法華経とは?
『法華経』は、最も有名なお経の1つです。
「諸経の王」と言われ、日本に仏教が伝わってまもなく聖徳太子が法華経の解説書(法華義疏)を書かれています。
また、中国の智者大師は『法華経』によって天台宗を開き、
日本の最澄は、これを伝えて天台法華宗を開きました。
日蓮はそれに独自の解釈をほどこして日蓮宗を創りました。
禅宗でも、曹洞宗の道元の主著『正法眼蔵』に最も多く引用されているのが『法華経』であり、
臨済宗の白隠が注釈を書いています。
また現代でも、仏教系の新興宗教のほとんどは『法華経』を利用しており、
現代の日本にも大きな影響を与えています。
『法華経』には一体どんなことが教えられているのでしょうか?
法華経の概要
『法華経』について、参考に仏教辞典を紹介します。
法華経
ほけきょう[s:Saddharmapuṇḍarīka-sūtra]
初期大乗経典に属し、紀元50年から150年あたりにかけて成立したと考えられる経典。
現存の漢訳本は、竺法護訳<正法華経>(10巻27品。286年訳)、鳩摩羅什訳<妙法蓮華経>(7巻27品、のち8巻28品。406年訳)、闍那崛多・達摩笈多訳<添品妙法蓮華経>(7巻27品、羅什訳の補訂。601年訳)の3本であるが、羅什訳がもっぱら用いられてきた。
19世紀以降、ネパール、チベット、中央アジア、カシミール(ギルギット)などで原典写本が相次いで発見され、漢訳本と対比しながら,改めて法華経の成立状況や特色について研究が進められている。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
辞書だと少し難しい言葉遣いで書かれていますので、以下では分かりやすく解説します。
ちなみに法華経全文は以下にありますの一応紹介しておきます。
➾法華経全文
広まり
諸教の王といわれる『法華経』は、
ブッダが晩年、インドの霊鷲山で説かれて以来、
広くアジア中に伝えられました。
翻訳もチベット語訳、ウイグル語訳、
西夏語訳、モンゴル語訳、満州語訳、韓国語訳、漢訳などがあります。
漢訳は『正法華経』『妙法蓮華経』『添品妙法蓮華経』の
3種類が伝えられていますが、中でも最も美しい文章なのは、
鳩摩羅什の翻訳した『妙法蓮華経』です。
現在、『法華経』といえば、この『妙法蓮華経』を指します。
どんな内容なのでしょうか?
構成
『法華経』は二十八品からなっています。
「品」というのは、章のことで、
28章から構成されているということです。
大きく分けると、前半の14品を「迹門」と言い、
後半の14品を「本門」といいます。
このような章建てになっています。
前半14品(迹門)
1.序品第一
2.方便品第二
3.譬喩品第三
4.信解品第四
5.薬草喩品第五
6.授記品第六
7.化城喩品第七
8.五百弟子受記品第八
9.授学無学人記品第九
10.法師品第十
11.見宝塔品第十一
12.提婆達多品第十二
13.勧持品第十三
14.安楽行品第十四
後半14品(本門)
15.従地湧出品第十五
16.如来寿量品第十六
17.分別功徳品第十七
18.随喜功徳品第十八
19.法師功徳品第十九
20.常不軽菩薩品第二十
21.如来神力品第二十一
22.嘱累品第二十二
23.薬王菩薩本事品第二十三
24.妙音菩薩品第二十四
25.観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
26.陀羅尼品第二十六
27.妙荘厳王本事品第二十七
28.普賢菩薩勧発品第二十八
それぞれどんな内容なのでしょうか?
