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五蘊とは?意味と色受想行識をわかりやすく・お釈迦さまが説かれた目的

「五蘊って、どういう意味?」
「色受想行識を覚えても、自分とどう関係があるの?」

『般若心経』を読んだり、写経をしたりすると、
「照見五蘊(ごうん)皆空」という一句が出てきます。
瞑想やマインドフルネスの本でも、
「五蘊」という言葉を目にすることがあります。

調べてみると、五蘊とは
「人間を形作る5つの要素」と説明されています。
ですが、5つの名前を覚えても、
それが自分の人生とどう関わるのかは、なかなか見えてきません。

実は、お釈迦さまが五蘊を教えられたのは、
心と体の部品の名前を教えるためではありません。
誰もが一度は考える
「私とは何か」という問いに答えるためです。
それは、何のために生きるのかを知りたい人にとって、
避けて通れない問いでもあります。

では、五蘊とは、どんな意味なのでしょうか?

五蘊とは?意味と五陰との違い

「五蘊(ごうん)」とは、私たちの体と心を、
色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)という
5つの集まりに分けて説かれたものです。

「蘊(うん)」とは、集まりのことです。
サンスクリット語ではスカンダ(skandha)といい、
もとは肩という意味の用例が多く、
やがて構成部分や木の幹を表します。
仏教では集まりを、蘊といいます。

5つのうち、色(しき)は形のある体のことで、
受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の4つは、心の働きです。
私たちが「私」と呼んでいるものを、
体と心の両面から5つに分けたのが、五蘊です。

五蘊は、古い訳では五陰(ごおん)といい、
鳩摩羅什(くまらじゅう)(344〜413?)の翻訳した龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)(150?〜250?)の『大智度論』では、
「五衆(ごしゅ)」とも訳されています。

玄奘三蔵
玄奘三蔵

五蘊は、玄奘(げんじょう)(600/602-664)の新しい訳で、
どれも同じものを指しています。

四苦八苦の一つ、「五陰盛苦(ごおんじょうく)」の「五陰」も、
この五蘊のことです。
ネットでは「五蘊盛苦」と書かれることもありますが、
経典に出てくるのは「五陰盛苦」です。

では、色・受・想・行・識の5つは、
それぞれどんな働きなのでしょうか?

色受想行識とは?五蘊の5つをわかりやすく

5つの働きは、次の通りです。

五蘊(色受想行識)の意味
  1. 色蘊(しきうん)……形のあるもの。眼・耳・鼻・舌・身と、それぞれの対象である色や形・音・香・味・触れるもの
  2. 受蘊(じゅうん)……感受作用。苦しい・楽しい・どちらでもない、という感覚
  3. 想蘊(そううん)……イメージする働き。「これは何々だ」と概念にする働き
  4. 行蘊(ぎょううん)……心を動かす働き。こうしたい・避けたいという意志や、欲や怒りなどの煩悩
  5. 識蘊(しきうん)……認識する働き。対象を一つ一つ見分けて知る、心の中心

たとえば、友達から届いたメッセージを読む時を考えてみます。

スマホの画面の文字と、それを見る目は、色蘊です。
読んだ瞬間に「何だか嫌な感じ」を受けるのが受蘊、
「怒っているのかな」と相手の顔を思い浮かべるのが想蘊、
「言い返したい」「謝っておこう」と心が動くのが行蘊、
それらをすべて見分けて知っている心が、識蘊です。

5つは、順番にバラバラに起きるのではありません。
一瞬一瞬の心の中で、いつも一緒に働いています。
私たちが「私」と思っているのは、
この5つが重なり合って動いている姿です。

お釈迦さまは、この5つの一つ一つを、
身近なものにたとえて、こう説かれています。

色は聚沫(しゅうまつ)の如く、
受は水上の泡の如く、
想は春時の燄(ほのお)の如く、
諸行は芭蕉(ばしょう)の如く、
諸識の法は幻の如しと観ぜよ。

(漢文:観色如聚沫,受如水上泡,想如春時燄,諸行如芭蕉,諸識法如幻)

「色は聚沫(しゅうまつ)の如く」とは、
体は、大水の流れに浮かぶ泡のかたまりのようだ、ということです。
このお経の前の段では、ガンジス川の大水に浮かぶ泡を、
よく見つめれば中に確かなものは何もない、と説かれています。

