仏教の慈悲とキリスト教の愛の違い
キリスト教は「愛の宗教」という看板を掲げています。
それに対して仏教では仏心とは慈悲の心だと説かれています。
キリスト教でいわれる愛と、仏教で説かれる慈悲はどこが違うのでしょうか?
愛の特徴
まず、愛についてですが、
「愛は惜しみなく与える」と言われます。
きっとあなたは、誰かから
「あなたのためなら命を捧げます」
と言われたことがおありでしょう。
こう言われると、大変嬉しいものです。
ところが、その分、
「愛は惜しみなく奪う」
のです。
もしあなたの愛する人が、他の人と話をしていたらどう感じますか?
にこにこと会話して、どうも心と心の交流をしている感じがする。
これはえらいことです。
「今日は一緒に、食事をしている!
あの人はもう私のもののはず。それなのに……
私が独占したい!」
このように、愛は相手の自由を奪うのです。
しかし、どんなに相手を独占したくても、感情は一時的ですから、相手の愛する感情も続かず、心が離れてしまいます。
心までは束縛できないのです。
それで、昔なら心中したのです。
「相手の心までも完全に100%自分のものにしたい!
相手を殺して、自分も死ぬ」
ということです。
愛は惜しみなく奪うのです。
キリスト教の愛は?
イエスの汝の敵を愛せ
キリスト教の愛はどうでしょうか?
キリスト教を説いたイエスが出現するまでのユダヤ教では、律法が重視されていました。
律法は神の意志にもとづく神と人間の契約なので、律法を厳格に守って生きねばならないとされました。
ところが律法で他人を裁き、傲慢になり、神とも他人とも関係が悪くなるので、イエスは、愛が律法の核心でなければならないと教えました。
そして、キリスト教徒は、神を愛し、隣人を愛さなければなりません。
イエスの有名な言葉に「汝の敵を愛せ」というものがあります。
さらに「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」という有名な言葉もあります。
言葉としては大変美しいですが、本当にそんなことが、凡人に実行できるでしょうか?
実際、イエスが敵に頬をぶたれたことがあります。
その時、イエスはどうしたでしょう?
聖書には、イエスはもう片方の頬を差し出すのではなく、「敵をなじった」と、こう記されています。
下役のひとりが、「大師祭にむかって、そのような答をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。
しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」
(『口語 新約聖書』ヨハネによる福音書・18章)
怒りの心で頭に血が上り、汝の敵を愛することはすっかり忘れてしまっているようです。
キリスト教の神の愛の特徴
さらに、キリスト教の神は愛の神と教えられています。
しかもその愛は、神学では「アガペー」といわれ、無償の愛とか、無条件の愛、絶対の愛、無限の愛などといわれます。
では、実際のキリスト教の神は、本当にそんな愛を実現しているのでしょうか?
ところが『旧約聖書』を読んでみると、
「神は人が神を信じなくなると怒って火でも山でも大地でも産物もみな焼いてしまう」
とか
「我エホバ女の神は嫉(そね)む神なれば、我を悪(にく)む者に向かっては父の罪を子にむくいて三四代におよぼし」
などと記されています。
有名なノアの方舟では、ノア以外の、神を信じなくなった人たちを全員、洪水で殺してしまいます。
「アガペー」といわれる無条件で限りのない愛を備えたキリスト教の愛の神は、なぜ「大量虐殺」を行うのでしょうか?
