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六根清浄とは

六根清浄ろっこんしょうじょう」の「六根」は、眼・耳・鼻・舌・身・意(心)のことです。
この六根を清らかにするのが「六根清浄」です。

山に登る時、ある人が「六根清浄!」と掛け声をかけながら登ったら、
周りの人には「どっこいしょ!」と聞こえたところに、
どっこいしょの由来があるともいわれます。

六根清浄は、日本で最も読まれる仏教書、『歎異抄』にも出てくる有名な言葉です。
(→『歎異抄』第15章

六根清浄とは、どのような意味なのでしょうか。
また、どうすれば六根清浄になるのでしょうか。

世間での使われ方

アニメでの盛り上がるシーンで「六根清浄!」と叫ばれているのを聞いたことがあるかもしれません。
そこからオンラインゲームやパチスロにも派生し、「六根清浄!」といわれると、脳に響くという人もあります。
そのためか、一部の人は気合を入れる時に自発的に「六根清浄!」と叫ぶ人が現れています。

また、ちょっと昔は富士山など高い山へ登る際に、
お山は晴天、六根清浄」と掛け声をかけて登山していました。
山岳信仰の影響もあるようですが、山に入ると清々しい気持ちになるので
六根清浄と言いたくなるのでしょう。
与謝野晶子も、このように書いています。

高野山や吉野山に住んだ西行がしばしば京に帰って来たのも、こう云う人間思慕の心からではなかったか。
山から帰る心は浄められている。
謂ゆる六根清浄である。
この清く健すこやかになった心を持って、新しく地上の生活に参加し活動する。

神道でも「祓いたまえ、清めたまえ、六根清浄」という祝詞のりとがあります。

しかし六根清浄は、実は仏教が語源です。
正確には、仏教ではどんな意味で教えられているのでしょうか。

六根清浄の正しい意味

まず仏教の辞典では、六根清浄をどんな意味で説明しているでしょうか。

六根清浄
ろっこんしょうじょう
<六根浄>ともいう。
<六根>は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つをいう。
これは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五つの感覚器官と、認識し思考する心とに当たり、この汚れがもろもろの煩悩ぼんのうを起こさせる源とされる。
六根清浄とは、この六つの汚れが除かれ心身ともに清らかになることをいう。
法華経法師攻徳品において法華経信仰の功徳として説かれたのが由来。
日本には、登山の行者が金剛杖を手にも、六根の不浄を浄めるために「六根清浄」と唱え念ずる風習がある。
また六根から生じる不浄を払い清めるための<六根清浄祓>といわれる詞があり、近世以後に流布した有名な六根清浄祓は、「天照皇太神の宣く」ではじまり「無上霊宝神道加持」という吉田神道流の詞で終わっている。
これに類した言葉に, 六根の罪を懺悔する<六根懺悔>がある。

このように、六根清浄は、『法華経』に説かれている有名な言葉です。
今では神道や山岳信仰などでも使われますが、もともと仏教用語ですので、
仏教における正確な意味が本来の意味です。
六根と清浄のそれぞれの意味を深めつつ、「六根清浄」の意味を明らかにします。

六根とは

眼、耳、鼻、舌、身、意識の6つの器官を、根と表現しています。
」は、サンスクリット語で「インドリヤ(indriya)」といい、
感覚」とか「能力」を意味します。
つまり六根は6つの感覚、または能力のある器官のことです。

六根
  1. 眼根:視覚
  2. 耳根:聴覚
  3. 鼻根:嗅覚
  4. 舌根:味覚
  5. 身根:触覚
  6. 意根:知覚

眼根、耳根、鼻根、舌根、身根の5つは、感覚能力・感覚器官を意味し、
意根は、知覚能力・知覚器官を意味します。

どうして「根」というのかというと、木には根っこがあって、枝が伸びて葉が茂るように、心の根っこのようなもので、それによって心が生じてくるからです。
例えば眼根によって何かを見て、美しいとか醜いという心が生じます。
耳根によって音を聞き、安らぐとか、怖いという心が生じます。
鼻根によって匂いを嗅いで、食べたいとか、勘弁して欲しいという心を生じます。
舌根によって味を感じて、美味しいとかまずいという心が生じます。
身根によって肌触りを感じて、サラサラ心地よいとか、ゴツゴツ痛いという心が生じます。
意根によって色々考えて、こうなりたいとか、むかつくという心が生じます。
心は、この六根を拠り所としているのです。

