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分別とは?

分別」といえば、ゴミの分別とか、分別のある人という時に使われます。
ですが、仏教ではまったく違う意味で使われています。
それは煩悩ぼんのうを生み出す心の働きです。
分別して苦しんでいるといえます。
それが覚りを開くと無分別智むふんべつちになります。
分別とは一体どんな心なのでしょうか。

分別の読み方

分別には2通りの読み方があります。
濁点をつけた「ぶんべつ」と、濁点なしの「ふんべつ」です。
1つ目の「ぶんべつ」と読んだ場合は、種類によって分けることです。
区別したり区分したりすることであり、それらの区別や区分も「ぶんべつ」といいます。
これは大体15世紀から使われていることが分かっています。

2つ目の「ふんべつ」と読む場合は、さらに2つの意味があります。
1つ目は物事をわきまえることです。
物事の道理、善悪、損得などを考えることですので、いい意味です。
普通、「あの人は分別がある人だ」といえば、こちらの物事をわきまえた人だという意味でほめられています。
この意味では、大体12世紀から使われています。
2つ目は仏教の言葉で、対象を誤って捉え煩悩を生じる心の働きです。
これは苦しみの原因なので、悪い意味です。
これは『勝鬘経しょうまんぎょう』など色々なお経に説かれていますので、
勝鬘経義疏しょうまんぎょうぎしょ』を書かれた聖徳太子の6世紀頃には使われています。

このように、分別はもともと仏教の言葉なのですが、
意味が深いので、だんだん違う意味で使われるようになったのでしょう。
では、もともとの仏教でいわれる「分別」はどんな意味なのでしょうか。

分別とは

分別とは、特に大乗仏教で説かれている心の働きです。
特に「般若経はんにゃきょう」で繰り返し説かれます。
この分別がなくなったのが無分別智むふんべつちですが、
これは悟り智慧です。
般若経」の般若というのはプラジュニャーの音写ですが、
プラジュニャーといえば無分別智です。
それくらい重要なのが、無分別智であり、分別です。

分別が迷いの原因であることは、龍樹菩薩の『中論』にも説かれています。

業と煩悩の滅尽により解脱がある。業と煩悩は分別より生じる。
それら(分別)は戯論より生じる。しかし戯論は空性において滅する。

(サンスクリット karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ
te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate)

業と煩悩の滅尽により解脱がある」というのは、
解脱げだつできずに苦しみ迷いの輪廻にあるのは、と煩悩が原因だということです。
煩悩というのは、怒り、ねたみそねみの愚痴の心です。
欲や怒り、愚痴の煩悩によって、悪い行いである悪業を造ります。
その悪業によって苦しみ悩んでいるということです。
その自らを苦しめる業と煩悩は、どうして生じたのでしょうか。

次に「業と煩悩は分別より生じる」と教えられています。
その業と煩悩の原因は「分別」だということです。
さらに分別の原因は戯論けろんだと説かれています。
戯論」とは言語表現のことです。
言語表現によって生じる分別が、煩悩、そして業を生じる原因だ、ということです。
これはどういうことなのでしょうか。
この分別については、唯識ゆいしきで詳しく解説されています。

唯識とは

唯識ゆいしきというのは、心について詳しく解明された教えです。
4世紀か5世紀の世親菩薩せしんぼさつが大成しました。
唯識では、この世のあらゆる存在は心が生み出したものだと教えられています。
このことを明らかにするために重要なのが「八識」と「三性さんしょう」です。
多くの人はそれを別の教えだと思っていますが、その2つをつなぐのが分別です。
それが世親菩薩の『唯識三十頌ゆいしきさんじゅうじゅ』に30の詩でまとめられています。
唯識三十頌』では、まずすべては心が生み出していると宣言します。

仮に由りて我法と説く 種種の相転ずること有り
彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり

(漢文:由仮説我法 有種種相転
彼依識所変 此能変唯三)

」というのは言語表象です。
この世のありのままのすがたは、言葉では言い表せないのですが、
言葉を使わないと捉えられないので、

あえて言葉を使って捉えると、「」と「」になる、というのが
仮に由りて我法と説く」ということです。
」というのは主体、普通に「」と考えているものです。
」というのは対象、「」以外のすべてです。
それが「種種の相、転ずること有り」というのは、様々なすがた形がある、
色々なあり方で現れる、ということです。

そして「彼れは識所変に依る」というのは、
その色々なあり方で現れるこの世のすべては、識の変じて現れたものだ、
心が転じたものだ、ということです。
これを「識転変」といいます。
これは世親菩薩が初めて明らかにしたことで、
それまでは心が顕現したものだといわれていました。
顕現」だと、心からあらゆる存在への方向性だけしか表していないのですが、
識転変」になると、あらゆる存在から識への作用も同時に表しています。

その識転変をする心に3つあるというのが、
此れが能変は唯三のみなり」ということです。

その3つの心というのは、
1つには阿頼耶識あらやしき
2つには末那識まなしき
3つには前六識です。
前六識というのは、意識と、眼識げんしき耳識にしき鼻識びしき舌識ぜっしき身識しんしきの6つの心です。
この6つはひとまとまりで対象を転変します。
ですから識としては全部で8つあり、この8つの心を「八識」といいます。

