不思議とは
「不思議」というと、「学校の七不思議」とか、「世界の七不思議」とか、どうしてそうなったのかよく分からないことを不思議といいます。
しかし、実際に世界の七不思議などは、そんなに不思議なことではありません。
不思議はもともと仏教の言葉ですが、仏教では、もっと不思議な話が教えられています。
しかもそれはどんな人にとってもとても大切な話です。
仏教で教えられる世界で一番不思議な話というのは、一体どんなことなのでしょうか?
この記事では、
・世界の七不思議とは
・不思議とは
・日本での不思議の使われ方の歴史
・仏教で説かれる不思議
・仏教の5つの不思議とは
・この世で最も不思議なこととは
について分かりやすく解説します。
世界の七不思議
世界の七不思議というのは、古代ギリシアのフィロン(紀元前260年 - 紀元前180年)が選んだ以下の7つです。
- こエジプトのギザのピラミッド
- バビロンの城壁
- バビロンの空中庭園
- フェイディアス作のオリュンピアのゼウス像
- ハリカルナッソスのマウソレイオン(マウソレウム)
- エフェソスのアルテミス神殿
- ロドス島の太陽神の青銅巨像
(この中で、2番目のバビロンの城壁は、後世に空中庭園と同じと思われて、アレクサンドリアのファロス島の灯台と差し替わっています)
これらは古代の建築物で、現存しているのはエジプトのギザのピラミッドだけになっています。
これは日本語で「七不思議」になっていますが、英語では「セブン・ワンダー」で、驚くようなもの、すごいもの、目を見張るようなもの、という意味です。
日本語の不思議は、よく分からないことですが、これらの世界の七不思議は、ものすごく頑張ればできそうなものなので、不思議とはニュアンスが少し違います。
不思議とは
「不思議」というのは、もともと仏教の言葉で、「不可思議」ともいいます。
意味は思議することができない、ということで想像もできない、心が及ばない、ということです。
例えば、非常に大きな数の単位に「不可思議」という数があります。
数の単位は、小さい方から順に、
一・十・百・千・万・億・兆・京・垓・𥝱・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数
となりますので、一番大きいほうから、2番目です。
具体的には不可思議は10の64乗ですので、日常では億や兆くらいまでなら聞いたことはあっても、京となると使いません。
ましてや不可思議となると、どの位の大きさかもはや想像できません。
とにかく大きい数です。
そのような、想像もできないことを不可思議とか、不思議といいます。
日本の不思議
もともと仏教の言葉ですが、平安時代には、仏教以外の一般的なことに使われるようになったようです。
鎌倉時代には、長野県の諏訪湖の近くの諏訪大社の七不思議が伝えられています。
これはまだ宗教的なことについて不思議という言葉が遣われていますが、江戸時代になると、新潟県の越後の七不思議とか、静岡県の遠州七不思議、山梨県の甲斐国七不思議など、その地域の七不思議が言われるようになります。
これは、越後なら土が燃えるとか、遠江なら夜に泣く夜泣き石、年に三回実をつける栗、甲斐なら馬が話すとか、農作業の鍬に花が咲くとか、自然現象から怪談めいてきます。
さらに現代の学校の七不思議になると、
音楽室のベートーベンの目が夜になるとギロリと動くとか、
理科室の人体模型が夜になると動くとか、
トイレの花子さんにトイレに引き込まれるとか、
夜に階段を数えると1段増えて13階段になっているとか、
薪を背負った二宮金次郎が本を読んだままの姿勢でつつつつと追いかけてくるとか、
まったくの怪談になっています。
このように、日本の七不思議は時代を下るにつれ、宗教的なことから、自然現象、怪談や怖い話についても使われるようになっています。
では、もともとの語源である仏教では、どんなことが不思議なのでしょうか?
仏教の不思議
仏教では、「不思議」というのは、「不可思議」ともいい、心が及ばず、もちろん言葉でも表現できないことです。
具体的にはどんな不思議があるかというと、ブッダは『阿含経』に4つの不可思議をこう教えられています。
如来に四不可思議の事あり。
小乗のよく知る所に非ず。
いかんが四と為す。
世界不可思議、
衆生不可思議、
龍不可思議、
仏土境界不可思議なり。
(漢文:如來有四不可思議事 非小乘所能知 云何爲四 世不可思議 衆生不可思議 龍不可思議佛 土境界不可思議)(引用:増一阿含経)
また、『大宝積経』には、こう説かれています。
四種の不可思議の境界あり。
一には業境界不可思議
二には龍境界不可思議
三には禅境界不可思議
四には仏境界不可思議なり。
(漢文:四種境界不可思議 一者業境界不可思議 二者龍境界不可思議 三者禪境界不可思議 四者佛境界不可思議)(引用:大宝積経)
これらの不思議を、ナーガールジュナ(龍樹菩薩)は、『大智度論』に、このように5つにまとめられています。
経に五事の不可思議を説く。
いわゆる衆生多少、業果報、座禅人力、諸龍力、諸仏力なり。
(漢文:經説五事不可思議 所謂衆生多少 業果報 坐禪人力 諸龍力 諸佛力)(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
これについては、中国の曇鸞大師の『浄土論註』にも同じことが教えられています。
諸経にときてのたまわく、五種の不可思議あり。
一には衆生多少不可思議、
二には業力不可思議、
三には龍力不可思議、
四には禅定力不可思議、
五には仏法力不可思議なり。
(漢文:諸經統言 有五種不可思議 一者衆生多少不可思議 二者業力不可思議 三者龍力不可思議 四者禪定力不可思議 五者佛法力不可思議)(引用:曇鸞大師『浄土論註』)
このように、お経や、それをインドや中国の高僧が解説された論釈には、5つの不思議があると教えられています。
この世には、5つの不思議なことがある、ということです。
それぞれどんな意味でしょうか?
