。

ところが仏教では、
「無常だぞ。今のまま続かないんだぞ」
と教えられています。
世の中はどんどん変わっていきますし、
自分もどんどん年を取っていきます。
この世の一切は続かない。
諸行は無常なのです。

なぜすべては続かないのか

お釈迦さまは、諸行無常である理由を、
『涅槃経(ねはんぎょう)』に、このように説かれています。

我、諸行を観ずるに、ことごとく皆無常なり。
いかんが知るや、因縁をもっての故なり。
もし諸法の縁より生ずることあるものはすなわち無常なりと知る。

(漢文:我観諸行,悉皆無常。云何知耶,以因縁故。若有諸法従縁生者,則知無常)

お釈迦さまがこの世のすべてを見つめられたところ、
どれも無常であると知られました。
どうして無常だと分かるのかというと、
「因縁」によって分かる、といわれています。

仏教では、すべてのものは、因と縁がそろって生じると教えられています。
「因」とは直接的な原因、
「縁」とは、間接的な原因のことです。
因と縁がそろって生じたものは、
やがて因縁が離れる時がやって来ますから、続きません。

このことを、インドの龍樹(りゅうじゅ)菩薩(150?-250?)は、
『大智度論(だいちどろん)』にこう教えられています。

有為法(ういほう)は一切因縁に属するが故に無常なり。
先に無くして今有るが故に、今有るも後に無なるが故に無常なり。

(漢文:有為法一切属因縁故無常。先無今有故,今有後無故無常)

「有為法(ういほう)」とは、因縁がそろってできているもので、
この世のすべての現象のことです。
前にはなかったものが、因縁がそろって今あるのですから、
今あるものも、やがて因縁が離れてなくなります。
だから無常だ、と教えられています。

他の宗教にない仏教の旗印

この世のすべてが続かないことは、
今日では、太陽のような星にも寿命があることが分かっていますから、
科学的にも間違いのないことです。

ところが諸行無常は、
日本人には当たり前のように感じられますが、
他の宗教には説かれていないことです。
キリスト教でも、イスラム教でも、
ヒンドゥー教でも、日本の神道でも、
必ず永遠に変わらない霊魂などが教えられています。

そのため諸行無常は、
その教えが仏教であるかどうかを見分ける3つの印、
「三法印(さんぼういん)」の最初に挙げられています。
仏教だと言っていても、諸行無常に反することを説いていれば、
それは仏教ではありません。
「諸行無常」は、仏教の掲げる旗印なのです。

「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印については、
以下の記事で解説しています。
➾三法印(四法印)の意味をわかりやすく解説

ここまでの意味は、仏教の辞典にも、このように書かれています。

諸行無常
しょぎょうむじょう[s:sarva-saṃskārā anityāḥ, p:sabbe saṅkhārā aniccā]
三法印の一つ。
あらゆる作られたものは無常である、の意。
(中略)
人間存在を含め、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一のままでありえないこと。

確かにこれは間違いではありませんし、
「人間存在を含め」と、私たち自身も入っているのが良いところです。
ですが、お釈迦さまが諸行無常を説かれた、
一番大切なところが抜けています。

それは、『平家物語』の「諸行無常の響き」の鐘が、
どこで鳴らされていたのかを知ると、ハッキリします。
では、その鐘は、どこで鳴っていたのでしょうか?

「諸行無常の響きあり」の鐘はどこで鳴っていたのか

平家物語冒頭の全文と意味

「諸行無常」といえば、多くの人が思い出すのが『平家物語』の冒頭です。
全文は、このようになっています。

「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ
」

今の言葉にすると、このような意味です。
祇園精舎の鐘の音には、この世のすべては続かない、という響きがある。
沙羅双樹の花の色は、勢いの盛んな者も必ず衰える、という道理を表している。
おごり高ぶっている人も長くは続かず、春の夜の夢のようにはかない。
強く勇ましい者も最後には滅びてしまい、まるで風の前の塵と同じである。

『平家物語』には、平清盛(1118−1181)が太政大臣となって、
平家一門が栄華を極めてから、
わずか20年ほどで壇ノ浦の海に消えていくまでが描かれています。
ですから学校では、
「栄えた者もいつかは滅びる。この世ははかない」
という意味だと習います。

