三毒(貪瞋痴)とは?意味と三毒をなくす方法をわかりやすく解説
「貪瞋痴の三毒って、どういう意味?」
「欲や怒りの三毒は、どうすればなくせるの?」
欲しい物を見ると、我慢できずに買ってしまう。
家族のちょっとした言い方に、つい声を荒らげてしまう。
友達の成功を聞くと、なぜか素直に喜べない。
後になって、そんな自分が嫌になることがあります。
仏教では、こういう心を「三毒」といいます。
世間でも、「心の毒を手放せば楽になる」と、
様々な方法が勧められています。
ところが、お経には、
三毒を本当になくすとはどういうことなのか、
私たちの想像をはるかに超えたことが説かれています。
三毒とは一体どんな意味なのでしょうか?
三毒(貪瞋痴)とは?お釈迦さまが説かれた3つの毒
「三毒」とは、私たちを苦しめる煩悩の中でも、
特に恐ろしい貪欲・瞋恚・愚痴の3つのことです。
3つの頭文字をとって、「貪瞋痴」ともいいます。
インドでも説一切有部の『阿毘曇甘露味論』で三毒(triviṣa)が使われています。
- 貪欲……なければ欲しい、あっても欲しいと欲しがる心
- 瞋恚……欲を妨げられると腹を立てる怒りの心
- 愚痴……因果の道理が分からず、ねたみ・怨む心
煩悩は全部で108ありますが、
その中でもこの3つは、強烈な毒です。

慧遠(523-592)
なぜ毒といわれるのかというと、
浄影寺慧遠(523-592)の『大乗義章』によれば、
毒蛇のように、毒龍のように人々を害するからです。

智顗(538-597)
天台宗を開いた智顗(538-597)の『法界次第初門』では、
迷いを離れたいという心を壊すので、
毒といわれると説かれています。
自分も周りの人も深く傷つけるので、毒にたとえられています。
蜂に刺された痛みは、数日もすれば引いていきます。
ですが、怒りにまかせてぶつけた言葉は、
相手の心に、何年も消えない傷を残しますし、
怒りの心は自分の仏教を聞こうという気持ちも損ないますから、
非常に怖ろしい毒です。
また、三毒に、疑・慢・悪見の3つの煩悩を加えたものを、
「六大煩悩」といいます。
健康法の分野で、体によくないとされる食べ物を
三毒と呼ぶこともありますが、
三毒という呼び名は、もとは仏教で説かれたものです。
では、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒とは、
それぞれどんな心なのでしょうか?
貪欲とは?むさぼりの心
貪欲とは、あれも欲しい、これも欲しい、
もっともっととむさぼり求める心です。
お金や物、美味しいもの、異性、人からの評価などの他に
楽をしたいという心も含まれ、限りなく求め続けます。
これらを対象とする代表的な欲を「五欲」といいます。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
欲しかった物を手に入れても、
数日経てば、もう次の新しい物が気になります。
SNSなどで「いいね!」が10集まれば、次は100を期待します。
貪欲は、満たしても満たしても、終わりがありません。
その欲が妨げられ、
思い通りにならない時に燃え上がるのが瞋恚です。
瞋恚とは?怒りの心
瞋恚とは、怒りの心です。
「しんに」とも読みます。
思い通りにならない相手や出来事に対して、
カッとなったり、イライラしたり、憎んだりする心です。
電車が遅れれば駅員さんに苛立ち、
家事を手伝わない家族には、不満をぶつけます。
怒っている間は、自分が正しいと思っていますが、
時間が経つと、言いすぎたと後悔することもあります。
そして、怒りを相手にぶつけられない時、
心の奥でくすぶり続けるのが、愚痴です。
愚痴とは?仏教でいう本当の意味
世間で愚痴といえば、
言っても仕方のない不満をこぼすことです。