前半14品(迹門)
『法華経』の前半の迹門は、説かれる因縁である「序分」と、
本論である「正宗分」と、
教えを伝えることを勧められた「流通分」の3つの部分に分けると
「序分」が序品第一、
「正宗分」が方便品第二から授学無学人記品第九、
「流通分」が法師品第十から安楽行品第十四です。
そしてその中心は「方便品」です。
仏教には、「三乗」といわれる、声聞、縁覚、菩薩の3通りの教えがありますが、
実はたった一つの真実である「一乗」へ導く方便だと教えられます。
そして、他のお経ではごくわずかしかない流通分が5品(後半の本門では12品)にわたり、
実践を重視されています。
それぞれの章ごとに内容を見ていきます。
1.序品第一
霊鷲山の先端
当時インド最強のマガダ国の首都、王舎城近くの霊鷲山にブッダがおられたとき、
そこには舎利弗や目連、須菩提、迦旃延、富楼那、阿那律、ウパーリ、阿難、ラーフラ、大迦葉といった十大弟子や、キョウチンニョ、三迦葉などの最初の頃からの沢山のお弟子が集まっていました。
ブッダの奥さんのヤショダラや、弟の難陀、子供のラーフラ、
マガダ国の王妃である韋提希の子、阿闍世も参詣していました。
また、観音菩薩や弥勒菩薩、文殊菩薩などのたくさんの菩薩、
帝釈天などのたくさんの神々もありました。
ブッダはそのとき、眉間の白豪相から光明をはなたれて、
無間地獄から天上界までの六道輪廻の世界を照らし出されました。
弥勒菩薩は文殊菩薩に、
「ブッダはなぜこのような現象をあらわされたのだろう」
と尋ねました。文殊菩薩は、
「私は過去世、ブッダが『法華経』を説かれるときに、同じ光景を見たことがあります。
おそらく今から『法華経』を説かれるのでしょう」
と答えました。
2.方便品第二
『法華経』の前半の中心は、この方便品だと言われています。
方便品ではまず、ブッダは舎利弗に対して、一切の声聞と縁覚の知ることのできない、
仏だけが知る「諸法実相」を説かれました。
この諸法実相が『法華経』の中心だという人もありますが、
諸法実相は、すでに『般若経』や『華厳経』など、
至るところに説かれていますので、特に珍しいものではありません。
ブッダは、さとってもいないのにさとったと自惚れている増上慢の人5千人を退場させられた後、こう説かれます。
唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう
(引用:方便品)
「一大事の因縁」とは、『法華経』に他なりませんから、
ただ『法華経』を以ての故に世に出現したもう、ということです。
これは、ブッダは、ただ『法華経』のためにこの世に現れたということで、
『法華経』が自力の出世本懐経であることを示されています。
(ただ、このようなことは他のお経にも説かれていますので、
出世本懐の中の本懐は何かが問題となります)
次にブッダは、これまで三乗といわれるように、
声聞、縁覚、菩薩のそれぞれに応じた教えを説いたのは、
たった一つの真実である一乗の教えに導くための方便であり、
すべての人を導く方便のために三乗の教えを説いたと明かされます。
そして最後に、こう説かれます。
もし人の散乱の心をもって塔廟の中に入り、一たび南無仏と称せば、皆已に仏道を成ず。
(引用:方便品)
これは、念仏の功徳が教えられていますので、源信僧都の『往生要集』にも引用されています。
3.譬喩品第三
この譬喩品第三から授学無学人記品第九までの7品では、
方便品の内容を別の角度から説かれています。
『法華経』には7つのたとえ話が説かれており、
「法華七喩」といわれます。
そのうち6つまでが法華経の前半の迹門に説かれています。
譬喩品では、まずその1つ目の、三車火宅のたとえが説かれます。
父親が、火のついた家にいる3人の子供たちのために、
それぞれの欲しがっている車を与えるといって家の外に誘い出し、
もっとすばらしい車を与えたというたとえです。
声聞、縁覚、菩薩の三乗を説いたのは、
たった一つの真実である一仏乗を与えるためだった
ということです。
また、この有名なお言葉が説かれているのも譬喩品です。
三界は安きことなし、なお火宅の如し。
(引用:譬喩品)
三界というのは、迷いの世界のことです。