心の拠り所

例えば天親菩薩の『倶舎論くしゃろん』には、心の拠り所は、六根にあると教えられています。

心の所依は眼等の六根なり。
(漢文:心所依者 眼等六根)

心の拠り所は、眼根などの六根である
ということです。
これは唯識でも同じです。

心とは六識といって、6つの認識のことです。
六根を拠り所として、環境を対象に認識が生み出されます。
それが6つの認識、六識です。
例えば、眼根を拠り所として、色や形を対象として見分ける認識が生じます。
耳根を拠り所として、音を対象として聞き分ける認識が生じます。
鼻根を拠り所として、香を対象として嗅ぎ分ける認識が生じます。
舌根を拠り所として、味を対象として味わいの認識が生じます。
身根を拠り所として、質感を対象として触覚の認識が生じます。
意根を拠り所として、観念を対象として意識が生じます。

このように、六根はちょうど門のようなものです。
門というのは、どんな人も、必ずそこを通って家の中に入っていきます。
この門の役割を果たすのが六根です。
六根がないと認識が生まれないので、非常に重要なものです。

煩悩を生じる根っこ

更に、心が生じる根っこが六根なので、六根は、煩悩が生じ、罪悪を造る根っこでもあります。
五欲といえば、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲をいいますが、五根の対象の五境に対する欲を五欲ということもあります。
眼根の対象が色境で、色境におこす欲が色欲、見たいという欲です。
耳根の対象が声境で、声境におこす欲が声欲、聞きたいという欲です。
鼻根の対象が香境で、香境におこす欲が香欲、嗅ぎたいという欲です。
舌根の対象が味境で、味境におこす欲が味欲、味わいたいという欲です。
身根の対象が触境で、触境におこす欲が触欲、触りたいという欲です。
これらの色欲・声欲・香欲・味欲・触欲の五欲は、五根から生じる欲です。

欲は煩悩ですので、五根から生じた煩悩によって、罪悪を造るのです。

では、心を生み出す拠り所となる六根が清浄になるとはどういうことでしょうか。

清浄とは

清浄」の意味は、昔の中国では、人格的に純粋だったり、正直だったり、成熟しているというような意味でした。
それが仏教で使われる「清浄」の意味となると、大体4通りに使われます。

例えば、玄奘げんじょう 訳『大般若経』の「清浄」に対応するサンスクリット語の意味は、おおよそ以下の4つに分けられます。

  1. 感覚器官を通して感じられる心の清らかさや喜びの状態
  2. 怒り愚痴などの煩悩の汚れから離れた状態
  3. 般若の空智を得られることであらゆるものに執著しない状態
  4. 理論的な思考では到達できない心身の澄みわたった深遠な境界

(出典:蔡耀明「《大般若経・第二会》的厳浄/清浄」15頁)

六根清浄といわれるときの、清浄はどれにあたるのでしょうか。
それは、4番目の修行によって到達するすばらしい境界だと考えられます。

そういうことで「六根」と「清浄」のそれぞれの意味をふまえた上で、
次に六根清浄の意味について、
有名な『妙法蓮華経』の「法師功徳品」と「常不軽菩薩品」の一節をもとに深く入っていきます。

『法華経』法師功徳品の六根清浄

妙法蓮華経』とは『法華経』のことです。
『法華経』には、六根清浄が何回か説かれていますが、「法師功徳品」には、このように教えられています。

その時仏、常精進菩薩摩訶薩に告ぐらく、「若し善男子・善女人にして是の『法華経』を受持し、若しくは読み、若しくは誦し、若しくは解説し、若しくは書写せば
(中略)
是の功徳を以て六根を荘厳して、皆清浄ならしむ」

