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生きる意味を、知ろう。

仏教に説き明かされた本当の生きる意味

生きる意味は、仏教に説き明かされています。
果たして仏教に説き明かされた生きる意味はどのようなものなのでしょうか?
特に有名な2つの言葉を挙げて、それを通して明らかにしていきます。

仏教では生きる意味はない?

よく僧侶みたいな人が
生きることに何の意味もない」とか、
ただ生きて死ぬだけで、人生に意味はない
生きる意味なんて考える必要ある?
生きてることは当たり前ではない。生かされてるだけで有難い

などと言うことがあります。

これらは、「生きる意味はない」という主張ですが、
どんな人が言っているのか見てみると、
特にテーラワーダ仏教や、禅宗の関係の人が言う場合が多いようです。

その一方で、同じお釈迦様が説かれた仏教なのに、
逆に「生きる意味はある」という人もいます。

同じ仏教でありながら、このような全く正反対の主張がなされているのは、なぜでしょうか。

それは、両者の「生きる意味」の定義が食い違っているのかもしれません。

まず「生きる意味」とは何なのかを明確にしないと、
生きる意味はあるのか、ないのか、
あるなら何なのかは論じられません。
そこでまず「生きる意味とは何か」を明確にしていきたいと思います。

生きる意味とは

ここでテーマとなる「生きる意味」とは、
何のために生まれてきたのか
何のために生きているのか
苦しくてもなぜ生きなければならないのか
ということです。

生きるということは大変です。
まず衣食住が必要です。

食べなければ死んでしまいます。
食べ物を買うには、お金が必要です。
着る物も必要です。
着る物も高いですし、
住む所はもっと高いです。
かなりの額の家賃やローンが必要です。
衣食住をそろえるために、生きているだけでお金が減っていきます。
刻一刻とお金を減らしながら、何のために生きているのでしょうか。

お金は一生懸命働かなければ手に入りませんので、
生きるためには、本当は働きたくなくても働かなければなりません。
働くと必ず誰かと接しないといけないので、人間関係の問題も起きてきます。

みんな大変な中、必死に働いて生きています。
生きるということは、大変です。
病気になったり、事故にあったりすれば、さらに大変です。
病院に通ったり、入院したりすると
肉体的にも経済的にも大変です。

その色々な苦しみに堪えながら、
人はなぜ生きようとするのでしょうか。
一体何のために生まれてきたのでしょうか。
それが生きる意味です。

何のために生まれてきたのか
ということからすると、
生きる目的ともいえます。

生きる意味の大切さ

政治も経済も科学も医学も、芸術も倫理も道徳も法律もスポーツも
すべて、人が生きるためにあります。

ということは、それらも大切ですが、
何のために生きるのか、
なぜ生きねばならないのか、
という問題は、
それらよりもっと大切になります。

なぜかというと、政治や経済、科学、医学、倫理、道徳、法律などは
どうすれば長く快適に生きられるかを追及するものです。
どう生きるかという生き方です。

どうすればたくさん歩けるか、
どうすれば楽に遠くまで走れるか、
飛行機なら、どう飛べば早く遠くまで飛べるか
という歩き方や、走り方、飛び方にあたります。

ですが、もし歩いたり走ったりする方角や目的地、
飛行機が飛んでいく目的地の飛行場がなければ、
どんなに速く遠くまで飛んでも、
頑張って早く遠くまで飛んだ意味がなくなってしまいます。

歩くことや走ること、飛行機なら飛ぶということも大切ですが、
それよりも大事なのは、
どこへ向かって歩くか、走るか、飛ぶかという方角や目的地です。

その方角や目的地が明らかであってこそ
歩くことの意味があり、
走ることの意味があります。
飛行機なら飛ぶ意味が出てきます。

政治や経済、科学、医学、倫理、道徳、法律など、
どう生きるかという生き方は大切ですが、
何のために生きるのか、生きる目的がハッキリしてこそ、
それらに意味が出てきますし、
生きる意味が出てくるのです。

ですから、どう生きるかという生き方も大事ですが、
なぜ生きるかという生きる意味はもっと大事なのです。

このような、何のために生まれてきたのかという生きる目的、
死ぬまでにこれ一つ果たさなければならないことは何か
ということが、生きる意味です。

では、そのような重要な生きる意味は、
仏教に明らかにされているのでしょうか。

仏教には何が教えられているの?

