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生きる意味を、知ろう。

煩悩即菩提とは?

煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」とは、仏教に教えられる究極の幸せです。
一体どんな境地なのでしょうか?
そして、どうすれば煩悩即菩提の身になれるのでしょうか?

煩悩即菩提とは

煩悩即菩提の用例

煩悩即菩提は、よく生死即涅槃と共に、対句で使われます。
例えば源信僧都げんしんそうずの『往生要集おうじょうようしゅう』にはこのようにあります。

生ぜず滅せず、けがれず浄からず。一色・一香も中道にあらずといふことなし。生死即涅槃、煩悩即菩提なり。
(漢文:不生不滅 不垢不淨 一色一香 無非中道 生死即涅槃 煩惱即菩提)

源信僧都や『往生要集』については以下の記事をご覧ください。
源信(恵信)僧都の生涯と往生要集の教えを分かりやすく解説

仏教辞典での意味

煩悩即菩提について、まず仏教の辞典で調べてみましょう。
このようにあります。

煩悩即菩提
ぼんのうそくぼだい
煩悩と菩提(悟り)とは、いずれにも固有・不変の本質がない(くう)という点で、本来は不二ふに相即そうそくしていること。
煩悩がそのまま悟りの縁となること。
原始仏教・部派仏教では、煩悩を断ち切って菩提を得ると説かれ、煩悩と菩提は対立的に見られた。
大乗仏教においても菩薩ぼさつは煩悩を断ち切ってその階位を登っていくと説かれる場合があるが、究極的には煩悩と菩提の不二・相即が説かれる。
つまり、積極的にはすべては真実不変の真如しんにょの現れであり、悟りの実現をさまたげる煩悩も真如の現れにほかならず、それを離れて別に悟りはないことをいう。
生死即涅槃しょうじそくねはん>とともに、大乗仏教の究極を表す句として有名となった。

これだと理論的、概念的なことが説明されているだけである上に、分かりにくいのではないでしょうか。

世間でよくいわれる意味

これを分かりやすくいうと、煩悩即菩提とは、煩悩菩提が不二であり、一体である、と言っています。
本来は、煩悩というのは、私たちを苦しめるもので、菩提とは、仏のさとりであり、究極の幸せです。
その煩悩がそのまま菩提である、という意味になります。

なぜそんなことがいえるのかというと、煩悩もくう、菩提も空、両方空なので、一体のものだとみる、空観くうがんによります。
空というのは、煩悩には実体はなく、菩提にも実体はないということです。
両方空なので、それが一体だ、という意味です。

仏教では、諸法無我しょほうむがといって、すべては空です。
ちなみに空については以下の記事をご覧ください。
色即是空の恐ろしい意味を分かりやすく解説

そういうことで、空であれば一体だという意味では、何でも即になるので、
人間即スマホでも、太陽即リンゴでも何でもいいのですが、
なぜ煩悩と菩提をとりあげているのかというと、煩悩と菩提が反対だからです。
この意味の煩悩即菩提の場合は、何でも即で結べます。

このように、客観的なことが解説してあって、主観的なことは書かれていないというのは、辞典らしいと言えば辞典らしいのですが、
これでは煩悩即菩提がどんな境地なのかは分かりません。
仏教というのは、幸せになるための教えなので、
その仏教の目的からすればもう一歩です。

そこで、煩悩即菩提について、仏教の趣旨に照らして、
仏教辞典では分からない深いところまで分かりやすく解説していきます。

煩悩とは

煩悩即菩提」の「煩悩ぼんのう」とは、
私たちを「」わせ「」ませるもの
ということです。

全部で108ありますが、
中でも最も私たちを苦しめるのは、
三毒の煩悩」といわれる、
怒り愚痴の心です。

私たちは、お金や財産、地位、名誉を求めて争い、
恋人を求めて欲の心に馳せ使われて苦しんでいます。

自分の思い通りにならないことがあればイライラし、
腹を立てれば人間関係を焼き尽くし、
怒りの心で苦しんでいます。

誰か気に入らない人がいれば、
嫉妬やねたみ、恨み呪いの愚痴の心で、
陰口や意地悪をし、日々、嫌いな人を呪い続けて
自ら苦しんでいます。

このように、自らを苦しめている心が煩悩です。
私たちを苦しめるものが、お金や財産、地位、名誉や周りの人々ではなく、
自分の心だと知らされれば、
煩悩をなくせば幸せになれると思います。

煩悩について詳しくは下記をご覧ください。
煩悩とは?意味や種類、消す方法をわかりやすく網羅的に解説

煩悩をなくせば幸せになれる?

