成仏とは?
葬式や法事でよく「成仏」と耳にします。
人間が死ぬことで、俗世のしがらみから離れ、せめて死後の世界では安らかに過ごしてほしい、という願いを込めて、「成仏してください」という使われ方をします。
ふざけて「成仏してクレメンス」という人までいます。
最近では事故物件を扱う成仏不動産もあります。
これらは本当に成仏できているのでしょうか?
今回は、誤解の多い仏教用語「成仏」にまつわる様々な疑問に答えながら、
「成仏」の本来の意味、成仏できたかどうかのサイン、成仏したらどうなるのか、成仏する方法を分かりやすく解説します。
成仏の意味
「成仏」とは、文字通り「仏に成る」ことです。
ですが「仏に成る」とはどういうことでしょうか?
これが世間では大変誤解されており、成仏できたつもりで、全然できていないことばかりです。
まずは成仏について正しく知らなければ、当然、成仏できません。
成仏についてのよくある誤解は、大きく分けると3つあります。
あなたは大丈夫でしょうか?
成仏についてよくある3つの誤解
成仏についてのよくある誤解は、大体この3つになります。
- 誤解1. 成仏は「死ぬ」という意味?
- 誤解2. 成仏する条件は葬式や読経?
- 誤解3. 成仏できないと「霊魂」がこの世をさまよう?
それぞれどういうことでしょうか。
誤解1. 成仏は「死ぬ」という意味?
「成仏」と聞くと、人が亡くなることや、穏やかに安らかに死ぬことだと思われています。
子どもたちが遊んでいて、敵役に「成仏しろ!」と言ったり、
彼女が彼氏と別れる時、最後に「成仏してクレメンス」と言い放ったりします。
クレメンスというのは、ロジャー・クレメンスというプロ野球選手で、
昔、「恐れ入りやした」と「入谷の鬼子母神」をかけて
「恐れ入谷の鬼子母神」と言ったようなものです。
もう少しまじめな日常会話の中でも、
「隣のおじいさん、今日の朝に成仏したらしい」と言っている人がいます。
このように、「成仏」=「死ぬこと」という意味で使われることがよくあります。
しかし、これは大変な誤解です。
このように誤解しているのは日本人だけです。
中国の方に「隣のおじいさん、今朝成仏した(邻居的老爷爷,今天早上成佛了)」と言うと、まったく違う意味になります。
びびります。
それがどうしてかは、もう少し読んでいけば分かります。
本来の「成仏」に、死ぬという意味はありません。
世間ではなぜ、成仏の意味を間違ってしまうのでしょうか。
成仏の意味を間違う理由
成仏の意味を間違うのは「仏」を死んだ人のことだと思っているからです。
これは南北朝時代の『太平記』にも出てくるので、かなり昔からある誤解です。
もし本当に「仏」が「死んだ人」のことなら、「仏教」は仏の教えですから、「死んだ人の教え」となってしまいます。
「死人に口なし」で、死んだ人が話せるはずがありません。
「いや、死んだ人を供養するための教えが仏教なんじゃないの?」
と思う人がいるかもしれませんが、
仏教は内容をよく理解すれば、死んだ人のための教えではなく、
「生きている人のため」に教えられたものだと分かります。
「仏=死人」というのは明らかに間違いですから、
「成仏=死ぬ」というのも間違いです。
そのため、死ねば誰でも成仏できるわけでもありません。
生まれてきたものは必ずいつか死にます。
誰しも必ず死ぬわけです。
死ねば必ず成仏できるわけではないということです。
「そんなの知ってるよ。
死んでもこの世に未練があったり、誰かに強い恨みを持っていると、
成仏できずに不成仏霊とか地縛霊になっちゃうから、
それで読経したりして成仏させるんでしょ。
分かってるよ、それくらい」
という人がいるかもしれませんが、それも違います。
よくある誤解の2番目は、成仏する条件は、葬式や読経というものです。
誤解2. 成仏する条件は葬式や読経?