どんな8つかというと、次の8つです。

八識はっしき
  1. 眼識げんしき
  2. 耳識にしき
  3. 鼻識びしき
  4. 舌識ぜっしき
  5. 身識しんしき
  6. 意識いしき
  7. 末那識まなしき
  8. 阿頼耶識あらやしき

それぞれどんな心なのか、詳しくは以下をご覧ください。
阿頼耶識とは?意味と八識の仕組みを簡単に分かりやすく解説

次に『唯識三十頌』では、この3つの心の働きを説いた後、
第20偈から三性さんしょうを説きます。
三性とは、3つの存在の在り方のことで、
遍計所執性へんげしょしゅうしょう依他起性えたきしょう円成実性えんじょうじっしょうの3つです。

三性さんしょう
  1. 遍計所執性へんげしょしゅうしょう
  2. 依他起性えたきしょう
  3. 円成実性えんじょうじっしょう

まず1つ目の遍計所執性へんげしょしゅうしょうというのは、みんなが見ている普通のあらゆる現象です。
識が転じて現れた我と法に、名前をつけて、それに実体があると思っています。
そんな思い込みの虚構が遍計所執性です。

2つ目の依他起性えたきしょうというのは、他によって起きるとあるように、
識の因によって生じたものです。
実際は依他起性です。

3つ目の円成実性えんじょうじっしょうは、依他起性から遍計所執性が離れたものです。
言葉を離れて、ありのままを経験する直観智です。
さとりを開いて見えるのは円成実性です。

このように、唯識であることを明らかにするために、
阿頼耶識をはじめとする八識と、三性を説かれているのですが、
この2つは別のものではありません。
八識と三性をつないでいるのが「分別」です。

分別の働き

この「分別」の働きについて、『瑜伽師地論ゆがしじろん』に詳しく教えられています。
瑜伽師地論』では、世親菩薩のお兄さんの無著菩薩むじゃくぼさつの師匠である
弥勒菩薩が説いたと言われていますが、
チベットでは無著菩薩が説いたと伝えられています。
全部で100巻ありますが、その本論である本事分の中の菩薩地に、分別について説かれています。

分別というのは、言語表現しえない事物に名称を与え、認識する働きです。
事物を言語表現の基体として、経験する世界を作り出すのが分別です。
その働きを8つに分けて説いています。

「八種の分別ふんべつ
  1. 自性分別じしょうふんべつ
  2. 差別分別しゃべつふんべつ
  3. 総執分別そうしゅうふんべつ
  4. 我分別がふんべつ
  5. 我所分別がしょふんべつ
  6. 愛分別あいふんべつ
  7. 非愛分別ひあいふんべつ
  8. 彼俱相違分別ひぐそういふんべつ

1つ目の自性分別じしょうふんべつとは、名前をつけて、これは何々であると判断する働きです。
2つ目の差別分別しゃべつふんべつとは、自性分別で捉えたものが「よい」とか「青い」と判断する働きです。
3つ目の総執分別そうしゅうふんべつとは、集合を一つと捉える。
例えばたくさんの木を森と捉えます。
この3つによって事物を捉えます。
これらと自分との関係を考えるのが4つ目と5つ目です。
4つ目の我分別がふんべつは、「私は何々である」と思います。
5つ目の我所分別がしょふんべつは、「私には何々がある」と思います。
この自分との関係によって6つ目から8つ目の判断を行います。
6つ目の愛分別あいふんべつは、好ましいものであると判断します。
7つ目の非愛分別ひあいふんべつは、好ましくないものであると判断します。
8つ目の彼俱相違分別ひぐそういふんべつは、好きでも嫌いでもないという判断をします。
こうして愛分別から貪欲とんよく、非愛分別から瞋恚しんい、総執分別から愚痴の三毒の煩悩が生じます。

このように、8種の分別が、言語表現しえない事物を、ありのままに理解せずに言語表現の基体となる事物を生み出し、自我意識と、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒の煩悩を生み出します。
こうして主体である我と、対象である法が生じるのです。

ですので、分別は迷いの世界の原因なのです。
龍樹菩薩が『中論』で、「業と煩悩は分別より生じる
といわれていたのも、どういうことなのか分かったと思います。

分別が事物を捉えるメカニズム

瑜伽師地論』の本事分を解説したといわれる摂決択分では、
この分別の事物を捉える働きを五事ごじによって明らかにしています。
五事」とは、「そう」「みょう」「分別ふんべつ」「真如しんにょ」「正智しょうち」の5つです。

五事ごじ
  1. そう
  2. みょう
  3. 分別ふんべつ
  4. 真如しんにょ
  5. 正智しょうち

1つ目の「そう」とは、言語表現の基体となる事物です。
2つ目の「みょう」とは、「」に対する名称です。
3つ目の「分別ふんべつ」とは、三界を対象とする心とその働き(心・心所)です。
4つ目の「真如しんにょ」とは、言語表現の基体とならない事物です。
5つ目の「正智しょうち」とは、言語表現によらずに真如を捉える智慧です。
真如と相は、一つのものではありませんが、別のものでもないという
不一不異ふいつふいの関係にあります。

