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生きる意味を、知ろう。

ブッダは死後を説かれなかった?

ブッダは、「死後を説かれなかった」という人がたまにあります。
そして「死後の世界や地獄は存在しない」というのです。

そんなことを言う人のほとんどは、
自分は経典をまったく読んだことがないと言っているようなものですが、
まれに経典を読んだことがあるはずの、マイナーな仏教学者でも、
そう主張する人があります。

ですが、こんなことを言うのはどちらかというと、
やはり仏教についてはあまり勉強していない門外漢の人が多いです。
誰かが言ったことの受け売りをしているのです。
残念なことですが、例えばこんな感じのことを言う人はたくさん見つかると思います。

ブッダの教えを振り返ってみると、「死んでからどうなるのか」ということは、
いっさい説いていないことがわかります。
ブッダは死後の世界をあえて語りませんでした。
死後の世界があるともないとも言っていません。

こういうことを言ったり本にまで書く人は珍しくないのですが、
この手の人は、ブッダが死後を一切説いていないと「私は思う」と自分の考えを述べているに過ぎません。
ブッダの教えとは異なりますので、下手に鵜呑みにしないことが大切です。

ちなみに有名な仏教学者の中村元は、(お経を読んだことがあるので)
当然、このように言っています。

仏教では、輪廻ということを説きます。

「輪廻」というのは生まれ変わりのことですので、死後のことです。
輪廻を説くということは、死後を説かれている、ということです。
これらの人たちは意見が正反対ですが、実際にはどちらが正しいのでしょうか。
ブッダが死後について説かれているお経をこれから挙げていきます。

それにしても、お経を普通に読めば、
ブッダは死後をたくさん説かれているのに、
一体なぜ「ブッダは死後を説かれなかった
などという主張が出てくるのでしょうか。
その原因についても解明していきます。

そういうことで、この記事では、
・死後についての基本的な間違い
・死後を説かれたお経の具体例
・死後を否定する人へのブッダの教え
・死後を説かれなかったという仏教学者の根拠
・仏教学者が死後を認めたくない理由
・死後を認めない人の死後は?
・現代日本への影響
について分かりやすく解説します。
ブッダは本当に死後を説かれなかったのでしょうか?

死後の世界や地獄はない?

仏教では死後の世界や地獄について当然説かれています。

死後の世界はこちらの記事で考察していますので、ご覧ください。
死後の世界はない?仏教で地獄が分かる理由と科学・哲学の考えを解説

また地獄について、地獄の種類やどうして地獄に堕ちるのかなど、
ブッダは詳しく教えられています。

下記でも詳しく書いていますのでご覧ください。
地獄とは?種類と階層(八大地獄)と苦しみについて

では「ブッダが死後を説かれていない」という人が持ち出す
根拠を詳しく見ていきましょう。

ブッダは死後を"否定された"は初歩的な間違い

まず「ブッダは死後を説かれなかった」どころか、
ブッダは死後を否定された」という人があります。

否定された」まで行くと、仏教の基本的な教えを知らない、初歩的な間違いになります。

なぜなら仏教では、死後が無になるとか、死後はないという考えを
断見外道だんけんげどう」と言い、
厳しく否定されるからです。

断見とは、死後は無になるという考え方、
外道とは、大宇宙の真理である因果の道理に反した教えのこと。
つまり死後は無になるという考え方は、
すべての結果には必ず原因がある
という因果の道理に反するので、厳しく否定されているのです。

ブッダは死後を否定された」と言うような人は、まず、仏教の根幹である因果の道理をよく理解しなければなりません。

次に「ブッダは死後を説かれなかった」という人はどんな人でしょうか。

経典の至る所に死後が説かれている!

