後生とは
「後生」とは、後世ともいわれますが、後の世、来世のことです。
生きとし生けるものは、やがて必ずその生涯を終え、来世に至ります。
それが後生です。
昔から「後生」を考えることは大事なことと言われ、
後生には大事な問題があることが知られています。
一体どのような問題があるのでしょうか。
後生の基本的な意味
「後生」には2の読み方があります。
「こうせい」と「ごしょう」です。
それぞれ意味も違います。
後生を「こうせい」と読む時は、「後から生まれてくる人」を意味します。
子孫や末裔、後輩、若者などを指して、後生と言っています。
例えば、「後生おそるべし」と使われ、この意味は、
若者は努力すれば想像できないほどの成長をするので、
恐れなければならない、ということです。
次に、後生を「ごしょう」と読む時は、「後の世に生まれる」ことを意味します。
後の世は、死後や来世ともいい、死んだ後の世界のことです。
死後に生まれる世界を、後生といいます。
対になるのは、前生と今生です。
生まれる前を前生、生まれてから死ぬまでを今生、死んだ後を後生といいます。
同じことを、前世、現世、来世と言ったり、
過去世、現在世、未来世と言ったりします。
「後生」は誰にとっても100%確実な未来なので、
仏教用語の中でも特に大切な言葉です。
その本来の意味は、この後「後生はあるのか、ないのか」
という小見出しから詳しく解説します。
ですが、そのように昔から後生を考えることは、
非常に大切なこと、一番大事なことだとされてきましたので、
後生の安楽を真剣に願うことから転じて、
今では強く願ったり、切実に頼み込んだりする慣用句としてよく使われます。
例えば「後生だから、助けてください」とか
「後生一生のお願い」と言います。
「後生だから」というのは、
「あなたがここで善い行いをしておけば、死んで生まれ変わった時、因果応報でもっといい世界に生まれられますから、どうか……」という意味です。
「後生一生」というのは来世にも現在にも一度きり、という意味です。
このように、今でも色々な言い回しの中で
後生は死後の世界という意味で使われているのですが、
では、その後生そのものについては、みんなどう考えているでしょうか。
後生のイメージ
後生についての考え方は、一般的には霊魂がどこかへ行くか、無になるかのどちらかです。
大抵の宗教では、変わることのない霊魂を想定しています。
例えばキリスト教やイスラム教などでは、生きている時に、貧しい人への募金や困っている人を助けるといった善い行いをしていれば、死後、魂が神のもとに行くと言います。
反対に、生きている時に神を冒涜すれば、魂は地獄に行くそうです。
日本神道で重視される『古事記』や『日本書紀』では、
私たちが死ねば黄泉の国に行くと書かれています。
そして、特に功績を残して死んだ人を祀ると、霊魂が宮などに永遠に鎮座して、生きている人に幸せや不幸を与える神になると信じています。
また祖霊崇拝では、亡くなった先祖は霊魂となり、お墓や位牌にいる
と考える場合もあります。
このように、後生について色々なイメージを持っていますが、
大体は霊魂があの世に旅立つと考えるのが伝統的です。
それで、亡くなった人に対して
「墓の下から見守っていてください」
「草葉の陰から見守っていてください」
「お空で見守って」などと話しかけます。
いずれもあの世から見ていてください、という意味です。
日本人は昔から、死んだ後に心から安心することを望んでいました。
そこにさらに仏教が伝えられ「後生」について詳しく明らかにされたため、
「後生」に関する言葉が沢山残っています。
例えば「後生気」とか「後生心」といえば、後生を願う心のことです。
「後生だのみ」とか「後生ねがい」は、仏をたのみ、後世の安楽を願うことです。
「後生楽」といえば、後生は安心だと安心することです。
この意味から転じて、心配しないといけないことを少しも考えないことにも使う場合があります。
「後生立て」といえば、来世を信仰する心の篤い様子を表しています。
「後生大事」というのは、後生の行き先を重視することです。
このように、日本人は伝統的に、後生についてとても大事にしてきたのですが、
そもそも後生はあるのでしょうか。
後生はあるのか、ないのか
現代の日本では、3割の人が、死後は無になると考えています。
アンケートでは以下の結果でした。
いつもありがとうございます。
— おさなみ(長南瑞生)生きる意味&ブッダの教え@仏教ウェブ入門講座 (@M_Osanami) January 15, 2022
以下、仏教に関する意識調査にご協力ください。
Q.人は死んだらどうなるのでしょうか。
死後の世界はあると思いますか?