五事

相を対象として名称をつけるのが分別です。
そして菩薩地で説かれた8つの分別により、経験世界、自他、煩悩を生じます。
それもまた分別を生じるので、分別は相からも、分別からも生じます。

ここで三性についても、五事に関連して教えられています。
遍計所執性は、相と名と分別に基づく言語表象がその通りにあると思う虚構です。
依他起性は因果の道理による存在様態です。
五事の中では相、名、分別、正智を含みます。
円成実性は真如です。

このような五事や三性は、もともと「般若経」の弥勒請問章にも説かれていることです。

では、分別とはどんな存在なのでしょうか。

虚妄分別とは

分別がどんな存在なのか、『中辺分別論ちゅうべんふんべつろん』に教えられています。
中辺分別論』とは、詩の部分がやはり弥勒菩薩、
散文の解説部分が世親菩薩の説かれたものです。
その一番最初にこう説かれています。

虚妄分別は有なり。彼の処に二はあることなし。
彼の中に唯だ空のみ有り。此においてまた彼あり。

(漢文:虚妄分別有 彼処無有二
彼中唯有空 於此亦有彼)

虚妄分別」とは、虚妄を生み出す分別ということです。
その「虚妄分別は有なり」とは、虚妄分別はある、ということです。
彼の処に二はあることなし」とは、
その虚妄分別において、認識主体である我と、認識対象である法は存在しない、
ということです。

彼の中に唯だ空のみ有り」とは、虚妄分別の中にくうは存在するということです。
唯識派の空というのは、龍樹菩薩をはじめとする中観派ちゅうがんはの空とは意味が違います。
中観派の空について、詳しくはこちらをご覧ください。
龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の大乗仏教と空とは?

唯識の空は、ここに説かれているように、分別において認識主体も認識対象も存在しないことです。
此においてまた彼あり」とは、空において、虚妄分別は存在する、ということです。
空といっても何も存在しないのではなく、
ここでは固定不変の実体がないという意味でもなく、
虚妄分別は存在し、その中に認識主体と認識対象が存在しないことが空なのです。

このあとに、認識主体と認識対象を伴う認識が生じるけれども、
認識対象が存在しないので、認識主体も存在しない。
故に認識は虚妄分別である、と論証していきます。
このように、分別とは、虚妄を生み出す存在なのです。

八識と三性の関係

この分別の働きを踏まえると、八識と三性がつながります。
この世のすべては、識が三通りに転変したものですが、その識転変が分別です。
唯識三十頌』にはこう説かれています。

是の諸の識転変して 分別たり所分別たり
此に由りて彼は皆無し 故に一切唯識のみなり

(漢文:是諸識転変 分別所分別
由此彼皆無 故一切唯識)

阿頼耶識と末那識と前六識の3つの識転変は、分別であり、分別されたものである、ということです。
ですから、分別というのは八識のことです。
このことは、『瑜伽師地論』で、
分別とは「三界を対象とする心とその働き(心・心所)」と教えられていたことを
さらに詳細に明らかにされたことになります。

その分別である八識は、三性でいえば依他起性です。
これは存在します。
その分別である八識によって分別された事物が遍計所執性です。
それで、「此に由りて彼は皆無し」といわれています。
これは存在しない虚構です。
故に一切唯識のみなり
だから一切は分別である心の生み出したものであり、唯識なのです。

そして円成実性は、依他起性が遍計所執性(認識表象)を常に離れた状態です。
これを無分別智といいます。

このように八識と三性の関係は、
八識(分別)が依他起性、
八識から生じた認識表象が依他起性、
認識表象を離れた八識が円成実性ということになります。

このように分別とは、八識のことであり、
言語表現しえない事物に名称を与え、認識する働きです。
そして事物を言語表現の基体として、経験する主体と、経験する世界を作り出します。
そして自他を区別して煩悩を生み出す心の働きです。
その分別の働きによって、果てしない過去から苦しみ迷いの旅を続けているのです。

無分別智とは

では分別が八識ということは、無分別智というのは、心がなくなってしまっているのでしょうか。
そうではありません。
八識は円成実性になると迷いを離れて、ありのままを直観する智慧になるのです。
それが無分別智です。

お釈迦様のような仏のさとりを開くと、
そのの智慧は無分別智です。
その無分別智によって体得された真理
何とか分別によって迷っているすべての人に教え、
導こうと言葉によって説かれたのが仏教です。

この分別について仏教で説かれているのも、
心理学の研究のためとか、心のしくみを解明するためなどではありません。
お釈迦様が説かれた本当の幸せに導くための
土台として説かれているのです。
心理学の研究のためなどではありません。
私たちを本当の幸せにするためです。

今回の分別や煩悩は苦しみ迷いの原因ではありますが、未だ根本原因ではありません。
分別や煩悩から離れられないすべての人に、
お釈迦様は、迷いの根元をなくして、
煩悩あるがままで変わらない幸せになる道を明らかにされています。
それについては、仏教の真髄なので、メール講座と電子書籍にまとめておきました。
ぜひ読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。