成仏する方法はお経を読むことだと誤解している人は、
「成仏するお経はどのお経?」と疑問に思っているかもしれません。
さらに世間では、人が死ぬと、たいてい葬式をします。
それを死者を弔うためだと思って、
葬式をしなければ死者を弔えず、成仏もできないと考えている人がいます。
しかし、葬式をしたから成仏するということもありません。
反対に、葬式をしていないから成仏できない、ということもありません。
実は葬式は、亡くなった人にとって何の意味もないので、しなくてもいいです。
約2600年前のお釈迦様ご在世の時、
お釈迦様やそのお弟子方が、亡くなった人の葬式をされたことは一回もありません。
それが後世に、仏教と葬式が結びつくようになったのです。
つまり葬儀と仏教は関係なく、もちろん葬儀と成仏も関係なかったのです。
さらに葬式の中で、僧侶が亡くなった方のほうに向いてお経を読みます。
それで読経が成仏と関係があるように思う人がいます。
しかし読経と成仏も、全く関係がありません。
確かに仏教の経典には、とても大切なことがたくさん説かれています。
ですが、大切なことがたくさん説かれているからといって、声に出して読むことで、死者を成仏させるわけではありません。
このことは、お釈迦様ご自身が『中阿含経』などのお経に教えられています。
当時も、死者にお経を読めば救われるという迷信があり、
ある人がお釈迦様にこう質問しました。
ある人: 「お釈迦様、亡くなった人のためにお経を読むと、その人は救われると信じている人がいますが、それは本当のことでしょうか?」
お釈迦様は何もおっしゃらずに、足元にあった石を一つ拾い上げ、近くの池に投げ入れられました。
お釈迦様: 「もし、この池の周りにいる皆が、『石よ、浮かび上がれ。石よ、浮かび上がれ』と一生懸命に唱えたとしたら、今沈んでいるあの石は水面に浮かんでくると思うか?」
ある人: 「いいえ、お釈迦様。そんなことをしても、石が水面に浮かび上がってくるはずはありません」
お釈迦様: 「その通りだ。石は、自身の重さによって水底に沈んでいったのだ。どんなに『石よ、浮かび上がれ』と唱えたとしても、決して浮かび上がることはない。
同様に、人が死んだ後に苦しむのは、死ぬまでにその人自身が行った悪い行いの結果である。
周りの人がどんなにお経を読んでも、その報いを変えることはできない」
(出典:『中阿含経』)
このように、お経には「死んだ人にお経を読んでも意味がない」と教えられているのに、
そのお経を死んだ人のために唱えるというのは、おかしな話です。
お経には何が説かれているのか、お経をあげる本当の意味を知らなければなりません。
お経をあげる意味については、以下の記事で詳しく解説しています。
➾お経をあげる(唱える)・読経の意味や効果は?お経の数、種類、宗派別のまとめ
このように、お経を読んだり葬式をしたりしても成仏できないとすれば、
死んだ人は霊魂となって、その辺をさまよっているのでしょうか?
これも大きな誤解の一つです。
誤解3. 成仏できないと「霊魂」がこの世をさまよう?
よく成仏できない霊を「不成仏霊」と呼んで、この世に霊魂が残ると思っている人がいます。
霊魂が残る理由は、この世に強い未練があったり、誰かに強い恨みがあったりするからで、
そういう人は死ぬ時にすごい形相になり、息絶えると半透明の霊魂が肉体から離れ、不成仏霊となるイメージです。
よく漫画やアニメでも、主人公に霊が見えて、その霊の未練を霊と一緒に解決し成仏させるという話もあります。
また、先祖の霊魂がお盆になると、どこからともなくお墓やお仏壇に戻って来ると思っている人もいます。
しかし現実には、死んだら墓の下にいる霊魂とか、神社で祀られている霊魂は存在しません。
「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理によって、
固定不変の変わらない霊魂というものはない、と仏教で明らかにされています。
これを「諸法無我」といいます。
諸法無我は、仏教の旗印の一つです。
諸法無我について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
➾仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い
ほとんどの人は、「我」と呼ばれる、霊魂のようなものが存在すると信じています。
死ねばその霊魂が天国に行ったり、地獄に行ったり、その辺に残ったり、神社に祭ると鎮座したり、千の風になったりすると考えています。
ですが、そのような霊魂があると信じているのは、間違いだとお釈迦様は教えられています。
あらゆるものに固定不変の我、つまり霊魂のようなものはありません。
この「諸法無我」は、世界にどんなにたくさんの宗教があっても、仏教にしか明かされていない真理の一つです。
霊魂についての仏教の教えは、以下の記事をご覧ください。
➾仏教では霊魂は、無我なので否定されているの?
では、人は、成仏できないとどうなるのでしょうか?
