浄土宗と浄土真宗の違い

浄土宗は、平安時代の終わりに法然上人の開かれた仏教の宗派です。

当時、あまりに急速に広まったために権力者からの弾圧を受け、
法然上人の教団はちりぢりばらばらになりました。

そのため浄土宗は、法然上人のお弟子によって、色々な宗派に分かれています。
現在も残るのは、
1.弁長の鎮西派、
2.証空の西山派、
3.親鸞浄土真宗の3つです。

その中、現代で1番多いのは、浄土真宗で、
現在浄土宗といわれているのは、
そのほとんどが2番目に多い、鎮西派です。

どのような違いがあるのでしょうか?

浄土宗と浄土真宗の3つの違い

1.本尊

浄土宗の本尊は、阿弥陀如来の木像や絵像ですが、
浄土真宗南無阿弥陀仏の名号のみを本尊とします。

(この違いを分かりやすく、浄土真宗の8代目、蓮如上人は、
「他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。
当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり」
と言われています)

また、西山派では、本尊は阿弥陀如来ですが、さらに、寺院では何かのご縁で阿弥陀如来以外の仏や菩薩を本尊としてもさしつかえないとしています。

2.出家と在家

浄土宗には、出家仏教の伝統があり、戒律もあります。
浄土真宗は、親鸞聖人の肉食妻帯により、
出家しなくても救われることを明らかにされ、
戒律出家もありません。

3.臨終行儀

浄土宗では、臨終行儀を行いますが、
浄土真宗では、臨終行儀を行いません。

なぜこのような違いが出てくるのでしょうか?

浄土宗と浄土真宗の共通点

浄土宗も、浄土真宗も、共通しているのは、
阿弥陀仏の本願の救いを求めることです。

なぜなら、お釈迦さま自身も含めて、
阿弥陀仏のお弟子である、大日如来薬師如来のような諸仏には、
自力修行のできる、過去世から修行をしてきたすぐれた人でなければ
助ける力がないとお釈迦さまが説かれているからです。

私たちのような怒り愚痴煩悩に満ちた者は、
罪が重すぎて浮かばせることができないのです。

ちょうど、海で溺れている人が、
浮かばせる力のない浮きにすがったら、
浮きも一緒にどんどん沈んで行くようなものです。

そこで、私たちを助ける力のある
諸仏の王である阿弥陀如来に助けてもらおうとするのが、
浄土宗の共通するところです。

このように、阿弥陀仏の本願の救いを求めるのは共通しているのですが、
その阿弥陀仏の本願の信じ方が違います。
一体どのように違うのでしょうか?

1.浄土宗鎮西派の信じ方

阿弥陀仏は本願に、このようにお約束されています。
どんな人も私の与える信心を獲て念仏を称える者が、
もし真実の浄土へ往生できぬことがあれば、私は仏の座を捨てよう

ところが弁長の浄土宗鎮西派では、
まったく阿弥陀仏のお力だけで助けてもらえるということはありえないだろうと疑って、念仏を称えた功徳によって往生を願います。
阿弥陀仏に助けてくださいと祈願して、
一日5万回6万回と念仏を称えることによって、
信心決定し、臨終に阿弥陀如来の来迎にあって、
極楽浄土へ往き、正定聚の菩薩に生まれます。
正定聚」とは仏になるに定まった人ということです。

ただし、この世でどれだけ念仏を称えたかによって、
どんな極楽浄土に生まれるかは差別があります。

さらに、阿弥陀仏の本願にお約束された行ではない
念仏以外の諸善も、諸仏に共通の本願なので、浄土往生できる教えます。
そして、戒律もあります。

このように、鎮西派の教えには、自力諸善自力念仏が混じりこみ、
他力念仏のみを勧められた法然上人の教えとは大きく異なります。

浄土宗の有名な僧侶の事例

実際、自力念仏で浄土往生できるのでしょうか?

他力念仏で往く浄土は「報土」という万人共通の浄土ですが、
自力念仏で往く浄土は、報土の周りの「化土」といわれるところです。
念仏を称えているといっても、自力の場合は、人それぞれ違いがあります。
念仏を何回称えたのかなど、その人のその人のたねまきによって
因果の道理にしたがって、
生まれる化土は千差万別だとお釈迦さまは説かれています。

ですから、煩悩の塊で、罪の重い私たちは、
ちょっとやそっとの念仏では化土へは往けません。
化土へ往けるほど念仏を称えていれば、
死んで化土へ往けます。
それは一日何万べんもの念仏
死ぬまで称え続けなければなりません。

明治時代、浄土宗の管長で、本山の知恩院の住職もつとめた
福田行誡ふくだぎょうかいという僧侶は、
一日何万べんもの念仏を死ぬまで称えていたと言われます。

その福田行誡は、臨終に、
化土へ往ければいいがな……
と言って死んだそうです。
これが阿弥陀仏の本願を疑う心です。

このように、疑いのある自力念仏では、
報土往生は絶対にできませんし、
化土へ往けるかどうかも、死んでみないと分かりませんから、
死ぬまで不安はなくなりません。

2.浄土宗西山派の信じ方

証空の開いた西山派では、自力の諸行では往生できず、
まったく他力によって救われるとしています。

ところが、まったく他力というもの、人間には仏性があり、その仏性を主体として、願生心をおこして阿弥陀如来のお力で救われるといいます。
これを「領解りょうげ」とか「安心あんじん」といいます。
安心や領解が起きれば、諸行を念仏の中におさめて、諸善は往生の為になるといいますので、
諸行を生け捕りにした
と言われています。

