八正道とは?
「八正道」とは、悟りを目指して行うために、お釈迦様が説かれた8つの修行です。
東南アジアやスリランカで行われるテーラワーダ(上座部)仏教では、色々な修行がありますが、この八正道を根本としています。
八正道とは?
八正道とはどんなことでしょうか?
まず、参考に仏教の辞典を確認してみましょう。
八正道
はっしょうどう[s:āryāṣṭāṅga-mārga]
八つの支分からなる聖なる道の意。
苦の滅に導く八つの正しい実践徳目。
<八聖道><八支正道>ともいう。
1)正見(正しい見解)、
2)正思(正しい思惟)、
3)正語(正しい言葉)、
4)正業(正しい行い)、
5)正命(正しい生活)、
6)正精進(正しい努力)、
7)正念(正しい思念)、
8)正定(正しい精神統一)の八つをいう。
釈迦の最初の説法(初転法輪)において説かれたと伝えられる。
四諦の教えにおいては<道諦>の内容を構成する。
また、苦楽の二辺(いたずらな苦行と欲楽にふけるという二つの極端)を離れた中道の具体的実践方法としても説かれる。(引用:『岩波仏教辞典』第二版)
八正道は、四諦と合わせて、四諦八正道と言われることもあり、四諦のうち「道諦」にあたる教えです。
四諦については下記をご覧ください。
➾四聖諦(ししょうたい)仏教に説かれる4つの真理
上記のように、お釈迦様が説かれたさとりを開くために実践すべきことを8つにまとめられたものが八正道です。
8つはそれぞれどんな意味なのかなど、この辞典では分からないことがあるので、分かりやすく解説していきます。
八正道について、お経には、例えば『中阿含経』にこうあります。
いわく八正道、正見、乃至、正定、これを八と為す。
(漢文:謂八正道 正見乃至正定 是爲八)(引用:『中阿含経』)
その他、たくさんのお経に説かれていますが、諸経に説かれるところを総合すると「八正道」は以下の8つです。
それぞれどんな意味なのでしょうか?
1.正見とは?
1番目の「正見」とは、正しく見ると書くように、ありのままに見ることです。
私たちは、人をねたんだり、恨んだりしますが、因果の道理を信じ、自分のたねまきをあきらかに見なければなりません。
そして、私たちは考え方が逆立ちしているために、自分の命や幸せはずっと続くように思っていますが、諸行無常ですから、続きません。
このように、仏教の教えにしたがって、ありのままに見ることです。
蓮如上人と一休さんの逸話を通して正見について学びましょう。
七曲がりの松
またある時、どこから見ても曲がりくねった松がありました。
そこに一休さんが、
「この松をまっすぐに見たものに、金一貫文与える」
と看板を立てました。往来を通る人々が一貫文をもらっていこうと人だかりができます。
そこへ蓮如上人が通りかかると、
「蓮如さま、あの松をまっすぐに見えないでしょうね」
と聞かれます。
「それではワシが一休の所へ行って、金一貫文もらってこよう」
と一休さんのもとへ蓮如上人が訪ねてきます。
ところが
「お前はだめだ。あの看板の裏を見てこなかったのか」
と追い返されます。帰って立て札の裏を見てみると、
「但し本願寺の蓮如は除く」
と書いてあります。
「そんなにワシのことがわかっているのなら、許してやろう」
そこへ人が集まってきて、
「蓮如さま、この松をまっすぐ見られたんですか?」
「ああそうじゃ。
そなたがたは、曲がった松をまっすぐに見ようと曲がった見方をしておるのじゃろうが、ワシは曲がった松じゃなぁ、とまっすぐに見た」(引用:一休さん(一休宗純))
私たちがありのままに見つめることは、難しいことなのですが、
人生の実相もありのままに見ていきましょう。
2.正思惟とは?