成仏できないとどうなる?生まれ変わりの理論
世間では「成仏できないと虫になるんじゃないか」とか、
「成仏できないと、どうなる」と心配している人がいます。
ですが仏教では、死んだらどうなるかは、
「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理に基づいて、
理論的に解明されています。
それは、死ぬまでの行いによって、因果の道理に従って次に生まれる世界が決まる、というものです。
この生まれ変わりは、永遠に繰り返されるので、これを輪廻転生といいます。
この輪廻転生にも原因がありますので、もし死ぬまでにその原因をなくすことができれば、
輪廻から解脱し、死ねば浄土へ往って、仏に生まれます。
ですが、輪廻転生する場合は、行き先の世界は大きく分けると6つありますので、
これを六道輪廻といいます。
お釈迦様は、こう教えられています。
有情、輪廻して六道に生まるること、なお、車輪の始終なきがごとし。
(引用:『心地観経』)
「輪廻」とは、まるで車輪が回るように終わりなく、生まれ変わり死に変わりを続けることをいいます。
「六道」とは、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界のことです。
これらの6つの迷いの世界を果てしなく生まれ変わり続けることになります。
六道について、詳しくは次の記事をお読みください。
➾六道の意味と輪廻から抜け出し解脱する方法
私たちが死ねば、次の生がどのように決まるかは、
これまでしてきた行いによって決まります。
善い行いをすれば幸せな世界に、
悪い行いをすれば苦しみの世界に生まれます。
しかし、この6つの世界はいずれも苦しみ迷いの世界ですから、
この六道から離れられなければ永遠の幸せにはなれません。
六道輪廻から離れることを六道出離とか、解脱といいます。
成仏すれば解脱できますが、
成仏できなければ、基本的には際限なく苦しみ迷いの旅を続けなければなりません。
ですから、成仏できずに、死んで虫に生まれ変わる人もいます。
ですが、虫に生まれ変わるのはかなりいいほうで、
殺生をしていれば地獄に生まれ変わりますので、
たいていの人は、もっとはるかに苦しい世界に生まれることになります。
死んだら霊魂がその辺をウロウロしているというのは、とんでもないことです。
死んだら因果の道理に従って、すぐに別の世界に生まれ変わります。
では、成仏するには、どうすればいいのでしょうか。
成仏とは仏に成るという意味ですが、
そもそも「仏」とはどのような存在なのでしょうか。
仏の正しい意味
「仏」とは、仏陀ともいいます。
仏陀というのは、サンスクリット語の「ブッダ(buddha)」に由来します。
ブッダというのは、目覚めるという動詞ブドゥフ(√budh)の
過去受動分詞が名詞になった言葉で、「目覚めた人」という意味です。
目覚めた人というのは、最高の悟りを開いた人のことで、
仏に成るとは最高の悟りを開くことです。
では、悟るとはどういうことでしょうか。
悟りとは
仏教では、「悟り」といっても、低いものから高いものまで全部で52あります。
これを「さとりの52位」といいます。
その52の中でも最高の悟りが、仏という悟りです。
仏のさとりに至るまでも、52段すべてに名前がありますので、
詳しいことは以下の記事でご覧ください。
➾悟りを開くとは?52段階の悟りの境地と意味を分かりやすく解説
悟りを開くことを富士山を登ることにたとえると、
一合目、二合目、三合目、と徐々に登っていくと景色が変わり、遠くまで見えるようになります。
ちょうどそのように、さとりの位も、上に上がれば上がるほど、より遠くまで見えるようになります。
どのくらい遠くまで見えるようになるかというと、
一段悟りを開くだけでも、人間と虫けらほどの境界が変わります。
虫けらにスマホやパソコンのことを教えても全然分からないと思いますが、
一段悟りを開けば、そのくらい大きく変わります。
そんな悟りを52段開いていった、最高の悟りの位を「仏覚」といい、これが仏のさとりです。
富士山であれば、頂上に辿り着いた時、
辺り一面、ぐるりと360度の景色が見渡せるように、
仏のさとりを開けば、大宇宙の真理すべてを体得します。
それが仏に成るという、成仏の本当の意味です。
この成仏し、仏に成るということは、非常に難しいことです。
成仏する難しさ
地球上、仏のさとりを開かれたのは、約2600年前にインドで活躍された、お釈迦様ただお一人です。
お釈迦様は、35歳の時に仏のさとりを開かれ、成仏されました。
ですが、それ以降は、仏のさとりを開いた人は、一人も出ていません。
人類史上、2番目に高い悟りを開いたのは、インドの龍樹菩薩と無著菩薩です。
2人とも、41段の悟りを開かれて、同率2位タイです。
龍樹菩薩といえば、小さなお釈迦様「小釈迦」といわれますし、
仏教のあらゆる宗派から尊敬され、八宗の祖師といわれる方です。
ナーガールジュナという名前で、高校の教科書にも出てきます。
