無我とは?
「無我」というと、世間でも「無我の境地」とか、「無我夢中」などといわれますが、それらとは意味が違います。
多くの人が「私というものがある」と考えていますが、実は、私というものはないというのが「無我」です。
「無我」は仏教の特徴の中の特徴で、仏教だけに説かれています。
一体どういうことなのでしょうか?
この記事では、
1.世間で使われる無我の意味
2.無我が分からない為に生じる苦しみ
3.ブッダの体得された真理
4.仏教と他の宗教との違い
5.無我を分かりやすく教えられた物語
6.なぜ無我なのか
7.無我を説かれた目的
について分かりやすく解説します。
無我の意味
「無我」という言葉は、仏教の意味と、世間で使われる意味では大きく異なります。
もし世間でいわれる「無我」と仏教でいわれる「無我」を同じようなものだと思っていると、混乱してしまい、
本当の「無我」が分からなくなるほど、正反対の内容です。
ではまず、世間でいわれる「無我」はどんな意味なのでしょうか?
世間でいわれる無我の境地とは?
世間でも「無我」という言葉を遣って、「無我の境地」といわれることがあります。
例えば、科学者が顕微鏡を見ているときや、
釣り人が浮きを見ているとき、
作家が原稿を書いているときなどに
「無我の境地」という場合があります。
これは一つのことに集中していることです。
他にも、「無我夢中」という言葉があります。
これも、テレビゲームに無我夢中だとか、
地震が起きたとき無我夢中で逃げたとか、
一つのことに心を奪われたり、没頭しているときに使います。
このような世間的な無我の使い方は、無我というよりも、「我を忘れている」というほうが近いです。
漢字二字なら「無我」ではなく「忘我」です。
他にも「無我」という言葉が、「欲がない」という意味で使われることがありますが、それは「無私」といったほうが近いでしょう。
これらは仏教でいわれる無我とはまったく意味が違います。
では、本来の「無我」とは、一体どんな意味なのでしょうか?
私の存在によって生じる苦しみ
私たちは、物心ついた時から、「私」というものがあると思っています。
常識的には「私」というものがあると思うのが普通です。
近代哲学の父といわれるデカルトもそうでした。
デカルトの「我」
17世紀の哲学者・デカルトは、
いつでもどこでも変わらない真理を発見しようと思い、
その手段として「方法的懐疑」を使いました。
「方法的」というのは、すべてを疑うとなると、すべてを疑うこと自体を疑うことになり、自己矛盾に陥るので、真理を発見する手段として疑うということです。
それは、少しでも疑わしいものは全部排除して、
まったく疑うことのできない何かが残るかどうかを見極めようというものです。
まず五感で感じられるものは幻覚かもしれないので排除し、
そして肉体が存在することも思い込みかもしれないので排除し、
ついでに数学的に証明されることも疑い、思いつくものすべてを疑っていきます。
やがてどんな身体も、どんな世界も、どんな場所もないという絶望に立たされた時、
一条の光が差します。
すべてを偽りと考えたとしても、そのように疑いつつある私がなければならないと気づいたからです。
疑えば疑うほど、疑っていることは一層確実になり、そしてこう言います。
我思う、故に我あり。
(出典:デカルト『方法序説』)
これは「私が今考えているということは、私がある」ということだ、ということです。
これは、どんなに疑っても疑いえない、堅固で確実なことであり、
これこそ真理だと思ったわけです。
そして、デカルトの「我」は実体であって、それは「存在するために他のいかなるものをも必要とせずに存在するもの」だとしています。
それがデカルトが考えた「我」です。
デカルトの「我」は神から切り離されていないので、
まだこの段階では近代的自我とはいえないのですが、
何はともあれこうして近代ヨーロッパでは、このような「私」の存在を前提として社会を構築してきました。
それが個人主義です。
ヨーロッパでは、逆に「私」がなかったり、希薄だったりすれば、