キリスト教の神の無条件の愛を受けるには、神を信じることが条件なのです。
そして、信じなくなると殺してしまいます。
それでキリスト教では、歴史上、宗教裁判所を作って、異端とされると火あぶりにしてきました。
特に神に救われるかどうかは決まっていると考えているカルヴァン派では、白人以外は神に救われないと考えており、いわゆる選民思想があります。
それで清教徒(カルヴァン派)の多い北アメリカでは混血が進まず、白人がたくさんいるわけです。
神の無条件の愛を受けられる条件は、極めて厳しいのです。
お釈迦さまは、このことを『法句経』に、このように説かれています。
愛より憂いを生じ、愛より畏れを生ず、愛を離れたる人に憂いなし、何のところにか畏れあらん。
(法句経)
仏教では、「愛」は、愛着や執着のような、苦しみを生み出す煩悩であると教えられているのです。
キリスト教の神の罪深い人への対応
『旧約聖書』の創世記に記された有名なエピソードにソドムという都市が出てきます。
その都市の人々が、みだらな行いにふけり、罪が深くなっていたために、神は確かめようとします。
そこで人間の一人が、正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいとお願いします。
ところが神は、ソドムはやはり罪深いとして、天からの硫黄と火を降らせ、滅ぼしてしまいます。
その罪は同性愛であったとされ、キリスト教で同性愛を禁じる根拠になっています。
同性愛のことを最近では、LGBTなどと言われますが、この中には、性同一性障害など、生まれつきの人もあります。
現代では、世界的に同性愛を差別をしない方向に向かっていますが、神は同性愛を差別し、罪が深いとして殺してしまいます。
神はなぜわざわざソドムという都市やそこに住む人々を造り、自ら差別して殺すのかも分かりませんが、それが無差別の愛、絶対の愛、無限の愛をうたっている神の、罪深い人への対応です。
ところが仏教では、罪の重い人ほど憐れに思われるのが仏の慈悲です。
神のように罪深い者を殺したり、罰を与えたりすることは仏様にはありません。
仏の慈悲は、深い罪によって苦しむ者にひとえに重くかかります。
煩悩逆巻く、罪深く悪の重い者こそが救いの対象であり、それが仏の慈悲なのです。
では、仏教で愛とはどういうものだと教えられているのでしょうか?
『中阿含経』や『増一阿含経』など、多くのお経にこのようなことが説かれています。
仏教で愛とは?
お釈迦さまがコーサラ国の舎衛城の郊外にある、祇園精舎におられた時のことです。
一人の商人が子供を亡くして放心状態でふらふら歩いていると林の中でお釈迦さまとばったり出会いました。
「そなたはうろつな目をしているが、どうしたのか?」
お釈迦さまが尋ねると、
「実は、先日子供を亡くしまして、今ごろあの子はどこへ行ったのかと思うと、仕事も手に着かないのです」
「そうであったか。そのような悲しみや苦しみは、愛から生まれるものなのだ」
「愛からですか?」
驚いた商人は、お釈迦さまを見上げました。
「その通りだ。愛から苦しみが生まれるのである」
「何を言われますか。愛から生まれるのは喜びに決まっている。
そんなこと誰も信じないだろう」
商人は、怒って祇園精舎を立ち去り、気晴らしにカジノへ行きました。
友達に話すと
「憎しみから苦しみが生まれるのなら分かるが、釈迦というのはとんでもないことを言うやつだ」
と同意します。
「もちろんだ。妻を愛し、子供を愛し、父母を愛し、友達を愛してこそ、この世は楽しいのだ」
こうしてお釈迦さまの教えは、町中に広がり、やがてコーサラ国の王様の波斯匿(はしのく)王の耳に入りました。
王様は妃に、「聞いたか?釈迦は苦しみは愛から生まれると言っているそうだ」というと、
「王様、お釈迦さまがそう言われるのなら、それは間違いありません」
と答えます。
「お前はよほど釈迦の教えを信じ込んでいるようだな」
「仏語に虚妄なしといわれて、お釈迦さまは嘘をつかれません」
「ならばお前は私を愛しているのか」
「もちろんでございます」
「それなら苦しんでいるか」
「喜んでおります」
「ならば釈迦は間違っているだろう」
「いいえ、そこには何か深い意味があるのだと思います」
それを聞いた波斯匿王はすっかり怒りだし、
「もうよい、不愉快だ、下がれ」
どこかへ行ってしまいました。
妃は、自分の部屋に戻ると、
「苦しみは愛から生じるという件で王様の機嫌を損ねてしまった」
と召使いに言います。
「ああそのことですか。
それはお釈迦さまを陥れるために、誰か恨みを持つ者が言いふらしたのでしょう」
「では、それが本当かどうか、お釈迦さまに直接確かめてきてください。