「三界は安きことなし」というのは、どんな人の人生も、安心はないということです。
それはたとえるならば「火宅」のようなものだ、といわれています。
火宅というのは、火のついた家のことで、そんな家にいたら、不安で仕方がありません。
どこへ行っても不安が絶えないのがこの世界なのです。
4.信解品第四
法華七喩の2番目、長者窮子のたとえが説かれます。
ある長者が、幼い子供と離ればなれになってしまいました。
手を尽くして捜索しますが、なかなか見つかりません。
やがて何十年も経って、ホームレスになっているのを発見しました。
子供は長者を恐れて近づかないため、
まず使いをやって説得し、掃除夫として雇用します。
そして長い年月をかけて心を開かせます。
やがて長者の臨終に、国王や大臣、親戚一同を集めて
親子名乗りをし、全財産を与えたということです。
この長者がブッダで、窮子が私たちです。
私たちが仏法を聞き、お育てにあずかって、
ついに本当の幸せになるのも、
すべてブッダのお手回しということです。
5.薬草喩品第五
法華七喩の3番目、三草二木のたとえが説かれます。
三草とは、小の薬草、中の薬草、大の薬草です。
二木は、小さい木と大きい木です。
雨は草や木の大小によって差別せず、平等に降りそそぎます。
ですが受ける草木は、大きな木は多量に、小さな草は少量を受けます。
大きな木も小さな草も同じ雨量を受けたらどうでしょう。
余分な水で枯れる木もあるでしょうし、
水分不足で枯死するものもあるでしょう。
平等に注ぐ雨を、不平等に受けて、
草木は平等に生きることができるのです。
ちょうどそのように、世の中には色々な人がありますが、
仏の慈悲は平等に降り注ぐということです。
6.授記品第六
ブッダが大迦葉、須菩提、迦旃延、目連の4人の声聞に対して記別が授けられます。
記別とは、如来が弟子に対して未来の成仏の保証を授けることです。
仏弟子達に記別を授けられることは、
他の経典と異なる『法華経』の特色の1つです。
7.化城喩品第七
法華七喩の4番目、化城のたとえが説かれます。
先達がたくさんの旅人を、宝の城へ連れていってくれるといいます。
ところがあまりに遠いので、諦めて座り込む人が出てきます。
そこで先達は、幻の城を見せて、あそこまで行こうと励まします。
ところがその城に近づくと、蜃気楼のように消えてしまいます。
そして先達はもう少しで宝の城にたどりつくと励まして、
みんなを導きます。
ちょうどそのように、声聞や縁覚の涅槃は、
真の涅槃ではないことを明かします。
私たちも、本当の幸せになるまでには、
千万の化城があるといわれますが、
そこにとどまることなく進まなければなりません。
8.五百弟子受記品第八
富楼那やキョウチンニョ、三迦葉、迦留陀夷、阿那律など五百羅漢に記別が授けられ、
法華七喩の5番目、衣裏繋珠のたとえが説かれます。
9.授学無学人記品第九
阿難尊者とラーフラの2人をはじめ、
2千人の弟子に記別が授けられます。
10.法師品第十
ここから流通分に入ります。
ここに、『法華経』の行者が守らなければならない
「衣・座・室の三軌」というものがあって、このように説かれています。
善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、
爾して乃し四衆の為に広くこの経を説くべし。
如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。
如来の衣とは柔和忍辱の心これなり。
如来の座とは一切法空これなり。(引用:法師品)
これをわかりやすくいうと、
「室」とは、一切衆生の中の大慈悲心です。衆生というのは生きとし生けるものですから、一切の人々に大慈悲の心をもって接すること。
「衣」とは、柔和忍辱の心ですから、いかに苦しいことでも笑って忍ぶこと。
「座」とは、空というのは、執着を断つために説かれていることですから、一切法空は、一切のものに対する執着を断つこと
です。
ちなみに空については、ナーガールジュナが明らかにされていますので、
以下の記事からご覧ください。
➾龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の大乗仏教と空とは?
