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鑑真とは

鑑真和上像
鑑真和上像

鑑真がんじんは、奈良時代、中国から日本に戒律を伝えた僧侶です。
奈良の東大寺に日本初の戒壇を設立して授戒できるようにし、唐招提寺を建立した人です。

不屈の精神で5回の失敗と、失明を乗り越え、
決死の渡航を果たしています。
そこにはどんな冒険があったのでしょうか?

鑑真とは

鑑真とは、どんな人なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。

鑑真
がんじん
688(中国垂拱4)-763(日本天平宝字7) 奈良時代中期の唐僧。
揚州江陽県(江蘇省揚州市)の出身。
俗姓は淳于じゅんう
701年、揚州大雲寺の智満禅師について得度し、大雲寺に住す。
705年、道岸禅師から菩薩戒ぼさつかいを受け、708年、長安の実際寺戒壇で具足戒ぐそくかいを受けた。
その後、長安・洛陽で律・天台などを学んだ。
江淮の地(江蘇・安徽省)で講律・授戒を行い、40歳の頃には屈指の伝戒師でんかいしと称せられた。
当時、日本では、平城遷都後、官僧が増加したが、規律の乱れもめだつようになった。
また、中国へ渡るも増えたが、中国では沙弥しゃみの扱いを受けた。
そうしたことを背景として、日本の授戒式の整備が遅れていたため、中国式の授戒式の導入がはかられ、733年(天平5)に栄叡ようえい普照ふしょうらが中国から戒師を招請するために派遣された。
栄叡・普照らは、742年(天平 14)揚州大明寺の鑑真を訪れ、来日を要請した。
鑑真は、以後、5度の渡日を企てたが、妨害や難破により失敗し、鑑真自身も失明した。
そうした失敗を乗り越え、753年(天平勝宝5)12月に渡日に成功した。
754年(天平勝宝6)には奈良に入り、4月には東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇かいだんを築いて聖武しょうむ上皇・光明こうみょう太后らに菩薩戒を授けた。
さらに、賢璟けんけいら八十余人の僧に具足戒を授けた。
ここに、戒壇で三師七証さんししちしょう方式により『四分律しぶんりつ』の250戒を授ける授戒式が始まり、国家的官僧制度の基本ともなった。
鑑真は、東大寺唐禅院に住して戒律を広め、755年(天平勝宝7)に戒壇院を開設した。
756年(天平勝宝8)には大僧都にまで任じられた。
757年(天平宝字1)に故新田部親王の旧宅を与えられて伽藍がらんを作り、759年(天平宝字3)唐招提寺とうしょうだいじと名付けられた。
鑑真の高弟として法進・恵雲・道忠・思託らが知られ、鑑真の伝記として、『唐大和上東征伝』がある。

このように、鑑真について簡単に説明されています。
勿論これも間違いではないのですが、
やはり一番感動を与えるのは、仏法を伝えるために、何度失敗しても日本へ渡ろうとした情熱です。
ここではそのような辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。

重大な任務

710年に奈良時代になってから、
23年後の733年、栄叡ようえい普照ふしょうという
2人の日本の僧侶が、ある重大な使命をもって
かれこれ16年ぶりの遣唐使船、
第10次遣唐使船に乗り、唐へ向かって出航しました。

当時の日本では、深く仏教に帰依し、
やがて奈良の大仏を建立する
聖武天皇のもと、仏教が広まっていました。

ところが仏教では、10人の僧侶の立ち会いのもとに
戒律を受戒して、初めて僧侶になれます。
まだ正しく受戒した僧侶のいなかった日本に、
戒律を授けることのできる僧侶を唐から招くのが、
栄叡と普照の重大な任務だったのです。

しかし当時、天気予報もなければ、
エンジンもありません。
帆もありますが、たくさんの水夫がろを漕ぐ
人力の船です。

暴風雨でたくさんの船が難破し、
3割の確率で命を落とす、命がけの旅でした。

3カ月の航海の末、ようやく唐にたどりつきました。

当時の唐は、玄宗皇帝の最盛期で、
中国仏教の黄金時代を迎えていました。

栄叡と普照は戒律を受け、
次の遣唐使船が来るまで仏教を勉強しながら、
戒律を授ける僧侶を探すことになりました。

ところが、次の遣唐使船は、いつ来るかわかりません。

そして唐では、皇帝の許可がなければ、
僧侶は国外へ行くことはできません。

2人は、授戒できる僧侶を探して各地を歩き回りました。
1年が過ぎ、2年が過ぎても、
日本へ来てくれる僧侶はありません。

やがて9年の歳月が過ぎ、
揚子江のある揚州まで来たとき、
何千人ものお弟子をもった鑑真のを聞きます。

鑑真は、揚州に生まれて14歳で出家し、
21歳のときには、長安で律宗と天台宗を学び、
26歳で故郷の揚州に戻ってきた僧侶でした。
2人が会いに行ったとき、すでに55歳で、
鑑真ほど戒律にすぐれた僧侶
中国には他にないというほどでした。