(漢文:爾時佛告常精進菩薩摩訶薩 若善男子善女人 受持是法華經 若讀若誦若解説若書寫(中略)以是功徳莊嚴六根皆令清淨)

これはどういう意味かというと、
お釈迦様はお弟子の常精進菩薩摩訶薩に告げました。
もし仏法者が、この『法華経』を受持し、または読み、または称え、または書写したならば
これらの行の功徳をもって、六根は荘厳され、すべて清浄になる、
ということです。

つまり、修行によって「六根が浄化される」という意味で、
これが「六根清浄」です。

この『法華経』法師功徳品の「六根清浄」を 天親菩薩てんじんぼさつ は、このように解説しています。

この六根清浄を得とは、いわく諸の凡夫、経の力を以ての故に、勝れし根の用を得るなり。
未だ初地の菩薩の正位に入らざるなり。

(漢文:此得六根清淨者 謂諸凡夫以經力故得勝根用 未入初地菩薩正位)

どういう意味かというと
六根清浄を得」とは、凡夫が、『法華経』の功徳の力よって、勝根の用を得るのである。
しかし未だ初地の菩薩の正位に入ってはいないのである、
ということです。

「初地」とは、全部で52段あるさとりの位のうち、41段のことです。
六根清浄という位は、悟りの位ではありますが、
まだ41段には入っていないのだ、
と天親菩薩は解説しています。

天親菩薩は勝れた根の作用を得ると言われるように、
六根清浄になれば、六根の1つ1つに、六根すべての働きを備えるようになると教えられています。
例えば、眼根で、色や形が見られることはもちろん、音を聞き、香をかぎ、味を味わい、感触を感じ、法を知ることができます。

六根清浄というのは、このように驚くべき悟りの位です。
そのことは『法華経』常不軽菩薩品にも教えられています。

『法華経』常不軽菩薩品の六根清浄

妙法蓮華経』(常不軽菩薩品)には、次のようにあります。

すなわち上のごとくの眼根の清浄と耳・鼻舌身意根の清浄を得たり。
この六根清浄を得おわりて(中略)
大神通力、楽説弁力、大善寂力を得たり。

(漢文:即得如上眼根清淨耳鼻舌身意根清淨 得是六根清淨已(中略)得大神通力樂説辯力大善寂力)

この意味は、先に述べた通り、眼根の清浄と耳・鼻舌身意根の六根清浄を得て、偉大な神通力や、自在に法を説く力、動揺することのない穏やかな心を得た、ということです。
このように六根清浄とは、修行によって得られた悟りの位として教えられています。

それで『法華経』を重視し、天台宗を開いた智顗は、悟りの一つに、「六根清浄位」という位を設けています。

では六根清浄の位になると、どのような功徳があるのでしょうか。

六根清浄となったときの功徳

六根清浄位に達すると、このような功徳が得られると『法華経』に教えられています。

この功徳をもって六根を荘厳し、皆清浄ならしめん。
この善男子、善女人は父母所生の浄の肉眼をもって、三千大千世界の内外のあらゆる山・林・河・海を見ること、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至らん。
またその中の一切衆生を見、及び業の因・果報の生ずる処ことごとく見、ことごとく知らん。

(漢文:以是功徳莊嚴六根皆令清浄 善男子善女人 父母所生清淨肉眼 見於三千大千世界 内外所有山林河海 下至阿鼻地獄上至有頂 亦見其中一切衆生 及業因縁果報生處 悉見悉知)

意味は、六根清浄になったものは、清らかになった父母からもらった肉眼で、
あらゆる世界、阿鼻あび 地獄から天上界の有頂天に至るまで、どんな山、林、河、海でも見渡すことができる。
その中のすべての生きとし生けるものを見ることができ、因果応報によって来世生まれるところを見ることができる、
ということです。

同じように耳、鼻、舌、身、意識においても大変な功徳を得られ、
これは思考するだけでは到底到達できず、深遠な修行によってのみ到達できる
言葉では表現できない境地です。