このように、自分で願生心をおこす所や、救われた後に自分でやる善が往生のためになるところは、やはり自力が混じり込んでいます。
このように、自分の心と口と身体の行いが、救われるのに役立つとするのは、諸行往生といい、
阿弥陀仏の本願にかなわないため、
自力では真実の浄土往生はできません。

3.浄土真宗の信じ方

親鸞の浄土真宗ではどうかというと、
阿弥陀仏のお約束を疑いなく信じ、
生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、
生きているときに、この世で正定聚の菩薩になります。
これが大安心、大満足の絶対の幸福です。
そして、死ねば極楽浄土へ往って仏に生まれます。
報土往生です。

そのため、真の浄土宗であるということで、
浄土真宗といわれます。

このように、浄土宗と浄土真宗の一番大きな違いは、自力がまじるのか、まったく他力なのかという所にあります。
それによってその他の色々な違いが出てきますし、一番重要な救われるかどうかも変わります。

では、どの宗派が正しく教えを継承しているのか、法然上人に判定して頂きましょう。

法然上人の教えを正しく継承しているのは?

まず、法然上人は、こう教えられています。

浄土門に入らんとおもわば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて、えらんで正行に帰すべし。

浄土門に入るには、雑行をすてて、正行に帰しなければなりません。
正行しょうぎょう」とは、阿弥陀如来に向かっての正しい行を正行といいます。
雑行ぞうぎょう」というのは、ここではそれ以外の行をいいます。
ですから、御本尊は阿弥陀如来ではない仏や菩薩はなげすてなければならないのに、さしつかえないとなると、浄土門とは言えません。
まず大前提として、阿弥陀如来に助けて頂くのが浄土門であり、浄土宗です。

では法然上人は、阿弥陀如来をどのように信じなさいと教えられているでしょうか。
まず自力というのはどういうことかというと『和語燈録わごとうろく』にはこう教えられています。

自力というは我が力を励みて往生を求むるなり。他力というは唯仏の力をたのみ奉るなり。

自分の力を励んで助かろうとするのは自力といいます。
他力というのは、ただ仏の力をたよりにすることです。
唯というのは、二つも三つもない、唯一つということで、仏の力だけに打ち任せるということです。

そして、このように教えられています。

我らが往生はゆめゆめ我が身の善悪には依り候まじ。偏に仏の御力計にて候べきなり。

往生は自分の善悪には決してよらず、まったく阿弥陀仏の御力だけによる、ということです。
また、こうもいわれています。

我が力にて生死を離れん事、励み難くして、偏に他力の弥陀の本願をたのむなり。

自分の力で生死を離れることはできないから、ひとえに阿弥陀如来の本願他力によれ、と教えられています。
救われるのは100%阿弥陀仏のお力である、ということです。

念仏についてはこう教えられています。

他力の念仏は往生すべし。自力の念仏は全く往生すべからず。

他力の念仏は助かるけれど、自分の力が往生のためになると思って称える念仏では、助からないということです。

このように、法然上人は、自力では助からないと教えられているので、現在残っている宗派で、法然上人の教えを正しく継承し、自力をすてて他力に帰せよと教えられるのは、浄土真宗となります。

それで歴史上、自力を徹底的に捨てよと教えられる浄土真宗では、
僧侶以外でも、たくさんの在家の人が阿弥陀仏に救われてきました。
それらの喜びの身となった人を妙好人といわれます。

そのことを宗教哲学者の柳宗悦さんは、こう言っています。

もとより妙好人は仏教各宗派に現れるはずであるが、
なぜか真宗系の仏徒から圧倒的にたくさん現れてくるのである。

なぜ浄土真宗で救われた人が多いのか

なぜ妙好人が浄土真宗から圧倒的にたくさん現れるのかという疑問の答えは、浄土宗には自力がまじりますが、浄土真宗は、純粋な他力だからです。

そのことを浄土真宗の8代目の蓮如上人は、こう教えられています。

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す。
わが聖人は雑行をえらびたまう。
この故に真実報土の往生を遂ぐるなり。
この謂あるが故に別して真の字を入れたまうなり。

雑行」というのは、ここでは自力のことです。
自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す」というのは、浄土真宗以外の浄土宗は、自力を許すということです。
わが聖人は雑行をえらびたまう」というのは、親鸞聖人は、自力を捨てよと厳しく教えられるということです。
真実報土の往生」というのは、本当の極楽往生のことですが、自力では本当の極楽には往生できません。
自力を捨てるから、生きている時に阿弥陀仏に救われ、死ぬと同時に、極楽へ往って仏に生まれるのです。
このように、本当に救われるのが浄土真宗だから、浄土宗に真の字を入れて、浄土真宗といわれるのだ、と教えられています。

救われるのはいつ?

ちなみに法然上人も、救われるのはもちろん平生、生きている時だといわれています。

問ていわく、摂取の益をかうふる事は、平生か臨終か、いかむ。
答ていわく、平生の時なり。

摂取の益を被る」というのは、阿弥陀仏に救われることです。
それは、生きている平生か、臨終かとある人が法然上人にお尋ねしたところ、
生きている時だ」と答えられたのです。

ではどうすれば、生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、
阿弥陀仏に救われ、死んで極楽へ往けるのかについては、
仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

仏教が好きで、東大教養学部で量子統計力学を学んだものの卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とかみなさんに知って頂こうと失敗ばかり10年。やがてインターネットの技術を導入して日本仏教アソシエーション(株)を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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