「受は水上の泡の如く」とは、
苦しい・楽しいという感じは、雨粒が水面に作る泡のように、
生まれてはすぐに消えていく、ということです。

「想は春時の燄(ほのお)の如く」とは、
ここで「春時の燄」とは陽炎(かげろう)のことです。
心に思い浮かべたものは、春の陽炎のように、
本当にあるように見えて、近づけば消えてしまう、ということです。

「諸行は芭蕉(ばしょう)の如く」とは、
「芭蕉」とはバナナのことで、その幹は、
皮を一枚ずつはいでいくと、中に芯がありません。
そのように、心を動かす意志や欲を、どこまで探っても、
その中心となる確かなものは見つからない、ということです。

「諸識の法は幻の如し」とは、
認識する働きは、手品が見せる幻のように、
確かにあるようで、つかまえることはできない、ということです。
「観ぜよ」とは、そう見つめなさい、ということです。

泡も陽炎も芭蕉も幻も、手を伸ばせば、
つかんだと思った瞬間に、手の中には何も残りません。
「私」を構成する五蘊も、これと同じだと説かれています。

では、五蘊に芯がないと知ると、
私たちの生き方は、どう変わるのでしょうか?

世間でいわれる五蘊の教え

世間では、五蘊の正体が分かれば、
自分へのこだわりが消えて、心が楽になるといわれます。
主な説明をまとめると、次のようになります。

よくある五蘊の説明
  1. 人間は、5つの要素が一時的に集まってできている(五蘊仮和合(けわごう))
  2. 5つとも移り変わり、固定した実体はない(五蘊皆空)
  3. だから「自分」へのこだわりを手放せば、苦しみから自由になれる
  4. 瞑想で心と体の動きを5つに分けて見つめれば、怒りや不安に振り回されにくくなる

どれも、五蘊の一面をとらえています。
腹が立った時に、
「今、受が苦と感じ、想が相手の顔を描き、行が言い返そうとしている」と
分けて見つめれば、少し冷静になれるのは、その通りでしょう。

ところが、「私は5つの集まりにすぎない」と
頭で分かることと、「私」へのこだわりが消えることは、
まるで違います。

五蘊の仕組みをよく知っている人でも、
陰口を聞けば胸がざわつき、
人間ドックの再検査の結果を待つ間は、落ち着かない時間を過ごします。
死ぬのが怖いという思いは、
仕組みを知っただけでは、少しも変わりません。

五蘊は、心の仕組みとしても精密なものですが、
お釈迦さまの目的は、心の仕組みの解明ではありません。
では、お釈迦さまは、何のために五蘊を説かれたのでしょうか?

お釈迦さまが五蘊を説かれた本当の目的

お釈迦さまが五蘊を説かれたのは、
心と体の仕組みを教えるためではなく、
「私とは何か」を明らかにするためです。

同じ『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』には、五蘊について、このようにも説かれています。

色は無常なり、
無常なるは即ち苦なり、
苦なるは即ち非我なり、
非我なる者は亦我所に非ず。

(漢文:色無常,無常即苦,苦即非我,非我者亦非我所)

「色は無常なり」とは、
身体は常が無い、すべて移り変わっていく、ということです。
これを無常といいます。

「無常なるは即ち苦なり」とは、
変わらないでほしいと握りしているのに、
否応なく移り変わっていくのだから
思い通りにならずに苦しむ、ということです。

「苦なるは即ち非我なり」とは、
思い通りにならないものは、
「これが私だ」とはいえない、ということです。
本当に私なら、私の思い通りになるはずだからです。

「非我なる者は亦我所に非ず」とは、
私でないものは、私のものでもない、ということです。
これが「無我(むが)」ということです。

お釈迦さまは続けて、受・想・行・識についても、同じように説かれています。
体も心も、受・想・行・識のどれ1つ
「これが私だ」「これは私のものだ」といえるものはありません。

ところが私たちは、思い通りにならない五蘊を、
「私」「私のもの」と思い込んで、しがみついています。
この心も煩悩です。
この煩悩にとらわれた五蘊を、
「五取蘊(ごしゅうん)」といいます。

体も心も元気なはずなのに、
何に打ち込めばよいか分からず、モヤモヤする。
年を取り、病気になれば、思い通りにならない体を嘆く。
五蘊を私だとしがみつく煩悩はなくならないので、苦しみはなくなりません。
これを「五取蘊苦」といわれます。
それはイコール、四苦八苦の最後に挙げられる「五陰盛苦(ごおんじょうく)」です。

では、五蘊のどれも「私」でないとすれば、
ここにいる私とは、一体何なのでしょうか?