物語の読み方としては、その通りです。
ただ、そう読む時の私たちは、
平家の滅びを、少し離れたところから眺めています。
ところが冒頭で鳴っている鐘は、
離れたところから眺めている人のための鐘ではありませんでした。

鐘が鳴っていたのは「無常院」

「祇園精舎の鐘」と聞くと、
お寺の鐘つき堂に下がっている大きな釣鐘や、
大晦日の除夜の鐘を思い浮かべるのではないでしょうか。

「祇園精舎」は、お釈迦さまの時代にインドにあったお寺で、
お釈迦さまが最も多く説法をされた所です。
その祇園精舎の隅に、ある建物がありました。
唐の時代の中国の道宣(どうせん)(596−667)が、
インドに伝えられていることを元に、こう書き残しています。

祇桓(ぎおん)の西北の角、日光の没する処に、無常院を為(つく)る。
もし病者あらば、安置して中に在(お)く。
凡は貪染(とんぜん)を生じ、本房の内の衣鉢衆具を見て、
多く恋著(れんじゃく)を生じて、厭い背く心無きを以ての故に、制して別処に至らしむ。
堂を無常と号するは、来る者は極めて多く、還り反る者は一二なれば、
事に即して心を専らにして法を念ずるを求むるなり。

(漢文:祇桓西北角,日光没処,為無常院。若有病者,安置在中。以凡生貪染,見本房内衣鉢衆具,多生恋著,無心厭背故,制令至別処。堂号無常,来者極多,還反一二,即事而求専心念法)

「祇桓(ぎおん)」とは、祇園精舎のことです。
その北西の隅、日の沈む方角に、
「無常院」(無常堂)という建物がありました。
祇園精舎で修行していた人が重い病にかかると、
ここに移されました。
普通は自分の部屋にいると、使い慣れた衣や鉢が目に入って、
この世への執着が起きてしまうからです。

その堂は「無常堂」と呼ばれていました。
入っていく人は極めて多く、
戻ってくる人は、ほんの1人か2人でした。
今でいえば、ホスピスのような所です。
ここに移された人は、自分の死を目の前にして、
一心に仏法を求めていました。

『平家物語』の鐘があったのは、この無常院です。
無常院の四隅に鐘があり、
その鐘の音に「諸行無常」の響きがあったと伝えられています。
「祇園精舎の鐘の声」とは、
死んでいく人の側で鳴っていた鐘の音でした。

鐘そのものや、祇園精舎がどこにあった何のお寺かについては、
以下の記事で解説しています。
➾祇園精舎とは?どこにあった何の寺か|鐘が無常を告げる理由

続く「沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色」も、
お釈迦さまが80歳で亡くなられた時、
そのお側に立っていた沙羅双樹のことです。
『平家物語』の冒頭の2つの句は、
どちらも、人が死んでいく場面から取られています。

盛者必衰については、以下の記事で解説しています。
➾盛者必衰の詳しい意味と語源・必ず滅びる理由を分かりやすく解説

仏教で「無常」といえば自分の死のこと

学校で習う「栄えた者も、いつかは滅びる」という意味は、
平家の滅びを、外から眺めた無常です。

ところが、無常院で鐘の響きを聞いていたのは、
他人の滅びを眺めている人ではありません。
自分の死を目の前にした人です。

仏教で「無常」といわれる時、
それは、桜の花が散ることや、楽しい時間が終わることよりも、
何よりも、自分の死のことです。
死を迎える人の建物が「無常」と名づけられていたことからも、
それが分かります。

では、無常が自分の死のことだとすると、
世間でよくいわれる
「はかないからこそ美しい」
「辛いことも、ずっとは続かない」
という受け取り方は、どうなるのでしょうか?

「はかないから美しい」「辛いことも続かない」の見落とし

世間でよく語られる諸行無常には、
大きく分けて、2つの受け取り方があります。

「はかないからこそ美しい」

まずよく聞くのが、
「無常だから美しい」
「はかないからこそいい」
というものです。
こういう意見は昔の文筆家なども言っています。

詩人にとって、自分が目にするしぼむ運命にある花よりも、あまりに早く終わりを迎える春よりも、世界ははるかに美しく見える。
5月の自然の愛らしさも、それを見ているうちにさえ色あせていくことを知っているからこそ、さらに深く彼をかきたてる。
それは普遍的な無常の道理が彼に喜びを与えるからではなく、その喜びは長い間存在しないと知っているから、より一層近くに抱き寄せるのである。

