十二因縁(十二縁起)とは?
「十二因縁(十二縁起)」とは、私たちの12の迷いの元を教えられたブッダの基本的な教えです。
お経には、ブッダはこの十二因縁を順番に観察され、逆の順番に観察され、仏のさとりを開かれたと説かれています。
その十二因縁について分かりやすく解説します。
果たしてどんな教えなのでしょうか?
十二因縁の意味
「これはお釈迦様の教えだ」と分かる仏教の旗印・目印となる教えに、三法印があります。
三法印とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つです。
三法印について詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾三法印(四法印)の意味を分かりやすく解説
これらの教えの根本にある教えが、因果の道理です。
因果の道理は、
一言でいえば「すべての結果には必ず原因がある」ということですが、
詳しくは下記をご覧ください。
➾因果応報とは?意味を分かりやすく恋愛の実話を通して解説
この因果の道理にもとづいて、苦しみの原因を突き止められている教えが、十二因縁なのです。
まず、十二因縁の意味を仏教の辞典で見てみましょう。
十二因縁
じゅうにいんねん
現実の人生の苦悩の根元を追究し、その根元を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化したもの。
仏教の基本的考えの一つ。
<十二縁起><十二支縁起>などともいう。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、辞書には、12の条件とありますが、
もっと分かりやすくいえば、12の原因のことです。
私たちの迷いの原因を12回追及していき、
ついに迷いの根本原因を明らかにされた仏教の教えが、十二因縁です。
その12回の原因とは、
(1)無明(2)行(3)識(4)名色(5)六処(6)触(7)受(8)愛(9)取(10)有(11)生(12)老死
になります。
それぞれの意味はこの記事の「十二因縁のそれぞれの意味」という小見出しのもとで解説していますが、
まずは基礎的な内容を説明していきます。
最初に十二因縁と十二縁起との違いについてです。
十二因縁と十二縁起の違い
「十二因縁」は、
「十二縁起」ともいわれます。
この2つはまったく同じ意味です。
インドの言葉を三蔵法師が中国の言葉に翻訳するとき、
鳩摩羅什は「十二因縁」と翻訳し、
玄奘は「十二縁起」と翻訳したというだけです。
ですから「十二因縁」と「十二縁起」は
まったく同じものを意味しています。
ただ、玄奘の「十二縁起」のほうが新しい翻訳ですが、
鳩摩羅什の翻訳した有名な『法華経』では「十二因縁」といわれていることもあってか、
現在でもどちらかというと
「十二因縁」のほうがよく使われています。
では、十二因縁はどんな目的でて、何を明らかにされたものなのでしょうか?
十二因縁の目的
十二因縁の目的は、本当の幸せになることです。
ブッダは学問のために学問をする学者でもなければ、
科学の進歩のために研究する科学者でもなく、
どうすれば本当の幸せになれるのかという
自分の人生を問題とされていました。
そのため、世界がどうなっているのかとか、
他人のことを問題にする前に、
まず自分自身のことを問題にされたのでした。
自分が幸せになりたいのに、幸せになれないのであれば、自分に原因があります。
自分が幸せになれない原因を探しもとめられたのです。
ブッダが深遠な悟りを求められた目的は、
本当の幸せになることです。
こうしてブッダが本当の幸せを求めていかれ、
因果の道理を根幹として、本当の幸せになるために、苦しみの根本原因を明らかにされたのが十二因縁です。
ブッダが苦しみ迷いの原因を追及すること12回
十二因縁の因縁も
十二縁起の縁起も、
因果のことです。
因果とは、原因と結果のことです。
「すべての結果には必ず原因がある」、
ということです。
私たちが何をやっても、何を手に入れても幸せになれず、
苦しみ迷い続けているということも結果ですから、
それには必ず原因があります。
トヨタ自動車の有名な改善の方法に、
問題について、なぜを5回繰り返し、
原因を追及していくという分析方法があります。
ちょうどそのように、ブッダは、
私たちが幸せになれない原因を
12回追及して行かれたです。
これは、極めて難しいことですから、このように『長阿含経』に説かれています。
この十二因縁は見難く知り難し。