ある 72.6%
ない 27.4%
95票·最終結果
このように、後生はないという人は少数派ですが、
その中に「後生がある」というのは科学的ではない、という人がいます。
ですが科学的な観点からすれば、科学の扱う対象は、物質的なものだけです。
つまり数字で表せたり、実験ができる、大変狭い範囲に限られています。
死後は触れられもしませんし、見えもしません、匂いもありません。
数値化して計算したり実験したりすることもできません。
ですから、死後は全く科学で扱える対象ではないのです。
そのため「後生がある」ということは科学的ではない、というのは
まったく科学的ではなく、正解は「後生について科学では分からない」です。
それでもたまに臨死体験した人は、「後生を知っている」という人もいます。
これは本当でしょうか。
臨死体験は後生ではないの?
臨死体験をした人の中に、
「自分は一度死んで帰ってきた」と言う人もいます。
そういう人たちは例えばこんなことを言います。
「死んで三途の川を渡った」とか
「亡くなった家族に会えた」とか
「言葉では言い表せないほど美しい場所だった」とか
「すべてを理解したような感覚になった」
「自分の存在が宇宙と一体になったように感じた」
ということを報告します。
これらは「臨死」ですので、完全に死んだ状態ではなく、
あくまで死の淵を彷徨った人の体験ですので、
臨死体験で語られる内容は、本当の後生ではありません。
死にかけた体験です。
死んだら二度と生き返ることはできません。
しかも臨死体験は、脳の生理学的・化学的な変化によって引き起こされる幻覚であるともいわれています。
このような言葉は、後生を信じるか信じないか、の話でしかなく、
後生が分かった、ハッキリした、ということではないのです。
仏教を聞かない限り、後生はハッキリしないのですが、
死んだらどうなるかハッキリしないままで、本当に安心していられるのでしょうか?
後生がハッキリしないことが現在与える影響
生きとし生けるものは必ず死にます。
そのため、後生はすべての人に必ず訪れる未来です。
みんな老後のことは心配しますが、後生を心配する人は滅多にいません。
ですが実際は、老後はない人もいます。
若くして病気や事故で亡くなれば、老後はないのですが、
それに対して後生は、いずれにせよ必ずあります。
「人間は致死率100%」ともいわれますので、後生がない人は1人もいません。
しかし、後生はあるのかないのか分からないと決めつけて、
分からないことを考えても仕方がない、というインテリもいます。
分からないことを考えるより、分かることだけ考えることが重要だというのです。
ですが、後生が分からないことはただの思い込みである上に、
それが現在に非常に大きな影響を与えます。
どのような影響かというと、後生が分からないことが現在を不安にするのです。
これは一体どういうことでしょうか。
未来が分からないと現在が不安になる
未来がどうなるか分からない、という状況は、私たちを不安にします。
私たちには安全欲求や生存本能があります。
普段生きている中で未来を予測できなければ、
安全に安心して生存できないかもしれないと、本能的に不安になるのです。
普段の生活の中でも、よくある不安です。
例えば、高校生が大学受験をして、合否判定を待っている間、
口では「やっと終わって安心した」と言っていても、
合否が出るまでは安心はできません。
合格が分かれば、嬉しさと未来への安心が込み上げます。
たとえ不合格だったとしても、第二志望の大学に行くなど、進路がハッキリするので、
残念な感情はあっても、未来への不安はなくなります。
また、内臓が悪くなり全身麻酔で手術をすることになった場合、
手術が終わるまでは、とても不安な毎日を過ごします。
本当に手術は成功するのだろうか、万が一失敗するのではないだろうか、
全身麻酔から覚めない可能性もあるという念書にハンコを押させられたけど、大丈夫だろうかと、
手術が終わるまで何度も繰り返し考えてしまいます。
手術日が近づけば近づくほど、不安は大きくなります。
こんな状態で、カラオケに行こうとか、ディズニーランドに行こうと誘われて、
仮に行ったとしても常に不安で、心の底からは楽しめないでしょう。
無事に手術が終わって、未来への不安がなくなってはじめて、思い切り楽しめるのです。
このように未来の不安が現在に大きな不安をもたらします。
そして、人生は常に、死に向かう不安に覆われているのです。
死に向かう不安
私たちは、生まれてきたからには必ず死んでいきます。
お釈迦様は「生ずれば、必ず死あり」(出典:『雑阿含経』)と言われています。
死ぬことに例外はありません。
死に向かって生きている私たちの生きる人生は、一体どのようなものでしょうか?
