厭離穢土 欣求浄土とは?
「厭離穢土 欣求浄土」という言葉は、徳川家康が辞世の句とし、
さらに、もともと自軍の旗印として用いていたことでも有名です。
2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場しました。
徳川家康最後陣跡
旗印は、敵味方を区別するための部隊標として掲げられると共に、戦国武将は旗印に、自分の願いや信仰などの意味を込めていました。
家康は、穢土を戦乱の世に見立て、浄土を平和な世と考えており、戦乱の世の中を離れて、平和な世の中を願うという思いで、「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を掲げました。
では、なぜ家康は「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を掲げるようになったのでしょうか。
「厭離穢土 欣求浄土」の本当の意味はどういう意味なのでしょうか。
家康が旗印に「厭離穢土 欣求浄土」を選んだ理由や、
「厭離穢土 欣求浄土」を初めてまとめて教えられた
源信僧都の『往生要集』に説かれる意味も分かります。
厭離穢土 欣求浄土の意味
「厭離穢土 欣求浄土」の意味について、仏教辞典ではこう説明されています。
厭離穢土
おんりえど
<えんりえど>とも読み、<厭離>は厭い離れる、厭い捨て去るの意。
浄土思想の用語として、この娑婆世界を穢れた国土として、それを厭い捨て去るという意である。
阿弥陀如来の住む極楽世界を清浄な国土として、それを切望する意の<欣求浄土>と対をなす。
源信の『往生要集』に詳しく説明されている。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
辞典にもあるように、「穢土」とは娑婆世界、
つまり、私たちが暮らす苦しみに満ち溢れた人間の世界です。
「厭離」とは、厭い離れる、ということです。
苦しみに満ちたこの世界を離れることが、「厭離穢土」の意味です。
厭離穢土については、平安時代中期の高僧・源信僧都が詳しく解説されていますので、
「源信僧都『往生要集』」の項目で説明します。
「厭離穢土」と対になる言葉が、次の「欣求浄土」です。
仏教辞典には別の項目でこのように説明されています。
欣求浄土
ごんぐじょうど
極楽浄土に生まれることを欣い求めること。
<厭離穢土>と対をなす。
源信の主著『往生要集』は10門から成っているが、その第1が 「厭離穢土」、「第2が 「欣求浄土」 と題されていて、厭離穢土の自覚が欣求浄土の心の前提となることが示唆されている。
ただし、この両者は相対する心情ではなく、 穢土を厭い離れようとする心がそのまま浄土を欣い求める心となる。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
この辞典にも書かれている通り、「浄土」は極楽浄土のことで、
「欣求」は願い求めるという意味なので、
極楽浄土に往くことを願い求める、というのが、欣求浄土の意味です。
『往生要集』では、「厭離穢土」と「欣求浄土」と
別々の単語として使われていますが、
後に「厭離穢土 欣求浄土」とセットで使われるようになりました。
このように「厭離穢土 欣求浄土」は仏教の言葉ですが、
徳川家康はなぜ、この言葉を旗印に掲げたのでしょうか。
大樹寺の陣
徳川家康の運命を大きく変えた出来事として、
桶狭間の合戦があります。
当時は松平元康といわれていた19歳の家康は、
この合戦で今川義元が織田信長に討ち取られたことにより、
今川方に属していた彼の身に危険が迫りました。
名古屋の大高城にいた家康は、わずかな部下とともに
岡崎城へ逃げ帰ることを決意します。
しかし、岡崎城にはまだ今川方の武将が残っており、入城は叶いませんでした。
窮地に追い込まれた家康は、菩提寺である大樹寺に逃げ込み、
先祖の墓前で敗戦の恥をそそぐべく自刃しようとしたその時、
大樹寺の住職だった登誉天室という僧侶が家康を諭しました。
「あなた使命は、この乱世を泰平に導くことだ」
登誉和尚は白旗に「厭離穢土 欣求浄土」と記し、
これを寺の塀に立てかけました。
さらに、七十人力と称された大力の住僧、祖洞和尚が