「正思惟」とは、正しく考えること、正しい意志を持つことです。
私たちは、欲や怒りや愚痴の煩悩で、よこしまなことばかり考えていますので、欲と怒りとねたみやうらみを離れることです。
またお釈迦様は、極端な考えをせず、中道で考えなさいと教えられました。
お弟子の阿那律尊者とのエピソードを掲載します。
阿那律尊者の失明
ある時、お釈迦様が祇園精舎でたくさんの人を前に説法をしておられると、なんと、阿那律がウトウト居眠りを始めました。
それを見られたお釈迦様は、
「みなさんここに来られるまでに大変お疲れになる方もあるだろう。
しかし、仏の説法に連なることは並大抵のことではない。
祇園精舎に参詣することは、極めて難しい。
居眠りしていても大変な仏縁になるのである」
と言われました。ところが説法の後、お釈迦様は阿那律を呼ばれて
「そなたは何が目的で、仏道を求めているのか」
と尋ねられます。
「はい。四苦八苦を知らされ、苦しみ悩みの解決をするためでございます」
「そなたは良家の出身ながら道心堅固、どうして居眠りなどしたのか」
ズバリと指摘されるお言葉に縮み上がった阿那律は、お釈迦様の前に両手を突いて、
「申し訳ございませんでした。今後、二度と眠りはいたしません。どうか、お許しください」
と深く懺悔します。その日から阿那律は、ますます熱烈に修行に打ち込み、決して眠ることはありませんでした。
しかし、そんなに不眠が続けられるものではありません。
やがて阿那律の目は見えなくなってしまいました。それを聞かれたお釈迦様は、
「琴の糸のように張るべき時は張り、緩むべき時は緩めねばならぬ。
精進も度がすぎると後悔する。怠けると煩悩がおきる。中道を選ぶが良い」 と優しくさとされます。
それでも阿那律は決して誓いを曲げようとしないため、お釈迦様は、名医の耆婆に診せると、
「眠れば治ります」
と答えます。それでも阿那律はお釈迦様との誓いを貫き通し、ついに両目を失明してしまいました。
ところが同時に、心の眼が開けたといわれます。(引用:阿那律とは?)
私たちは極端な考えをしがちですが、中道でいることを心がけましょう。
3.正語とは?
「正語」とは、正しい言葉を使うことです。
口は、心の命令でしゃべりますので、心が、欲や怒りや愚痴によって、よこしまなことばかり思っていると、口には、
「綺語」といわれる心にもないお世辞や、
「両舌」といわれる二枚舌、
「悪口」といわれる誹謗中傷や、
「妄語」といわれるウソとなって現れます。
このような、心にもないおべんちゃらや、二枚舌、悪口やウソを離れ、やさしいあたたかい言葉をかけることです。
4.正業とは?
「正業」とは、正しい行為をすることです。
仏教で「業」とは、行いのことで、心と口と身体の行いは、全部業と言われますが、ここでは、身体の行いのことです。
私たちは、身体では、生き物を殺す「殺生」、
他人のものを盗む「偸盗」
よこしまな男女関係である「邪淫」の悪を造っています。
このような悪いことをしないということです。
5.正命とは?
「正命」とは、正しい生活をすることです。
戒律を守り、正しい生き方をするということです。
『阿弥陀経』というお経に説かれている十六羅漢の一人、
周利槃特とお釈迦様のエピソードを紹介します。
周利槃特の掃除三昧
物覚えの悪いため、周利槃特が修行が続けられないと嘆いていたところ、
お釈迦様が通られて訳を尋ねられました。
お釈迦様はやがて、一本のほうきと
「ちりを払わん、あかを除かん」
という言葉をシュリハンドクに授けられます。それ以来、シュリハンドクは掃除をしながら、お釈迦様から与えられた言葉を必死に覚えようとしました。
ところが「ちりを払わん」を覚えると「あかを除かん」を忘れ、
「あかを除かん」を覚えると「ちりを払わん」を忘れます。
それでもシュリハンドクは、掃除三昧を毎日続けたのでした。このように仏教では、掃除をすることは、非常に大事なことです。
自分のいるところをきれいにし、身に付けているものをきれいにします。
それにしたがって、心もきよまります。こうしてシュリハンドクは、掃除三昧を20年間続けました。
その間、一度だけ、お釈迦様からほめられたことがありました。
「おまえは、何年掃除しても上達しないが、上達しないことにくさらず、よく同じことを続ける。
上達することも大切だが、根気よく同じことを続けることは、もっと大事だ。
これは他の弟子にみられないすばらしいことだ」仏教の教えの通りに、よく長期間の努力精進に耐えた甲斐があり、やがてシュリハンドクは、ちりやほこりは、あると思っているところばかりにあるのではなく、こんなところにあるものか、と思っているところに、意外にあるものだということを知らされます。
それを通して自分の煩悩が知らされ、
「自分は愚かだと思っていたけれど、自分の気づかないところに、どれだけ愚かなところがあるか、わかったものではない」
と驚いて、ついに掃除一本で阿羅漢のさとりが開けたといいます。(引用:周利槃特とは?)
お釈迦様のおっしゃったことを誠実に守り通したからこそ、悟りが開けたのです。
6.正精進とは?