しかし、『法華経』に説かれる修行をすれば、『法華経』の功徳で、六根清浄になるとされますが、
そんなに簡単なことではなく、非常に厳しい修行が必要です。

天台宗を開いた智顗は、六根清浄のさとりの位について、
52段のさとりのうち10段目である十信位としました。
これを六根清浄位ともいいます。
そして六根清浄位に至るための修行について、このように解説しています。

一に十信の位を明すとは、 初め円聞を以て、能く円信を起し、円行を修し、善巧に増益し、この円行をして五倍深明たらしむ。
此の円行に因りて、円位に入ることを得。
善く平等法界を修するを以て即ち信心に入り、
善く慈愍を修して即ち念心に入り、
善く寂照を修して即ち進心に入り、
善く破法を修して即ち慧心に入り、
善く通塞を修して即ち定心に入り、
善く道品を修して即ち不退心に入り、
善く正助を修して即ち迴向心に入り、
善く凡聖位を修して即ち護法心に入り、
善く不動を修して即ち戒心に入り、
善く無著を修して即ち願心に入る。
是を十信位に入ると名づく。
『纓珞』にいわく「一信に十有り、十信に百有り。 百法を一切法の根本と為すなり」と。
是を円教鉄輪十信位と名づく。
即ち是れ「六根清浄」なり。

(漢文:一明十信位者 初以圓聞能起圓信 修於圓行善巧増益 令此圓行五倍深明 因此圓行得入圓位 以善修平等法界即入信心 善修慈愍即入念心 善修寂照即入進心 善修破法即入慧心 善修通塞即入定心 善修道品即入不退心 善修正助即入迴向心 善修凡聖位即入護法心 善修不動即入戒心 善修無著即入願心 是名入十信位 纓珞云 一信有十十信有百 百法爲一切法之根本也 是名圓教鐵輪十信位 即是六根清淨)

分かりやすく言うと、こういう意味になります。
これは、さとりの52位の10段目である十信の位について解説するところです。
最初にある「初め」とは仏教の聞き始めです。
「円教」とは智顗が究極の教えと考える『法華経』の教えのことです。
仏教を聞き始めて、『法華経』の教えを聞くことによって、『法華経』を信じ、究極の行である「十乗観法」を行じ、だんだん巧みになって利益を増していく。
この『法華経』の行によって、十信位の前段階である五品位に入り、五品の第一から第五まで一つ一つあがっていき、五倍深く明らかになる。
その深まった究極の行によって十信の位に入ることができる。
善くすべては一つの真理によって成り立つ平等なものだと観察することによって信心に入り、
善く慈しみあわれむことによって念心に入り、
善く穏やかな心で智慧を照らすことによって進心に入り、
善く偏った認識を破って智慧の心に入り、
善く心の隔たった所と通じていることを知って定心に入り、
善く三十七道品を修行して変わらない心になり、
善く主たる教えと補助的な教えを修行して廻向心に入り、
善く凡夫と聖者の位を修行して護法心に入り、
善く不動の心を修行して戒心に入り、
善く執着しない修行をして願心に入る。
これを十信の位に入るという。
『瓔珞経』に「一信に十法があるので、十信に百法がある。百法を一切法の根本とする」と説かれている。
これは、十信の一信一信に十乗のそれぞれを備えているということです。
これを究極の教えの鉄輪十信(てつりんじっしん)と名づける。
これが「六根清浄位」である。

ここに挙げられている十の修行が十乗観法です。
十乗観法は、『摩訶止観』では、このような10通りとなっています。
(1)観不思議境、(2)起慈悲心、(3)巧安止観、(4)破法遍、 (5)識通塞、(6)修道品、(7)対治助開、(8)知位次、(9)能安忍、(10)無法愛

この修行の内容を要約すると、以下の3つになります。

  1. 円聞により円信を起こし、円行を修める
  2. 円行は、十乗観法の修行のこと
  3. 円行によって、五品位を、第一から第五までひとつひとつあがっていく

こうして天台宗では、このような六根清浄になる修行をするために、
比叡山などの山岳での修行に励みました。
なぜ山岳で修行を行うのでしょうか。

山で修行をした理由

天台宗を開いた最澄は、六根清浄の修行の場所として、比叡山を選びました。
最澄が書いた願文には以下のようにあります。

六根相似の位を得ざるよりこの方出仮せじ
(漢文:得六根相似位以還不出假)

