偽善者とは?
「偽善者」は大変嫌われています。
もし職場の上司が偽善者だったらどうでしょうか?
仕事をする気がなくなります。
恋人が偽善者だったら……、早めに分かれた方が無難です。
はたまた自分の子供が偽善者だったらどうでしょうか?
育て方を誤ったと後悔します。
では、偽善者とはどんな人なのでしょうか?
この記事では、
・2種類の偽善者とは
・仏教で偽善とは
・偽善を反省した仙崖
・偽善を指摘した達磨大師
・偽善についての龍樹菩薩の教え
・偽善への対処方法
について分かりやすく解説します。
偽善者とは
「偽善者」とは、偽善をする人です。
参考までに偽善について辞書をみてみると、このようにあります。
【偽善】
うわべを飾って、心や行いが正しいようにみせかけること(引用:『新明解国語事典』第八版)
「偽善」とは、偽りの善ということで、
上辺を取り繕った見せかけの善であり、
つまり嘘です。
そのため、偽善者は、見せかけの善をする人です。
偽善者は、大きく分けると2つのタイプがあります。
1つには、裏では悪を行いながら、人前では善をする人です。
2つには、どこかで悪を行ってるわけではありませんが、
自分の欲のために善をする人です。
偽善者とはどんな人か、参考になる2人の言葉を紹介します。
まずは権謀術数の書『君主論』を書いたマキャヴェッリです。
人間というのは、むらっ気なばかりでなく偽善者で、しかも欲得には目のない偽善者だ。
(引用:ニッコロ・マキャヴェッリ『君主論』 )
日本人の作家、倉田百三はこう言います。
百の悪業に催されて自分の罪を感じている悪人よりも、
小善根を積んでおのれの悪を認めぬ偽善者のほうが仏の愛にはもれているのだ。(引用:倉田百三『出家とその弟子』)
どちらも偽善者の特徴を言い得ていると思います。
以下ではより詳しく、偽善者とはどんな人か、2通りの人を見ていきたいと思います。
1.裏で悪を行い、人前で善をする人
まず、分かりやすい偽善者は、
人の見ていないところでは、
悪いことばかりしているのに、
人の見ているところでは、善人に見せかけた人です。
例えば、権力者にワイロを贈って特別な便宜をはかってもらい、
ライバルに対しては企業秘密を盗んで陥れ、
裏で悪の限りを尽くして大もうけをしておりながら、
人前では、ニコニコと人格者を装っている人は、
偽善者といわれます。
八方美人で人当たりはいいですが、
ずるがしこく、したたかです。
腹黒いにもかかわらず、
善人と見せかけて人を信用させ、
ますますのし上がっていきます。
ただしこの人は明らかに悪を行っており、
因果応報は間違いないので、
一時的に調子は良くても長くは続かないでしょう。
このようなタイプの偽善者は、
実際に悪い行いをしていますが、
まったく悪い行いをしない偽善者もいます。
それは自分の欲のために善を行う人です。
こちらのほうは、心のことなので目には見えにくいですが、
より本質的な偽善者です。
2.自分の欲のために善をする人
このタイプの人は、
裏であくどいことをしているわけではありません。
いいことをしています。
例えば、以前、正直魚屋さんが新聞に載りました。
拾った1000円を、仕事そっちのけで警察に届けたのです。
1000円くらいのために仕事を中断していては、
魚屋さんは、損してしまいます。
それでも落とされた方のために善い行いをした
親切な魚屋さんです。
その記事を読んだ魚屋さんの友人が、
「1000円くらいもらっておけばよかったのに」
というと、
「1000円くらいだったから、届けたのさ」
と言ったそうです。
ということは、
届けたのは、落とされた方のためではなく、
その金額と善い行いをする宣伝効果と比較して
「届けたほうが自分にとって得だ」
と思ったから届けたのです。
この場合、拾ったお金を警察に届ける
という善を行っているのですが、
自分の欲のためですから、もはや善とはいえません。
こういうのを偽善といいます。
偽善の本質的な特徴:仏教の意味
このような自分のためにする善を、
仏教では「雑毒の善」といいます。
「雑毒の善」とは、毒のまじった善ということです。
「毒」というのは、見返りを期待する心です。
私たちは、善いことをしても、
見返りを期待する心があるのです。
アメリカ建国の父といわれる
ベンジャミン・フランクリンは、このように言っています。
貸し手は借り手より記憶がよい。
(ベンジャミン・フランクリン)
お金を借りたほうは、
「あれ、そんなお金借りましたっけ?