「正精進」とは、正しいところへ向って努力することです。
精進というと、肉や魚を食べないことだと思いますが、そうではありません。努力のことです。
そして、「正精進」には、最初に「正」とありますように、努力は努力でも間違った努力では、「正精進」にはなりません。
正しい努力です。
仏教に説かれる本当の生きる目的達成に向かって努力することです。
お釈迦様の労働
この正精進について、漢訳の『雑阿含経』や、パーリ仏典の『小部経典』、『スッタニパータ』にも、このようなエピソードが説かれています。
ある日、お釈迦様はお弟子達を連れて、托鉢をされていました。
食料などのお布施を受けることで、多くの人々と仏縁を結ぶためです。
一生懸命田畑を耕し、休憩している農民の近くに鉄鉢を持って立たれたところ、
からかうように1人の男が言いました。
「よく、あなた達は来なさるね。
どうです、そんなに大勢の働き盛りの若者たちを連れて、ブラブラ乞食したり、訳の分からぬ説法などして歩かないで、自分で田畑を耕して、米や野菜を生産したらどうです。
私らは難しい事は言わないが、自分で働いて、自分でちゃんと食っていますよ」
“ものを生産してこそ労働ではないか”
丁寧な口調でしたが、肉体を酷使して働く自負と、人々から施しを受ける修行者への軽蔑を含んでいることが分かります。
静かに、男の言うことを聞いておられたお釈迦様は、ゆったりと落ち着いて答えられました。
「我もまた、田畑を耕し、種を蒔き、実りを刈り取っている労働者です」
お釈迦様の意外な言葉に、疑わしく思い、男は質問を投げかけます。
「ではあなたは、どこに田畑を持ち、どこに牛を持ち、どこに種を蒔いていられるのか」
するとお釈迦様は、毅然として説かれるのでした。
「我は忍辱という牛と、精進という鋤を持って、
一切の人々の、心の田畑を耕し、真実の幸福になる種を蒔いている」
このお釈迦さまの努力は、本当の生きる目的である変わらない幸せへ導かれるための努力です。
これはまさしく正しい方向に向かっての努力ですから、
このお釈迦様の精進こそ、全ての人を幸福にする正精進といえるでしょう。
7.正念とは?
「正念」とは、正しい信念を持つことです。
仏教に教えられる本当の生きる目的を常に忘れず、その信念にしたがって生きることです。
8.正定とは?
「正定」とは、心をしずめて、一つに集中することで、1から7を総括されたものです。
まとめるとこういうことです。
この八正道は、さとりを開く方法をまとめられた三学に対応します。
三学との対応
さとりを開く方法をまとめられた「戒定慧」の「三学」で考えると、
八正道の
1.正見、
2.正思惟の2つは「慧」
3.正語、
4.正業、
5.正命の3つは「戒」
7.正念、
8.正定の2つは「定」となり、
6.正精進は、三学に共通します。
八正道で得られる結果
八正道は、教えの通りに実行しても、仏のさとりは開けません。
最高でも、阿羅漢という悟りまでです。
しかもそれには、三生六十劫の長期間の修行が必要です。
ちなみに1劫は4億3200万年です。
そして、阿羅漢のさとりを開けば、他の人のために活躍することもありますが、それができる期間は修行の長さに比べてごくわずかです。
これまで見てきたように、八正道には、自分のさとりを目指す自利の修行ばかりで、他人とのかかわりがありません。
そこで、お釈迦様が、利他の面も合わせてあらゆる善を6つにまとめられたのが、六波羅蜜です。
しかし、八正道はもちろん悪いわけではなく、善い行いです。
六波羅蜜と重なるところもたくさんあります。
今日から少しでも心がけるようにいたしましょう。
八正道を説かれた目的
今回は、八正道の意味について、お釈迦様のお弟子のエピソードや、歴史にふれながら分かりやすく解説しました。
八正道は、お釈迦様が教えられたさとりを開くために実践すべきことを8つまとめたものです。
正見……ありのままに見ること
正思惟……正しく考えること
正語……正しい言葉を使うこと
正業……正しい行為をすること
正命……正しい生活をすること
正精進……正しい所へ向かって努力すること
正念……正しい信念を持つこと
正定……心をしずめて一つに集中すること
ではお釈迦様は、なぜ八正道を説かれたのでしょうか。
それは、六波羅蜜にも共通することですが、本当の幸せに導くためです。
仏教で、本当の幸せとはどんなことなのか、どうすれば本当の幸せになれるのかについては、
電子書籍とメール講座にまとめました。
ぜひ見ておいてください。
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この記事を書いた人

長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)