他のものにたとえて俯瞰してみると、よく分かります。
滝壺に落ちる屋形船への乗船
例えば、川辺に浮かべた屋形船で遊んでいる時のことを考えてみてください。
川面の揺らぎや風に身を委ねながら、きらびやかな夜景や四季折々の風景を眺め、
美味しい料理やお酒を堪能できます。
非日常のとても楽しい時間を味わえます。
しかし、船の行き先に、大きな滝があると知ったらどうでしょう。
このまま行けば、滝から落ちて船は木っ端微塵。
乗船客は滝の底に沈むことが容易に想像できます。
果たして今までの川面の揺らぎは楽しく感じられるでしょうか。
風景や料理は堪能できるでしょうか。
行き先の不安によって、心の底から楽しむことができなくなります。
私たちの人生も、行き先は死という滝壺に向かっています。
このような人生では、何をやっても、何を手に入れても、
心の底から満足することはできません。
だから、お金が儲かっても、地位が高くなっても、何となく虚しいのです。
着陸地のない飛行機へ搭乗
また、飛行機に乗った時のことを思い出してください。
映画を見たり、本を読んだり、ゆっくり眠ったり、それなりに楽しい時間を過ごせます。
久しぶりに乗った人なら、ソワソワしたり、
ちょっとしたきっかけで隣に座った人と会話を楽しむ人もいるでしょう。
ところが、急に機長からこんなアナウンスがあります。
「ご搭乗の皆様、こんにちは。
本日は当機をご利用いただき、誠にありがとうございます。
今回はコックピット(操縦室)からのお知らせです。
大変申し上げにくいことですが、当機には着陸地の飛行場がございません。
ですが、燃料は満タンですので、あと10時間ほどは飛行可能な状況です。
その間、ごゆっくり空の旅をお楽しみください」
飛行機はしばらく飛行したとしても、いつまでも飛べるわけではありません。
いつか燃料がなくなって墜落します。
墜落する飛行機に乗っていると知った乗客は、
隣の人としゃべったり、おちおち眠ってはいられません。
墜落する時だけでなく、フライトそのものが不安に包まれ、
悲劇のプロセスになってしまいます。
私たちの人生も、着陸地も分からず飛んでいる飛行機のようなものです。
どう飛んだところで必ず燃料は切れ、墜落していかなければなりません。
しかも、あとどれくらい燃料があるかも分かりません。
すべての人は心の奥底に、いつも着陸地のない不安を抱えて生きているのです。
人生は薄氷を踏む日暮らし
さらに人生は、薄氷を踏む日暮らしでもあります。
薄氷の上を歩いていると何となく不安です。
それで、安心しようとしてお金を貯めてみたり、高い地位についてみたりします。
ですが、不安な原因はそこではないので、根本的な不安はなくなりません。
周りの人が突然氷を踏み破って、氷の下の冷たい水に沈んでいくのを
ちょくちょく見かけます。
落ちた人はみんな、稼いだお金を氷の上に残して、自分だけいなくなります。
自分が氷を踏み破ったらどうなるんだろうと思います。
ですが、氷の下がどうなっているのか分かりません。
自分の足もとの氷も、いつ割れるか分からない。
地震や津波、火災や事故、病気など予測不能のリスクを抱えた私たちの人生、一寸先は闇です。
ちょっとしたことで幸せだった生活が崩れ、涙にくれる人であふれています。
生と死は、とても近くにあります。
私たちは気づいていないだけで、実は重荷を背負って薄氷を踏むような人生を送っているようなものです。
そんな状態なので、どんなにお金を儲けても、どんなことを成し遂げても、不安はなくならないのです。
死んだらどうなるか分からないことを恐れる
すべての生きとし生けるものは、死を恐れています。
人間も生きている以上、例外ではありません。
普段はすっかり忘れていますが、心の底には、死に対する漠然とした不安や、考えたくないという思いや、強い恐怖など、様々な気持ちがあります。
死を恐れると言っても、死ぬ時に痛そうだとか、苦しそうだという
肉体的な苦しみだけではありません。
それよりもはるかに大きな恐れがあります。
それは、死後が分からないことへの恐れです。