次に「ブッダは死後を説かれなかった」という人のほとんどは、
七千余巻もある経典を一巻も読んだことのない人でしょう。

死後の世界や地獄があることは先述していますが、
少し経典を読むと、至るところに、
地獄餓鬼畜生などの六道や、生死輪廻が説かれています。
これらは生まれる前や死んだ後のことです。
漢訳の大乗経典はもちろん、小乗経典も、テーラワーダ仏教の伝えるパーリ経典も同様です。

例えば、漢訳の小乗経典にはこのように説かれています。

彼、身に悪行を行じ、口と意に悪行を行じ、すでにこの因、この縁ありて、この身壊れて命終わり、必ず悪処に至り、地獄の中に生ず。
(漢文:彼行身惡行 行口意惡行 已因此縁 此身壞命終 必至惡處 生地獄中)

これは、体で悪い行いをし、口で悪いことを言い、心で悪いことを思う。
この因縁によって死んだら必ず地獄に生まれる、ということです。

もし衆生ありて、心の瞋恚によるが故に、身壊れて命終わり、必ず悪所に至り、地獄の中に生ず。
(漢文:若有衆生 因心瞋恚故 身壞命終 必至惡處 生地獄中)

これは、怒りの心によって死んだら必ず地獄に生まれる、ということです。

舍宅有する所、災火に焚燒せられ、死して地獄に入る。
(漢文:舍宅所有 災火焚燒 死入地獄)

これは、燃ゆる火は彼の家を焼く、この愚かな者は身壞れて後、地獄に生まれる、ということです。

生死、有量なし。往来、端緒なし。
屋舍を求むる者は数々の胞胎を受けん。
(漢文:生死無有量 往來無端緒 求於屋舍者 數數受胞胎)

これは、多生の輪廻を経たり、生々苦ならざるなし、ということです。
もっと分かりやすく言えば、
わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
──家屋の作者をさがしもとめて──。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである、
ということです。

死んだ後に輪廻するのはなぜかというと、仏教では自分のやった行いによって、因果応報の因果の道理にしたがって、死後の世界が決まるのです。
例えばこのように教えられています。

世尊、諸々の比丘に告げたまわく、
もし殺生の人多習多行せば地獄の中に生ぜん。
もし人中に生ずるも必ず短寿を得ん。
不与取を多習多行せば地獄の中に生ぜん。
もし人中に生ずるも銭財に多難ならん。
(漢文:世尊告諸比丘 若殺生人多習多行 生地獄中 若生人中 必得短壽 不與取多習多行 生地獄中 若生人中錢財多難)

拘薩羅相応命終経』では、ブッダは波斯匿王はしのくおうにこのように説かれています。

彼の摩詞男は過去世の時、多羅戸辟支仏に遇いて一飯を施しき。
浄信心に非ず、恭敬して与えず、自ら手もて与えず。
施して後悔し、この飯食は自ら我が諸の僕使無辜の持用に供給すべきに沙門に施したりといえり。
この施福によりて七反三十三天往生し、七反この舎衛国の中の最勝の施姓に生じて最も銭財に富めり……。
(中略)
また次に大王、時に彼の摩詞男長者はその異母兄を殺してその財物を取れり。
この罪に縁るが故に百千歳を経て地獄の中に堕つ……。
(漢文:彼摩訶男過去世時 遇多迦羅尸棄辟支佛 施一飯食
非淨信心 不恭敬與 不自手與 施後變悔 言此飯食自可供給 我諸僕使無辜持用 施於沙門
由是施福七反往生三十三天 七反生此舍衞國中最勝族姓 最富錢財
(中略)復次大王 時彼摩訶男長者殺其異母兄
取其財物 縁斯罪故 經百千歳墮地獄中)

このように、ブッダはお経の至るところに過去世も死後の来世も説かれています。

パーリ仏典の至る所にも死後が説かれている!