栄叡と普照が、
どうかお願いします、
日本にはまだ戒律を授けられる人がありません。
お弟子の中で、戒律を授けられる方をお使わしください

とお願いすると、
皆の者、聞いたであろう、
昔、天台宗の基礎を築いた南岳慧思禅師は、生まれ変わって聖徳太子となり、
日本に仏教を興隆し、多くの人々を救われたと聞いたことがある。
まことに仏縁の深い国である。
お前達の誰かにこの遠い国の求めに応じて、
仏教を伝えようと思う者はおらぬか

ところが誰も申し出る人はありません。
しばらくして祥彦しょうげんという弟子が進み出て、
日本といえば遠い国で、間にある荒海は、
100人に1人もたどりつかないと聞いています。
人身は受けがたく、仏法は聞き難し、
まだ修行が成就しないので、
誰も返事ができないのでございます

それを聞いた鑑真は、
何を申すか祥彦。
これは仏教のためなのじゃ、なぜ命を惜しむ必要があろうか。
誰も行かないのなら、私が行くのみ

(何ぞ身命を惜しまんや。もろびと行かざれば、我すなわちゆくのみ)
と言ったのです。

驚いた祥彦は、
お師匠さま、御自ら行かれるとなれば、話は違います。
どうか私もお連れください

こうして、「ならば私も」と申し出る弟子が相次ぎ、
21名が日本へ渡る決意をしたのです。

日本への旅

第1回渡航

遣唐使船はいつ来るか分からないので、
翌743年、日本へ密航する計画を進めました。

幸い、玄宗皇帝の側近の権力者の援助をえて、
南へ向かう書状をもらい、万が一唐へ吹き戻されても
問題ないようにしてもらうことができました。

ところがいよいよ出発というときに、
鑑真の弟子と対立した僧侶が、
鑑真一向を海賊の仲間だと役人に密告し、
栄叡と普照は逮捕されてしまいました。

幸い、権力者の書状があったので釈放されましたが、
渡航は失敗に終わったのです。

第2回渡航

しかし鑑真たちは、
743年、その年のうちに
第2回の計画を実行しました。
12月大陸から吹いてくる冷たい北西の風に乗って、
日本へ渡ろうとしたのです。

何とか無事出航したものの、
すぐに天気が悪くなり、激しい波に襲われ、
船が壊れます。

岸で船を修理してから近くの島に行き、
1カ月ほどとどまってから、また出発します。
ところがまたもや天気が悪くなり、
暗礁に乗り上げて大破し、
近くの島に打ち寄せられてしまいました。

3日後に天気が回復したので近くを通る人を呼び止め、
5日後に役人に救出されます。

揚子江の南側の明州の
阿育王寺に収容されました。

第3回渡航

744年、第3回の計画中に、栄叡が逮捕されてしまいました。
栄叡が鑑真をだまして日本へ連れて行こうとしている
という密告によるものでした。

栄叡は重罪人のように、首かせまでされてしまいましたが、
あまりの心労のためか病気になり、
幸い都へ護送する役人が、途中で死んだことにするから
鑑真のもとへ戻って役目を果たすがよい
と逃がしてくれました。

第4回渡航

第4回も744年でした。
そのまま南下して、
台湾の対岸の福州から出発する計画を立てました。
長い道のりを越え、ようやく福州についたとき、
鑑真を心配した揚州の弟子の密告により
役人に捕まって、栄叡と普照は引き離され、
鑑真は揚州の寺に連れ戻されてしまいました。

ところが鑑真は、すこぶる機嫌が悪く
心配してくれるのはよく分かる。
しかし今やろうとしているのは仏法のためであり、
苦しむ人々を救うためである。
本来、私たちが不惜身命の決意で
仏法を東へ伝えなければならないのに、
今、日本の人がやってきて熱望している。
日本へ仏教を伝えてこそ仏法者ではないか。
この志を妨げた者は、我が弟子ではない

妨害した弟子は深く懺悔して
毎晩8時から翌朝4時まで立ったまま、
1日8時間鑑真に詫び続けましたが、
ようやく他の人のとりなしで許されたのは
60日後のことでした。