哲学者はこう言います。
人は「無になる」ことを恐れているのではなくて、 「わからない」ことを恐れているのです。
死んだらどうなるか分からない、本当はこのことが怖いのです。(引用:池田晶子『暮らしの哲学』)
死ぬのが怖いのは、死ぬ時に痛いとか苦しいというよりも、
死んだらどうなるか分からないことが怖いのです。
後生分からない不安に恐れおののいているのです。
緩和医療では、これを「スピリチュアルペイン」と言いいます。
スピリチュアルペイン
「死んだら一体どうなるのか」という「後生どうなるのか分からない」不安は、
臨終に特に問題になります。
緩和医療の分野では、終末期の患者の苦しみを4つに分けます。
身体的苦痛、精神的苦痛、社会的苦痛、スピリチュアルペイン(霊的苦痛)の4つです。
この4つの中でも、最も解決の難しい苦しみが、スピリチュアルペインです。
この苦しみの解決が重要であることは、世界保健機関(WHO)も指摘するところです。
精神的苦痛というのは、「どうして自分だけこんな病気にならなければならないんだ」と腹を立てたり、病室で孤独になったりする苦しみです。
それに対して、スピリチュアルペインというのは、
自分の存在そのものに対する苦しみです。
具体例として、
「自分の人生は一体何だったんだろう」という生きる意味が分からない苦しみ、
「死んだらどうなるかが分からない」という不安、苦しみなどが挙げられます。
死の間際には必ず強く意識するのが「後生どうなるか」という不安です。
ですが、たとえ臨終を待たなくても、死を真面目に見つめた人は、必ず出てくる不安です。
その後生に対する不安とは、どういうものでしょうか。
後生に対する不安とは
私たちは100%後生に旅立ちます。
一生のうち、たとえアメリカに行くことはなくても、
後生には必ず行かなければなりません。
全人類の100%確実な未来ですので、私たちは生きている時に、無意識のうちにとても大きな影響を受けています。
この後生への不安は、言葉では表しにくい漠然としたものです。
芥川龍之介は自殺する理由を、こう書き残しています。
何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安
(引用:芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)
この将来への不安は、芥川龍之介にとって自殺するほど大きかったということです。
100%確実な将来である後生に対する不安を、すべての人が抱えています。
この後生が分からないことへの不安は、こんな心となって現れます。
何をやっても意味がないような気がして虚しくなる心、
楽しい時間を過ごしても心から喜べない心、
多くの人の中にいても感じるもの寂しさ、
いつも冷めていて、みんなといても感じる人生への退屈
といった心です。
これらはすべて、後生への不安からくるものです。
ほとんどの人がそのことに気づかないのですが、
この後生の不安が誰にとっても最も明確になるのが、臨終です。
パーリ仏典の一つ『スッタニパータ』にはこう説かれています。
かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。
(引用:『スッタニパータ』774)
「かれら」とは、私たち人間のことです。
人間は、欲望に夢中になり、お金や物に執着します。
吝嗇というのは物を惜しむありさまですので、ケチで誰にも与えようとせず、不正な行いにふけっている。
だから死が近づくと、苦しみと悲しみに襲われ、
「私の後生は一体どうなってしまうのだろう」と不安になる、ということです。
今まで心のままに悪いことをして、他人を蹴落としてきたから、
その報いで死んだら大変なことになるのではないかということです。
後生どうなるか分からない不安とは、後生、悪いところに堕ちはしないか、
死ねば安らかな世界ではないのではないか、という不安なのです。
このことを『大無量寿経』には、このように説かれています。