次に、パーリ仏典にはこうあります。

人がこの世でなすとの両者は、その人の所有するものであり、人はそれをとっておもむく。
それは、かれに従うものである。影がそのからだから離れないように。
それ故に善いことを諸々の功徳は、あの来世において人々のよりどころとなる。

不善なる人というものは、(中略)肉体の滅びた後、死後には、不善なる人たちの赴く所へ生まれ変わるのです。
修行僧たちよ、不善なる人たちの赴く所とはなんでしょうか。
地獄、あるいは畜生です。

特に古いといわれている『ダンマパダ』でもそうです。

いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。(中略)
善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。

鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。

『ダンマパダ』と同じように古いといわれてよく引き合いに出される『スッタニパータ』でもそうです。

けだし何者のも滅びることはない。
それは必らずもどって来て、(業をつくった)主がそれを受ける。
愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを感じる。
(地獄に堕ちた者は)、鉄の串を打ちこまれるところに至り、鋭い刃のある鉄槍に近づく。
さてまた灼熱された鉄丸のようなものこそ、(昔つくった業に)ふさわしい食物として食わされるのである。
(地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、やさしいことばをかけることなく、
(温顔をもって)向って来ることなく、頼りになってくれない。
(地獄に堕ちた者どもは)敷き広げられた炭火の上に坐し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

このように、ブッダは、『阿含経』から『涅槃経』に至るまで、パーリ仏典にも一貫して死後を説かれています。
ぜひ実際に近くの図書館で経典をパラパラめくってみてください。
簡単に見つかります。

それというのも、ブッダの説かれた仏教の目的は、生死輪廻からの解脱げだつだからです。
もし死後を説かれていないとすれば、ブッダが仏教を説かれた意味は、まったくなくなってしまいます。

ブッダが至るところに死後を説かれているのは、当然のことなのです。

地獄や輪廻を信じない人への教え

仏教では、肉体が死んだら精神も死んで、地獄をはじめ、六道輪廻を信じないという人に対して、『長阿含経』にはこのような話が説かれています。

コーサラ国のある村に住んでいたお金持ちのバラモンは、常々
肉体が死ねば、精神も働かない。
死者の霊を見たことなければ、地獄などから帰ってきたことも聞いたことがない

と考えて、他の人にも言っていました。
これは、因果応報の善悪の報いを否定するもので、現代でいえば、心は脳が生み出しているのだから、死んだら無になる、というのと同じような考え方です。

ある時、有名な仏弟子が村にやってきました。
バラモンは、仏教では六道輪廻を教えることを知っていたので、
一つこらしめてやろう
とわざわざその仏弟子のもとを訪ねて、議論を挑みました。

地獄に行って帰ってきた人はいない

私は、殺生盗み悪口愚痴で、死んだら地獄に堕ちるというのは信じられない。
なぜなら、今まで死んだ人が生き返って、どんな所だったか話した者は誰もいないではないか。
もしいたら私も信じよう。お前が死んで帰ってきて話してみよ

仏弟子はこう答えます。
なんだそんなことか。それならたとえをもって教えよう。
ある泥棒が、法律を破って、捕まったとしよう。
刑罰を受けている時に、私を家へ帰してくれと願えば、刑務所の看守は釈放してくれるだろうか

「それは無理だ」
それと同じように、悪を犯して地獄へ堕ちた罪人が、帰ってこれないのは当然だ

天上界に行って帰ってきた人はいない

すると、バラモンはこう言います。
それなら天上界はどうだ。罪の刑罰を受けているわけでもないから帰ってこられるだろう
それに対して仏弟子はこう答えます。
そんなことか、それならたとえをもって教えよう。
ある人がくみ取り式のトイレに落ちて首まで溺れたとしよう。
どうにか脱出して、何度も体を洗い、香水もつけた。
そして美しい服を着て、高級な食事を始めた。
その人がもう一度トイレに落ちたいと思うか

「それはさすがに思わない」
天上界もそれと同じだ。一度天上界に行ったら、この汚れた人間界にはとても戻れないのだ

人が死んでも魂が離れるのが見えない

するとバラモンはまだ信じられないことがあると言います。
私は死刑囚を縛り、釜に入れて蓋を閉め、釜ゆでの刑にしたことがある。
しかし、その死刑囚の魂が肉体から離れて行くのを私も含め、周りの者も誰も見なかった。
だから死後の世界はないと思う