そもそも仏教には、一体何が教えられているのでしょうか。

仏教」とは、「」の「教え」ということです。
とは、約2600年前、インドで活躍されたお釈迦様のことです。
そのお釈迦様が説かれた教えが仏教です。

そのお釈迦様の教えは、今日お経に書き残されていて、
お経を読めば知ることができます。
それは一切経七千余巻といわれるたくさんのお経です。

そのたくさんのお経に何が教えられているかというと、
それは本当の生きる意味一つです。
仏教は、実は生きる意味一つを明らかにされた教えです。

そのことは、すでにお釈迦様が生まれられた時に宣言されています。

お釈迦様が生まれられた時、
東西南北に7歩ずつ歩かれて、
右手で天を指され、
左手で地を指されて
天上天下唯我独尊
と言われたと説かれています。

生まれたばかりの子供が、歩いたり、しゃべったりできるのか
というのは分かりませんが、
問題は、生まれた時にこういうことがあったと
お釈迦様がお経に説かれているということです。

私はこのために生まれてきたのだ
ということを宣言されたお言葉です。

では、天上天下唯我独尊とはどういう意味かというと、
天上天下」は、大宇宙どこでも、ということです。

唯我独尊」は、ただ自分だけが偉い、という意味ではありません。
」というのはお釈迦様のことではなく、
我々ということで、私たち人間のことです。

」は唯一です。
二つとないということです。
唯一、私たち人間しかできないことがある、ということです。
それが「独尊」です。
独尊」とは、たった一つの尊いことです。
大宇宙のどこへ行っても、唯一人間に生まれなければできない
尊いことがある、ということです。

この「たった一つの尊いこと」が、本当の生きる目的です。
ですから、人それぞれ自分の好きなことや、
人それぞれ違う生きがいとは全く違います。

そのたった一つの尊いことをすべての人に教えるために
私は生まれてきたのだ

と言われたお言葉が
天上天下唯我独尊ということです。

ですから、仏教に教えられているのは、
このたった一つの尊いことであり、
本当の生きる目的、生きる意味です。

生きる意味を教えられた有名な言葉

では、仏教には、そのたった一つの尊い生きる意味を
どのように教えられているのでしょうか。

お釈迦様は、こう教えられています。

人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん。

これは有名なお釈迦様のお言葉です。
一体どういう意味なのでしょうか。

人身受け難し、今已に受く

人身受け難し、今已に受く」とは、
人身を受ける」というのは、人間に生まれることです。
人間に生まれるということは、
こんな有り難い、こんな嬉しいことはないんだ、ということです。
「人間の命は地球よりも重い」と世間で言われているのと同じです。
人間に生まれるということは大変有り難いことなんだ、
あることでないんだ、 そのあることでないことが今、我が身に起きているんだ
我が身が今、人間に生まれたということは、
あることでないことが起きてきたんだ。
その生まれ難い人間に
今、生まれさせていただけた幸せ者の嬉しさよ
と言われています。

人間に生まれてよかったなあ
人間に生まれなかったならば、
この人生の目的は知ることができなかった、
人生の目的を果たすこともできなかった、
人間に生まれてよかった、ということです。

仏法聞き難し、今已に聞く

その人生の目的は、仏教にしか教えられていませんので、次に
仏法聞き難し、今已に聞く
と言われています。

仏法」というのは仏教のことです。
仏教を聞くことは難しい。
でもそのたった一つの尊い生きる意味は、
仏法を聞かなかったら絶対に分からないんだから、
仏法は聞き難いのに、仏法を聞かせていただいてよかった、
それで、生きる目的を知ることができた。
その目的を果たすこともできた。
仏法を聞く人が少ないから、
人生の目的を知っている人もまた少ないのに、
その聞き難い仏法を聞かせていただいてよかった、という喜びが、
仏法聞き難し、今已に聞く」ということです。

さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん

人生の目的は、人間に生まれてこなければ、
知ることができないし、
果たすこともできない。

そして、生まれ難い人間に生まれても、
仏法を聞かないと、
知ることもできないし、
果たすこともできない。

そういう非常に大切なものがあるんだ、
本当の生きる意味があるんだ、
それほど有り難いものがあるんだと
お釈迦様はおっしゃっています。

そして「早くそれを知って果たしなさい。今しかチャンスはありませんよ
と言われているのが
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん

というお言葉です。

だから、生きる意味がないと言っているような人は、
その仏教に明らかにされている
本当の生きる意味を知らないだけです。
生きる意味は、あります。

そして、
生きる意味はあるけど、それは人それぞれだ」と言う人も、
まだ本当の生きる意味を知らされていないのです。
人それぞれのものは、趣味や生きがいであって、喜びが続かないからです。

本当の生きる意味は、
人間に生まれてよかった」と大満足できるものですが、
それは一体どんなことだと仏教に教えられているのでしょうか。

それを知るには、このお言葉に教えられる
もっと深い背景に入っていかなければなりません。
それはどんなことでしょうか?

なぜ人間に生まれることは難しいの?

人身受け難し」とは、人間として生まれることは難しい
ということです。

でも、みんな気がついたら人間に生まれていて、
そんなに大変だった自覚はないのではないでしょうか。
そんなに難しいの?という人がほとんどです。

ところが仏教では、人間に生まれる難しさを
盲亀浮木もうきふぼくといわれるたとえで教えられています。

それは大海の底の目の見えない亀が、
100年に一度浮かび上がって、
海面を漂う丸太の穴に頭を入れることがあるよりも
人間に生まれることは難しいと教えられています。

この盲亀浮木のたとえについて、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
ありがとうの語源(盲亀浮木)と人間に生まれる確率

これは絶対にないとは言い切れませんが、
何億年、何兆年に一度もないくらい難しいことです。
なぜ人間に生まれるのが、そんなに難しいのでしょうか。

それは、人間以外に生まれる可能性があり、
その可能性のほうがはるかに高いからです。
人間以外に生まれる可能性というのはどういうことでしょうか。
仏教で「」というのは、生まれた時にできて、
死ぬ時になくなるのではありません。

生まれる前、果てしない遠い過去から、
生まれ変わり死に変わりを続けてきたと説かれています。
そして死んだ後も生まれ変わり死に変わりを続けていきます。

生まれ変わりというと、来世もまた人間に生まれられる
と思っている人がいますが、そうではありません。
人間も含めて、6つの迷いの世界があります。
その6つのうちのどれかに生まれます。
この6つの迷いの世界を六道といわれます。

人間以外の生まれ変わる世界

六道とは、このような6つの迷いの世界です。

六道(五趣)
  1. 地獄道(界):最も苦しみの激しい世界
  2. 餓鬼道(界):飢えと渇きで苦しむ世界
  3. 畜生道(界):弱肉強食で常に不安におびえる世界
  4. 修羅道(界):争いの絶えない闘争の世界
  5. 人間道(界):現在私たちが生きている世界
  6. 天上道(界):楽しみが多いが、悲しみも寿命もある世界

六道は、人間と修羅を1つにまとめて、
五趣ごしゅ」といわれることもあります。
六道それぞれがどんな世界なのか、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
六道の意味と輪廻から抜け出し解脱する方法

この6つの世界を、生まれては死に、生まれては死に、を繰り返してきた
ということです。

ですから人間以外にも、
ある時は畜生界に生まれて死に、
ある時は修羅界に生まれて死に、
ある時は地獄界に生まれて死に、
ある時は餓鬼界に生まれて死に、
と生死を繰り返してきた、ということです。