インドの修行僧たちは、居室に座り、
ほとんど衣だけを所持して修行していました。
その修行僧の身近な生活にたとえて、
仏教を伝える心構えを教えられています。
「三軌」というのは、3つの規則ということで、法華経を行ずる人は、これができなければならないのです。
- 「室」……一切の人々に大慈悲をもって接すること
- 「衣」……いかに苦しいことでも笑って忍ぶこと。
- 「座」……一切のものに対する執着を断つこと
11.見宝塔品第十一
ここで遠くの地面から、霊鷲山の上空に宝塔が出現します。
その中には多宝如来がありました。
大宇宙のたくさんの分身の仏が集まって、
お釈迦さまが、多宝如来の隣に行くと、
多宝如来はお釈迦さまをほめたたえました。
12.提婆達多品第十二
提婆達多はブッダを殺そうとした悪人ですが、
ブッダはここで、過去世、提婆達多に導かれて六波羅蜜を身につけたという因縁を説かれ、
やがて提婆達多も天王如来という仏になるという記別を授けます。
また、8歳の竜女が救われたことが説かれます。
女性には5つの障りがあるといわれるのに、
なぜ竜女は、しかも若くして救われたのかお尋ねすると、
竜女は智慧利根で、
過去世に文殊菩薩によって『法華経』をきき、
勤加精進していたからだと説かれます。
13.勧持品第十三
ブッダの養母のマカハジャバダイや、
奥さんのヤショダラに記別が授けられます。
そして、たくさんの菩薩や声聞が、不惜身命の決意で仏教を伝えることをこのように誓います。
われは、身命を愛せずしてただ無上道のみを惜しむなり。
(引用:勧持品)
これは仏法を伝える時の大切な心構えです。
14.安楽行品第十四
仏法を伝える心構えが説かれ、
法華七喩の6番目、髻中明珠のたとえが説かれます。
後半14品(本門)
『法華経』の後半の本門は、序分が従地湧出品第十五、
正宗分が、如来寿量品第十六から分別功徳品第十七の前半、
流通分が、分別功徳品第十七の後半から最後までです。
本門の中心は「如来寿量品」です。
ブッダは約2600年前、インドに現れて、80年の生涯、仏教を説かれました。
ところがそれは仮の姿で、本当の実体は永遠の仏で、
繰り返しこの世に現れて、苦しみ悩む人を導くことが明かされています。
そして、本門の大部分が流通分となり、実践を極めて重視されています。
15.従地湧出品第十五
他の国から集まって来たたくさんの菩薩が
「『法華経』を広めさせてください」
とお願いすると、ブッダは制止され、
すでに『法華経』を広める菩薩が存在すると説かれます。
その途端、たくさんの菩薩が大地から涌き出てきます。
弥勒菩薩がこの菩薩はどこから来たのかお尋ねすると、
釈迦如来が久遠の昔から教えてきた弟子だとお答えになります。
なお、その最上位の菩薩の一人が「上行菩薩」です。
まれに日蓮宗系統の人で、上行菩薩の化身が
釈迦如来よりも偉いと言う人がありますが、
上行菩薩は釈迦如来の弟子ですから間違いです。
16.如来寿量品第十六
ここは、ブッダ自ら自身の久遠の成仏を告白され、
他のお経にない、『法華経』だけの2つの大きな特色の1つになっています。
「私が仏になって以来、五百塵点久遠劫という非常に長い年月が経っている。
いつも何億という衆生の為に法を説き教化して限りない時が経った。
衆生を救う為に方便として私が入滅した様子を見せるが、
実は、決して入滅することなく、いつもこの法を説いている」
といわれています。
ここで、十劫の昔に成仏した阿弥陀如来よりも、
釈迦如来のほうが古い仏だという人があります。
ところが『法華経』の化城喩品には、三千塵点劫の昔、
大通智勝仏が出家前に16人の王子があり、
9番目が阿弥陀仏、16番目が釈迦仏と説かれています。
阿弥陀如来のほうが古いのです。
そして阿弥陀如来について説かれている『 無量寿荘厳経』には、こう説かれています。
かの仏如来は、来って来るところなく去って去るところなし、
生なく滅なく過現未来にあらざるなり。(引用:無量寿荘厳経)