それに対して仏弟子はこう答えます。
なんだそんなことか。
そなたは高いところに寝て、山や河の夢を見ている時、そばにいる家族はそなたの夢を知ることができるか

「それは無理だ」
それと同じように、心が肉体を離れても、そばにいる者は見ることはできないのだ

人間を解剖しても心は出てこない

するとバラモンはまだ信じられないことがあると言います。
それなら私は、死刑囚を刀で斬り殺して、解剖したこともある。
しかし、肉体のどこにも精神は見いだせなかった。
死ねば終わりであろう

それに対して仏弟子はこう答えます。
なんだそんなことか。
ある少年が、木に火をつけようとして、斧で切ったが火はつかなかった。
やり方が悪かったのかと思って、臼にいれて杵でついたが火はつかなかった。
ところがある人がやってきて、キリを回転させて火を起こした。
それと同じように、あなたが肉体を解剖して心を探そうというのは愚かなことだ。
心を見るには修行しなければならない

自分の考えを変えたくない

このように何を尋ねても、鮮やかに答えられてしまうので、最後にはバラモンも正直に負け惜しみを言います。
色々もっともらしいことを言うが、今さら考えを変えたらプライドが許さない
これに対しても仏弟子は、たとえをもって分かりやすく教えます。
「ブタを養っていた男が、乾いたフンを見つけて喜んで頭に乗せていると、ある人から、雨が降ったら大変なことになるぞと言われた。
ところが、その男はそれはそうかもしれないが、これを下ろしたらプライドが許さないという。
間違った考え改めない者は、それと同じである。

また、ある猪が山の中で虎にあった。
これはまずいと思った猪は、近くのフンの中に入って、虎に向かった。
虎はそのあまりに汚い作戦に、鼻を覆って立ち去ったという。
下劣な考えで聖者に向かうのはこのようなものである
こうしてとどめを刺されたバラモンは、ついに仏教に帰依したといわれます。

このようにお経には、死後があって、肉体が死んでも六道輪廻すると明らかに教えられているのです。

ところがそれにもかかわらず、一部に
ブッダは死後を説かれなかった
という仏教学者があります。
一体どういうことなのでしょうか。

死後を説かれなかったという仏教学者の根拠

仏教学者が「ブッダは死後を説かれなかった」という主張をする場合の、最大の根拠は『箭喩経せんゆきょう』というお経にある「無記」です。
無記」とは、
ブッダがお答えになられなかった」ということです。

それはどんなことかといいますと、このように説かれています。

ある哲学青年が、ブッダのお弟子となり、
如来にょらいの死後はどうなるのでしょうか?
とお尋ねしました。

それに対してブッダはお答えになられませんでした。
その代わり、有名な「毒矢のたとえ」を説かれています。

ある人が矢で射られて、毒矢が刺さったので、みんな驚いて抜こうとしたが、その人は、
ちょっとまった。この毒矢はどこから飛んできたのだろうか?
矢を射たのは男か女か。この毒の成分は何だろうか。興味がある。
それが分かってから抜こう

と、毒矢を抜かずに調べているうちに、死んでしまった。
(出典:『中阿含経』箭喩経せんゆきょう

このような、自分の救いに関係のない問いを仏教で「戯論けろん」といいます。

如来」というのは「」とか「ブッダ」と同じ意味で、生死輪廻から解脱した人のことです。

これは『中阿含経』に説かれていますが、
本当に『如来』の死後なの?
と思う人のために、対応するパーリ仏典の『中部経典』をみてみると、このように説かれています。

「如来は死後存在する」とも、「如来は死後存在しない」とも、「如来は死後存在しながらしかも存在しない」とも、「如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない」とも、こういうこれらのさまざまな見解を世尊はわたしに説かなかった。