個が確立していないとして、程度が低いとみなすくらい、
「自我」の確立が重視されます。
これは何もヨーロッパが特別なのではなく、
仏教以外の世界中のあらゆる文化や思想で、
「私」があるのが前提となっています。
極めて普通のことです。
「我」による苦しみ
ですが、「私」があるとどうなるかというと、
「私のもの」という執着が起きてきます。
「私」があることによって、
これは私のスマホ、
これは私の家、
これは私のお金、
これは私の仕事、
これは私の地位、
これは私の妻や夫、
これは私の子供、
これは私の体、
これはみんな私のもの、と思っています。
ということは、私というものがあると思っているのです。
これらを他人が取りにくると、
「ダメだ、これは私のものだ」
と放そうとしません。
ところが諸行無常の世界ですから、一切は続きません。
私のものはずっと私のものであってほしいのに、
思い通りにならずに失って苦しみます。
私の大切な人は、ずっとそばにいて欲しいのに、
会者定離ですから、必ず別れる時が来ます。
その時に苦しむことになります。
この無常の世界では、形あるものは壊れ、
出会った人とは別れなければなりません。
その時に苦しむことになるのです。
ですが、もし「私のもの」という思いがなければ、苦しむこともありません。
このことを『スッタニパータ』の第4章には、このように説かれています。
「わがもの」という観念が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。
(引用:『スッタニパータ』951)
「私のもの」という思いがあるのは、
私、つまり「我」があると思っているからです。
「我」があると思っているところから、色々な問題が起きてきて、
苦しんだり悩んだりしなければならないということです。
デカルトはすべてを疑い、最後に「我」が残るのが真理だと思ったのですが、
実は「我」さえもないというのが真理だったのです。
これは、デカルトが考えるよりも、2千年以上前から明らかにされていたことです。
ブッダの明らかにされた無我
ブッダの生まれる前の2600年前のインドでも、やはりそうでした。
当時はバラモン教をはじめとする色々な思想の人達が、
それぞれ本当の幸せを求めて難行苦行に励んでいました。
ところが、無我であることを知らなかったために、
どんなに頑張っても本当の幸せになることができなかったのです。
なぜなら「我」は自分中心の観念なので、「我」を前提とすると、
自分の幸せばかり考えて、他人を排斥する気持ちが起きてしまいます。
そして、欲や怒り、自惚れなどの煩悩が盛んになり、悪業を造って、
到底幸せや解脱どころの騒ぎではなくなってしまうのです。
ブッダがまだ仏のさとりを開かれる前、すでにあった教えを実践して、すぐに習得されましたが、
その境地に満足されず、別の教えを求められたのも、「我」に立脚する従来の教えでは、本当の幸せになれなかったからでした。
やがて仏のさとりを開かれて、大宇宙の真理を体得されたブッダは、
「我」があると思っているのは錯覚であり、本当は無我であることを発見されました。
そして私たちの我執の迷いを打ち破るべく、すべては無我であることを教えられたのです。
お釈迦様は無我について、例えば、『雑阿含経』には、こう説かれています。
色はこれ無我、受想行識もこれ無我なり。
(漢文:色是無我 受想行識是無我)(引用:『雑阿含経』)
「色」とか「受想行識」とは、仏教では、私たちは5つのものが集まってできていると教えられ、これを「五蘊」といいます。
その5つが「色受想行識」の5つです。
それぞれどんな意味かといいますと、
「色」は物質的なもののことで、肉体のことです。
「受想行識」は心のことですので、五蘊というのは心身のことです。
色受想行識の五蘊は無我である、ということは、心身は無我である、ということです。
無我は、非我といっても同じです。
ブッダは、「私」というものはない、と教えられているのです。
私はどこ?大号尊者の物語
では私たちが、
「私の家」
「私のお金」
「私の子供」
と言っている、「私」とは何でしょうか?
