因縁とは?
「因縁の対決」「因縁をつける」
「夫婦になったのは過去世からの因縁」
など、色々な場面で使われる「因縁」という言葉ですが、
もとは仏教の言葉です。
どんな意味でしょうか?
因縁とは
因縁はもともと仏教用語ですので、参考までに辞書の内容を紹介します。
因縁
いんねん[s:hetu-pratyaya, p:hetu-paccaya]
中国語としての<因縁>は、『史記』田叔列伝に「少くして孤…未だ因縁有らず」、『後漢書』陳寵伝に「不良の吏、因縁を生ず」などとあるように、つて、よすが、かかわり、機縁を意味する。
仏教では、因と縁、または因も縁も同じ意味(因即縁)として一つに結びつけられて熟語化したもの。
広くは原因一般をさす。
すなわち、すべては縁起している、つまり因縁によって生じている(因縁生)と説き、因縁は仏教思想の核心を示す語である。
<因>(hetu)と<縁>(pratyaya)は、原始経典ではともに<原因>を意味する語であったが、のちに因を直接原因、縁を間接原因、あるいは因を原因、縁を条件とみなす見解が生じた。
そこから、因と縁とが結合して万物が成立することを<因縁和合>という。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
辞書の内容だと少し分かりづらいですので、以下で分かりやすく解説します。
世間の因縁の意味
「因縁」とは、もともと仏教の言葉ですが、
世間では国語辞典にあるように「関係」の意味として使われます。
いんねん【因縁】
前世からの定まった運命、関係。転じて、何らかのつながりを有すること。縁。ゆかり。(引用:小学館『スーパー・ニッポニカ 国語大辞典』)
「因縁」とは、もともと仏教の言葉ですが、
世間では「関係」という意味で使われています。
「因縁の対決」であれば、
過去に何らかの関係があった2人の対決です。
例えば、過去に一度対決したことがあり、
負けたほうが「雪辱を晴らしたい」と思っていた対決だったり、
親を倒された子供が、敵討ちに挑む戦いだったりします。
何の関係もない2人は、因縁の対決にはなりません。
「因縁をつける」というのは、逆に、
もともと何の関係もないのに、
「今にらんでいただろう」
などと無理に関係をつけて、
からんでくることを言います。
「夫婦になったのは過去世からの因縁だ」というのは、
人間に生まれる前から、何かの関係があったということです。
例えば「生まれかわったらまた夫婦になろうな」
という約束があったとか、
逆に、過去世は仇同士で、
今生では第二ラウンドを始めているという説もあります。
また因縁を原因、理由という意味で使われることもあります。
因縁
5.原因。理由。わけ。(引用:小学館『スーパー・ニッポニカ 国語大辞典』)
たとえば、「この事件が因縁となって、後に更に大きなトラブルが起きる」などと使われます。
さらには、由来という意味でも使われます。
因縁
6.来歴。由来。いわれ(引用:小学館『スーパー・ニッポニカ 国語大辞典』)
この意味の場合、「いわれ」の意味を強めるために「いわれ因縁」という言い方で使われることがあります。
このように世間では、
関係や原因、由来などの意味で因縁といいます。
ですが仏教では因縁についてもっと詳しく教えられています。
すべてのことには因縁がある
仏教では「すべての結果には、必ず原因がある」
と教えられています。
これを「因果の道理」といい、
仏教の根幹です。
ブッダは、因果の道理にしたがって仏のさとりを開かれ、
人生に起きる、数え切れないほどの現象は、
すべて原因があって起きたものだと、
このように説かれています。
一切法は因縁生なり。
(漢文:一切法因縁生)(引用:『大乗入楞伽経』)
これは『正法念処経』にも説かれ、
龍樹菩薩も『大智度論』に教えられていることです。
「一切法」とは、一切の法ということで、すべてのもののことです。
「因縁」とは原因のことですから、
「一切法は因縁生なり」とは、
すべてのものは原因があって生じたのだ、
すべての結果には必ず原因がある、
ということです。
「因縁」は一つの意味で使うときは
「因」=「縁」で、どちらも原因ということですが、
その原因を2つに分けると、
「因」と「縁」は違う意味になります。
因と縁の違い
因縁を因と縁に分けた場合、
「因」は原因ということで、直接的な原因です。
「縁」は助縁ということで、間接的な要因で、
因が結果になるのを助けるものです。
例えば米を結果とすれば、
それを生じる因はモミダネです。
ですが、モミダネを机の上に置いておいたり、
北極の氷の上に置いておいても、
米にはなりません。
モミダネが米になるのを助ける、
土や水、空気や温度や栄養など、
さまざまなものが必要です。
このような、間接的な環境要因や条件を、
「縁」といいます。
図にするとこうなります。
因:モミダネ
│
├──── 果:米
│
縁:土、水、空気、温度、栄養……
このように、結果は、
因だけでも起きませんし、
縁だけでも起きません。
因と縁がそろってはじめて結果が現れます。
では私たちの人生に起きてくる、
色々な運命の因縁はどうなるのでしょうか?