「かの仏如来」というのは阿弥陀如来のことですから、阿弥陀如来には始まりもなければ終わりもない。
生ずることも滅することもなく、過去、現在、未来もない、ということです。
ですから阿弥陀如来は無始久遠です。
釈迦如来には、久遠の過去といっても、
五百塵点久遠劫という限られた数量がありますが
阿弥陀如来は無始久遠と説かれています。
『法華経』にも説かれる通り、
やはり諸仏の王といわれる阿弥陀如来のほうが
釈迦如来が現れる前からの仏です。
さらに天台宗では、この寿量品を密教で解釈して、本門の釈迦とは阿弥陀如来であるとしています。
例えば5代目の天台座主・円珍は『講演法華義』に、こう言っています。
西方阿弥陀仏葉は寿量品にこれを明す。
(引用:『講演法華義』)
『法華経』の寿量品に説かれているのは阿弥陀仏のことだ、ということです。
また、檀那院の覚運は『念仏宝号』に、
「『法華経』中の最秘密は、久遠実成の大覚尊なり」として、こう言っています。
釈迦尊は迦耶(カピラ城)にして始めて成るは実の仏に非ず。久遠に実成したまえる弥陀仏なり。
(引用:『念仏宝号』)
そしてブッダの寿命に限りがあり、期間限定のほうが
みんなやる気を出すということをたとえて
法華七喩の7番目、良医のたとえが説かれます。
17.分別功徳品第十七
如来の本当の寿命を聞いた人たちが、
大きな功徳を得たこと
この教えを伝える人が
大きな功徳を得ることが説かれます。
18.随喜功徳品第十八
弥勒菩薩に対して、ブッダが涅槃に入られたあと、
『法華経』を聞いた人が、他の人に伝え、その人がさらに他の人に伝えて
50番目の人さえもその功徳は極めて大きいことが説かれます。
これを「五十展転の随喜の功徳」といわれます。
19.法師功徳品第十九
常精進菩薩に対し、『法華経』を受持、読誦、解説、書写する人は、
眼耳鼻舌身意の六根清浄の功徳が得られることを説かれます。
20.常不軽菩薩品第二十
常不軽菩薩が、どんな軽蔑されても、
「あなたはいつか仏になる方です」
と相手を敬い、礼拝したことが説かれています。
21.如来神力品第二十一
従地湧出品第十五で招喚された地涌の菩薩に対して
後の世に『法華経』を伝えるよう依嘱されます。
これを付属といいます。
22.嘱累品第二十二
「嘱累」とは付属のことです。
地涌の菩薩だけでなく、すべての菩薩に付属されます。
また、『法華経』を信じられない人のためには
どうすればいいのかも教えられています。
そしてブッダは、霊鷲山上空の宝塔から、
また霊鷲山に戻られます。
23.薬王菩薩本事品第二十三
薬王菩薩は過去世、一切衆生喜見菩薩(皆が見るのを喜ぶ)という美男子の菩薩でした。
その一切衆生喜見菩薩が、
師匠の日月浄明徳仏と『法華経』とを供養する為に
美しい自己の身体に香油を塗り、
自ら身に火を放って身を灯明として供養したと説かれています。
その火は1200年も燃えつづけて身体が焼けつきてしまいます。
しかし、その功徳で彼は日月浄明徳仏の国に生まれ、
今度は、日月浄明徳仏が先に滅度したために、
その舎利を供養して、自己の百福荘厳の臂を燃やして遺身を供養した
といわれます。
この焼身供養は、信者を狂信的にするおそれがありますので注意が必要です。
また、ここでは阿弥陀如来の浄土へ往生することが勧められます。
もし女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、
此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往きて、
蓮華の中の宝座の上に生ぜん。(引用:薬王菩薩本事品)
24.妙音菩薩品第二十四
妙音菩薩が、六道の衆生を救うために34の姿を現すことが説かれています。
25.観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