普通私たちは、皮膚の内側の肉体が私だと思っています。
肉体が私だと思うのは、この世はすべて物質から成り立っているという唯物論者の人が陥りやすい考え方です。
ところが仏教では私というのは肉体ではありません。
『雑譬喩経』には、このように分かりやすく教えられています。
ある旅人が、一人で人里離れた寂しい空き家に宿を取りました。
真夜中を過ぎると、1匹の赤鬼が、人間の死体を持ってやって来て食べようとします。
旅人は急いで隠れると、さらにそこへ青鬼がやって来て、
「その死体はおれのものだ。よこせ」
と言います。
「これはオレが先に見つけたものだ」
と赤鬼が言うと、二匹の鬼は死体の手を両側から引っ張り合って大ゲンカを始めます。
しばらくすると、赤鬼が、
「おい、ここに証人がいる。死体はどっちのものか聞いて見ようじゃないか」
と言い出しました。
すっかり気づかれていたことに驚いて、旅人は考えます。
本当のことを言っても嘘をついても、食い殺されるのは避けられない。
ならば真実を言おうと
「それは赤鬼のものです」
と言いました。
それに怒った青鬼は旅人の片腕を抜いて食べてしまいました。
気の毒に思った赤鬼は、誰かの死体の片腕を取ってきて、旅人にくっつけます。
それを見た青鬼は、さらに両足を抜いて食べます。
赤鬼はまた、他の死体の両足を取ってきて、旅人につけてやります。
こうして青鬼は、胴体も頭も、旅人の全身を次から次に食べると、
赤鬼はその後から、旅人の身体を元どおりに修復し、
ついに今までの身体は全くなくなり、すべて他人の身体のつぎはぎとなりました。
死体を思う存分食べた赤鬼と青鬼が帰ってしまうと、旅人は考えました。
「今の自分の手足は、どこの誰の手足やら分からないが、今は自分の身体のように思える。私の身体はあるのだろうか、ないのだろうか」
街へ帰った彼は、
「この身体は誰のものですか」
と大声で叫びながら歩いたので、大号尊者とあだ名されるようになったといいます。
このように仏教では、「私」というものは肉体ではないと教えられています。
実際、現代の医学では、臓器移植によって他人の身体を自分が使えるようになってきています。
何もしなくても細胞が入れ替わっているので、7年経てば全部入れ変わってしまいます。
脳のどの部分でも多少損傷したくらいでは私はなくなりません。
年を取ると脳もかなりスカスカになるようですが、それでも私は私です。
肉体は「私」ではないのです。
では「私」というのは心でしょうか?
結婚する前は「君を好きだよ」と1日100回言っていた男が、
結婚して4年もすると、全く言わなくなってしまいます。
それは、心が全く変わってしまったということです。
ところが、その人は同じです。
心は盆の上の卵のように、コロコロと動き続けます。
コロコロの「ロ」をとって「ココロ」になったと言われるほど、
心は変わりやすいものです。
しばらくすれば、心がどうなっているか、自分でも分かりません。
すっかり変わってしまいます。
それは、自分ではどうにもなりません。
身体が私ではないように、心もやはり、私ではないのです。
このように、「私」というものはどこにもありません。
あると思うのは錯覚で、私に実体はないのです。
これが「無我」です。
なぜ無我なのか
デカルトでさえも、すべてを疑っても、何かを思っている「我」があることは疑うことはできないと言っていましたが、
なぜブッダは、無我が本当だと言われるのでしょうか。
無我である理由について、先ほどの『雑阿含経』の続きに
ブッダはこう説かれています。
色はこれ無我、受想行識もこれ無我なり。
この色はまさに有るに非ず、受想行識もまさに有るに非ず。
この色は壊あり、受想行識も壊あり。
故に我に非ず。
(漢文:色是無我 受想行識是無我 此色非當有 受想行識非當有 此色壞有 受想行識壞有 故非我)(引用:『雑阿含経』)
「色」とは身体のことなので、身体も無我、
受想行識は心のことなので、心も無我です。
身体も心もあるのではない。
なぜかというと、身体も心も壊れてしまう。
だから我ではない、と言われています。
「私」を身体と心の2つに分けられて、
どちらも続かないから、我はないということです。
もし「私」であるならば、「私」の思い通りになるはずなのに、
身体も心も思い通りにならないのです。
無常なので、意に反して老いて、病になって、死んでいきます。
身体も心も、自分ではどうにもならずに苦しみます。
不変のものでもなければ、自分が支配できるものでもありません。
それで、身体などの色も、受想行識の心も、「私」とは言えないのです。
色は肉体だけでなく、物質的なものは全部入りますし、
色だけでなく、受想行識も全部同じように自分の意に反して変化するので、