(漢文:此十二因縁難見難知)(引用:『長阿含経』)
こうしてブッダは、
苦しみ迷いの原因を追及して行かれ、
ついに苦悩の根本原因を突き止められたのです。
ブッダの発見された真理
この十二因縁は、私たちの苦しみ迷いの12の原因です。
それはブッダが作られたのではなく、発見されただけです。
他の誰かが作ったわけでもありません。
お経にはこう説かれています。
縁起の法は我が所作に非ず。
また余人の作にも非ず。
しかるに彼の如来出世するも、
及び未だ出世せざるも法界常住なり。
(漢文:縁起法者 非我所作 亦非餘人作 然彼如來出世 及未出世 法界常住)(引用:『雑阿含経』)
縁起の真理は、私が作ったのではない。
また、誰か他の人が作ったのでもない。
仏のさとりを開いた人がこの世に現れても、いまだ現れなくても、
大宇宙に常に存在しているのだ、ということです。
それと同じように、ブッダが地球上に現れようが現れまいが、
人間がいる限り存在している大宇宙の真理が十二因縁です。
その、もともとあった十二因縁を発見されて、
ブッダは仏のさとりを開かれたのです。
そのことをこう説かれています。
彼の如来は自らこの法を覚して等正覺を成ず。
(漢文:彼如來自覺此法成等正覺)(引用:『雑阿含経』)
「等正覚」とは仏のさとりのことです。
ブッダは、この十二因縁をさとって、仏のさとりを開かれた、ということです。
お経に説かれる十二因縁
十二因縁は仏教の基本なので、
色々な『阿含経』から『法華経』(化城諭品第七)まで、色々なお経に説かれています。
では十二因縁は一体どんな内容なのでしょうか。
十二因縁の順観
例えば『長阿含経』にはこう説かれています。
智慧をもって生死の由るところを観察するに生より老死あり。
生はこれ老死の縁たり。
生は有より起る。有はこれ生の縁たり。
有は取より起る。取はこれ有の縁たり。
取は愛より起る。愛はこれ取の縁たり。
愛は受より起る。受はこれ愛の縁たり。
受は触より起る。触はこれ受の縁たり。
触は六処より起る。六処はこれ触の縁たり。
六処は名色より起る。名色はこれ六処の縁たり。
名色は識より起る。識はこれ名色の縁たり。
識は行より起る。行はこれ識の縁たり。
行は無明より起る。無明は行の縁たり。
是をもって無明に縁って行あり、
行に縁って識あり、
識に縁って名色あり、
名色に縁って六処あり、
六処に縁って触あり、
触に縁って受あり、
受に縁って愛あり、
愛に縁って取あり、
取に縁って有あり、
有に縁って生あり、
生に縁って老病死憂悲苦悩あり。(引用:『長阿含経』)
「生死」というのは、輪廻であり、苦しみ迷いのことです。
「智慧をもって生死のよるところを観察するに」というのは、
仏のさとりの智慧によって、苦しみ迷いがどこから生じたのかを観察すると、ということです。
次の「生によりて老死あり」とは、老いて死ななければならないのは、生まれたからだ、ということです。
次の「生は有より起る。有はこれ生の縁たり」とは、生まれた原因は有だ、ということです。
ここでは「縁」と「因」は同じ意味です。
こうして、どんどん原因をさかのぼって、最終的に無明にたどりつかれます。
このように苦しみの原因を追及して、十二因縁を順番に観察することを順観といいます。
これを無明から老少まで順番に分かりやすく図示すると、こうなります。
1無明→2行→3識→4名色→5六処→6触→7受→8愛→9取→10有→11生→12老死
このように、苦しみの原因が分かったということは、大変なことです。
原因がなくなれば結果はなくなりなりますから、苦しみの原因がなくなれば、苦しみの結果がなくなるということです。
十二因縁の逆観
老死の原因が生だとすれば、生がなくなれば、老死はなくなります。
では生の原因は何かというと、有です。
ということは、有がなくなれば、生がなくなります。
生の原因は何かというと、取です。
ということは、取がなくなれば、有もなくなります。
このように、遡っていくと、最終的に無明がなくなれば、生老死の苦しみがなくなることになります。
このことを先ほどのお経には、続けて次のように説かれています。
これをもって無明、滅する故に行滅し
(中略)
生、滅する故に老死憂悲苦悩滅す。
菩薩はかく思惟する時、智生じ、眼生じ、覚を生じ、
明を生じ、通を生じ、慧を生じ、証を生ず、
菩薩は逆順に十二因縁を観じて実の如く知り、
実の如く見をはりて即ち阿耨多羅三貎三菩提を成ず。