縁起の誤解
私たちの運命を結果とすると、
「因」は、私たちの行い、
「縁」は、環境や他人の行いなど、
自分の行い以外のすべての要因です。
ですが因果の道理を「縁起」といった時に、
すべての結果は条件のみによって引き起こされるように思う人があります。
なぜそんな誤解が生じているのかというと、
そのようなことがよく言われるからです。
例えば、仏教の本にこのように出ていたりします。
人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識とによって育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
(勝鬘経)(引用:『和英対照仏教聖典』)
出典は『勝鬘経』と書いてありますが、実際に『勝鬘経』の原文にあたると、どこにも説かれていません。
この本でも、この部分はやがて改訂されるそうですが、
このような形で多くの誤解が生じているわけです。
確かに、縁がなければ結果は起きませんので、
すべてのものは縁によって生じると言えなくもありませんが、
この表現では、すべてのものが縁だけによって生じるように誤解しないでしょうか。
それだと仏教の自業自得の基本的な教えに反してしまいます。
運命の因縁
では、運命の因と縁の関係はどうなっているのかというと、
仏教では、因と縁がそろわないと結果は生じません。
因というのは自分の行いです。
自分の行いを「業」ともいいますから、
何かの行いをすると、
それは目に見えない業力となって消えずに残ります。
ちょうどポテンシャルエネルギーとしてスタンバイされるようなものです。
これはどんなに時間が経っても消えることはありません。
そこへやがて縁がきて、因と縁が結びついたときに、
目に見える結果となって現れます。
「縁」は、業力が運命になる引き金のようなものです。
このことを、有名な三蔵法師の玄奘が翻訳した天親菩薩の『大乗成業論』にはこのように教えられています。
業百劫を経といえども、しかもついに失壊すること無し。
衆縁合する時に遇えば、かならずまさに彼の果を酬うべし。
(漢文:業雖経百劫 而終無失壊 遇衆縁合時 要当酬彼果)(引用:天親菩薩『大乗成業論』)
百劫というのは時間の長さです。
一劫は4億3200万年といわれますので、百劫ということは、どんなに時間が経っても、業力は決して失われたり、壊れたりすることはない、ということです。
衆縁とはいろいろな縁のことです。
その決して消えることのない業力のあるところへ、縁が来たならば、その業力と縁が結びついて結果が現れます。
これが「因縁和合」です。
このように、因と縁が和合して結果を現しますので、
因だけでも結果は起きませんし、
縁だけでも結果は起きません。
必ず因と縁がそろって、結果となります。
ですから、仏教の根幹である
「因果の道理」のことを、
「因縁果の道理」ともいいます。
また「因縁生起(縁起)」ともいわれます。
ちなみに、仏教をかたる新興宗教ではよく、この因縁を仏教と違う意味で使っています。
それが先祖の因縁です。
先祖の因縁
新興宗教では、事故に遭ったり病気になったりすると、
「それは先祖の因縁だ」とか、
「先祖の因縁が芽生えた」ともいいます。
「家系の因縁が長女に現れる」なども聞きます。
具体的には例えば、先祖のある人が地主として立派な家に住んでいたりすると、そのあたりをほめた上で、ただそのお金を儲けるためには、知らず知らずのうちに他の人を苦しめることもあった。
その因縁が今芽生えてきて、あなたや長女に病気という苦しみがあらわれた、などといいます。
そして、その因縁を断ち切るための先祖供養といってお金をとるわけです。
これは仏教ではなく、先祖の因縁が子孫に報いるという日本の俗信を活用しているのですが、非常に便利です。
なぜかというと、先祖は無限にいるからです。
どんな人でも1代上の親の世代は2人、2代さかのぼると祖父母は4人、3代さかのぼった曾祖父母は8人……
と倍々で増えていきます。
何か苦しいことが起きるたびに、7代さかのぼった先祖、今度は12代さかのぼった先祖と、違う先祖のせいにして、その因縁を断ち切るためのお金を限りなく納めさせることができるのです。
ところが仏教では、先祖の因縁が子孫に報うということはありません。
自分の行いが結果を報う因果応報であり、自業自得ですから、先祖の悪い行いが子孫に結果を現すというのは、仏教の教えとは異なります。
では先祖の行いはどんな位置づけになるかというと、仏教では縁であると教えられています。
因はあくまで自らの過去世の行いで、父母を縁として人間に生まれます。
図にするとこうなります。
因:過去世の行い
│
├──── 果:人間に生まれる
│
縁:父母
そのことを善導大師はこのように教えられています。
自らの業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となし、因縁和合するが故にこの身あり。
(引用:善導大師『観無量寿経疏』)
業識というのは、業の心ということで、私たちの永遠の生命のことです。
私たちは、果てしない遠い過去から、生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返して射ます。
その果てしない遠い過去から変化しながら続いている永遠の生命を業識といわれています。
なぜ業識なのかというと、私たちの心と口と体の行いが、目に見えないとなって蓄えられるからです。
それがまるで蔵のようなので、蔵のような心、「阿頼耶識」ともいわれます。
その阿頼耶識に蓄えられた業力に、縁が結びついた時に運命が現れます。
では人間に生まれるという結果の因縁は何かというと、業識を因とし、父母を縁として生じた結果なのです。
このように、仏教では、どんな結果にも必ず因縁があります。
因というのは自分の行い、縁は環境や他人の行いなど、それ以外の要因です。
自分が何かの行いをすることによって、目に見えない因がポテンシャルエネルギーのようにスタンバイされます。
そこに縁というトリガーがやってきて、目に見える運命があらわれるのです。
ですから、もし先祖の因縁によって不幸が現れるというのを、仏教にもとづいているという宗教があれば、仏教の伝統と信頼性を利用した嘘ですから、気をつけた方がいいでしょう。
他にも友引など六曜なども因縁果の道理から外れており、迷信です。
六曜について、詳しくは下記をご覧ください。
➾六曜(大安や友引、仏滅)の起源は仏教?