著者は20世紀初頭のアイルランドの作家なので、
こういうことを言う人は、知識人であったり、詩人であったりするかもしれません。

その対象は何なのかというと、
桜の花や、線香花火のようなものでしょう。
一年中咲いている桜や、1時間燃え続ける線香花火では、
かえって飽きてしまいます。
そういうものなら、続かないからこそいい、というのは、
言われてみればその通りです。

ところが、無常が自分の身に起きた時はどうでしょうか。

自分の腕にホクロができたと思ったら、どうも形が変わっている。
でも仕事が忙しくて、病院に行く暇もない。
しばらくすると、大きくなってきた。
心配になって病院に行くと、
「……皮膚癌です。どうしてこんなになるまで放っておいたんですか」
と言われた。
そんな時に、「無常だから美しい」とは言っていられません。

『金色童子因縁経(こんじきどうじいんねんきょう)』には、
命が減っていく様子が、このように説かれています。

もしは昼に、もしは夜中に、或いは行くに或いは住まるに、
大河の迅く流るるが如く、念々に停止なし。
寝宿してこの夜を過ごさば、寿命随って減少すること猶少水の魚のごとし。
これ何ぞその楽しみ有らん。

(漢文:若昼,若夜中,或行或復住,如大河迅流,念念無停止。寝宿過是夜,寿命随減少猶如少水魚。斯何有其楽)

昼も夜も、何かをしている時も、休んでいる時も、
大河が速やかに流れていくように、時は一瞬も止まらない。
一晩寝て過ごせば、それだけ命が減っていく。
それは、干上がっていく小さな水たまりにいる魚のようなものだ。
まもなく死んでいかなければならないのに、どんな楽しみがあるというのか、
ということです。

水たまりの魚が、「無常だからこそ美しい」などと言っている場合でしょうか。
無常を美しいと言えるのは、
無常が、自分の身に及んでいない間だけです。

「辛いことも、ずっとは続かない」

一方、苦しい時には、
「諸行無常なのだから、今の苦しみもずっとは続かない」
「変化を受け入れれば、楽になる」
と言われることもあります。

慰めとしては、大変ありがたい言葉です。
今苦しんでいる人に、そう言ってあげるべき場面もあります。
ですが、続かないということは、
そのこと自体が苦しいのです。

ちょうど、安定していれば安心できますが、
不安定だと不安になるようなものです。
すべてが不安定だからといって、
不安も不安定だから安心だ、とはなりません。

これを、分かりやすくお肌でいえば、
「諸行無常なら、シワシワも続かないんですよね」
と言っても、お肌にハリとうるおいが戻るというわけではありません。
今のシワシワが、もっとシワシワになるのが諸行無常です。
続かないというのは、基本的には、
悪いほうへ悪いほうへと変わっていくということです。

『増一阿含経(ぞういつあごんきょう)』には、こう説かれています。

色は無常なり、無常なればすなわち苦なり。
(漢文:色者無常,無常者即是苦)

「色(しき)」とは、私たちの体をはじめ、形のあるもののことです。
続かないから、私たちは苦しむのです。

ちなみに、「無常だから、今を大切に」といわれることについては、
以下の記事で詳しくお話ししています。
➾人生は無常とは|変わり通しの人生に、ただ1つ滅びないもの

「はかないからこそ美しい」も、
「辛いことも、ずっとは続かない」も、
無常を、心の持ち方で受け止めようとしています。
このように、無常を心で感じ取ることを、
「無常感」ということもあります。

ところが、自分の死だけは、
どう感じるかを変えても、やってくることに変わりはありません。
心の持ち方で片付くのは、
自分の身に及んでいない無常だけです。

では、お釈迦さまご自身は、
無常をどのように説かれたのでしょうか?