この観世音菩薩普門品は、ここだけで『観音経』という
1つのお経として取り扱われます。
観音菩薩が、三十五の姿を現して人々を救うことが説かれます。
これを観音菩薩の「三十三身」といいます。
漢訳にはありませんが、インドのサンスクリットの『法華経』では、観音菩薩の先生についてこう説かれています。
ローケーシュヴァラ=ラージャ(世自在王)を指導者とした僧のダルマーカラ(法蔵)は、世間から供養されて、幾百劫という多年のあいだ修行して、汚れない最上の「さとり」に到達してアミターバ(無量光)如来となった。
アヴァローキテーシュヴァラはアミターバ仏の右側あるいは左側に立ち、かの仏を扇ぎつつ、幻にひとしい一切の国土において、仏に香を供養した。
西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽)世界がある。
そこに、いま、アミターバ仏は人間の御者として住む。
そして、そこには女性は生まれることなく、性交の慣習は全くない。
汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に坐る。
かのアミターバ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、獅子座に腰をおろして、シャーラ王のように輝く。
彼はまたこの世の指導者として三界に匹敵する者はない。
わたしはかの仏を讃歎して、速かに福徳を積んで汝のように最も勝れた人間(仏)になりたい』と祈念する。(引用:岩波文庫『法華経(下)』坂本幸男、岩本裕、訳註267ページ)
分かりやすく解説すると、以下の意味です。
法蔵菩薩という修行僧は、世間の供養尊敬を受け、幾百劫という長い間修行をして、汚れのないこよなきさとりを得て、阿弥陀如来となられたが、観音菩薩は、その阿弥陀如来という先生を左または右から扇ぎながら立っておられた。
(サンスクリット版法華経)
観音菩薩が三十三の姿を現すというのは、
阿弥陀如来の救いにあって浄土往生した人は、
苦しみ悩みのこの世界にかえってきて、
自由自在に衆生を救うということです。
26.陀羅尼品第二十六
薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天、持国天、十羅刹女が、
末法に『法華経』を広める人に陀羅尼を説いて
その人々を守ることが説かれています。
27.妙荘厳王本事品第二十七
遠い昔、雲雷音宿王華智仏がおられたとき、2人の王子が仏教を聞き、
外道を信じていたお父さんの王様に仏教を伝えたことが説かれています。
仏教の先生を善知識といいますが、その重要性がこう教えられています。
善知識はこれ大因縁なり。
(引用:妙荘厳王本事品)
これは『往生要集』にも引用されています。
28.普賢菩薩勧発品第二十八
ブッダは、『法華経』の行者が備えるべき4つの法を普賢菩薩に説かれています。
4つの法とは、以下の4つです。
1つには、諸仏に護念されること、
2つには、もろもろの徳本をうえること、
3つには、正定聚に入ること、
4つには、一切衆生を救う心
この4つは、不思議なことに仏教を聞いて苦悩の根元が断ち切られた瞬間、
すべて備えることができます。
法華経は何が第一なの?
『法華経』には、諸経の王と説かれ、第一であることが繰り返されています。
では、何が諸教の王であり、第一なのかというと、このように説かれています。
この『法華経』は最もこれ難信難解となす。
(引用:法師品)
ですから『法華経』は、難信難解第一です。
難信難解ということは、助かることが最も難しいということです。
『法華経』は、「誰でも仏に成れる」と説かれ、
そのすばらしい功徳や、『法華経』を授受、書写、修行することの功徳などが
説かれていますが、
「どうしたら仏になれるのか」
という大切なことが明示されていません。
そこにこの『法華経』の難信難解の理由があります。
題目を唱えれば成仏できる?