もし本当なら、どういう意味なのか詳しく聞いてきてください」
「かしこまりました」
召使いは、すぐに祇園精舎を訪ねます。
召使いは首尾良くお釈迦さまに面会できたので、早速お尋ねすると、
「それは間違いなく私の言ったことである」
と言われます。
あきれた召使いは、あざ笑いながら
「愛から苦しみが生まれるというのはどういう意味なのでしょうか?」
と重ねてお尋ねすると、
「この舎衛城で、以前、ある女性のお母さんが亡くなりました。
その女性は、私の母を見ませんでしたか?と叫びながら町中をさまよって、最後にはおかしくなってしまいました。
このように、苦しみは愛から生じるのです」
お釈迦さまは、さらに、子供を失った母親、父を失った子供、夫を失った妻の例をあげて、愛するが故の悲しみを説かれます。
これを仏教では愛別離苦といって、四苦八苦の一つとして教えられています。
召使いの口元からは笑いが消え、真剣に耳を傾け始めました。
「またある時、ある女性の家族が、彼女を恋人から引き離して、別の金持ちの男と結婚させようとしました。
すると、その女性は恋人に相談し、今となってはどうにもならないことを夜通し歎いた末、引き裂かれるくらいなら一緒に死のうといって、恋人が女性を斬り殺し、その恋人も自殺しました。
苦しみが愛から生じるというのはこういうことです」
そこまで聞くと、召使いは、真理を聞いたと目を輝かせてお城へ戻り、お妃様に一部始終を報告しました。
それを聞いた妃は、王様の部屋に訪れます。
「王様、私たちの娘を愛しておいでですか」
「当たり前だ」
「では、王女が万が一亡くなったら、苦しまれるのではないでしょうか」
「なんだなんだ、さっきの釈迦の教えの蒸し返しか」
また機嫌が悪くなりかけましたが、思い直して口を閉じました。
しばらく眉をよせて考えたあと、ため息をついて、
「お釈迦さまの言葉は真実だった」
と言いました。
「親子でもやがて必ず別れなければならない。
その別れが辛いのは愛があるからだ。
私の愚かな目が開かれた」
こうして波斯匿王は、仏教を聞くようになったといわれます。
このように仏教では、愛は苦しみを生み出すと教えられますので、愛ではなく慈悲が説かれます。
仏教の慈悲とはどんなことなのでしょうか?
仏教の慈悲とは?
仏教は慈悲の教えといわれますが、「慈悲」とは、「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。
このことを曇鸞大師は主著の『浄土論註』に、こう教えられています。
苦を抜くを『慈』という、楽を与うるを『悲』という。
(浄土論註)
「慈(じ)」とは、抜苦(ばっく)の心
「悲(ひ)」とは、与楽(よらく)の心です。
「抜苦」とは、苦しんでいる人を見ると、じっとしておれない心です。
苦しんでいる人を見ると、こういう心が起きます。
子供が苦しんでいると、親は病院に連れて行ったり、何とか苦しみを抜いてやりたいと思います。
放っておくのは、無慈悲な人です。
「与楽」とは、幸せを与えてやりたいという心です。
よく「うちの、お母さん、魚の頭やしっぽが好きなんだよ。
魚で一番おいしいのは、真ん中の肉の部分なのに、全部僕にくれて、頭やしっぽばっかり食べている。変なお母さん」
と言う子供がありますが、お母さんは、子供に一番おいしい、栄養のあるところを食べさせてやりたいと思うのです。
ところが私たちは、愚痴の心がありますから、幸せな人を見ると、ねたみ、不幸な人を見ると、喜びます。
「慈悲」は、その逆で、苦しみをとってやりたい、なくしてやりたい、幸せを与えてやりたい、というのが「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。
慈悲と愛の本質的違い
しかも、慈悲は一方的であって、
「これだけするから見返りにこうしてください」
というものではありません。
「慈悲」と「愛」とは、本質的に違うのです。
仏教には、慈悲以外に教えられていません。
あなたの苦しみを抜き、あなたに本当の楽しみを与えるのが仏教の目的です。
では仏教では、苦しみの原因はどんなものと教えられ、どのように苦しみを抜くのでしょうか。
もっと詳しく知りたい方は、メール講座を受講してみてください。
関連記事
この記事を書いた人

長南瑞生
仏教が好きで、東大教養学部で量子統計力学を学んだものの卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とかみなさんに知って頂こうと失敗ばかり10年。やがてインターネットの技術を導入して日本仏教アソシエーション(株)を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)