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自灯明法灯明の意味とは?

自灯明法灯明じとうみょうほうとうみょう」は、お釈迦様が最期に遺された有名なお言葉です。

このお言葉を多くの人は、
他人の価値観に流されず、自分の気持ちを大切にする」とか
自分軸で生きよう
という意味だと思っています。
確かに、現代社会において「自分軸を持つ」ことは素晴らしいことです。

ですが、本当にそんな意味なのでしょうか?
もしこれが世間の流行に合わせて作られた表面的な解釈で、
真意が隠されていたとしたら大変なことになります。

自灯明法灯明」は、本当はどんな意味なのでしょうか?

自灯明法灯明の意味

自灯明法灯明」そのものの意味は、
自分を灯りとし、法を明かりとせよ」ということです。
ですが、このお言葉はシンプルなだけに、様々な誤解をされています。
最近多いのは「自分の心を信じる」という間違いです。

自分の心だけを信じることの3つの弱点

自灯明」はよく、「他人の価値観に流されず、自分の気持ちを大切にすることである」と解説されています。
他人軸ではなく自分軸で生きよう」というのも、よくあります。
自分軸」を大切にすることは、一見、正しいように思えます。
しかし、自分の心だけを価値判断の基準とすることには、
避けられない3つの弱点があります。

自分の欠点が見えない

人は誰でも、自分に都合の良いように物事を解釈しがちです。
それは自惚れ心の「」があるからです。
他人の欠点ならいくらでも挙げられますが、自分の欠点はなかなか分かりません。

何か問題が起きた時、あれは仕方がなかったんだと思います。
自分の失敗や欠点を認めたくない心理が働いているのです。
自分軸で自分の心だけを判断基準とすると、
自分の問題を反省して、向上していくことが難しくなるのです。

視野が狭くなる

どんなに賢い人でも、一人で見える世界には限りがあります。
自分の専門分野なら分かっても、それは狭い領域です。
誰か他の人に相談して、別の観点から教えてもらうと、
自分では驚くようなアイディアを聞くことができます。
他の人の目からは明白なことでも、自分だけ気づいていないこともあります。
だから先輩に質問したり、コンサルタントをつけたりするわけです。

自分だけではなく、異なる専門性や視点を持った人の意見を聞くことは
非常に大切なことです。
ましてや、ある程度以上の大きなことになってくると、
当然、多くの専門家が集まって分業することになります。
一人でできることはそんなに大したことではないので、
自分だけで考えていると、非常に狭い世界にとどまってしまうことになります。

自分が正しいと限らない

さらに、仏教では自分の心に任せるのは大きな問題があります。
なぜかというと、仏教では、人間の心は「煩悩ぼんのう」の塊だと教えられているからです。
煩悩」とは、私たちを煩わせ悩ませる心で、全部で108あります。
例えば、怒り、恨みや嫉妬といったものです。

欲であれば、代表的なものだけでも
食欲や財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲などがあります。
人は、欲に引っ張られて詐欺にひっかかったり、人前で恥をかいたり、不倫をして破滅したり、重要なところで寝坊したりします。
腹を立てて人間関係を悪くして損をしたり、怨みの心で自分をダメにしたりします。

そんな心に従っていたら、自分も周りの人も不幸になってしまいます。
私たちの心は常に、その強力な煩悩によって物事を判断し、
多くの失敗をおかし、不幸になっているのです。

そんな弱点だらけの「自分」を拠り所にして、
本当に大丈夫なのでしょうか。

欲望や偏見を持った「自分」ではない、
何か別の確かな「」が必要になります。
そこで拠り所とすべきなのは、「法灯明」の「」です。
」とは、どんな意味なのでしょうか。

「法」とは何か?

自灯明法灯明」の解説では、この重要な「」がほとんど触れられません。
全く触れていない場合もあります。
たとえ「法=真理」と説明されていても、その程度で、
真理」の中身について、それほど深く語られることはありません。
結果として、「自灯明(自分)」ばかりが強調され、「法灯明(法)」は無視されてしまい、「やっぱり自分の心を大切にしよう」という結論になっています。
」が軽視されているのです。

ですが、「自灯明法灯明」の半分は「法灯明」です。
もし「」が参考にすればいい程度のものではなく、
自灯明法灯明」の意味を知る上で不可欠なものだとしたら、
正確な意味を知らなければなりません。

それは、
お釈迦様が臨終間近に、これを説かれたのはどんな状況だったのか、
お釈迦様がこの言葉を遺された、その瞬間に、
この言葉の真意を解き明かす鍵があります。

お釈迦様の最期の旅路

お釈迦様が80歳を迎え、最後の旅をされていた時のことです。
旅の途中、お釈迦様は重い病にかかり、激しい苦痛に襲われます。
20年以上もお釈迦様に仕えてきたお弟子の阿難は、
もしお釈迦様から教えを頂けなくなったら、
私たちは何を頼りに悟りを求めていけばいいのだろう……