『法華経』には、どうすれば仏のさとりを得られるのか説かれていないので、
日蓮は、南無妙法蓮華経という題目を唱えれば成仏できるのだと
「唱題成仏」を創出しました。
ところが、『法華経』にその根拠はありません。
一切経七千余巻のすべてのお経を調べても
「南無妙法蓮華経」という言葉も見当たりません。
日蓮の造語です。
確かに「陀羅尼品」にはこうあります。
汝らよく法華の名を受持せん者を擁護するのみにてもその福、量るべからず。
(引用:陀羅尼品)
また、『法華経』の異訳の『正法華経』には、こう説かれています。
若聞此経宜持名号徳不可量
(引用:『正法華経』)
しかしながらこれでは唱題成仏の根拠にはなりません。
そこで困った日蓮は
「その根拠は寿量品の文底に秘めり」
と言いました。これを「文底秘沈」といいます。
そんなことを言い出したら何でもありです。
仏教というのは、お釈迦さまの説かれた教えですから、
お経に根拠がないようでは、もはや仏教ではありません。
このように、『法華経』には、他のお経にも説かれている
諸法実相や六波羅蜜などは説かれているのですが、
どうすれば仏になれるのか、について、
非常に功徳があるといわれる『法華経』の教えが説かれていないのです。
どんな人のために説かれたのか
では『法華経』はどんな人の為に説かれたのでしょうか?
『法華経』譬喩品には、こう教えられています。
この『法華経』は 深智の為に説く、浅識はこれを聞いて迷惑してさとらず、
一切の声聞及び辟支仏はこの教の中に於て力及ばざる所なり。(引用:譬喩品)
「深智」とは、深い智慧を持った人です。
「浅識」とは、学問のない人のことで、私たち凡夫のことです。
「声聞」や、縁覚である「辟支仏」は、
出家して厳しい修行に打ち込む極めてすぐれた人たちですが、
それでも力及ばないと説かれています。
『法華経』に救われるには、少なくとも、声聞や辟支仏以上の菩薩でなければなりません。
またこうも教えられています。
無智の人の中においてこの経を説くことなかれ。
もし利根にして智慧明了に、多聞強識にして仏道を求むる者あらば、かくの如きの人の為に説くべし。(引用:譬喩品)
「無智の人」とは智慧のない愚かな者、
「利根」とは智慧の深い人、
「多聞強識」とはブッダの説法を多く聞き、
よく学んでいる人のことです。
もしあなたが利根なら、法師品第十に説かれる
「衣・座・室の三軌」もできなければなりませんが、
できそうでしょうか?
とてもできない人に対してブッダは、こう説かれています。
もし衆生あって信受せざらん者には、
まさに如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし。(引用:嘱累品)
「余の」とは、『法華経』の他の、ということです。
『法華経』を信じられない人のためには、他の深法を教えよ、ということです。
一切経で他の深法といえば、『大無量寿経』にこう説かれています。
無量寿仏を念じその国に生れんと願ずべし、
若し深法を聞きて歓喜信楽し疑惑を生ぜず。(引用:『大無量寿経』)
ブッダはこの『大無量寿経』の教えも深法と言われています。
それというのも『大無量寿経』には、智慧利根の人だけでなく、どんな人でも苦悩の根元を断ち切られて
生きているときに本当の幸せになれる道を説かれているからです。
それで、『法華経』にも、智慧利根、多聞強識ではない人にはすべての人が救われる深法で本当の幸せになりなさいと教えられているのです。
その、もう一つの深法に説かれる、私たちの苦悩の根元と断ち切る方法については、
仏教の真髄ですので、以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
今すぐ読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)