5つの不思議とは?
1.衆生多少不可思議
仏教に説かれる5つの不思議はそれぞれどんなことかといいますと、
まず1つ目の「衆生多少不可思議」の「衆生」とは、生きとし生けるものの不思議です。
すべての生きとし生けるものは、6つの迷いの世界である六道を生まれ変わり死に変わり、輪廻転生を繰り返しています。
私たちには、六道の中でも人間界と畜生界しか分かりませんが、それらの命が、後から後から生まれてきて限りがないことを「衆生多少不可思議」と言われています。
2.業力不可思議
2つ目の「業力不可思議」というのは、因果応報の不思議です。
仏教の根幹は、このような因果の道理です。
善因善果
悪因悪果
自因自果(ブッダ)
私たちの心と口と身体で造った行いは、業力となって私たちの永遠の生命である阿頼耶識に蓄えられます。
その阿頼耶識に蓄えられた業力が、因果の道理に従って私たちの運命を作り出すのです。
善いたねをまけばそれが善業力となって幸せという運命を生み出し、
悪いたねをまけばそれが悪業力となって苦しみの運命を生み出します。
因果応報は寸分の狂いもなく、阿頼耶識に蓄えられた業力によって、すべてが生み出される不思議を、業力不可思議といいます。
3.龍力不可思議
3つ目の「龍力不可思議」というのは、天気の不思議です。
昔インドでは、龍の力で天気が変わると思われていたので、龍力といわれます。
天気はどんなに科学が進歩しても、完全には予測できません。
なぜかというと、天気は複雑系といって、最初の状態に比例して変わるのではありません。
非常に複雑な変化をします。
そのため、計算機に入力する最初の状態がほんの少し変わっただけで、未来は大きく変わります。
1か0かで計算するデジタルの計算機では、初期状態を正しく入力できない為、原理的に予測できないのです。
このような、どんな天気になるか分からない不思議が、龍力不可思議です。
4.禅定力不可思議
4つ目の「禅定力不可思議」とは、神通力の不思議です。
「禅定」というのは瞑想のようなもので、心を一つにして修行をして、高い悟りを開くと、神通力を使えるようになる人があります。
そして、仏のさとりを開くと、五神通が備わります。
五神通というのは、宿命通、天眼通、天耳通、他心通、神足通の5つです。
宿命通とは、自分の運命も相手の運命も見抜く力です。
天眼通とは、どこでも見える力です。
天耳通とは、どんな小さな音でも聞くことができる力です。
他心通とは、相手の心を見抜く力です。
神足通とは、どんな所へも自由自在に行ける力です。
このような不思議な力が「禅定力不可思議」です。
5.仏法力不可思議
5つ目の「仏法力不可思議」というのは、仏教の力の不思議で、仏の智慧の働きの不思議です。
これほどの不思議はありませんから、『大智度論』には、5つの不思議を教えられた後に、こう教えられています。
五不可思議の中においては仏力最も不可思議なり。
(漢文:五不可思議中 佛力最不可思議)(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
5つの不思議の中で、一番不思議なのが、仏法力不思議だということです。
ですから、仏法力こそが、この世で最も不思議なことなのです。
この世で最も不思議な話とは?
では、この世で最も不思議な仏法力不可思議とはどんなことなのでしょうか?
それは、仏教の力によって、すべての人が、変わらない幸せに救われるということです。
仏教では、すべての人は、欲望や怒りや愚痴の煩悩で、常に悪ばかり造っている悪人だと教えられています。
それで自業自得で苦しんでいるのです。
ところが、悪の塊の凡夫の私たちが、仏教の力によって苦悩の根元が断ち切られると、そのまま無上の幸せ者になれます。
因果の道理からすれば、普通は煩悩で悪を造れば、苦しい運命になるだけです。
それが仏法力によって、煩悩あるがままで、変わらない幸せになれる、煩悩即菩提の世界に出ることができるのです。
苦しみの原因である煩悩が、喜びのたねとなる不思議です。
苦しみ悩みの人生がそのまま光明輝く人生に転じます。
それまでの4つの不思議は、普通に因果の道理にのっとったものです。
輪廻転生や業力、天候や神通力も不思議ですが、輪廻転生や業力、天候はもちろん、神通力の不思議であっても、それだけの不思議な力が得られるということは、因果の道理に従って、それだけものすごい修行をしたということです。
ところが仏法力不思議となると、間違いなく地獄行きの凡夫が、間違いなく仏になる身にさせて頂けるのです。
苦悩の根元を断ち切られた瞬間に、極悪最下のまま、極善無上の幸せにして頂けるその不思議さは、前の4つとは比べものになりません。不思議の中の不思議です。
仏法力不思議によって、仏教の根幹である因果の道理に立脚しながら因果の道理を超越した世界が開けます。
ですから、世間で言われる不思議とは比較にならない、この世で最も不思議なことが、仏法力不思議なのです。
その心も言葉も絶えた本当の幸せに導くのが、仏教の目的ですので、ブッダは、この言葉を離れた想像も及ばない世界へ導くために前の4つの不思議を教えられているのです。
では、その想像もできない幸せの世界に出る為に断ち切られなければならない苦悩の根元とは何か、どうすれば断ち切られるのかということについては、仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめました。
今すぐ読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
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- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)