ブッダが質問に答えられなかったのは、
如来の死後についてであり、言葉を変えればブッダの死後についてです。
ブッダの死後はどうなるのか」という問いは、この青年の救いとは関係なく、単なる知識欲を満たすための、「戯論けろん」だったからなのです。

知識欲は無限に満たしきることはできませんが、無常は迅速ですので、戯論を問題にしているうちに、人生が終わってしまいます。

この「無記」を根拠として一部の学者が
ブッダは死後を説かれなかった
と主張しているのです。

なぜこんなわずかな根拠から、至るところに説かれている死後を無視して、そんな主張をするのでしょうか。

学者が死後を認めたくない理由

まず、こんな主張をするのは、近代仏教学の仏教学者です。

本当の仏教を知りたいと思う人は、最近の仏教学者の説が本当の仏教だろうと思う人があるかもしれませんが、そうとも限りません。

近代仏教学というのは、大正時代以降、文明開化の風潮で、日本の仏教学者が西洋の文献学的な仏教研究を取り入れたもので、江戸時代にはなかったものです。

ところが、西洋の仏教研究は、19世紀に始まったもので歴史も浅い上に、2つの文化的な偏りがあります。
1つは、言葉と論理を重視することです。仏教は本来、言葉を離れた真理を、やむを得ず不完全な言葉で表されたものです。
ですから仏教で明らかにされた真理は言葉や論理で表せません。
ところが西洋の伝統では、真理は言葉で表せるものという前提があり、言葉と論理で理解できないことは否定してしまう傾向があるのです。

もう1つは、実証主義によるものですが、五感で確認できないものは認めないのです。
その為、どうしても現世的、世俗的になります。
仏教には、この世に生まれる前の過去世や、死んだ後の未来世が明らかに説かれているのですが、現世以外は認めたくないのです。

この2つの偏りから、仏教の何が理解できなかったかというと、輪廻転生です。
仏教では「無我」を説かれて、固定不変な霊魂は否定されているのに、死後「輪廻転生」するというのは、おかしいのではないかと言い始めたのです。

この質問については、『ミリンダ王の問い』という仏典の中でも取り上げられています。

仏教でもし無我でかつ輪廻するすれば、死んで生まれ変わった後の存在は自分なのでしょうか?
この問いにナーガセーナという僧侶は次のように答えています。
夜の初めにロウソクを灯したら、夜更けの火と、明け方の火は異なるだろうか?
それは同じでもないが、異なってもいない。
ちょうどそのように変わりながら続いているのが私たちの命なのです。

仏教では「無我」も「輪廻」もどちらも説かれており、仏教を正しく理解すれば何ら矛盾はありません。

死後も続いていく主体について、死んだ後になると分かりにくくても、生きている間ならまだ分かりやすいのではないでしょうか。
人間の肉体は新陳代謝を行い、脳細胞でさえも入れ替わっています。
大体5年から7年すると、肉体の物質的なものはすべて入れ替わります。
心で考えていることも、当時とは違うと思います。
でも7年前と別人ではありません。
10年ローンを組んで、10年前に作った借金があれば返さなければなりません。
大けがをしたり、記憶喪失になってさえも、自分は自分です。
当時の自分とはすべてが変わっているのに、一体何が続いているのでしょうか?
このような固定不変な実体が何もなく、変わりながら続いていくことを無我というのです。

無我について、さらに詳しくは以下の記事もご覧ください。
仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い

このように、無我について普通に理解すれば何の問題ないのですが、当時の仏教学者は理解できませんでした。
そしてこのような学者は、観念的で理論的なことは高度で、比喩的なことは程度が低いと考える傾向があります。
つまり、同じようにブッダの説かれていることでも、自分の価値観に合わせて、西洋哲学に似ている「無我」は程度が高く、地獄や天上界といった「輪廻転生」は低レベルだと評価します。
そして仏教は合理的だから「無我」とか、『箭喩経せんゆきょう』の「無記」が本来の仏教で、経典の至るところに説かれる「輪廻転生」は、当時のインド文化の影響で、ブッダは当時の人々に合わせて使われたが、ブッダの本心ではない、などと、何の根拠もないことを言い出したのです。
非常に主観的な態度と言わざるを得ません。