そこで煩悩をなくすために、
仏教では、出家して、戒律を守り、
煩悩をなくす修行を行います。

では仏教では、煩悩をなくせばいいのでしょうか。

禅宗の公案に、婆子焼庵ばすしょうあんというものがあります。
婆子焼庵」とは、「婆子」はお婆さんのことで、
お婆さんが庵を焼いたという意味です。
この話から、枯木寒巖こぼくかんがんという四字熟語も生まれているくらい有名な話です。
それはこんな話です。

枯木寒巖(婆子焼庵の公案)

あるお婆さんが、若くて見所のある禅僧のスポンサーになり、
人里離れた山奥にを建て、衣食を布施して存分な修行をさせました。

十数年の年月が流れたので、かなり修行が進んだだろうと一つのテストを試みます。
使っていた腰元の中で、一番美しい娘を選んで、秘かに何事かを言いつけます。
深くうなずいた娘はお婆さんに案内されて、真夜中一人で山中の座禅堂に向かいました。

お堂の中をのぞくと、薄暗い灯明の下、僧は一人で真面目に座禅に打ち込んでいます。
「こんばんは……」
と声をかけても何の反応もありません。
そこでお婆さんに言われた通り娘は、堂の中へ入り、僧の隣に座ります。
「お一人で、寂しゅうございましょう。
私がお慰めしましょうか」
娘は姿態をくねらせ僧に寄りかかり、
「こんなお気持ち、どうかしら?」
となまめかしく耳元で囁きます。
ところが、僧は顔色一つ変えずにこう言い放ちました。

枯木寒巖こぼくかんがんによる、三冬暖気さんとうだんきなし
(漢文:枯木倚寒巖 三冬無暖氣)

寒巖」とは、冷え切った岩のことです。
あなたが私に寄りかかったのは、冷え切った岩に枯木が寄りかかっているようなものだ。
三冬」とは、冬の三ヶ月間です。
それは三ヶ月間の冬には暖かさがまったくないように、
人肌のぬくもりでも、私の心は少しも動かない、という意味です。
心頭滅却すれば火もまた涼し
と言った人もいましたが、瞑想修行によって、心が動じない状態に達したということです。

仕方なく娘は帰ってきて、その一部始終を老女に報告しました。
すると、欲の心を断ち切ったような僧の言動に感心するかと思いきや、
老女は大いに落胆します。
そして「まだ、そんな所にウロチョロしていたか。見損なった」
と僧への布施を一切打ち切り、修行していた座禅堂まで汚らわしいと焼き払ったといいます。
この僧侶の答えでは落第だったということです。

それではここで問題です。
あなたがこの禅僧だったら、娘に対して何と答えますか?

もちろん欲望に流されるのは論外です。
だからといって、欲望が起きないというのも、よくないということです。
ですが、欲望に流されるよりも、欲望に惑わされないほうが立派なことなのに、
なぜ老婆が落胆したかというと、煩悩を問題にしているのは、仏教の入り口に過ぎないからです。
仏教に明かされた、底知れない深遠な世界は全然その程度ではありません。
仏教には確かに煩悩を問題にするところからしか入れませんが、
この僧はいつまでもそれしか知らないので、
お婆さんはガッカリしたのです。

人は煩悩の塊

もし本当に煩悩が一切なくなれば、それで悟りが開けるのですが、
実際には、煩悩をなくそうとすればするほど、
煩悩が噴き上がってくる自分の心が知らされます。

例えば欲の心なら、
欲望のままに好き放題やっている私たちは、
欲望を抑えるくらい簡単なように思います。

ところが、実際に欲望を抑えようとしてみると、
欲の心の強さが知らされて来ます。
ちょうど、美味しい物を好きなだけ食べているときは
食欲を感じませんが、ダイエットや食事制限をしてみると、
お腹がすいて、食べたいという衝動が常にわき上がり、
食欲の強さが実感されてくるようなものです。

仏教では、すべての人は「煩悩具足ぼんのうぐそく」である
と教えられています。

具足」とは、それでできている、
それ以外に何もないということです。
雪だるまから雪をとったら何も残らないように、
人間から煩悩をとったら何も残らない、
煩悩の塊が私たちだということです。

もし私たちに清らかな心があって、
それが煩悩によってさびついているだけならば、
厳しい修行によって磨いていけば、
やがてきよらかな心が磨き出されることも
あるかもしれませんが、
煩悩具足ということは、100%煩悩です。

真っ黒な炭の塊は、どれだけ磨いてもきれいになることはなく、
何もなくなってしまうように
煩悩具足の私たちがいくら煩悩をなくそうとしても
それでさとりを得ることはできないのです。

煩悩即菩提の即とは

ところが、『維摩経ゆいまぎょう』というお経には、このように説かれています。

煩悩を断ぜずして涅槃に入る。
(漢文:不斷煩惱而入涅槃)

煩悩を断ちきることなく、涅槃に入ることができるのです。

それはどういうことかというと、煩悩をなくすことができないとすれば、
幸せになるには、煩悩をそのまま幸せに転じるしか
ありません。

煩悩即菩提の「」とはそのまま転ずるということです。

西洋と東洋の考え方の違いでいえば、
西洋では、悪いものをなくそうとするのに対して、
東洋では、悪いものをいいものに
転じようとするようなものです。

西洋の医学では、
ガンのような悪いところがあれば、
手術で切り取ってなくそうとします。

それに対して、東洋の医学では、
切り取らずに、漢方薬を飲ませたり針を打ったりして、
そのまま善く転じようとします。

西洋のチェスでは、
相手の駒をとったらそれで終わりですが、
東洋の将棋では、
相手の駒をとったら味方として復活します。

ちょうどそのように、
煩悩を、そのまま菩提に転じてしまうのが、
煩悩即菩提です。

この「即」を而二不二ににふにともいいます。

而二不二ににふに

「即」について、詳しくいうと、不二法門といわれます。

特に煩悩即菩提の「即」は、不二法門の中でも而二不二ににふにと言われます。
而二不二ににふにとは、「而二」は1つであって2つ、「不二」は2つであって1つということ。
コインの裏表のような関係で、切り離せないほど密接な関係が煩悩と菩提にはあります。