諸法無我なのです。
「我」とは
「我」とは何かというと、常一主宰のものです。
バラモン教の哲学でいえば「アートマン」といわれるものです。
アートマンというのは自己の本質のようなもので、その特徴が、常一主宰ということです。
主宰について『成唯識論』では、こう教えられています。
我というは主宰なり。
(漢文:我謂主宰)(引用:護法造、玄奘訳『成唯識論』)
「常一主宰」とは、
「常」とは永久に変わらないこと、
「一」とは独立していること、
「主宰」とは、中心となって、他の力を借りず、自分の力だけで存在を維持できることです。
ですから「我」というのは、固定不変に他と独立して存在する、中心となって振る舞うものです。
これは物でも生き物でもそうですが、私たちは人間なので人間でいえば、中心となる主体です。
「私」という主体があって、その自分の中心である私が、自分を支配して自由に振る舞うように思います。
この「我」というものがあると思っているから、それによって「私が」「私が」とか、「これは私のもの」と思って苦しむわけです。
「これは私のものだ」と執着して苦しむのは、「私(我)という実体がある」という迷いからです。
この迷いを「我執」といいます。
それで、この「我」があるという迷いを破るために、
「無我」が説かれているのです。
仏教と他の宗教の違い
この「諸法無我」は、仏教と他の宗教の大きな違いの1つですが、
他の宗教ではどんなことを教えられているのでしょうか。
例えば、インドのヒンドゥー教の前身で、ブッダの当時流行していたバラモン教では、「アートマン」の存在を認めます。
「アートマン」とは、私を私たらしめているもので、自己の本質のようなものです。
それは、それ独自で存在している、変化しない実体だといいます。
それが「我」です。
そして究極の目指すところを「梵我一如」といいます。
「梵」とは大宇宙の原理、
「我」とは自己の不変の実体で、霊魂のようなものです。
それが「一如」ということは、不変の私の魂があって、大宇宙の原理とが一体になることです。
しかし、「アートマン」のような固定不変な実体はどこにも存在しないことを悟られたブッダは、これは不可能であり、達成できないと知られ、無我を説かれたのです。
バラモン教でなくても、人間の考えるものは、ほとんど固定不変な私や、その本質として固定不変な霊魂を想定します。
例えばキリスト教では、不変の魂があり、この世の終わりの最後の審判になると、肉体まで復活するそうです。
日本の神道でも、人間や動物が死んだ後、宮を造って祭ると、そこに霊魂が鎮座して、生きている人に幸せや不幸を与える力を持つと信じています。
例えば湯島天神では、菅原道真という政治家の霊魂が、千年以上、拝んだ人の学業成就を助けているそうです。
仏教では、このような普通の宗教で説かれる、固定不変な霊魂というものはないと排斥されています。
私というものは、ないのです。
この「無我」ということは、仏教だけに説かれる仏教独自の特徴です。
仏教の特徴・諸法無我
この固定不変で独立したものが存在しないことは、「私」だけでなく、
あらゆる物事について言えることです。
どんな物も、現象も一時的で、変化しないということはありえません。
そのことを仏教では「諸法無我」といいます。
「諸法無我」は、仏教でしか教えられていない特徴なので、
三法印といわれる仏教の3つの旗印の1つになっています。
では「諸法無我」とは、どんな意味かというと、
「諸法」とはすべてのものです。
「無我」とは「我」を一言でいえば「固定不変の実体」ですので、
固定不変の実体はないということです。
この世のすべてに固定不変な実体はない、というのが「諸法無我」です。
このことは、『ダンマパダ』にも、このように説かれています。
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
(引用:『ダンマパダ』279)
一切の現象も、物も、固定不変の存在ではく、
そのような、固定した、変わらない実体があると思うのは錯覚であり、迷いであり、
そんなものはどこにもない、というのが「諸法無我」ということであり、
それが分からないから苦しみから離れられないのです。
上座部で起きた間違い
ブッダのお亡くなりになった後、上座部仏教の学者たちは、仏教の教えを体系化していきました。
上座部仏教は、テーラワーダ仏教ともいいます。
上座部(テーラワーダ)仏教については以下の記事をご覧ください。
⇒テーラワーダ(上座部)仏教とは
彼らは、無我を明らかにするために、この世のすべてを70以上の構成要素に分けて緻密に分析しています。
この構成要素を「法」といいます。