もし仏のさとりよりも深い智慧を持っている人ならば、自分の考えの範囲内で仏教が理解できるかもしれませんが、ブッダよりも乏しい智慧しか持たない人は、自分の考えに合わせて仏教を理解しようとしても、理解しきれません。
実際には現在世だけで無我を理解するよりも、三世を貫く輪廻を知るほうがはるかに先を見通す高度な智慧が必要でしょう。

死後は説かれなかったという人の重大な見落とし

ブッダは死後を説かれなかった」という人には、重大な見落としがあります。
何を見落としているかというと、自分も必ず死ぬことです。

例えば大学時代に何をするかは、卒業後に何をするかに関係があります。
大学を卒業して弁護士になる人は法律の勉強をします。
技術者になる人は工学の勉強をしますし、
医師になる人は、医学の勉強をします。
大学時代はあっという間に終わりますので、
社会に出てからどうなるか分からないと、
在学中に何をしていいかも分かりませんし、
関係ないことに大学時代を費やしてしまうと、
後でかなり不利になります。

それと同じように、死は100%確実な未来です。
死んだらどうなるか分からなければ、
死ぬまでに何をしていいかも分かりませんし、
確実な未来が分からないので心からの安心もできません。

実際、人間ドックを受けたら、膵臓がんが見つかったらどうでしょうか。
どんな病気かと思って調べたら、5年生存率は約8%です。
92%の確率で5年以内に死ぬことが分かります。
人生観が変わるのではないでしょうか。
人生観が変わるとすれば、自分は5年以内には死なない前提で人生を考えていた、ということです。

もうすぐ死ぬとなれば、仕事もプライドも吹き飛びます。
問題になるのは、自分は死んだらどうなるか、死後のことだけなのです。

江戸時代に、仏教を研究して否定していた平田篤胤あつたねという学者は、最後、重い病気にかかると、心配な心が起きてきました。
今まで仏教を非難してきたが、自分は死んだらどうなるんだろう
という不安です。
その不安を妻に打ち明け、お経を読んでもらって死んでいったといいます。

色々と理屈をこねて「ブッダは死後を説かれなかった」などと言っていられるのは、自分も早晩死ぬという現実をすっかり忘れているのです。

仏教を誤解した人の死後は?

このように、仏教を誤解して、無我がよくわからなかった人たちの死後について、ブッダは『雑阿含経』にこのように教えられています。

我が説く所を聞き、ことごとく義を解せずして慢を起し、無問等は無問等に非ざるが故に、慢、すなわち断ぜず。
慢、断ぜざるが故にこの陰を捨ておわりて陰と与に相続して生ず。
この故に仙尼、我れすなわち記説せり。
この諸の弟子は身壊命終して彼々の処に生ずと。
ゆえんはいかん。彼は余の慢、あるをもっての故なり。

我が説く所を聞き、ことごとく義を解せずして慢を起し」とは、私の説く仏教の教えを聞いて、その意味をよく理解せずに、自惚れている、ということです。
次の「無問等は無問等に非ざるが故に」とは、無我の道理に安住していないから、ということです。
やはり自分の五感に執着して、仏教の教えではなくて自分が正しいと思っている人は、無我がよく理解できていないので、自惚れているのです。
そんな人は、「身壊命終して彼々の処に生ず」と言われているように、やはり肉体を失って命が終われば、死後、次の迷いの世界に生まれる、とブッダは死後のことを説かれています。
しかもそれはなぜかというと「彼は余の慢、あるをもっての故なり」といわれているように、無我とはどんなことか分からずに、自惚れているからです。