苦しい運命の因縁
では、苦しい運命の因縁はどうなるのでしょうか?
例えば、旦那のDVに苦しむ奥さんの場合を考えてみます。
その奥さんは、とても働き者で、思いやりがあり、
近所でも評判のいい人でした。
それにひきかえ旦那は無職で、
一日中遊びほうけています。
夜遅く帰ってくると、奥さんに暴力をふるって、
奥さんが働いて稼いだお金を全部巻き上げ、
パチンコや競馬に使ってしまいます。
最近は浮気をしている気配もあります。
奥さんは毎日、
「なんで私がこんなに苦しまなければならないの?
もう全部この夫のせいよ」と苦しんでいます。
この場合、奥さんが苦しんでいる結果に対して、
旦那の言動は、他人の行いですので
「縁」になります。
では「因」である奥さんの行いは何でしょうか?
この奥さんがまだ結婚する前、
奥さんの周りには、たくさんの男がいました。
その全員がギャンブル好きの怠け者で、
暴力をふるう男ばかりではありませんでした。
ところが奥さんは、よりによってこんな悪い男を
好きになってしまったのです。
しかも、当時、2人で両親に結婚の挨拶に行ったとき、
彼が帰った後、
「あの男だけはやめておけ」
と反対されたのです。
周りから見れば一目瞭然の悪い男だったからです。
それにもかかわらず奥さんは
「恋は盲目☆」
と反対を押し切って、
結婚してしまったのです。
このように、そんな男を好きになって結婚したのが、
この奥さんが苦しみの「因」なのです。
これが「自業自得」です。
自分の行いに縁が結びついて、結果を生み出しているのです。
さらに私たちの苦悩の原因を深く深く追求し、12の迷いの元を明らかにしされた十二因縁の教えがあります。
詳しく知りたい方は、下記をご覧ください。
➾十二因縁(十二縁起)とは?その意味を分かりやすく解説
嬉しい運命の因縁
逆に、どんないい縁があっても、
自分の行いがなければ
いい運命は現れません。
1987年、400年ぶりの超新星爆発から
ニュートリノを検出してノーベル賞を受賞した
東大の小柴昌俊教授は、みんなから
「運が良かったですね」
と言われました。
もしその時たまたま超新星爆発が起きなければ、ノーベル賞は受賞できなかったからです。
ところが小柴教授は
「運がいいなんてありえない。
チャンスは周到な準備をした者だけにやってくる」
と答えています。
この例では、超新星爆発が「縁」です。
その日、ニュートリノは全人類に降り注いだのですが、
観測という行いをした人だけに
ノーベル賞受賞という運命が起きたのです。
やはり自業自得です。
このように、因だけでも結果は起きませんし、
縁だけでも結果は起きません。
結果が起きたということは、
因も縁もそろったということですから、
必ず何かの因が、自分にあるのです。
因縁によってブッダが発見されたこと
自分が苦しんでいるのを、
災害や他人などの縁のせいにしていると、
その災害や他人が変わらなければ、
自分の運命は変わりません。
自分の運命を縁に依存していると、
縁に縛られているようなものですから、
余計苦しみます。
自分でどうにもならない他人や環境などの縁を変えようとするよりも、
自分が変えられる自分の行いを考えることが大事です。
自分の心がけを変え、行いを変えることによって、
未来はいくらでも変えられます。
生まれつきや環境によって
運命が決まっているのではありません。
このような運命が決まっているという考えを宿作因論といって、
この考え方を仏教では強く排斥されます。
運命については、下記をご覧ください。
➾運命は決まってる?3つの運命論と運命を支配する法則
縁をうらまず、百パーセント自己責任と思って、
自分の行いを変える心がけが、
幸せを生みだしていくのです。
この「すべての結果には必ず原因がある」
という因果の道理に立脚して、
ブッダは、私たちの苦しみ迷いの根本原因を発見されたのです。
そして、その苦しみ迷いの根本原因さえなくせば
ありのままで本当の幸せになれることを発見されたのです。
その苦しみ迷いの根本原因については、
仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)