禅宗の祖師といわれる達磨大師は、
壁に向かって9年間、手足が腐ってなくなるほど座禅をした人です。
その修行は面壁九年といわれます。
そんな過酷な修行を行った達磨でも、
悟りは30段そこそこだったといわれています。
中国の天台宗を開いた智顗は、生涯、『法華経』の修行に打ち込みました。
成仏するための理論や修行方法を体系化したのですが、
それを最澄が伝えて日本風にしたのが日本の天台宗です。
その元を作った智顗は、亡くなる間際に、弟子から
「師は今、どのくらいの悟りに達せられたのでしょうか?」と聞かれると、
「もし私が弟子たちを育てていなかければ、六根清浄位という悟りに達していただろう。
しかし、弟子のために自分が修行をする時間がなくなり、私はまだ五品弟子位という段階にしか達していない」
と答えています。
「六根清浄位」は10段で、六根が清らかになるさとりの位です。
智顗はそれよりも低い五品弟子位の位だったいいます。
智顗の師匠の南岳慧思は、「六根清浄位」に至ったといわれます。
また、真言宗を開いた日本の空海は、生きている時にこの身このままで仏になれるという「即身成仏」を提唱しましたが、実際にはできませんでした。
そのため亡くなった後、今も高野山で修行しているという伝説まであります。
このように、出家して厳しい戒律を守り、一生涯修行に打ち込んで、一宗一派を開いたほどの人でも、52段目の仏のさとり、つまり成仏には遠く及ばないのです。
ましてや何もしていない人が、死んだら成仏できる、というのはとんでもない間違いです。
では、仏とはどのような存在なのでしょうか。
成仏したら、どのような境地になれるのでしょうか。
悟りの境地とは
仏のさとりの境地について、中国の唐の時代の高僧、善導大師が教えられています。
自覚覚他、覚行窮満、これを名づけて仏となす。
(漢文:自覚覚他覚行窮満 名之為仏)(引用:善導大師『観無量寿経疏』)
「自覚」「覚他」「覚行」「窮満」の身になったことが、仏であるということで、
成仏した人は、必ずこうなります、ということです。
この4つはそれぞれどういう意味なのでしょうか。
自覚
「自覚」とは、「自ら覚る」ということで、仏のさとりを開いて、自分は永遠の幸せになったということです。
さとりというのは、幸せということです。
成仏した人は、輪廻から解脱しますので、もう迷いの世界で苦しむことなく、永遠の幸福になれます。
成仏すると、自分はさとりを開いて変わらない幸せになるので「自覚」です。
覚他
「覚他」とは「他を覚らせる」ということです。
仏様というのは、慈悲の塊です。
自分がさとりを開いて本当の幸せになると、
不幸な人に幸せになってもらいたいという心が必ず出てきます。
自ら真理を覚り、永遠の幸せになって、
自分さえ幸せになればいいとか、
他人はどうなっても構わないという心には絶対になれません。
「この世の人々は、苦しんでいる人ばかりだ。
他の人にも私と同じように本当の幸せになってもらいたい」と
他人を幸せにする願いに燃えます。
その他人を幸せにしよう、成仏まで導こうというのが「覚他」です。
そしてその心は、必ず行いになって現れます。
覚行
「覚行」とは「他の人を覚らせる」ということで、
他の人を成仏まで導き、本当の幸せにする行動をとるということです。
他の人も成仏させたいという願いを持てば、それを実際に行動に移します。
仏の教えを伝え、苦しむ人々を助けるということです。
この覚りのままに行動することが「覚行」です。
窮満
「窮満」とは、「完全無欠で、極まりがない」ということです。
他人を幸せにする行いは、極まりなく現れます。
他の人を幸せにするという目的のために、たとえ相手がすぐに理解してくれなくても、
「もういいや」とあきらめたりせず、
その目的が達成されるまで、どこどこまでも粘り強く行動し続けます。
これを自利利他ともいいます。
自利というのが自覚で、利他というのが覚他です。
自分が幸せになれば、他の人を幸せにせずにおれないのです。
このように仏とは、自利利他円満の方をいいます。
これが成仏の境地であり、仏教の究極の目的なのです。
どうしたら成仏し永遠の幸福になれるのか
では、どうしたら苦しみ迷いの旅を続けている人間が、成仏して永遠の幸せになれるのでしょうか。
お釈迦様は、すべての人が仏になれる道を仏教に明らかにされています。
それには修行も必要なければ、学問も必要ありません。
どんな人でも成仏できます。
それには苦しみ迷いの根本原因を知って、それをなくす必要があります。
では、苦しみ迷いの根元とはどんなもので、どうすればそれをなくせるのかは、
仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ知っておいてください。
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この記事を書いた人

長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)