大命まさに終らんとして、悔懼こもごも至る。
(漢文:大命将終悔懼交至)(引用:『大無量寿経』)
「大命まさに終らんとして」とは、「大命」とは肉体の命のことですから、
肉体の命がまさに終わろうとする時、という意味です。
「こもごも至る」とは、代わる代わる起きてくるということです。
何が起きてくるかというと、「悔懼」です。
「悔」とは、後悔のことで、「懼」とは、恐れのことです。
臨終に、後悔と恐れが代わる代わる起きてくる、ということです。
後悔は、過去への後悔です。
死ぬ間際の後悔は、
元気な時に頑張ってお金を貯めておけばよかったとか、
頑張ったけれど夢が叶わなかったとか、
タイミングがどうしても悪くて、好きな人と結婚できなかった、
といった後悔ではありません。
私たちは、自覚なく、悪ばかりをやっています。
例えば、私たちも一生懸命働いて、生きるためには、生き物を食べなければいけません。
しかし、食べられる動物や魚も、必死に生きていたのです。
生きたいと思うものの命を奪って、人間は生きています。
昆虫採集や釣りのように、楽しみのために虫や動物を殺すこともあります。
人間の勝手な都合で懸命に生きている生き物を殺すわけですから、
それはとても重い罪で、因果の道理に従って、
自らに大きな苦しみを生じると仏教では教えられます。
そうやって生きてきた私たちは、臨終に、火の車が迎えにくるといいます。
これを「火車来現」といいます。
火の車が現れ来たる、ということです。
火の車とは、私たちがやってきた悪い行いの結果です。
「あの家の台所は火の車だ」と言った時、その火の車は誰が造ったのかというと、本人です。
元気な時は善いことをしているように思えても、
臨終には、それが結果となって現れてくるのです。
因果応報で、今までの自分の悪業で造った火の車に乗り、
苦しみの世界に連れていかれるのです。
それで取り返しのつかない過去を後悔するのです。
もう一つ臨終にやってくると説かれている恐れとは、未来への恐れです。
悪いことをした人の未来には、必ず苦しい運命が生じますが、
死んだらどうなるか分からないので、未来が非常に不安になります。
この未来の不安は、元気な時にはメーターが振り切れてしまって、
よほど鋭くなければ感じることができないほどの恐ろしさです。
ですが、心の奥底には、この後生の不安があるために、
何をやっても、何を手に入れても、心からの安心も満足もなく、
何となく虚しい心がなくならないのです。
仏教では、この心が解決できれば、私たちは大安心の幸せになれると教えられています。
人生を覆う不安が綺麗さっぱりなくなり、
生まれてきてよかった、という生命の大歓喜が起きるのです。
では、後生に対する不安は、どうすれば解決できるのでしょうか。
どうすれば後生への不安を解決できるのか
今回は「後生」について詳しく解説しました。
後生とは、後の世、来世、死後の世界のことです。
なぜそれが重大な意味を持つのかというと、すべての人は、やがて必ず死んでいかなければならないからです。
早晩、後生へと旅立つ時がきます。
それにもかかわらず、死んだらどうなるか分かりません。
100%確実な未来が分からないのですから、現在の人生も大きな不安に覆われます。
その後生ハッキリしない不安が、何をやっても、何を手に入れても、
心からの安心も満足もない根本原因だと仏教では明らかにされています。
お釈迦様は、今、生きている時にその心を解決して、
大安心の大満足の身になる道を教えられています。
では、それはどうすれば解決できるのでしょうか。
その方法については、仏教の真髄なので、
以下の電子書籍とメール講座に詳しくまとめてあります。
ぜひ後生に対する不安な心を解決し、
大安心の身になる方法を知ってください。
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この記事を書いた人

長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)