(漢文:是爲 癡滅故行滅(中略)生滅故 老死憂悲苦惱滅 菩薩思惟 苦陰滅時 生智 生眼 生覺 生明 生通 生慧 生證 爾時菩薩 逆順觀十二因縁 如實知 如實見已 即於座上成阿耨多羅三藐三菩提)(引用:『長阿含経』)
「菩薩」とは仏のさとりを求めておられた時代のお釈迦さま、
「阿耨多羅三貎三菩提」とは仏のさとりのことですから、
お釈迦さまは、十二因縁を順番に観察され、
逆の順番に観察され、仏のさとりを開かれたのです。
逆観とは、無明が無くなれば、行がなくなる、行がなくなれば識がなくなる、識がなくなれば名色がなくなる、と観察していくことです。
お釈迦さまは十二因縁を順観して、智、眼、覚、明、通、慧、証を生じたといわれ、さらに逆観することによって仏のさとりを開いたと告白されています。
12の迷いの原因を「無明が生じるから、行が生じ……」と観察するのを流転の縁起といい、「順観」ともいわれます。
逆に「無明が滅するから、行が滅し……」と迷いの12の原因がなくなるとどうなるのかを観察していくことを還滅の縁起といい、このときは悟りの実現を観察していることになります。
これを「逆観」といわれる時もあります。
人間存在の真理
因果の道理はあらゆる現象において成り立つことですが、お釈迦さまはこのように、因果の道理を自分の上に順観、逆観されて、解脱を果たされたのでした。
これはお釈迦さまの仏のさとりそのままの告白です。
ですが、この十二因縁は、お釈迦さま一人だけのことではありません。
自分の上に真理を突き止めることによって、お釈迦さまは万人の真理を突き止められたのです。
結局人間は、このような12の因縁が続いていく存在だとお釈迦さまは突き止められたのですが、、十二因縁のそれぞれはどんな意味でしょうか?
十二因縁のそれぞれの意味
十二因縁のそれぞれの意味は、お経の中には、あまり明確に教えられているところがありません。
それで近代の仏教学者も人それぞれの学説を立てて、色々なことを言っています。
ですが、部派仏教の論の中には具体的に教えられていますので、
天親菩薩の『倶舎論』によって十二因縁の一つ一つの意味をみてみましょう。
倶舎論の場合
『倶舎論』では、それぞれこのように教えられています。
1.「無明」とは迷いの根本です。
無始の無明ともいって、始まりのない始まりから続く迷いの心です。
これが原因となって次の行を生み出します。
2.「行」とは行為のことで前生で行った業です。
これが原因となって次の識を生み出します。
3.「識」とは前生の業が始めて精神的な結果としてあらわれたもので、
お母さんのお腹に宿ったときです。
このことは『長阿含経』にこう説かれています。
もし識、母胎に入らざれば名色あるやいなや。
答えて曰く無きなり。
(漢文:若識不入母胎者有名色不 答曰無也)(引用:『 長阿含経』)
4.「名色」とは、識が具体的な形となったものです。
「名色」の「名」は心、「色」は形を表しています。
私たちがお腹に宿ってから眼や耳ができるまでなので、
約4週間程度です。
5.「六処」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六感ができて
六識ができるまでです。まだお腹の中です。
6.「触」とは、初めて外界の事物を感覚し始める小さい頃です。
7.「受」とは、外界から種々の言語や知識を受け取る時代です。
8.「愛」とは、精神が発達して色欲が強くなり、
愛憎の思いを感ずる青春時代です。
9.「取」は、欲望がますます激しく起きる時代です。
あれが欲しい、これが欲しい、ほめられたい、認められたいという
欲の心に日夜馳せ使われます。
10.「有」とは、業のことです。
業は未来の結果を有するということで「有」といいます。
「愛」「取」の煩悩に引きずられ、
色々な悪業を造って未来に輪廻転生する種を残します。
業について詳しくはこちらをお読みください。
➾カルマ(業)の法則の仏教的意味を分かりやすく解説
11.「生」とは、現世に造った業によって次の世に生を受けます。
12.「老死」とは、生まれてから老衰して死んでゆくまでです。
このように、十二因縁は三世にわたっており、
1番目から2番目までは過去世、
3番目から10番目までは現在世、
11番目、12番目は未来世です。
それで「三世両重の因縁」といわれます。
唯識の場合
『倶舎論』は小乗経典といわれるお経に説かれることを、総合して解説されたものですが、唯識の場合は、小乗経典に加えて大乗経典も総合して解説されています。
そのために、より深く、複雑になります。