例えば説一切有部という部派では、75通りに分けて、七十五法といいます。
現在に伝わる南方上座部は、分別説部という部派ですが、72通りに分けて七十二法としています。
そして、それらの要素が組み合わさってできている私というものには実体がない、無我であることを徹底的に明らかにしました。
我執という迷妄を破るために、無我を説かれているのです。
ところが、これらの上座部の人たちは、その構成要素には実体があると思ってしまったのです。
上座部の人たちのいう「法」は実在です。
特に説一切有部では「法体恒有」を主張するので顕著です。
こうして、「私」だけはありませんが、「私」を構成する要素には、実体があるというのが上座部仏教です。
こうして、聞き間違って伝えられた仏教を「小乗仏教」と批判されるようになったのです。
諸法無我を縁起によって鮮明にした龍樹菩薩
この構成要素には実体があるという間違った考え方を徹底的に批判され、
誤りを正そうとされたのが、
大乗仏教を大成された龍樹菩薩です。
龍樹菩薩や、龍樹菩薩が明らかにされた空について、詳しくはこちらをご覧ください。
➾龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の大乗仏教と空とは?
もともとブッダはお経に「諸法無我」を説かれ、すべてのものに実体がないと説かれているのですから、
構成要素にも実体があるはずがありません。
この構成要素にも実体がないということを、龍樹菩薩は、ブッダの説かれた因果の道理によって明らかにされています。
因果の道理は、縁起ともいわれる仏教の根幹です。
龍樹菩薩は『大智度論』にこう教えられています。
諸法は因緣より生ぜざる無く、因緣より生ずるが故に無我なり。
(漢文:諸法無不從 因縁生從因縁生故無我)(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
この龍樹菩薩の解説では、すべてのものは、因と縁がそろって生じるから無我なのだと言われています。
無我を縁起によって解説されたのです。
因とは直接的な因、縁とは間接的な条件や環境などです。
因と縁がそろったときに結果が現れますが、
因縁が離れれば結果はなくなります。
すべては因縁によって生じているから無我なのです。
このように、因縁によって生じているから我というものはないということを、
一つのたとえでこう教えられます。
引き寄せて 結べば柴の庵にて
とくればもとの 野原なりけり
(慈円作)
「庵」とは、質素な小屋です。
「柴」とは、小枝のようなものですので、
「柴の庵」というのは、小枝で作った小屋のことです。
野原で柴を集めてきて、上のところをひもで結べば庵になります。
その中で休んだり寝たりすることができます。
ところが、ひもをほどけば、庵というものなくなってもとの野原にもどってしまいます。
固定不変の庵というものはありません。
現代でいうなら、自動車でも同じです。
「これは私の車、私の自動車」
と執着していますが、自動車というものが本当にあるかというと違います。
自動車は大体約3万の部品でできているといわれますが、
その部品をばらばらにしてしまったら、自動車というものはありません。
自動車という実体はないのに、それらのものの組み合わされた状態を自動車と思っています。
私たちも、一時的に因縁がそろって私というものがあると思っていますが、私に実体はありません。
この世のすべては因縁がそろって一時的にあるだけで、続かないので無我のものなのです。
すべてのものは因縁がそろってできているということは、
すべてのものに実体がない、諸法無我が本当です。
こうして龍樹菩薩は、構成要素には実体があるという間違いを正し、
仏教の根幹である因果の道理によって、
仏教の特徴の一つである諸法無我を理論的に裏付けられたのでした。
人無我・法無我
この無我の聞き誤りについてまとめると、
「私」がないという無我を「人無我」といいます。
それはそうなのですが、それを明らかにするために、構成要素に分解したものの、
その構成要素には実体があると思ってしまったのは仏教の教えの聞き誤りで、
「法有我」とか「我空法有」といいます。
「法」というのは構成要素のことです。
この仏教の教えを誤解した人たちの、「もろもろの構成要素(法)には実体がある」とする「法有我」に対して、すべての構成要素は無我であるという「法無我」を明らかにされたのが龍樹菩薩であり、大乗仏教です。
これがブッダの説かれた「諸法無我」です。
龍樹菩薩は、ブッダが説かれた「諸法無我」を徹底的に明らかにされ、「我空法有」に対して「我法二空」が明らかにされたのです。
なぜ無我を説かれたのか
ではブッダは、なぜ無我を説かれたのでしょうか?