これを「六道輪廻ろくどうりんね」といいます。
輪廻というのは車の輪が回るということで、
6つの迷いの世界を、車の輪が回るように、
グルグルグルグル回ってきた、という意味です。
回っているので、際限がありません。
終わったということがなく、エンドレスで苦しみ迷い続けます。
こうして果てしのない過去から今まで迷いの旅を続けてきて、
今も苦しみ迷いの旅を続けており、
これから先も未来永劫、迷いの旅を続けていくのです。

この6つの迷いの世界の中で、
人間に生まれることは、非常に難しく、
盲亀が浮木に頭を入れるよりも難しい、
何兆年にもないことなので、
お釈迦さまは「人身受け難し
と言われています。

その生まれ難い人間に生まれたことは
こんな有難いことはない、
どんなに喜んでも喜び過ぎることはない
というのが「今已に受く」ということです。

なぜ喜ばずにはいられないのかというと、
生まれることが難しいだけでなく、
この6つの迷いの世界の中で、人間界に生まれた時しか果たせない
たった一つの尊いことがあるからです。

では、その人間に生まれた時しか果たせない
たった一つの尊いこととは何でしょうか。
それこそが本当の生きる意味であり、
死ぬまでにこれ一つ果たさなければならない
本当の生きる目的です。

仏教に説き明かされた本当の生きる意味

そもそも「生きる意味は何か」
「あなたは何のために生まれてきましたか?」
と尋ねられて
幸せになることだと答えれば、
異論を唱える人はないはずです。

政治も経済も科学も医学も、倫理も道徳もスポーツなどの生き方も
どう生きれば幸せに生きられるかを求めていますし、
人それぞれ自分の好きなことを生きがいにするのも、
幸せを求めてのことだからです。

果ては自殺する人でさえ、
「こんなに苦しいなら死んだほうが幸せだ」と、
自ら命を断つわけですから
幸せを求めているといえます。

ところがよく考えてみると、
「好きなことをする」ということの本質は
を満たすということです。
それがどんなに崇高で、格調高くても、それは変わりません。
結局、何らかの欲に還元されます。
「やりたい」ということ自体が欲だからです。

欲を満たす喜びは一時的で、
どこまでいっても満たし切ることはできないので、
欲を満たす幸せは続きません。
すぐに色あせ、消えてしまいます。
たとえ少しは続いたとしても、
最後死んでいく時には、総崩れになってしまいます。

光陰矢の如し」で人生は短いですし、
そんなあっという間に消えてしまう、儚い幸せでは、
本当の生きる意味とはいえません。
あんなに頑張った割には喜びが少なかったと虚しくなります。

誰もが求める幸せは、完全に満たされて、永遠に変わることのない幸せであるはずです。
そんな未来永遠の幸せになるには、
欲を求めるのではなく、迷いの解決をして、
苦しみ迷いの六道を離れる身にならなければならない
と明らかにされたのが仏教です。

苦しみ迷いの世界から出て離れる、
六道を出離する身になることが
人間に生まれてきた目的だと仏教で教えられています。

お釈迦様がお生まれになられた時、
東西南北に7歩ずつ歩かれたというのも、
7=6+1ですから、
六道から一歩出る、ということです。

六道を出離する身になることが
人間に生まれた時しか果たすことのできない
たった一つの尊いことなのだと教えられているのです。

六道を出離する身になった時、
人身受け難し 今已に受く
「生まれ難い人間に生まれてよかった、
よくぞ人間に生まれたものぞ」
という生命の大歓喜が起きます。

仏教に説き明かされた本当の生きる意味は、
お金でもなければ地位でもない、趣味でもなければ生きがいでもない。
迷いの解決をして、未来永遠の幸せになることが、
人間に生まれた時しか果たせない、
たった一つの尊い生きる意味なのです。

なぜ人間に生まれた時しか果たせないの?