これを言い換えると、煩悩がそのまま菩提に転じるということなのです。

煩悩即菩提の「菩提ぼだい」とは喜びのことです。

これが仏教に教えられる究極の幸せです。
ではその煩悩即菩提の世界は、どんな世界なのでしょうか?

煩悩即菩提は言葉で表せない絶対の世界

ところが、煩悩即菩提の世界は、
究極の幸せですので、
言葉で表すことは困難です。

たとえば、多くの人が知っている、
コーヒーの香を言葉で表すことができるでしょうか?

言葉には限界がありますので、
コーヒーの香を知らない人に、
言葉で伝えることはできないと思います。

このようなありふれた体験でも難しいのに、
ましてや仏教を聞かなければ誰も知らない
究極の幸せです。

煩悩即菩提は、言葉では到底表しようのない世界なのです。

煩悩即菩提を表されたたとえ

煩悩即菩提の境地は、言葉で表すことはできないのですが、
それでも、何とか伝えようと、
色々なたとえで教えられています。

氷と水の関係

煩悩がそのまま喜びに転ずることを
よく氷と水にたとえられてます。
例えば親鸞聖人はこのように教えられています。

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし

罪障とは煩悩と同じです。
功徳は菩提と同じです。
体となるということは、罪障がそのまま功徳になる、煩悩即菩提のことをいわれています。

ですが、なかなか分からないだろうということで、煩悩即菩提を氷と水にたとえられています。

氷が煩悩で、水が菩提を表していますが、
氷が多ければ多いほど、水も多くなります。

ちょうどそのように、
煩悩が多ければ多いほど、喜びも大きくなります。

借金がそのまま貯金になってしまうようなものです。

渋柿の渋がそのまま甘みかな

これを教えられた歌に、昔から
渋柿の渋がそのまま甘みかな
という言葉があります。

表面に白い粉をふいて甘い干し柿がありますが、
あれは元から甘かったのではなく、
渋柿を干してできたものです。

渋柿は、少しかじっただけで、
口が曲がるほどの渋みがありますが、
渋柿の渋を抜いて、甘みを入れて
干し柿にしたのではありません。

渋柿の渋が甘みになったのです。
ですから渋柿が渋ければ渋いほど、
甘い干し柿ができます。

ちなみにこれは、たとえで表しにくいところですが、
煩悩がやがて悟りの縁となることではありません。
「即」というのは、そのままということで、
同時にあるのです。

これが同時であることを表したたとえには、
太郎と美少女のたとえ」というのがあります。

男女関係のたとえ

昔、太郎さんは、山を一つ越えて
何キロも離れた隣村の学校に通っていました。
雨がふると大変です。遠いしぬれるし坂道だし、
学校へ行く気が失せてしまいます。

ところが、ある日、同じ村に
美少女が引っ越してきて、
女の子一人で山道を行くのは危ないので、
二人で一緒に登下校することになったのです。

それから学校に行くのが楽しみになりました。
特に、雨がふると最高です。
カサを持ってこなければ、
彼女のカサに入れてもらえます。

山も道も少しも変わらないのに、
今まで苦しみだった山道は、
遠ければ遠いほど嬉しく、
雨は降れば降るほど嬉しくなったのです。

このように、煩悩は少しも変わらないのに、
そのまま喜びに転じてしまうのが、
煩悩即菩提です。

これは頭で理解しようとしても無理ですが、
煩悩即菩提の身になって、
煩悩即菩提の体験をすることは
誰でもできます。

どうすれば煩悩即菩提になれるのか

ではどうすれば煩悩即菩提の身になれるのかというと、
煩悩と菩提は一つだと気づくとか、思い込むということではありません。
煩悩即菩提にならないのに、
頭だけで気づいたり思い込めるものではありません。
それに、心がけを続けないといけないので、努力が必要です。

ところが、ひとたび煩悩即菩提になれば、心がける努力も必要なくずっと煩悩即菩提です。
何があっても、薄れたり、色あせたり、崩れることはありません。
変わらない幸せの世界です。

しかも、煩悩即菩提といわれるように、
煩悩あるがままで、究極の幸せになれるわけですから、
仏教では、苦悩の根元は煩悩ではないと教えられています。
その煩悩と別にある苦悩の根元を断ち切れば、
煩悩即菩提の幸せの身になれるのです。

では、その苦悩の根元とは何か、
どうすれぱ苦悩の根元を断ち切れるのか、
ということは、仏教の真髄ですので、
メール講座と電子書籍にまとめました。
一度見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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