仏教を信じない人の末路

そして仏教を信じないと、「死後、生まれ変わる」と『大無量寿経』にはこのように説かれています。

先聖諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、死後、神明かわりて生ずることを信ぜず、善をなせば善を得、悪を為せば悪を得ることを信ぜず。

これは、仏の説かれた教え、仏教を信ぜず、道を修めて迷いを離れることも信ぜず、死後、阿頼耶識あらやしき生まれ変わることも信じない。
善因善果、悪因悪果の因果の道理も信じない。

仏教では無我であるにもかかわらず、何が生まれ変わるのかというと、阿頼耶識あらやしきです。
阿頼耶識は固定不変な霊魂ではありません。
自分のやった行いを蓄えて、変わり続けながら流れていく永遠の生命です。
仏教では、死んだ後は、死ぬまでの行いによって、因果の道理に従って決まると教えられているのです。

このような仏教の教えを信ぜず、生まれ変わりも信ぜず、因果の道理も信じない人は、死んだらこうなると説かれています。

自然の三途、無量の苦悩あり。
その中に展転し、世々劫をかさねて出ずるとき有ること無し。
解脱を得難し。痛み言うべからず。

因果の道理にしたがって、地獄餓鬼畜生の3つの世界に生まれ、限りない苦悩を受ける。
その3つの世界を生まれ変わり、死に変わり、何億年、何兆年たっても、出ることはできない。
解脱する道に進むこともできない。
その痛みは言葉で表現できない。

現代日本における影響

今回は、「ブッダは死後の世界を説かれていない」「死後の世界や地獄がない
という人たちの間違いについて解説しました。

仏教には当然死後の世界や地獄などの輪廻は詳しく教えられています。

なぜ「ブッダは死後の世界を説かれていない」と主張する人がいるのか、
その根拠は『箭喩経せんゆきょう』にある「無記」です。
このわずかな根拠だけで、
ブッダは死後について語られていない
としてしまったのが近代仏教学の学者です。

彼らは言葉で説明できないものや五感で認識できないものは信じないという
自分の価値観に合わせて、仏教を解釈してしまったのです。

もし、近代仏教学の学者がいうように、ブッダが死後を「説かれなかった」とか、
説かれたとしても本心ではない」とすれば、
輪廻転生からの解脱という仏教の目的も意味がなくなり、
すべてはブッダのいわれる戯論になってしまいます。

もしそうなれば、仏教の教えはこの近代仏教学の主張によって破壊されることになります。
この近代仏教学によって、すべての人が本当の幸せになれる道が
閉ざされてしまいます
から、
何もそんなことを主張した、仏教学者の書いた難しい本を読む必要もありませんし、
そもそも学者の言うことがすべて正しいとは限らないのです。

私たちとしても、このように自分の考えで
2600年前から続いてきた仏教の教えを曲げてしまうということがありますので、
仏教を学ぶときは、自分の理解に仏教の教えを合わせるのではなく、
仏教の教えを自分が理解しなければなりません。

当然ですが注意が必要です。

ところがこの主張は、日本の仏教学会で受け入れられてしまい、
仏教の大学で学ぶ仏教は、このような西洋の影響を受けた近代仏教学になってしまいました。
最近では伝統仏教の教団の大学でも、この近代仏教学の影響を大きく受けていますので、
現代の日本の大学で、自分の人生に関係のない学問的なものが多くなり、
すべての人が本当の幸せになれる、本来の仏教は学べなくなってしまったのです。

このままでは、仏教伝来以来1500年間続いてきた仏教は、
私たちの世代で日本から消えてしまいます。

そこで、2600年前から説かれている
私たちを本当の幸せにする力のある本来の仏教を、電子書籍とメール講座にまとめました。
ただ、もしあなたが仏教を破壊する学者たちに共感するようなら読まないでください。
そうでない場合は、今すぐ本当の仏教を学んで、
私たちの手で、本当の仏教の教えを伝えていきましょう。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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