いろは歌の意味とは?

いろは歌は、「あいうえお」の五十音を覚えるために
昔は一番最初に使われていた歌です。
ところが、天才作家と言われた芥川龍之介は、
我々の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない
(『侏儒の言葉』)
と書き残しています。

いろは歌は、日本人が人生をスタートする上で、
ほとんどの人がいまだに気づいていない、
私たちが生活していく上で、やがて直面する本当に怖い問題をあらかじめ知らせ、
その解決の道を教えているのです。

それは一体どんなことなのでしょうか?

いろは歌の元はさとりの言葉

いろは歌はもともと『涅槃経』に説かれる
さとりの歌を和訳したものといわれます。

お釈迦さまが過去世、
雪山童子(せっせんどうじ)」と言われていたとき、
深い雪に覆われたヒマラヤ山で、
さとりを求めて修行しておられました。

人里離れた雪山の奥深くで、遠くさとりを求めて
難行苦行しておられたある日、どこからともなく、
かすかな風にのって、
諸行無常(しょぎょうむじょう)是生滅法(ぜしょうめっぽう)」
と、清らかなさとりの言葉が流れてきました。

雪山童子は、ビクッとして聞こえてきた方角を向くと、
言葉が話せるようなものは何もいなかったのですが、
それは長い間求めていたさとりの半分だったので、
飛び上がって喜びました。

一体どなたがこんな尊いさとりの歌を歌われたのだろう
と辺りを見回しますが、深い深い雪に覆われたあたり一面、
人間はおろか、アリの子一匹見当たりません。

ところが、今聞いたさとりの言葉は、
さとりの半分しか言い表されていないので、
命をかけてさとりを求めていた雪山童子は、
何とか残りの半分も聞きたいと、夢中で探し始めました。

やがて雪山童子は、高い岩山に、恐ろしい鬼の顔をした
羅刹がいるのを見つけました。
羅刹は微動だにせずに、怖い顔で遠くを見ています。

「まさか、あんな羅刹に尊いさとりの言葉が説けるはずがない」
と雪山童子は思いましたが、他に言葉をしゃべれる者がないので、
今は醜い業の報いを受けてはいても、
過去世に諸仏から教えを聞いたことがあるのかもしれない

と思って、一応聞いてみることにしました。

「ちょっとすみません。今、尊いさとりの言葉を説かれたのは、
あなたさまでしょうか。さきほどは、さとりの半分でしたので、
もしご存じでしたら、もう半分を教えて頂けないでしょうか」
羅刹の前に手をついてお願いすると、
羅刹はギョロリと雪山童子をにらみました。

修行者よ、おれはそんなさとりの言葉など知らん。
しかし、ここ10日ほど何も食べていないので、意識がもうろうとして
何かうわごとのように言ったかもしれん。
しかし腹が減ってもう何も言う力はない」
と突き放します。

「やっぱりさとりの歌の主はこの羅刹だったか」
喜んだ雪山童子は
お願いでございます。どうか残りの半分を教えてください。
そうすれば、死ぬまで何でも言うことを聞きます。
財施は限りがありますが、法施は限りがありません

とお願いしました。

お前は修行者なのに自分のことばっかり考えている。
おれはもう腹が減って何もしゃべる力が残されていないのだ

というと、
「失礼いたしました。あなたさまはどんなものを召し上がられるのでしょうか。
私が何でもご用意いたしますので、何なりとおっしゃってくださいませ」
と尋ねると、羅刹は、
わしの食べ物は、人間だ。それも死体ではダメだ。
生き血したたる生きた人間でなければ食べられぬ。
修行者のお前には用意できぬだろうから、地道に修行に励め

ニヤリと冷たく笑いました。

「お待ち下さい。それなら、私の肉体でもよろしいのでしょうか?」
「それはいいが、できるわけなかろう」
というと、
もし残りのさとりの半分を聞かせて頂けるなら、喜んでこの肉体を差し上げましょう。
どんなに大切にしたところで、50年か100年で滅びる肉体です。
どうか永遠に生きるさとりの言葉をお聞かせください

と合掌しました。

すると羅刹は、姿勢を正して、残りのさとりの言葉を
生滅滅已(しょうめつめつい)寂滅為楽(じゃくめついらく)」
と口にしました。
それを聞くと同時に雪山童子の迷いは晴れわたり、
さとりが開けたのでした。

童子は「私の出世本懐は成就した」と喜んで、
後世の人々のために
このさとりの言葉を石や木にきざみつけた後、
近くの高い木にするすると登り、羅刹に向かって身を投げました。

その瞬間、羅刹は帝釈天(たいしゃくてん)の姿を現すと、
雪山童子を受け止めて、地上に降ろしました。

帝釈天は、雪山童子を敬って礼拝すると、
善いかな、善いかな、あなたこそまことの菩薩である
その決心があってこそ、さとりを開くことができるのです

とほめたたえました。

羅刹は、雪山童子の求道心を為すために姿を変えた
帝釈天だったのです。

この時のさとりの歌は、「無常偈(むじょうげ)」といわれますが、
どんな意味なのでしょうか。

涅槃経の無常偈の意味

雪山童子が命がけで求めたさとりの言葉は、
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめつい)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
のわずか16文字でした。