お釈迦さま(ブッダ)が説かれた無常

お釈迦さまの最後の教え

お釈迦さまが80歳で亡くなられる時のご様子は、
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』に説かれています。
その最期に、お釈迦さまは、
まず諸行無常の偈(げ)を説かれ、
続いて、お弟子たちにこう言われています。

諸行は無常なり、これ生滅の法なり。
生滅滅し已(おわ)りて、寂滅を楽と為す。
爾(そ)の時、如来、この偈を説き已りて、諸の比丘に告げたまわく、
汝等、まさに知るべし。
一切の諸行は、皆ことごとく無常なり。
我、今、金剛(こんごう)の体なりといえども、
また無常に遷(うつ)さるることを免れず。
生死(しょうじ)の中は、極めて畏るべしと為す。
汝等、よろしく勤めて精進を行じ、
速やかにこの生死の火坑(かきょう)を離るることを求むべし。
これ則ち、我が最後の教えなり。

(漢文:諸行無常,是生滅法。生滅滅已,寂滅為楽。爾時如来,説此偈已,告諸比丘,汝等当知。一切諸行,皆悉無常。我今雖是金剛之体,亦復不免無常所遷。生死之中,極為可畏。汝等,宜応勤行精進,速求離此生死火坑。此則是我最後教也)

最初の4句は、日本では「いろは歌」のもとになったお言葉で、
1句ずつの意味は、以下の記事で解説しています。
➾いろは歌の意味と本当は怖い謎を簡単に分かりやすく仏教的に解説

その後の「金剛(こんごう)」とはダイヤモンドのことで、
「金剛の体」とは、何ものにも壊されない体、ということです。
お釈迦さまは、
その私でさえも、無常に連れ去られることは免れないと、
無常を、ご自身の死として説かれています。

「生死(しょうじ)」とは、生まれては死に、死んでは生まれる、
果てしない迷いのことです。
その迷いは、燃えさかる火の穴のように恐ろしいのだから、
一刻も早く、そこを離れる道を求めなさい。
これが私の最後の教えである、と言われているのです。

お釈迦さまは最後の最後に、
無常を、はかない眺めとしても、慰めの言葉としても説かれていません。
速やかに生死を離れる道を求めよと、
お弟子の一人一人に勧められています。

同じく最後の説法を記した『遺教経(ゆいきょうぎょう)』も、
無常を説かれて結ばれています。

無常迅速──命はあっという間に過ぎていく

しかも、その無常は、驚くほど速くやってきます。
『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』には、
あるお弟子が「寿命が過ぎ去っていく速さは、どれくらいでしょうか?」と尋ねた時の、
お釈迦さまのお答えが説かれています。

お釈迦さまは、たとえで答えられました。
4人の男が強い弓を手に、四方に向かって同時に矢を放ったとします。
その4本の矢を、地面に落ちる前に全部つかみ取る男がいたら、
その男は素早いといえるか。

お弟子が「素早いです」と答えると、
お釈迦さまは、
地の神はその男の倍も速く、
空の神はさらにその倍、
四天王はさらにその倍、
日と月の神はさらにその倍、
日と月を導く神は、さらにその倍も速いと説かれて、
このように言われています。

命行の遷変は彼の導日月神よりも疾し。
この故に諸の比丘よ、まさに勤め方便して、
命行の無常迅速なることかくの如しと観察すべし。

(漢文:命行遷変倍疾於彼導日月神。是故諸比丘,当勤方便,観察命行無常迅速如是)

命が移り変わって過ぎていく速さは、
日と月を導く神よりも、さらに倍も速い。
だから、命が無常迅速であることを、よく見つめなさい、ということです。
「無常迅速」は、命があっという間に過ぎ去ってしまうことをいいます。

無常の殺鬼──誰も逃れることはできない

そして、その無常から逃れられる人は、一人もいません。
『根本説一切有部毘奈耶(こんぽんせついっさいうぶびなや)』には、
重い病にかかった長者が、臨終に、2人の息子に残した言葉が説かれています。

積聚(しゃくじゅう)せるものは皆銷散(しょうさん)す
崇高なるものは必ず堕落す
合会せるものはついに別離す
命あるものはことごとく死に帰す

(漢文:積聚皆銷散,崇高必墮落,合会終別離,有命咸帰死)

集めたものは、みな散っていく。
高い地位にある者も、必ず落ちる。
出会った者とは、最後には別れなければならない。
命あるものは、すべて死んでいく。
長者は、この言葉を残して、息を引き取りました。

「出会った者とは、最後には別れなければならない」
これを「会者定離(えしゃじょうり)」といいます。
愛する人や大切な人とは、ずっと一緒にいたいのに、
やがて心が離れたり、別れる日がやってきます。
たとえしばらく続いたとしても、
最後には必ず、死によって別れなければなりません。