ですが、仏教でいう愚痴は、それだけではありません。
仏教で愚痴とは、因果の道理が分からない、愚かな心のことです。
自分の身に起きる善いことも悪いことも、
自分のまいた種が実ったものなのに、そうとは思えず、
人のせいにして、恨んだり、妬んだりします。
同僚が先に昇進すると、心から祝えず、
失敗すればいいのにと思ってしまう。
こうした嫉妬やねたみも、愚痴から起きてきます。
欲と怒りの根っこにあるのも、この愚痴です。
物事の道理が見えないから、際限なく求め、
思い通りにならないと怒りの炎を燃やすのです。
このように三毒は、バラバラに起きるのではなく、
互いにつながり合っています。
そのつながりを、絵で表したものがあります。
三毒の動物(鶏・蛇・豚)とは
チベットなどに伝わる六道輪廻の図では、
輪の中心に、鶏・蛇・豚の3匹の動物が描かれています。
鶏は貪欲、蛇は瞋恚、豚は愚痴を表し、
互いの尾をくわえて、ぐるぐると回っています。
そのもとになったのは、お釈迦さまが説かれた生死の輪です。
『根本説一切有部毘奈耶』には、お釈迦さまが、
精舎の門の下に生死の輪を描くよう教えられ、
その中心に、鳩・蛇・豚を描いて、
貪欲・瞋恚・愚痴を表すよう説かれています。
この三毒がかみ合いながら回り続ける限り、
私たちは迷いの世界を輪廻し続けます。
この三毒の輪は、一体どうすれば止められるのでしょうか?
世間でいわれる三毒をなくす方法
世間では、三毒を手放すために、
このような工夫が紹介されています。
どれも、実際に役立つ方法です。
怒りが込み上げた時に、6秒数えるだけでも、
言わなくていいことを、口にせずにすみます。
欲しい物の前で一度立ち止まれば、ムダ遣いも減ります。
ですが、飲み込んだ怒りは、それで消えたのでしょうか?
口には出さなくても、心の中では、
相手を責める思いが、何度も繰り返されています。
欲しい物を一つ諦めても、
しばらくすると、また別の物が欲しくなります。
一時的に抑えたように見えても、
三毒は全然なくなってはいません。
むしろ抑え込むことによって増幅され、
あとで爆発することもあります。
普段はそんなにお腹がすかなくても、
しばらくダイエットすると、ものすごくお腹がすいて、
その反動で余計に食べて太ってしまうようなものです。
では、仏教でいう「三毒をなくす」とは、
どういうことなのでしょうか?
三毒をなくすとは?お経に説かれる本当の意味
仏教で三毒を完全になくすとは、
仏のさとりを開くことです。
『雑阿含経』には、
お釈迦さまのお弟子の中で智慧第一といわれた舎利弗が、
涅槃とは何かを尋ねられて、こう答えています。
涅槃とは、貪欲永く尽き、瞋恚永く尽き、愚痴永く尽き、一切の諸の煩悩永く尽く。是れを涅槃と名づく。
(漢文:涅槃者,貪欲永尽,瞋恚永尽,愚痴永尽,一切諸煩悩永尽。是名涅槃)(出典:『雑阿含経』)
「涅槃」とは、迷いの火が吹き消されたさとりの境地です。
「貪欲永く尽き、瞋恚永く尽き、愚痴永く尽き」とは、
三毒である欲も怒りも愚痴も、一時おさまるのではなく、
二度と起きないほど完全になくなる、ということです。
「一切の諸の煩悩永く尽く。是れを涅槃と名づく」とは、
三毒だけでなく、あらゆる煩悩がなくなった境地を、
涅槃という、ということです。
舎利弗は続けて、そこに至る道として、
「八正道」という修行を挙げています。
三毒を根こそぎなくすとは、怒りを6秒堪えることでも、
欲しい物を我慢することでもありません。
八正道の修行を完成させ、
さとりを開くことなのです。
八正道は、正しい行いを守る戒、心を静める定、
正しく見抜く慧の、三学にまとめられます。
大乗では、六波羅蜜の修行を行います。
布施は貪欲を、忍辱は瞋恚を、智慧は愚痴を、
それぞれ打ち破る行いです。
まず受戒して、修行をしますが、非常に長い時間がかかり、