大乗経典と論書に説かれる五蘊

この問いについて、大乗経典ではさらに深く、空(くう)や唯識が説かれ、
さらに論書で分析、体系化されていきます。
それらは、このように説かれています。

倶舎論の五蘊

天親菩薩
天親菩薩

まず、『阿含経』の教えだけを天親菩薩(400-480)が体系化された『倶舎論(くしゃろん)』では、
五蘊の一つ一つの働きを、こう説かれています。


受は領納(りょうのう)にして触に随い、想は像を取るを体と為す。
(漢文:受領納随触,想取像為体)

「受は領納(りょうのう)にして触に随い」とは、
「受」は受け入れる働きで、目や耳などが対象に触れた時に、
苦・楽・どちらでもない、と受け入れる、ということです。

「想は像を取るを体と為す」とは、
「想」は、対象の像を、
心に描き出すのが本質だ、ということです。

『倶舎論』は続けて、受・想・識を除いた
残りの心の働きを、すべて「行」にまとめ、
「識」は、対象を見分けて区別して知る働きです。

また、「蘊」とは、移り変わるものが
寄り集まった集まりのことであり、
五蘊を、十二処(じゅうにしょ)・十八界(じゅうはっかい)と並ぶ、
この世のすべてのものの分け方の1つに挙げています。
「私」とは、この五蘊の集まりの上に、
仮に立てられた呼び名だとされます。

『倶舎論』は、五蘊を、それ以上分けられない
細かな要素にまで分析していきます。
ですが、それらの要素は過去、現在、未来の三世にわたって存在しています。
これに対して大乗経典では、その1つ1つの要素も含めて、
五蘊そのものが空だと説かれています。

般若心経の五蘊皆空とは

大乗経典の中で、五蘊の教えが凝縮されているのが、
『般若心経(はんにゃしんぎょう)』の冒頭です。

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみった)を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄(くやく)を度したまえり。
(漢文:観自在菩薩,行深般若波羅蜜多時,照見五蘊皆空,度一切苦厄)

ここには、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)が五蘊をどう見られたかが説かれています。

「観自在菩薩」は、観音菩薩の別の呼び名です。
「深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみった)を行じし時」とは、
仏のさとりに向かう深い智慧(ちえ)の行を修めていた時、ということです。
これは広い意味では六波羅蜜(ろくはらみつ)を行じて、ということです。

「五蘊皆空なりと照見して」とは、
色も受も想も行も識も、一つとして
それ自体で成り立っているものはないと、
智慧の光で照らして見抜いた、ということです。
阿含経で「私ではない」と説かれた五蘊を、
『般若心経』では、その一つ一つまで空だと説いています。

「一切の苦厄(くやく)を度したまえり」とは、
あらゆる苦しみと災いを乗り越えた、ということです。
色即是空(しきそくぜくう)は、この五蘊皆空を、
五蘊の一つの色について述べた言葉です。

ただ、これは観自在菩薩が、
長い六波羅蜜の修行の末に開かれた深い智慧の境地です。
『般若心経』を唱えるだけで、
同じように五蘊が空だと見抜けるのではありません。
むしろ「般若心経は唱えてはいけない」といわれます。
その理由については以下の記事をご覧ください。
➾般若心経を唱えてはいけない本当の理由|幸せを遠ざける心とは

般若経典に説かれるこの空を、詳しく解き明かしたのが、
龍樹菩薩の『大智度論』です。

大智度論の五衆和合とは

『大智度論』では、五蘊は「五衆(ごしゅ)」と呼ばれ、
人間がどのようにあるのかが、車にたとえて説かれています。

譬えば車は、轅(ながえ)・軸・輻(や)・輞(おおわ)等の和合するが故にありて、別の車なし。
人もまたかくの如く、五衆和合するが故にありて、別の人なし。

(漢文:譬如車,轅、軸、輻、輞等和合故有,無別車。人亦如是,五衆和合故有,無別人)