なぜそのたった一つの尊いことは、
人間に生まれた時しか果たせないのかというと、
それを果たす、迷いの解決の道が
仏教にしか説かれていないからです。

仏教は、人間界以外では聞けません。

なぜかというと、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界では、
苦しみが多すぎて聞けません。
例えば借金地獄の人が、なかなか仏教を聞いている余裕がないようなものです。

一方、天上界では、楽に溺れて聞けません。
例えば、仕事が上り調子で上手くいっている人が
仏教を聞いている暇なんかない、というようなものです。

六道の中で仏法が聞けるのは、人間界だけです。
それで、このたった一つの尊いことは、
人間に生まれた時しか、果たせないのです。

だから、迷いの解決をして、苦しみ迷いを離れる身になり、
未来永遠の幸せになることは、
人界受生にんがいじゅしょう本懐ほんがい」ともいわれます。

人界受生の本懐」とは、人間界に生まれた目的ということです。
それが人間に生まれた意味であり、
本当の生きる意味なのです。

なぜ仏法は聞き難いの?

ですが、人間に生まれさえすれば、
仏法を聞いて、迷いの解決ができるわけではありません。
人間界の中でも、逆境過ぎて、この世の地獄に苦しんでいる人もいますし、
自分のことしか考えないで苦しむ餓鬼という人もいますし、
常にビクビクおびえて畜生界の人もいます。

一方、順境過ぎて楽しくて楽しくて聞けない、
という人もあります。
せっかく人間に生まれても、心が地獄や餓鬼、畜生の世界に陥ってしまっては
仏教は聞けませんから、
人間界に生まれ、心も人間的な、いわば人間の中の人間でなければ、仏法は聞けないのです。
仏法聞き難し」です。

だから、世間を見渡しても仏教を聞いている人はほとんどいないですし、
仏教国といわれる日本なのに、
仏教の教えが分かっている人は、ほとんどいません。
みんな葬式法事をするのが仏教というイメージで、
仏教に、本当の生きる意味一つが教えられていると知る人は
極めてわずかです。

本当の生きる意味を、どう生きるかという生きる手段や、
趣味、生きがいと混同している人ばかりです。

仏法を聞く人も少ないし、仏法の正しい教えを知る人も少ないので、
仏法を聞くことは大変難しいことです。

そんな聞き難い仏教を聞くことができてよかった
というのが「仏法聞き難し 今已に聞く」ということです。

本当の生きる目的は、仏法にしか教えられていないから
仏法を聞かなかったら絶対に分かりません。
果たすこともできません。

本当の生きる目的を達成した時、
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法を聞かせていただくことができてよかった、
よくぞ聞き難い仏法を聞かせていただけたな、
という喜びが起きるのです。

お釈迦様のおすすめ

そして、
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん
」の
この身今生に向かって」というのは、生きている今、ということです。
死んでからでは間に合わないので、生きている現在です。

度せずんば」というのは、本当の生きる目的を知り、
それを果たさなければ、ということです。
度する」というのは助かるということですが、
迷いの解決をして未来永遠の幸せになる、ということです。

それは死んでからではなく、生きている時にできます。
むしろ死んでからではできないので、
死ぬまでに果たさなければなりません。

生きている時に、その身にならなければ、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん
といわれています。
これは、「いつ助かるというのか、永久に助かる時はない
生きている今がチャンスだぞ」ということです。

それで、
人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん

というのは、
人間に生まれてきたのは、仏法を聞き、
迷いの解決をして未来永遠の幸せになるためだ

と本当の生きる意味を教えられた
お釈迦様のお言葉なのです。

では、どうすれば迷いの解決ができるのかというと、
仏教では、すべての結果には必ず原因があると教えられていますので、
迷いの根本原因があります。
その迷いの根元を断ち切らなければなりません。

その迷いの根元とは何か、どうすれば断ち切れるのか
ということについては、仏教の真髄ですので、
電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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