一生涯修行したからといって煩悩を断ち切れるとは限りません。
ほとんどの人は少しも煩悩をなくせず、
さとりを開けないで一生を終わります。
それどころか、煩悩を全部なくして仏になるまでに、
三阿僧祇劫という気の遠くなるような長い時間がかかる、
と説かれています。
三毒は、それほどまでに根深い心です。
その根の深さは、経典や、それを解説された論書に、
さらに詳しく説かれています。
大乗経典や論書に説かれる三毒の根深さ
三毒は、あらゆる悪い行いの根であり、
遠い過去世から私たちの心にあって、
「私」という心から起きてくると説かれています。
倶舎論の三不善根

天親菩薩
『阿含経』をまとめられている天親菩薩(400-480)の『倶舎論』では、
三毒を、「三不善根」と呼んでいます。
不善根は、欲界の貪・瞋・不善の痴なり。
(漢文:不善根,欲界貪、瞋、不善痴)(出典:天親菩薩『倶舎論』)
「不善根は」とは、
あらゆる悪い行いを生み出す根っこは、ということです。
「欲界の」とは、欲のみで生きる私たちの世界の、ということです。
「貪・瞋・不善の痴なり」とは、
貪欲と瞋恚と、悪い行いにつながる愚痴の3つだ、ということです。
「不善根」といわれるのは、木にたとえて、
悪い行い(悪業)が枝や葉で、三毒は根です。
枝葉を切っても、根が残っていれば、また芽を出します。
三毒がある限り、悪い行いをし続けます。
三毒の反対の、むさぼらず、怒らず、愚かでない心を、
無貪・無瞋・無痴の三善根といいます。
では、この悪を生み出す貪瞋痴の三毒は、
いつから私たちの心にあるのでしょうか?
華厳経の懺悔の偈
大乗経典の『華厳経』には、
始まりのない始まりから、私たちの心にあると説かれています。
今も多くのお寺で読まれている、懺悔の偈です。
我昔より造りし所の諸の悪業は、皆無始の貪恚痴に由る。
(漢文:我昔所造諸悪業,皆由無始貪恚痴)(出典:『華厳経』)
「我昔より造りし所の諸の悪業は」とは、
私がこれまでに造ってきた、様々な悪い行いは、ということです。
「皆無始の貪恚痴に由る」とは、
すべて、始まりのない果てしなく遠い過去からの、
欲と怒りと愚痴によるものだ、ということです。
「恚」は、瞋恚の恚です。
三毒は、この一生で身についたものではありません。
生まれ変わり死に変わり、果てしない過去から、
ずっと私たちの心にあり続けているのです。
では、なぜ三毒は、これほど根深く
私たちの心に居座っているのでしょうか?
大智度論の三毒と「私」
龍樹菩薩(150頃〜250頃)の『大智度論』は、
その根を、「私」という心に見ています。
「私」という心があるから「私のもの」という心が起き、
そこから三毒が生まれると、こう説かれています。
我を利益すること有る者には貪欲を生じ、我に違逆する者には瞋恚を生ず。
(漢文:有利益我者生貪欲,違逆我者而生瞋恚)(出典:龍樹菩薩『大智度論』)
「我を利益すること有る者には貪欲を生じ」とは、
私に都合のいい人や物には、欲の心が起きる、ということです。
「我に違逆する者には瞋恚を生ず」とは、
私に逆らう人や、都合の悪い物事には、
腹立ちが起きる、ということです。
『大智度論』ではさらに、こうした心は智慧から起きるのではなく、
狂い惑う心から起きるので愚痴(痴)といい、
三毒は一切の煩悩の根本だと説いています。
「私」がある限り、私の得になるものを欲しがり、
私の邪魔をするものに腹を立てる。
三毒は、「私」と切っても切れない心なのです。
その三毒の中でも、一番奥にあるのが愚痴です。
唯識の『成唯識論』では、三毒の1つ1つの性質を、
詳細に説いています。
成唯識論の三毒
『成唯識論』では、
貪は、生きることとそれを支える物に染まりついて、苦しみを生む心、
瞋は、苦しみとその原因を憎み、身も心も熱く悩ませて、