「車は、轅(ながえ)・軸・輻(や)・輞(おおわ)等の和合するが故にありて」とは、
車は、轅(ながえ)・車軸・スポーク・車輪の外枠などが
組み合わさっているから、車としてある、ということです。

「別の車なし」とは、
部品を一つずつ外していけば、
そのほかに「車そのもの」はどこにもない、ということです。

「人も亦是くの如く、五衆和合するが故にありて、別の人なし」とは、
人間も同じで、五蘊が組み合わさっているから人としてあり、
五蘊のほかに「私そのもの」はない、ということです。
これを五蘊仮和合(けわごう)といいます。

ただ、『大智度論』は、
「だから死ねば何も残らない」とは説いていません。
すぐ後に、お釈迦さまが、
「清らかな天眼で、衆生が善悪の業にしたがって、
ここで死んでかしこに生まれ、報いを受けるのを見る
」
と言われていることを挙げています。

変わらない「私」はないのに、業の報いは続いていく。
それはなぜなのかを明らかにしたのが、
唯識の『成唯識論(じょうゆいしきろん)』です。

成唯識論の五蘊と阿頼耶識

『成唯識論』は、天親菩薩の『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』を解説した論書です。
その中では、「変わらない私がないなら、
昔のことを覚えていたり、恩や恨みを忘れなかったりするのは
どうしてか
」という問いが立てられています。

その答えは、一人一人に本識という本心があり、
それが一筋に続きながら、行いの種を保っているからだ、
というものです。
この本識を、「阿頼耶識(あらやしき)」といいます。

さらに、「私がないなら、誰が業を造り、
誰がその報いを受けるのか
」という問いには、
こう答えています。

然るに諸の有情(うじょう)は、心・心所法の因縁の力の故に相続して断ずること無く、業を造り果を受く。
理に於いて違うこと無し。

(漢文:然諸有情,心、心所法因縁力故相続無断,造業受果。於理無違)

「諸の有情(うじょう)は」とは、すべての生きとし生けるものは、ということです。
「心・心所法の因縁の力の故に」とは、
心と、心に伴う働きが、原因の力によって、ということです。
心・心所法は、五蘊でいえば、受・想・行・識にあたります。

「相続して断ずること無く、業を造り果を受く」とは、
途切れることなく続いていき、自ら業を造り、
その結果を自ら受けていく、ということです。
「理に於いて違うこと無し」とは、
それで道理に何の矛盾もない、ということです。

五蘊は、死ねばバラバラになります。
ですが、心の流れは途切れることなく、
造った業の報いを受けていくのです。

こうして仏典をたどると、五蘊の教えは、
最後に一つの問題を私たちに突きつけてきます。
死んで五蘊がバラバラになった後、
私はどうなるのか、ということです。

五蘊がバラバラになる時に残る問題

死ぬ時、体は焼かれて灰になり、
目や耳で感じる心も、考える心も止まります。
どれだけ財産を蓄えても、地位や名誉を得ても、
一つとして持っていくことはできません。
ただ、心の奥の本識だけは、
造った業をたずさえて続いていきます。

仏教では、死んだ後の世界を「後生(ごしょう)」といいます。
いずれ必ず来る後生がどうなるのか分からないまま、
五蘊を「私」と思って生きているのが、私たちの姿です。

五蘊を細かく分けて分析しても、
心の働きを観察する訓練をしても、
この問題は解決しません。

五蘊の教えは、「私」の正体を見せて、
この一番大きな問題に、私たちの目を向けさせてくれます。

本当の幸せに満たされる毎日

お釈迦さまが、この問題に目を向けさせようとされるのは、
五蘊のこの身のままで、
「人間に生まれてよかった」と大満足できる
本当の幸せがあるからです。

その幸せになるには、年齢も性格も関係ありません。
どんな人でも、生きている今、心から満たされ、
命が終わっても変わらない、本当の幸せになることができます。

では、お釈迦さまが明らかにされた
本当の幸せとは、どんなものなのか。
どうすれば、生きているうちに、その幸せになれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。