お釈迦様のその様子を見て、深い悲しみと不安に包まれました。

幸い、お釈迦様は一度回復されます。
安堵した阿難が喜んで、
やっぱりお釈迦様は、教えを説ききられるまでは
入滅されないと分かって安心しました

と言うと、
お釈迦様は静かに、しかし力強く答えられました。
阿難よ、私はもうすべてを教え尽くしている。
如来の法には、秘密の法文というものはない。
何も隠すことなく、すべて説き明かした。
私はもう年老い、よわい80となった。
肉体をやっと保っている。
だから阿難よ、これからは私に頼るのではなく、
自分自身を灯明とし、自分自身を拠り所としなさい。
そして真理の教えである仏法を灯明とし、仏法を拠り所としなさい。
他のものに頼ってはいけない

(出典:『大般涅槃経』《南伝大蔵経》第7巻長部経典二p.68)

これこそが「自灯明法灯明」の教えが説かれた瞬間でした。
そもそものお弟子の阿難の疑問は、率直にいえば、
お釈迦様から直接教えを頂けなくなってしまったら、どうしたらいいのでしょう?
というものです。

普通この状況で、お釈迦様を拠り所とできない場合、
何が考えられるでしょうか?
お釈迦様から後継者の先生を指名していただくとか、
独立して自分なりに頑張りなさいと激励していただくとか、
色々考えられます。

ところがお釈迦様が答えられたのは、
私がいなくなっても、この2つを拠り所にしなさい
というものでした。
それがお釈迦様の示された、
最後の道しるべだったのです。

ですがここで、さらなる疑問が生まれます。
自分自身を灯明とする、「自灯明」は「自分を拠り所にする」という意味で、
仏法を灯明とする「法灯明」は「法を拠り所にする」という意味です。
自分」と「」、この2つを同時に拠り所にするとは、一体どういうことでしょうか。
自分」を頼れば「」が疎かになり、
」を頼れば「自分」がなくなるように思えます。
これらは矛盾しないのでしょうか。

法と自分自身の関係

仏法を拠り所にしながら、自分を拠り所にする。
仏教では、「」と「自分」は切り離されたものではありません。
」に説かれているのは、「自分」のことですし、
自分」がなければ「」も説かれません。
」に無関係な「」もなければ、「」に無関係な「」もありませんから、
お釈迦様は「」と離れた「」を説かれたこともありませんし、
」に用事のない「」を説かれたこともありません。
」と「自分」は離れたものではないのです。

自灯明法灯明」の場合、「自灯明」と「法灯明」の関係は、
旅人と地図のようなものです。
真理の教えである「」が人生の地図なら、
自分」とは、地図を持って目的地へと実際に歩む旅人です。

どんなに正確な「地図(法)」も、それを持って実際に歩む「旅人(自分)」がいなければ、ただの紙切れです。
逆に、「旅人(自分)」がどんなに頑張って歩いても、正確な「地図(法)」がなければ、道に迷ってしまいます。
両方が揃って初めて、私たちは安心して目的地に向かうことができます。

真理の軸を持って生きる

お釈迦様は「自灯明法灯明」の教えの後、さらに具体的に、
自分を拠り所にする、法を拠り所にする」とは、
これまで学んだ教えの通りに実践し、自分自身の心や身体のあり方を仏教(法)に照らして深く見つめ、真理を体得していくことだ
と説明されています。
(出典:『大般涅槃経』《南伝大蔵経》第7巻長部経典二p.68)

つまり、「自灯明法灯明」の本当の意味とは、
真理の教え(法)を学び、それを自分自身の人生で実践しなさい」という、
切り離せないセットの教えだったのです。

ですから、「自分軸で生きなさい」という単純な意味ではありません。
かといって、教えを知ればいいだけでもありません。
」という普遍的な真理の軸を学び、それを自分のものとして主体的に実践していく。
それこそが、お釈迦様が最後に遺した「暗闇を照らす灯り」なのです。

ここでいう「(真理)」とは、私たちを「本当の幸福」にするための真理です。
どんなことがあっても変わらない、崩れない幸せへと導く、人生の確かな「」です。
人生がどんなに暗かったとしても、
この真理の灯りは、私たちを本当の幸福へと導いてくれます。
この「真理の軸」を持って生きることこそ、
お釈迦様が示した本当の道なのです。

自灯明法灯明」の教えはそういうことですが、
では、法である仏教とはどのような教えなのか、
どのようにして実践すれば本当の幸せになれるのでしょうか?

そこで仏教の教えの最も重要な核心部分を、
仏教初心者にも分かりやすい電子書籍とメール講座におさめました。
ウェブサイト上では伝えきれない仏教の真髄も教えていますので、
ぜひ一度お読みください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。