諸行は無常なり 是れ生滅の法なり
 生滅滅しおわりぬ 寂滅をもって楽と為す

と読みます。

まず、「諸行無常」とは、
諸行」とは、この世のものすべてです。
無常」とは、常が無い、続かない、ということですから、
この世の一切は続かないということです。

是生滅法」とは、
」とは、いつでもどこでも変わらない真理のことですから、
この「諸行無常」ということは、生じたものは必ず滅するという、
いつでもどこでも変わらない真理である、ということです。

生滅滅已」とは、この「生滅」が滅しおわった世界がある、
ということです。これを「寂滅(じゃくめつ)」といいます。
それが本当の幸せなんだ、ということのが、
寂滅をもって楽となす」ということです。

このさとりの言葉を和訳したのが、
いろは歌」なのです。

このように和訳されています。

諸行無常 是生滅法
いろはにほへとちりぬるを(色は匂えど散りぬるを)
わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)
生滅滅已 寂滅為楽
うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)
あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ酔いもせず)

表にすると以下のようになります。

涅槃経 歴史的仮名遣い 漢字仮名交じり
諸行無常
是生滅法
いろはにほへとちりぬるを
わかよたれそつねならむ
色は匂えど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
生滅滅已
寂滅為楽
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしゑひもせす
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔いもせず

いろは歌の前半・迷いの世界

前半の「諸行無常 是生滅法」は、迷いの世界を表された歌ですが、
いろは歌ではそれを、
色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
と歌われています。

色が匂う」とは、花が咲き誇ることです。
花は色鮮やかに咲き誇っているけれども、
やがて必ず散ってしまうはかないものだというのが、
色は匂えど散りぬるを」ということです。

ちょうどそのように、「我が世誰ぞ常ならむ
人間も盛者必衰、誰も長くは続かないのだ
ということです。

日本で一番成功した人といえば、
尾張中村の水のみ百姓から、一代で太閤にまでのぼりつめた
豊臣秀吉が有名です。
この豊臣秀吉は、死ぬ時に、私たちに重大なことを言い残しています。

豊臣秀吉が後悔したこと

豊臣秀吉は、ゼロからスタートして、草履取りになったり、
足軽になったりしながら、戦で功績を重ね、
ついには天下をとり、大阪城や聚楽第で栄耀栄華を極めました。
ところが死んでいくときには、
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
難波のことも夢のまた夢

と辞世の句を詠んでいます。

」というのは、はかないものの代名詞です。
夏の朝、キラリと光る朝露も、お昼にもならないうちに、
あっという間につるりと落ちて消えてしまいます。

そんなはかない朝露のような、あっという間の人生だったと
豊臣秀吉は言っています。

でも、あれだけ努力が報われて、金の茶室とか作って、
栄耀栄華を極めたからいいじゃないですか
」と聞くと、
難波のことも夢のまた夢」と言っています。

難波」というのは、大阪を中心として築いた栄耀栄華のことです。
」というのは、覚めてしまえば何も残りません。
どんなに夢の中で恋人と楽しく過ごしていても、
宝くじにあたって1億円手に入れても、
目が覚めれば、あとかたもなく消えてしまいます。

色々やってきたけれど、すべて夢のように消えていくものばかりだった。
そんなたよりにならない、はかない幸せではなくて、
死が来ても崩れない、本当の幸せになりたかったな

ということです。

色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
豊臣秀吉ほどのお金や財産、地位、名誉を手に入れても、
死んで行くときには、すべて夢のようにはかなく消えてしまう
ということは、私たちも早晩、死がやってきて、
同じ後悔に直面する、ということです。

そうならないための道が、いろは歌の後半に教えられています。

いろは歌の後半・迷いの解決の道

いろは歌の後半は、
雪山童子が命と引き替えに聞いた
生滅滅已 寂滅為楽
の、さらに一歩進んだ内容が教えられています。

それが、
有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず
ということです。

有為の奥山」の「有為」とは、生滅のある、苦しみの世界ですから、
苦しみ悩みのこの世界を、奥深い山にたとえて
有為の奥山」と言われています。

ところが、涅槃経より一歩進んでいるのは、次です。
生滅の滅しおわった、寂滅の世界」は、
どんなに修行しても、この世で到達することはできません。
それは、さとりを得るための修行がいかに難行かを知れば分かります。

ところが、いろは歌には「今日越えて」とありますから、
生きている今のことです。

生きている今ということは、
厳密にはさとりではありませんが、
死ぬと同時に仏のさとりを得ることが定まった
絶対の幸福のことをいろは歌では言われています。

絶対の幸福は、豊臣秀吉の手に入れた、お金や財産、地位、名誉のように、
臨終に夢のように消えてしまうものでもなければ、
酒に酔って、現実逃避するようなものでもなく、
人間に生まれてよかった」と大満足できる、
ハッキリした世界ですから、
浅き夢見じ酔いもせず
と言われています。

その絶対の幸福になることが、
仏教に教えられる、人間に生まれてきた目的であり、
本当の生きる意味なのです。

では絶対の幸福になるにはどうすればいいのかというと、
それには、苦しみの根本原因をなくさなければなりません。
それについては、小冊子とメール講座にまとめてあります。

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