妙好人とは
妙好人とは、仏教の教えによって本当の幸せになった人のことです。
ブッダは、どんな人でも本当の幸せに救われる道を仏教に説かれていますから、学問がなくても、読み書きができなくても、仏教を聞けば、絶対の幸福に救われます。
絶対の幸福になると、普通の人には考えられないことを言ったりやったりしますので、本人は本を書いたりしなくても、その言動が伝えられることがあります。
一体どんなエピソードが伝えられているのでしょうか?
妙好人の由来
妙好人とは、仏教に救われて、絶対の幸福になった人のことを言います。
もともとどこに由来があるのかというと、ブッダは『観無量寿経』の結論部分に絶対の幸福になった人のことをこう説かれている所です。
人中の分陀利華なり。
(漢文:人中分陀利華)(引用:『観無量寿経』)
分陀利華というのは、白蓮華のことです。
インドでは非常に珍しく、最高にすばらしい花とされています。
仏教を聞いて、苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になった人を、白蓮華の花のような人だとほめたたえられています。
たくさんの人がいる中で、聞き難い仏教を聞いて、絶対の幸福になった人を、ブッダは白蓮華にたとえられたのです。
その白蓮華のような人を、中国の善導大師という高僧が、さらにこのように解説されています。
すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり。人中の上々人なり。人中の希有人なり。人中の最勝人なり。
(漢文:即是人中好人 人中妙好人 人中上上人 人中希有人 人中最勝人也)(引用:『観無量寿経疏』)
仏教を聞いて絶対の幸福になった人は、好きな人、「好人」だ
妙なる好きな人、「妙好人」だ
特にすばらしい人、「上上人」だ
極めてまれな人、「希有人」だ
最もすぐれた人、「最勝人」だ
と5通りにほめたたえられたのです。
この2番目が妙好人です。
さらに親鸞聖人は、このように教えられています。
この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。
この人は正定聚の位に定まれるなりと知るべし。(引用:『末灯鈔』)
正定聚というのは、必ず浄土へ往って仏に生まれることが定まった人のことです。
これを現代の言葉で絶対の幸福といいますので、このように、絶対の幸福になった人を妙好人といわれるのです。
ブッダが2600年前にインドで仏教を説かれてから、中国、日本へ伝えられ、幾億兆の人が救われて絶対の幸福になったか分かりません。
妙好人は数え切れないほどいるはずですが、ほとんどの場合は記録に残らずに忘れられていきます。
そんな中でも、ごくわずかに、他の人に記録されて伝えられている人があります。
どんな人があったのでしょうか?
三河(愛知県)の七三郎(1727-1807)
愛知県で尊い言動が伝えられているのが七三郎です。
あるとき、念仏称えながら黙々と畑を耕しています。
そこへ有名な禅宗の僧侶、白隠が通りかかりました。
「これこれ、そこにいるのは七三郎さんじゃないか。
ちょっと尋ねるが、お前さんの称えているその念仏は、一体、なんのオマジナイじゃ」
白隠は、親鸞聖人がまじないを非常に嫌われたことを熟知しながら、イジワルな言葉をかけてきました。
「よう尋ねて下された和尚さん。このお念仏は大マジナイでございます」
浄土真宗には、マジナイなどの迷信は一切ござらぬ、と大上段に振りかざしてくるものと思いきや、七三郎、ニッコリ笑って、こう言い抜けました。
「大きなマジナイとは、そりゃ何じゃ」
こやつ、言いよるな!!と白隠心密かに驚くが、少しもそんなそぶりを見せずに突っ込みます。
七三郎すかさず、
「鬼が転じて仏になる、大マジナイでござる」
と言い放ったといいます。
妙好人など無学なものだろうと侮って、みごとに切り替えされた白隠は、そのまま立ちされるほど無我ではあり得ませんでした。
そこで話題一転、こう問いかけます。
「それじゃ七三郎さん。あんたの信ずる阿弥陀さんは、どこにいなさる」
己心の弥陀(心の阿弥陀如来)しか知り得ない白隠は、七三郎の指方立相の十万億土の阿弥陀如来をあざわらおうとしたのでしょう。
「ここを去ること十万億の極楽浄土におられます」
「ほおう。それはまた、えろう遠い処になぁ。いざという時、間に合わんのじゃないか」
七三郎が白隠のツボにはまってきます。
シメタと斬り込む白隠に、軽く七三郎、こういいます。
「でもね今は、お留守でございますよ」
「何処へお出かけじゃな」
「十方の仏国土を御巡教でございます」
「それで今は、何処においでじゃ」
オヤオヤと思いながら、なおも追及する白隠に、七三郎平然と答える。