悪い行いを起こす心と説いています。
そして、愚痴(痴)については、こう説かれています。
云何なるをか痴と為す。
諸の理と事とに迷闇なるを性と為し、能く無痴を障え、一切の雑染の所依たるを業と為す。
(漢文:云何為痴。於諸理事迷闇為性,能障無痴,一切雑染所依為業)(出典:『成唯識論』)
「云何なるをか痴と為す」とは、
痴とはどんな心か、ということです。
「諸の理と事とに迷闇なるを性と為し」とは、
物事の道理(理)にも、目の前の出来事(事)にも、
迷って暗いのが、痴の性質だ、ということです。
「能く無痴を障え」とは、
正しく見る智慧を妨げる、ということです。
「一切の雑染の所依たるを業と為す」とは、
あらゆる迷いと汚れの拠り所になるのが、
痴の働きだ、ということです。
『成唯識論』は続けて、痴があるから、
疑いや誤った考え、貪欲などの煩悩が起き、
後生の迷いを招く、と説いています。
三毒の毒は、この世だけで終わるものではないのです。
では、三毒の毒は、死んだ後にどうなっていくのでしょうか?
三毒の毒が後生まで続くわけ
三毒の毒は、死んだ後も消えず、
ますます強くなっていくと説かれています。
『大無量寿経』には、怒りについて、こう説かれています。
或る時は心諍い恚怒する所有り。今世の恨みの意微しく相憎嫉すれば、後世には転た劇しくして大怨と成すに至る。
(漢文:或時心諍有所恚怒。今世恨意微相憎嫉,後世転劇至成大怨)(出典:『大無量寿経』)
「或る時は心諍い恚怒する所有り」とは、
家族や親しい人の間でも、時には心がぶつかり合い、
怒りを起こすことがある、ということです。
というよりも、頻繁に激突して、
何かにつけて夫婦ゲンカなどしているのではないでしょうか。
「今世の恨みの意微しく相憎嫉すれば」とは、
この世での恨みは、少し憎み合うわずかな程度であっても、ということです。
「後世には転た劇しくして大怨と成すに至る」とは、
死んだ後の世では、積もり積もってだんだん激しくなり、
最終的には敵になる、ということです。
お経には続けて、すぐには相手を傷つけなくても、
毒を含み、怒りを蓄えて、恨みが心に刻みつけられ、
生まれ変わってからも、互いに報い合うことになると説かれています。
『大無量寿経』には、怒りだけでなく、
貪欲と愚痴についても、同じように説かれています。
三毒で造った業は、死んでも消えることなく、
その報いを受けていかなければなりません。
三毒の毒の本当の恐ろしさは、ここにあります。
では、三毒を完全になくすことのできない私たちは、
どうすればよいのでしょうか?
三毒あるがままでなれる本当の幸せ
三毒をなくすことのできない私たちのために、
お釈迦さまは、三毒あるがままで救われる道を説かれています。
三毒を完全になくす道は、八正道や六波羅蜜を
完成できる人だけが歩める、厳しい道です。
仏教では、煩悩にまみれた私たち人間を、
「煩悩具足の凡夫」といいます。
煩悩を取り去ったら、何も残らないほど、
煩悩と私たちは、一つになっています。
私たち凡夫は、どれだけ努力しても、
生きている限り、三毒をなくすことはできません。
そんな私たちが、三毒はそのままで救われる世界があります。
これを「煩悩即菩提」といいます。
煩悩が、そのまま喜びに転じる世界です。
それは、三毒あるがままで生きている今、心から満たされ、
死によっても崩れない、本当の幸せです。
その幸せになることこそ、私たちは何のために生まれ、
何のために生きるのか、
なぜ苦しくても生きねばならないのか、という本当の生きる目的、
人生の目的です。
では、三毒あるがままで、
心から満たされる本当の幸せとは、どんなものなのか。
どうすれば、この人生で、その身になれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