六根相似の位」とは、六根清浄位を「相似即」ともいいますので、六根清浄位のことを六根相似の位といっています。
六根清浄位を得られない間は、山を下りない、ということです。

さらに次のような歌を詠んでいます。

おのずから 住めば持戒の この山は
  まことなるかな 依身より依所

どういう意味かというと
住んでいるだけで戒律を守れる比叡山は、修行の場所としてふさわしい。
自分自身が正しくあることも大切だが、
修行をする環境を整えるのが、より大切であるというのは、本当だなあ、
ということです。

一般社会では、街中に美味しいものがあふれ、
歩いているだけでも五感を刺激する音や光が多くあります。
そのような場所では、煩悩がかきたてられ、
六根を清浄にする修行に集中することができません。
そこで天台宗の最澄は、修行に最適な場所として、比叡山を選んだのでした。

では、修行の環境が整ったならば、六根を清浄にする修行はできるのでしょうか。
実際に修行をされた有名な高僧に聞いてみましょう。
浄土宗を開かれた法然上人です。

修行された法然上人が山を下りた理由

法然上人は、浄土宗を開かれる前、もともとは比叡山で勉学と修行に励んだ方でした。
法然上人というのはどういう方で、どのような修行をされたのでしょうか。

比叡山での研鑽

そもそも法然上人が出家したいと願い出たのは、まだ勢至丸と呼ばれていたわずか13歳の時でした。
僧侶だった叔父をたよったところ、
叔父は勢至丸の聡明さを見抜き、比叡山西塔にいた持宝房源光じほうぼうげんこう に紹介状を書いてくれます。
紹介状には「進上、大聖文殊像一体」と書かれていたといいます。
文殊菩薩の像を一体差し上げたい、ということです。
勢至丸の聡明さは、智慧にすぐれた文殊菩薩のようだ、という意味です。

源光から天台宗の教えを学んだ後、2年後には東塔西谷の碩学せきがくである皇円こうえんに弟子入りし、正式に得度します。

さらに3年後には、皇円のもとから、西塔の黒谷にいた叡空えいくうに弟子入りしました。
若くして栄耀栄華の道を捨て、生死の一大事の解決を求める勢至丸に感動した叡空は、
法然道理の聖人なり」という意味で房号を「法然」、
師匠の源光と叡空から一文字をとって、いみなを「源空」と命名しました。
(出典:『拾遺古徳伝しゅういことくでん』)

叡空のもとで5年間、山岳での修行に打ち込みますが、生死の一大事の解決はできず、
さらに他宗派の教えを学びます。

南都遊学

法然上人は24歳の時、比叡山延暦寺を下り、
京都の嵯峨釈迦堂で7日間籠もりました。
その後、法相宗興福寺の蔵俊ぞうしゅん、三論宗醍醐寺の寛雅かんが華厳宗仁和寺の慶雅けいがなどを訪ね、
各宗派の教えについて議論を交わしました。
この時、法然上人の学識の深さにはみな敵わず、舌を巻くばかりだったと伝えられています。

法然上人が各宗派へ赴かれたことを「南都遊学」と呼ばれます。
この生死の一大事の解決を求め、日本中の学者たちに教えを請うても一向に解決できない苦悩を、このように伝えられています。

凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとえば猿の枝につたふがごとし。
まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。
いかでか悪業煩悩のきづなをたたんや。
悪業煩悩のきづなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を解脱げだつすることをえんや。
かなしきかな、かなしきかな。
いかがせん、いかがせん。
ここに我等ごときはすでに戒・定・慧の三学の器にあらず。
この三学のほかに我が心に相応する法門ありや。
我が身に堪えたる修行やあると、よろづの智者に、求め、諸々の学者に、とぶらいしに、教ふる人もなく、示すに輩もなし。