「この三河の国に来ておられます」
「それは初耳。して三河のどこへじゃ」
その時七三郎、拳で己の胸を大きく叩いて
「分からぬか。ここじゃ」
と言ったといわれます。
大和(奈良県)の清九郎(1677-1750)
財布を拾う
この清九郎という人が阿弥陀仏の本願によって絶対の幸福に救われて、大変喜んでいました。
それを見ていた寺参りの友達は、いつも、
「おい清九郎は、救われたと言ってるけど、欲や怒りの煩悩はどうなったのかな」
と思っていました。
「あれだけ絶対の幸福を喜んでいるから、もし本物なら、煩悩は大分少なくなっているんだろうな」
と思う人が多くあります。
そういう友達が集まって、清九郎を一度テストすることにしました。
清九郎は毎朝お寺へ行って阿弥陀如来に合掌礼拝する習慣があります。
そこで、お金をたくさん入れた財布を本堂の畳の真ん中にぽつんと置いておきました。
┌──┬─┬──┐
│内陣└─┘ │
├───────┤
│本堂 ┃○友達
│ 財布 ┃○
│ ○ │
└───────┘
友達はそれをどうするか、横の障子戸の向こうから見ていました。
そこへ今朝も一番最初に清九郎が念仏を称えながらやってきました。
本堂に入ると、ぽんぽんにふくれた財布が目につきます。
清九郎はあたりを見回すと、財布を拾ってフトコロにしまいました。
友達はみんな横の障子戸の向こうから見ています。
ここまでは煩悩即菩提の絶対の幸福ですからそういうこともあるかなと思います。ところがさらに清九郎は、阿弥陀如来にも合掌礼拝せずにここでUターンして、行ってしまいました。
見ていた友達は、
「あれだからなぁ清九郎は。ひどいな」
「やっぱり口だけだろ」
と行って、本堂へ出ていこうとしました。
すると、また清九郎が念仏を称えながら入って来ます。
本堂の阿弥陀如来の前に座って、フトコロから財布を出して、泣きながら言います。
「阿弥陀さま、清九郎はこんな幸せな身にさせて頂きながら、汚い心がまた出ました。
申し訳ございません。申し訳ございません」
懺悔すると同時に、
「こんな情けないやつをようこそ助けてくださいました、阿弥陀さま」
と歓喜の涙を流して、財布は阿弥陀如来の前において念仏しながらうちへ帰って行ったといわれます。
清九郎の臨終
清九郎は、臨終にとても苦しんでいました。
元気なときよく一緒に仏教を聞いていた友達が
「清九郎つらいだろう。でももうちょっとで極楽だから念仏称えな」
といいます。清九郎は、
辛い辛いといいながら、二言三言念仏を称えて、また苦しみ始めました。
するとまた周りの友達から、
「辛いだろうけど、もうちょっとで極楽だから、念仏称えな」
といいます。
すると辛い辛いと言いながら寝ていた清九郎が、ガバッと座って、両手を合わせ
「清九郎はこのままのお助けじゃー」
と言い、そのまま息絶えたといわれます。
このように、生きている元気なときに苦悩の根元が断ち切られて絶対の幸福に救われる、平生業成の教えを臨終まで明らかにしていったのです。
六連島(山口県)のお軽(1801年-1857年)
お軽という人は、
「阿弥陀如来を殿御にもてば 娑婆の貧乏は苦にならぬ」
という歌を残しています。
「阿弥陀如来を殿御にもてば」とはお軽は女性でしたから、阿弥陀如来を夫にもてば、ということです。
絶対の幸福になるということは、阿弥陀仏と結婚するようなものです。
それどころか、阿弥陀仏と一体になるということなのです。
「娑婆の貧乏は苦にならぬ」とは、この世でどんな貧乏していても、絶対苦にならない、ということです。
「重荷せおって山坂すれどご恩思えば苦にならず」
という歌も残しています。
阿弥陀仏のご恩を思うと、今まで苦であったものが、苦ではなくなる、喜びに変わると言っています。
絶対の幸福になる前
お軽が、何とか仏教を聞いて、絶対の幸福になろうと求めていたときのことが書き残されています。
こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか
聞かにゃ苦労はせまいといえど
聞かにゃ堕ちるし、聞きゃ苦労
今の苦労が先での楽と
気休めいえども気が済まぬ
済まぬまんまとすましにかかりゃ
雑修自力とはねだされ
どうして他力になるのじゃろ
まこと聞くのがお前はいやか
何が望みであるぞいな
お軽は、一生懸命仏教を聞きました。
それでも絶対の幸福になれなくて、
「こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか」
と言っています。
こんなことなら聞かないほうがましか、ということです。
ところが
「聞かにゃおちるし聞きゃ苦労」とは
仏教を聞かなければ地獄に堕ちるし、