前提として、大乗唯識では、私たちの行いは、目に見えない種子となって阿頼耶識といわれる心に収まっており、やがて縁がきた時に結果となって現れます。
小乗では外界は実在しますが、大乗では外界は実在せず、
すべて阿頼耶識が生み出したものですので、唯識といわれます。
1.「無明」は迷いの根本です。
ここでは、煩悩で一番根本になっているものです。
煩悩のことを「惑」ともいうので、無明を「発業の惑」ともいいます。
次の「行」は業なので、次の行を生み出す煩悩のことです。
2.「行」とは行為のことで業ですが、阿頼耶識におさまっている業種子です。
輪廻転生する時に重要な働きをします。
3.「識
」は、輪廻転生して次の阿頼耶識になる種子です。
つまり生まれ変わって次の阿頼耶識になるタネです。
4.「名色
」とは、「名」は心、「色」は肉体のことで、心身のことですが、
輪廻転生して次の心身になる種子のことです。
直前の阿頼耶識と、次の六処、触、受は別に説明されているので、
それらは除いた、心身のそれ以外になるタネです。
5.「六処」とは、次の生に眼、耳、鼻、舌、身、意の六根になる種子です。
つまり生まれ変わって六感になるタネです。
6.「触」とは、生まれ変わって、六感が対象に触れる働きの種子です。
7.「受」とは、生まれ変わった次の生、触れた対象が楽しいとか苦しいと感受する働きの種子です。
このように、識、名色、六処、触、受の5つは、阿頼耶識におさまっている、来世の内容になる種子です。
阿頼耶識の中には同時に存在しているのですが、
生まれ変わった後、順番にできてくるので、このような順番になっています。
8.「愛」とは、意識に生まれつき備わっている粗い愛欲の煩悩です。
死ぬ時には三愛になります。
三愛とは、境界愛、自体愛、当生愛の3つです。
境界愛とは、臨終に愛する妻子、家財などにおこす執着です。
自体愛とは、自分の身体に対する強い執着です。
当生愛とは、死ぬ時に未来に生まれる処についておこす愛着心です。
これも無明と同じように煩悩ですが、無明を「発業の惑」といったのに対して
「潤生の惑」といいます。
9.「取
」は、意識に生まれつき備わっている細かい愛欲の煩悩と、それ以外のすべての煩悩です。
これも潤生の惑です。
この愛と取の2つは、死んだ時、2番目の業種子が、3番目から7番目までの5つの種子を生まれ変わらせるのを助ける働きをします。
潤生とは、転生を潤すということで、転生を助けるという意味です。
10.「有」とは、2番目の行の業種子と、3番目から7番目の5つの生まれ変わる種子が、8番目と9番目の潤生の惑の働きを受けて、まもなく転生するという段階です。
つまり、もうすぐ生まれ変わる2番目から7番目の種子です。
11.「生」とは、転生した阿頼耶識が新しい世界を生み出し始めてから、老衰する前までです。
12.「老死」とは、老衰し始めてから死ぬまでです。
このように、十二因縁は二世にわたっており、
1番目から10番目までを過去世とすれば、11番目、12番目は現在世、
1番目から10番目までを現在世とすれば、11番目、12番目は未来世です。
それで「二世一重の因果」といわれます。
こうして私たちは、悪業を造り、
因果の道理にしたがって、
迷いの世界である六道を輪廻し、
永遠に苦しみ迷い続けていくのです。
私たちは、この迷いの原因をグルグル回っているような有様なので、
「十二因縁の流転」と表現されることもあります。
流転輪廻については下記をご覧ください。
➾仏教で言われる輪廻転生とは?意味と解脱する方法を解説
迷いを断ち切る方法
今回は、十二因縁について詳しく解説しました。
十二因縁は、お釈迦様が仏のさとりを開かれたときに発見されたものであり、
以下の12の原因を明らかにされました。
(1)無明(2)行(3)識(4)名色(5)六処(6)触(7)受(8)愛(9)取(10)有(11)生(12)老死
このように仏教では、
すべての結果には必ず原因があります。
原因がなければ結果もありません。
この十二因縁が明らかになると、
苦しみ悩みの根本原因が無明ですから
無明がなくなれば、苦しみ悩みもなくなります。
では無明とは何でしょうか?
2つあります。
ほとんどの場合、煩悩と説明されていますが、
煩悩具足の私たちは、煩悩を断ちきるこはできません。
ブッダの目的は、すべての人を本当の幸福にすることですから、
煩悩ではない、もう1つの無明が
苦悩の根本原因です。
その苦しみ迷いの根本原因については、
仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)