譬(たと)えば夢にて会いたるものを、覚めて後、人は見ざるが如く、
かくの如く愛する人々をば、亡じ命終せば見ることなし。

夢で会った人とは、目が覚めれば二度と会えないように、
愛した人も、死んでしまえば二度と会うことはできません。

このように、どんな人の命も、どんな人との縁も、
情け容赦なく奪っていく無常を、
仏教では「無常の殺鬼」ともいわれ、
飢えた虎にたとえて、このように説かれています。

無常は念念に、餓えた虎の如し。
(漢文:無常念念,如餓虎)

生まれた時から、背後に一匹の飢えた虎がついてきているようなものです。
その虎は、今か今かと、かぶりつく時を狙っています。
それがいつかは、まったく分かりません。
一瞬一瞬、その時は近づいています。

無常院の鐘も、お釈迦さまの最後の教えも、
「無常迅速」も、「会者定離」も、「無常の殺鬼」も、
指しているところは同じです。
仏教で「無常」といわれるのは、
何よりも、自分の死のことなのです。

では、自分の死を知らされることは、
ただ悲しいだけの知らせなのでしょうか?

無常を観ずるは菩提心のはじめなり

ここまで死の話が続くと、
「縁起でもない」「暗い話だ」と思われるかもしれません。
ところが仏教では、
「無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり」
といわれます。

「無常を観ずる」とは、無常を見つめる、ということです。
先ほどの「無常感」のように、
無常を心で感じ取ることではありません。
自分の死から目をそらさずに、見つめることです。
これを「無常観」といいます。
無常観とは、感じるのではなく、観ずるということです。

「菩提心」とは、さとりを求める心ですから、
本当の幸せになりたいという心です。
自分もやがて死んでいかなければならない、
その現実を見つめることが、
本当の幸せを求める第一歩になる、ということです。

例えば、平均寿命を80歳とすれば、約80年の命です。
日数でいえば、約3万日です。
あなたは平均寿命まで、あと何日でしょうか?
もう過ぎてしまった人もあるかもしれません。

平均寿命まで生きられたとしても、意外と少なく感じます。
ましてや、それまで生きられるかどうかは、まったく分かりません。

残りの人生が、あとどれくらいあるのかを見つめると、
自分は何のために生まれてきたのか、
今やっていることは、そんなことをやっている場合なのか、
振り返らずにはおれなくなります。

先ほどの、無常を飢えた虎にたとえられた『心地観経』の偈も、
最後はこのように結ばれています。

まさに堅固の菩提心を発し、
精進の甲(よろい)を被(き)て、勤めて修学すべし。

(漢文:応発堅固菩提心,被精進甲勤修学)

無常を見つめたら、そこで嘆いて終わるのではなく、
揺るがない菩提心を起こして、本当の幸せを求めなさい、ということです。

無常院に移された人が、死を目の前にして一心に仏法を求めたのも、
お釈迦さまが老いと病と死を見て、王子の位を捨てて仏道を求められたのも、
無常を観じたところから始まっています。

本当に知りたいのは、
「無常」という言葉の意味よりも、
続かないものばかりのこの世の中で、
死が来ても崩れないものはあるのか、ということではないでしょうか。

お釈迦さまが最後に「速やかに求めよ」と勧められたのは、
どんな幸せなのでしょうか?

死が来ても崩れない幸せ

もし、無常を美しいと思い込むか、
辛いことはいずれ過ぎると自分に言い聞かせるかしか道がないとすれば、
重い病の床にある時も、最後の日を迎える時も、
誰一人救われないことになります。

お釈迦さまが最後まで勧められたのは、
無常を嘆くことでも、アキラメて受け入れることでもありません。
無常の世の中にいながら、
死が来ても崩れない本当の幸せになれる道です。

その幸せは、手に入れたものが続くかどうかに左右されません。
若さも健康も、財産も家族も、無常であることに変わりはありませんが、
それらを失っても、この幸せは失われず、
死によっても崩れません。
ですから、無常を無理に美しいと思い込む必要も、
辛いことはいずれ過ぎると言い聞かせる必要もなくなります。

そしてその本当の幸せになった時、
自分の死を見つめることの、本当の重要性も知らされます。
諸行無常の響きが告げているのは、
はかなさではなく、その幸せへの入り口です。

では、死が来ても崩れない幸せとはどんな幸せなのか、
どうすればなれるのかというと、
苦しみ悩みの根本原因を知り、
それを断ち切らなければなりません。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。