仏教を聞きに行くのには、当時は歩いて行きますから、苦労がいります。
「今の苦労が先での楽と」とは
今苦労して仏教を聞いているのが、やがて絶対の幸福の身になれるんだ、と苦しみに耐えようとしています。そうはいっても、
「気休めいえども気が済まぬ」
今晩死んだらどうするんだと思うと、気が済みません。
どうしたら自力がすたって、他力に入れるんだろうとお軽は、苦しみ悩んだ心の中を書き残しています。
そのお軽が、仏教を聞いて救われたときのことを、このように書き残しています。
絶対の幸福になった後
自力さらばといとまをやって
ワシが心と手たたきで
たった一声聞いたのが
その一声が千人力
四の五の言うたは昔のことよ
何にも言わぬがこっちの儲け
そのまま来いの勅命に
いかなるお軽も頭が下がる
聞いてみなんせまことの道を
無理な教えじゃないわいな
「自力さらばといとまをやって」とは
苦悩の根元を断ち切られて、ということです。
「ワシが心と手たたきで」
絶対の幸福になって、言葉も出ずに、手を叩いています。
「たった一声聞いたのが」
というのは、阿弥陀仏の呼び声です。
その一声で助かってしまったから、
「その一声が千人力」
と言っています。千人力、万人力、億人力です。
「四の五の言うたは昔のことよ」
ごたごた文句をいっていた
絶対の幸福になる前に「こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか」と言っていたようなことです。それはもう昔のことよ、
「そのまま来いの勅命に」
というのは、「勅命」とは阿弥陀仏の声です。
阿弥陀仏の呼び声がそのままと聞こえたとお軽は言っています。
これは声なき声です。
言葉で表現できない不思議不思議の阿弥陀仏の声を聞きます。
それはものすごく大きな声ですから、ブッダは「正覚の大音」といわれています。
その心も言葉も絶え果てた阿弥陀仏の声を聞いて、
「いかなるお軽も頭が下がる」と躍り上がって喜んでいます。
大安心大満足の絶対の幸福になったことをこのように言っているのです。
讃岐(香川県)の庄松(1799年-1871年)
妙好人の中でも特に有名な人です。
文字の読み書きはできず、数も8までしか数えられなかったので、「八文」とあだ名されていました。
ところが、仏教の教えによって絶対の幸福になったことを喜び、法然上人の再来といわれます。
それは、法然上人がお亡くなりになるときに、私が今度生まれて来るときは頭の悪い者として生まれるだろうと言われたからです。
庄松は学問がないのに仏教の教えを体現した言動を色々と残していきました。
文字が読めないのに阿弥陀経が読める
庄松同行はいつも寺の小僧をやりこめていました。
あるときその小僧が、庄松が読み書きができないのを知りながら、
「庄松は浄土三部経は読めるか?」
と聞きました。ところが庄松は、「読めるぞ」と答えます。
「嘘つけ、文字が読めないのに三部経が読めるか」
「では読んでやる。その代わり、読み終わるまで後ろで正座して聞いていろ」
小僧はどうせ読めるはずがないと思って
「もちろんいいとも」
と答えました。
庄松は浄土三部経の中でも一番短い『阿弥陀経』を手に取り、おしいただくと、
「仏説阿弥陀経、是のごとく我聞く……」と読み始めました。
ここまではどのお経でも共通です。
その後は、
「一時佛。在舎衛国。祇樹給孤独園。輿大比丘衆。千二百五十人倶。皆是大阿羅漢。衆所知識。長老舎利弗……」と続くのですが、庄松は、
「仏説阿弥陀経、是のごとく我聞く。庄松助くるぞ。庄松助くるぞ。庄松助くるぞ。庄松助くるぞ。庄松助くるぞ……」
と読み始めました。
それが20分経っても30分経っても終わりません。1時間経っても読み続けています。小僧は正座している足が痛いのに耐えきれず、
「庄松、よくわかった、もう勘弁してくれ」と謝りました。
その一部始終を小僧から聞いた住職は、
「庄松こそ阿弥陀経を本当に読み切ったのだ」
と言ったと言われます。
まず理解するまで仏教を聞きなさい
読み書きのできなかった庄松ですが、絶対の幸福になるまでの道のりを、このように言っています。
合点ゆかずば合点ゆくまで聞きなさい。聞けば合点のゆく教え。
合点したのは信ではないぞ。それは知ったの覚えたの。
合点せよとは口ではいえど不思議不思議の外はない。
「合点」とは、理解や納得のことです。
無学で字の読み書きができず、お金の勘定ができなくても、
「仏教は分からない」とは言っていません。
理解できる教えだから、分からなければ分かるまで聞きなさい
と言っています。
教えを理解できなければ、どこへ向かって行くのかも分かりません。