ブッダも家や車を例に出されて無我を説かれることはありますが、
それよりももっと重要なことを『雑阿含経』にこう説かれています。
衆材が和合して世に名づけてこれを車と為すが如く、諸陰の因縁合して仮に名づけて衆生と為す。
(漢文:如和合衆材 世名之爲車 諸陰因縁合 假名爲衆生)(引用:『雑阿含経』)
「衆材が和合して世に名づけてこれを車と為すが如く」とは、いろいろな材料が組み合わされて車となっているように、ということです。
次の「諸陰」とは五蘊のことです。
五蘊の因縁が和合して人間になっている、ということです。
仏教が目的としているのは、車などの物体や、世の中の現象を解明することではありません。
私たちが本当の幸せになることです。
そのため、家や車などを例に出されて無我を教えられる目的は、
私たち自身も因縁が離れると人間ではなくなってしまうことを教えられているのです。
ほとんどの人は普段気にも留めていませんが、
人生でこれほどの重大なことはありません。
では、この世の縁が尽きて、命が終わるとどうなるのでしょうか?
『別訳雑阿含経』では、このように教えられています。
あるときブッダの所に、一人の修行者がやってきて、こんな問いを投げかけました。
「我は、あるのか」
ブッダは黙ったまま、お答えになりませんでした。
そこで修行者は、
「では無我なのか」
と聞きました。
それでもブッダは黙ったまま一言も発しません。
修行者は答えが得られないので、どこかへ行ってしまいました。
それを近くで見ていた弟子のアナンダが、
「なぜ、あの者の問いにお答えになられなかったのでしょうか?」
とお尋ねすると、ブッダは丁寧に、こう教えられています。
「真実は無我なのに、もし我ありと答えたら、固定不変の自己が永久に続くという常見という迷いに陥るであろう。
しかし、もし無我と答えたら、彼は死ねば無になると誤解して断見の迷いを深めるのだ」
そしてブッダは、生まれ変わりを繰り返すメカニズムと苦しみの原因を明かされた十二因縁を説かれています。
(出典:『別訳雑阿含経』)
「常見」とは、死後、肉体は滅びても、普遍の魂が続いていくというキリスト教や神道のような考え方です。
この考え方では、生まれ変わりを繰り返すことはありません。
私は私のまま、復活したり、鎮座したりします。
逆に「断見」とは、唯物論の現代人にありがちな、死んだら無になるという考え方です。
この考え方でも、生まれ変わりはあり得ません。
ですが、そのどちらも間違いであることを、
この時、ブッダはこのように説かれています。
諸法は壊るる故に常ならず、続くが故に断ならず。不常不断なり。
(漢文:諸法 壞故不常 續故不斷 不常不断)(引用:『別訳雑阿含経』)
分かりやすく言いますと、一切のものは、因縁が離れれば壊れるので、永遠に変わらない魂というものもない。
だが因縁が離れても消滅するのではなく、別の形になって続いていくから、死んだら無になるのでもない、ということです。
つまり「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」
ということです。
私が変わりながら続いていくからこそ、生まれ変わりが繰り返されるのです。
たまに、無我は輪廻転生と矛盾するという人がありますが、それは全くの誤解です。
実際にはこのように、固定不変の霊魂があると思っていると迷い続けてしまうので、
ブッダは輪廻転生を明らかにするために無我を説かれているのです。
そして、輪廻転生の迷いの根本原因を明らかにされ、それを断ち切って本当の幸せになる方法も教えられています。
そのブッダの説法は、やがて大号尊者も聞いて歓喜したといわれています。
ではその迷いの根元とはどんなもので、どうすれば断ち切れるのかは、
仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめてあります。
一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)