第5回渡航

栄叡と普照が釈放されたのは、1年後でした。
それから3年間の消息不明ののち、
748年、久しぶりに鑑真を訪れ、
6月末に日本へ向けて揚子江を出発します。

鑑真は61歳でした。

ところが海に出ると天気が悪くなり、
近くの島で1カ月以上停泊します。

9月に出発しますが、
またすぐ天気が悪くなり、
近くの島に1カ月とどまります。

10月に出航すると、船が沖へ出るにつれて風は強くなり、
波は荒れ出します。

南島に見える島に向かって船を進めて行くと、
島が消えてしまいます。蜃気楼でした。

すると海が墨汁のように黒くなり、流されていきます。
黒潮に南へと流されているのです。

やがてウミヘビがウヨウヨいる海域を3日間通ります。
南方海上にいるエラブウナギです。

その後、3日間30センチくらいの魚の大軍が
空中を飛んでいるのを見ます。それは太陽が隠れるほどでした。
南の海に群生している、トビウオです。

次の5日間は、人間ほどもある大きな鳥が飛んできて、
船の上にとまり、船が沈みかけました。
追い払おうとすると、手に食いつきます。

海鳥で一番大きい、約2メートルあるアホウドリです。
無人島に住んでいるので人を恐れず、
手を出すと食いつくので、気をつけましょう。

10月に漂流して、もう11月ですが、
夏のように蒸し暑く、金色に輝く魚が4匹
船の周りを泳ぎます。今でいうイルカでした。

こうして120日の漂流の末、たどりついたのは、
台湾をはるかに南下した、ベトナムに近い、海南島でした。

疲労困憊していた鑑真たちは、海南島に1年間滞在し、
中国本土へ向かいました。

ところが、この頃には栄叡の病がかなり重くなっていました。
鑑真さま、申し訳ございません。
何とか日本へお連れしたかったのですが、
どうも私には無理なようです。
普照、鑑真さまを何とか日本へ、たのんだぞ……

ついに栄叡は、志なかばにして、息を引き取ったのです。
唐に渡って16年、二度と日本の土を踏むことはできませんでした。

この後、普照も、一度鑑真と別れることになります。

鑑真も5回にわたる渡航の失敗や
栄叡の死の悲しみから、失明してしまいます。

さらには、愛弟子の祥彦も、
病で死んでしまいます。

第6回渡航

それから3年後の752年、
20年ぶりの遣唐使船が日本からやってきました。

普照はさっそく日本からの責任者に会いに行き、
事情を話すと、帰りに鑑真を乗せてくれることになりました。

翌753年、玄宗皇帝の許可がおりないまま、
4隻の遣唐使船に乗り、11月16日に出発します。
鑑真一向は第2船、普照は第3船でした。

出航するとまたもや海は荒れ狂い、
4隻のうち、第4船は、ベトナムへ流されてしまいます。
幸い、
普照の乗った第3船は、11月20日に、
鑑真の乗った第2船は、11月21日に、
沖縄につきました。

その後、3隻は北東へ向かい、
2隻は屋久島にたどり着きますが、
第1船は、ベトナムへ漂着し、
中国へ戻ることになってしまいます。

こうして12月、ついに鑑真の第2船は鹿児島へ、
翌年、普照の第3船も、和歌山へ到着したのです。

鑑真が日本へ行こうと決意してから12年、
栄叡や祥彦など、36人の仲間が死に、
200人以上が去りゆく中、
ついに鑑真は、来日を果たしたのです。

来日のあと

東大寺の戒壇院
東大寺の戒壇院

こうして66歳で日本へやってきた鑑真は、
奈良の大仏が完成したばかりの東大寺に住することになり、日本における授戒の一切を任されました。

翌754年には、東大寺に戒壇が築かれ、4月に、上皇になっていた聖武天皇をはじめ、430人に戒律を授けます。

それまでの日本では、自誓授戒じせいじゅかいといって、仏前で戒律を守ることを誓う形でしたが、鑑真の来日により、正式な授戒ができるようになりました。
それは、三師七証さんししちしょう といって、3人の師匠の僧侶と、それを証明する7人の僧侶の、合計10人で行うものです。
これは鑑真の伝えた律宗である南山宗の『四分律』に基づく具足戒という出家者用の戒律ですが、さらに鑑真は、出家も在家も共通の菩薩戒には、三聚浄戒という大乗仏教の戒律を用いました。

唐招提寺の戒壇
唐招提寺の戒壇

それからもたくさんの僧侶戒律を授け続けますが、
758年には引退して唐招提寺を開きます。

戒律を学ぶお寺として、多くの僧侶に教え、
多くの足跡を残して、763年、76年の生涯を閉じたのでした。

幾多の困難を乗り越えて来日した鑑真でしたが、特にその
仏法のためなら、たとえ死んでも後悔はない
という気持ちは大変尊く、仏法者たるもの、
時代を超えて見習わなければならないものでしょう。

鑑真の伝えた正しい戒律は大変難しいもので、
誰でも実行可能なものではありませんが、
現在では、出家して戒律を守れない人でも、
どんな人でも本当の幸せなれる道が
仏教に教えられている
ことが明らかになっています。

それがどんなものかは、仏教の真髄ですので、
わかりやすく電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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