え?返したはずじゃ……」
といって覚えていませんが、
貸した人は、
「あの日、あのとき、あの場所で、
いくらいくらを確かに貸しました。
まだ返してもらってません」
と鮮明に覚えています。
親切に助けてあげたので、
お礼や感謝を要求しているのです。
しかし、親切の引き替えに、
お礼や感謝、見返りを求めているとすれば、
それは、親切とはいえません。
「商売」です。
これでは本当の善とはいえないのです。
仙崖が見破られた偽善
昔、禅宗の僧侶の仙崖が、
寒い冬の日に、橋の下でブルブルふるえている乞食を見て、
着ていた衣をぬいで投げ与えました。
ところがそれを着た乞食は、
無言で何もいいません。
どうもしっくりこなかった仙崖が、
「どうだ、少しは暖かくなったかな」
と聞くと、
「着れば暖かいに決まっている。
わかり切ったことなぜ聞くか。与える身分を喜べよ」
と答えたそうです。
見返りを期待する心を見すかされた仙崖は、
そんなことでは善にならないことが
自分でも分かっていますので、
深く反省したといわれます。
偽善は無功徳といった達磨
538年、日本に仏教を伝えた朝鮮半島の百済は、
中国の梁という国から仏像や経典を求めました。
その梁の武帝は、仏教に深く帰依して仏教を保護していましたので、
百済を通して日本の仏教に影響を与えるなど、
仏教を広めるのに大きな功績がありました。
その梁の武帝のところへ、520年、
インドから禅宗を開いた達磨大師がやってきました。
武帝は、国賓として手厚く迎えて
自信たっぷりにこのように尋ねました。
「朕は天子の位についてから、たくさんの寺を建てた。
布施をして僧侶を保護し、仏教発展に尽くしたが、
どれだけの功徳があるものか」
そのとき達磨は、
「無功徳」
と一喝します。
(出典:『仏祖歴代通載』)
なぜかというと、
「おれはこれだけやっているんだ、ねっ、すごいだろ?」とか
「これってどれだけの功徳があるんだろうなー」
と見返りを期待して行う善は、
「雑毒の善」であり、偽善なので、
まことの善とは言えないからです。
偽善ではない本当の善はできる?
偽善とは、見返りを期待する善ですから、
言葉を変えれば、煩悩でやる善です。
仏教では、すべての人は煩悩具足だと
教えられています。
「煩悩」とは、欲をはじめとする、
私たちを煩わせ、苦しめる心です。
「具足」とは、100%それ以外に何もない、
塊ということです。
すべての人は煩悩具足だということは、
人間は、煩悩でできた煩悩の塊ということです。
ですからお釈迦さまは、すべての人の姿を、
『大無量寿経』にこのように説かれています。
心は常に悪をおもい、
口は常に悪を言い、
身は常に悪を行い、
かつて一つの善もなし。(引用:『大無量寿経』)
私たちは、煩悩の塊ですから、煩悩でやる善しかできません。
仏様のまなこからご覧になれば、
人間のやる善は、すべて雑毒の善ですから、
まことの善は一つもないのです。
偽善者ではないという人は?
このように聞きますと、
「えっそんなことないよ、
私はまごころから善をしてるよ」とか
「人間には美しい心があるはずだ」
という人があります。
このような、自分は偽善者ではないという人は、
今まであまり善をしたことのない人です。
大きな善をするほど、大きな毒を含むので、
自分の偽善に気づきやすいからです。
たとえば、友達に100円貸して、お礼を言われなくても
特に気にならないかもしれません。
では、1000円の食事をごちそうして、
お礼を言われなかったらどうでしょうか。
100円のときより気になってきます。
では、お祝いなどで1万円をあげて、
何のお礼もなかったら、どうでしょう。
「あの人は非常識な人だ」
と陰口を言わないでしょうか。
さらに親友から
「事業に失敗して、このままでは一家心中しなければならない、
どうか100万円融通してもらえないか」
と言われて、100万円援助したのに、
何もお礼がなかったらどうでしょうか?
発狂するところまでは行かないかもしれませんが、
「恩知らず」とか「騙された」
と思うのではないでしょうか。
このように大きな善ほど猛毒を含んでいることを、
八宗の祖師といわれてあらゆる宗派から尊敬されている
龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、
『大智度論』にこう教えられています。
少湯を大氷池に投ずといえども、少しの処を消して、かえって更に氷を成ずるが如し。
(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
「四十里四方の池に張りつめた氷の上に、二升や三升の熱湯をかけても、翌日そこは、ふくれ上がっている」
ということです。
善に向かえば向かうだけ、
善のできない私だと知らされるのです。
私たちのやる善は、雑毒であり、
すべて偽善だと知らされます。
偽善ならやらないほうがいい?
しかし気をつけなければならないのは、
どうせ毒混じりなら、
善をしないほうがいいとか、
善をする必要がないということではありません。
仏様のまなこからご覧になれば偽善ですが、
雑毒の善といっても悪ではなく、善です。
雑毒の善だからといってやらなければ、
善い結果は一つもきません。
本当の善ではないということは、
往生のたしにはならないということで、
雑毒の善といわれているのです。
しかしながら因果の道理は、間違いありませんから、
善いことをしなければ、善い結果は来ないのです。
そして、本当の自分の姿がわからない限り、
苦しみ迷いの根元はわからず、
迷い続けなければなりませんので、
本当の幸せにもなれません。
ブッダは、
「そんなに自分の心に美しい心があると思うならやってごらん」
と善を勧められ、
本当の幸せへ向かって導かれているのです。
偽善者=人間
今回の記事では、偽善者について簡単にわかりやすく解説しました。
偽善者とは、うわべを取り繕った善をする人で、見返りを求めて善をする人のことをいいます。
仏教では、偽善を雑毒の善ともいわれます。
しかし、100%見返りを求めず、相手の幸せだけを願って善ができる人はいません。
人間は煩悩の塊であり、欲の本質が我利我利だからです。
このような偽善しかできない人間に迷いの根源を知らせるために、お釈迦様は善を勧めていかれました。
では、私たちを迷わせている、迷いの根元とは何でしょうか。
それは仏教の真髄ですので、
メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)