どういう意味かというと
凡夫の心は、例えば猿が枝を次から次へ伝うように、
物事にしたがって目まぐるしく変わってしまう。
本当に散り乱れて動きやすく一心に静まることはできない。
どうして悪業煩悩という絆を断つことができるだろうか。
悪業煩悩の絆を断てなければ、どうして生死の一大事を解決することができるだろうか。
本当に悲しいことだ、とても悲しいことだ。
どうしたらいい、どうしたら解決できるのか。
私たち普通の人間では、戒・定・慧の三学という厳しい修行ができる器ではない。
この修行をすること以外に、私たちが本当に救われる教えはあるのだろうか。
私ができる修行があるだろうかと、さまざまなすぐれた人たちに答えを求め、諸々の学者に質問したが、
教える人は全くいなかった。
示してくれる友もいなかった。
ということです。

戒・定・慧の三学ができ難いことを知らされた法然上人は、
厳しい修行をしなければならない仏教を、難行道なんぎょうどうと言われています。

法華三昧ヲ行シテ 六根清淨ヲモトメ
(中略)
コレミナ難行道ナリ

法華三昧の修行も、六根清浄のさとりを求める修行も、
(中略)
すべて難行道である、ということです。

難行道とは、極めて難しく、苦しい道ということですが、詳しくはこちらの記事をお読みください。
自力と他力の違い

法然上人は、実際に比叡山で修行をされ、さらに南都遊学され様々な学者に質問されたことで、
難行道の仏教では、「生死の一大事」の解決はできないとハッキリとされました。
そのため、再び比叡山の黒谷に戻り、一切経がそろっている経蔵の報恩蔵に籠り続けました。
そして私たちが本当に救われることのできる、真実の仏教を明らかに知られたのです。

法然上人については、こちらの記事もご覧ください。
法然ほうねん上人の生涯と浄土宗の教え・親鸞聖人との違い

ちなみに、天台宗を開いた智顗は六根清浄になれたのでしょうか?

天台宗を開いた智顗は六根清浄になれた?

ちなみに、天台宗を開き、10段目の悟りの位に「六根清浄」と名付けた智顗は、六根清浄になれたのでしょうか?
なんと、本人にそれを尋ねた人がいます。
智顗が60才で亡くなる時、弟子の智朗が、
「先生はどの位まで悟りを開かれましたか?」
と尋ねています。
それに対して智顗はこう答えました。

我、衆を領せずば必ず六根を浄めん。
されど他の為に己を損して、ただこれ五品位のみ。

(漢文:吾不領衆 必淨六根 爲他損己 只是五品位耳)

これは、私は弟子たちを指導しなければ、六根清浄位に至ったであろう。
だが、利他のために自分を犠牲にして、六根清浄位の下の、五品位までしか悟りを開けなかった、
ということです。
なんと、初めに言い出した智顗でも、「六根清浄」に至ることはできなかったのです。

浄土宗を開かれた法然上人でも、天台宗を開いた天台大師智顗でも六根清浄位に到達できないとすれば、それは誰も手に入れることのできない高嶺の花といっても過言ではないでしょう。

六根を清浄にできない人はどうする?

今回の記事では、六根清浄について解説しました。

六根」とは、眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(知覚)の6つです。
清浄」は、複数の意味がありますが、六根清浄の場合は、言葉では表現できない深遠な悟りの境地という意味です。
六根清浄」の意味は、修行によって悟りを開き、六根が清らかになった状態という意味があります。

『法華経』には、六根清浄になれば、六根にさまざまな功徳が得られると説かれていますので、
天台宗を開いた智顗は、さとりの52位のうち、10段目を「六根清浄位」と名付けました。
ですがこの六根清浄になるためには、大変厳しい修行をしなければなりません。
浄土宗を開き、勢至菩薩の化身とまでいわれた法然上人でもできませんでした。
それどころか天台宗を開いた智顗でも到達できていません。
まして普通の人には絶対に至ることのできない高邁な境地です。

しかし、六根清浄になれなくても、本当の幸せになれると仏教では説かれています。
それは六根清浄を超える、絶対の幸福があるからです。

その、すべての人がその境地になれる仏教の真髄については、
以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。 まずは読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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