仏教を学び、その教えの通りに苦しみの根本原因を絶ち切られれば、想像も及ばない幸せの身になれます。それを庄松は「不思議不思議」と言っています。
目指すところの不思議不思議の世界に出るのに、合点は、通る道です。
ところが庄松は「合点したのは信ではないぞ。それは知ったの覚えたの」
と言っています。理解したのは、絶対の幸福ではありません。
それは頭で理解しただけです。
「合点せよとは口ではいえど不思議不思議の外はない」
というのは、理解せよとは言うものの、そこで止まらずに、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福になるまで仏教を聞きなさいよ、ということです。
妙好人伝
江戸時代には、6編の妙好人伝が著されました。
1818年、仰誓が集めた妙好人伝を編集します。
1843年から1853年までに、僧純が編集した2編から5編が刊行されます。
1850年には、象王が6編を出しています。
こうして、江戸時代には、6編12巻の妙好人伝ができました。
その中には、たくさんの妙好人が伝えられ、それぞれ尊いエピソードが残されています。
その一部を以下に記しておきます。
赤尾(富山県)の道宗(?-1516年)
吉崎(福井県)嫁威のお清(1472年頃)
堅田(滋賀県)の源右衛門源兵衛父子(1480年頃)
三河(愛知県)のおその(1777-1853)
有福(島根県)の善太郎(1782年-1856年)
温泉津(島根県)の浅原才市(1851年-1932年)
薩摩(熊本県)の伝助(1722-1782)
磯(滋賀県)の与市(1841-1893)
筑前(福岡県)の正助(1671-1756)
和泉(大阪府)の吉兵衛(1803-1882)
加賀(石川県)の千代(1703-1775)
播州(兵庫県)の宇右衛門(1758-1832)
安芸(広島県)の浄念(1765-1849)
安芸(広島県)の五助(享保年間-1799)
越前(福井県)の治左衛門(1721-1790)
京都(京都府)のお栗(1709-1718)
江戸(東京都)の庄之助(1732-1795)
因幡(鳥取県)の源左(1842年-1930年)
但州(兵庫県)のすえ(1822-1835)
近江(滋賀県)の権四郎(1799-1851)
越中(富山県)の幼女(不明)
河州(大阪府)のしも(1749年頃)
越中(富山県)ののよ(1830年頃)
防州(山口県)のおいし(1862年頃)
常州(茨城県)の忠左衛門(1680-1753?)
奥州(青森県)の佐助(1811年頃)
安芸(広島県)の松女(1852-1924)
尾州(愛知県)の渡辺半蔵(不明)
安芸(広島県)の喜兵衛(寛永の頃1624-1644)
石見(島根県)の九兵衛(享保の頃1716-1736)
京都(京都府)の七郎右衛門(享保の頃1716-1736)
近江(滋賀県)の治郎右衛門(元文の頃1736-1741)
出羽(山形県)の弥左衛門(不明)
加賀(石川県)の与市(不明)
但馬(兵庫県)の仁右衛門(不明)
このように江戸時代までは、仏教が説かれていましたので、たくさんの人が仏教の教えを聞いて、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福に救われていきました。
妙好人は浄土真宗に多い
このような妙好人は、どんな仏教の宗派から現れるかというと、ほとんど浄土真宗です。
それについては、ブリタニカ国際大百科事典にもこのように記されています。
上の6編に収載されている人たちは農民や小商人が圧倒的で、このように学問もなく、社会的地位も低かった人が、どうして高度な信仰を獲得したか、また妙好人という言葉が、なぜ特に真宗の篤信者に対する特別な熟語になったかなどが関心事となっている。
(引用:『ブリタニカ国際大百科事典』)
この妙好人伝に出てくるような人たちは、読み書きもできない人ばかりです。
それが、浄土真宗の教えによって、無上の幸せに救われたということです。
そのことについては、宗教学者の柳宗悦もこう言っています。
名も知れない片田舎に名も知れない妙好人が、あちらこちらに今も現れてくるのである。
真宗のみがもつ不思議な力であるといわねばならぬ。
* * *
もとより妙好人は仏教各宗派に現れるはずであるが、なぜか真宗系の仏徒から圧倒的にたくさん現れてくるのである。(引用:柳宗悦『妙好人 因幡の源左』)
それはなぜかというと、浄土真宗では、仏教に教えられる苦悩の根元と、それを断ち切って本当の幸せになれる道が明らかにされているからです。
ですが、明治時代以降は、仏教は葬式法事ばかりでほとんど教えが説かれなくなってしまいました。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)