門の貫木を引き抜いて野武士たちを追い払ったおかげで、
家康は九死に一生を得たのでした。
これは「大樹寺の陣」と言われるようになり、この経験を通じて家康は
「厭離穢土 欣求浄土」の意味を、
「長く続いている戦乱の穢れた世の中は、武士が私利私欲のために戦っているからであり、正しい目的をもってすべての民が安心して暮らせるこの世の浄土を作るのが自分の使命である」
と解釈し、座右の銘として、
浄土教へ帰依したのでした。
この後、戦いのたびに「厭離穢土 欣求浄土」の白旗を掲げ、
浄土仏教を信仰した家康は、
日々の念仏を欠かさず続け、戦の合間にも「南無阿弥陀仏」と書かれた紙片を数多く残しました。
これを「陣中名号」といわれます。
このように、家康の乱世を泰平に導くという使命感と、浄土教への帰依が、
後に徳川幕府を築きあげる礎となったのでした。
しかし、これは単なる家康の解釈であって、
「厭離穢土 欣求浄土」の本当の意味ではありません。
仏教ではどのように教えられているのでしょうか。
「厭離穢土 欣求浄土」には、それよりはるかに深い意味があります。
厭離穢土と悲観主義との違い
「厭離穢土」と聞くと、言葉のイメージから
悲観主義と考える人がたくさんいます。
徳川家康のような外向的な人が「厭離穢土」というのは珍しく、
どちらかといえば内向的な人が考えそうだと思わないでしょうか。
悲観主義は、「厭世主義」「厭世観」ともいわれ、
現状を悲しむべきものと捉え、将来に対しては悪いシナリオを予測し、悲観的な姿勢をとります。
夢も希望もないイメージです。
また、将来の出来事に対して低い期待を設定し、起こりうる問題を事前に想定することを、「防衛的悲観主義」といいます。
つまり悲観主義は、現実世界や将来に対し否定的な考えをする、ということです。
「厭離穢土」といえば、そんな悲観主義、厭世主義と同類だと思うのではないでしょうか。
確かに「厭離穢土」と「厭世」が似たような意味の漢字が使われていますが、
この2つには大きな違いがあります。
悲観主義は、生き方の問題であり、メリットもデメリットもどちらも考えられますが、
一方で、「厭離穢土」は、この世が苦しい世界だと思い込むような意味ではありません。
では、「厭離穢土」とはどういう意味なのでしょうか。
この世の実相
「厭離穢土」は、この世界の真実の姿を明らかにした言葉です。
この世が事実として「穢土」であるから離れなさいと教えられています。
「穢土」とは、娑婆とも言い、苦しみを耐え忍ばなければならない世界をいいます。
娑婆について詳しくは、以下の記事をお読みください。
➾娑婆とは?語源や意味、仏教の世界観について解説
私たちは、この世界には幸福が溢れていると錯覚しがちで、
幸福には常に苦しみの影がつきまといます。
これをお釈迦様は、
「苦しみの新しい間を楽しみといい、
楽しみの古くなったのを苦しみという」
と教えられています。
私たちの求める楽しみは、一時的で、すぐに消え去ってしまいます。
苦労して手に入れた割に喜びはすぐに色あせ、すぐにワンランク上のものを求めるようになります。
それを際限なく繰り返し、車の輪が回るように、ぐるぐる回っているようなものです。
どこまでいっても終わりはありません。
夢や幻のように消えてしまう楽しみを求めて、苦労してばかりしているのです。
そんな束の間の楽しみに騙されて苦しんでばかりいないで、
本当の幸福を求めなさい、と教えられた言葉が「厭離穢土」なのです。
六道としての意味
『往生要集』では、この「穢土」を
人間界だけではなく、六道のことと教えられています。
六道とは、人間界も含めた6つの迷いの世界のことです。
6つの迷いの世界とは、「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人間界」「天上界」の6つです。
これらはいずれも苦しみ迷いの世界で、天上界でも例外ではありません。
六道がどんな世界なのかについては、こちらの記事をご覧ください。
➾六道の意味と輪廻から抜け出し解脱する方法
私たちは、果てしない遠い過去から、この6つの迷いの世界を生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返しています。
これを「六道輪廻」といいます。
「輪廻」とは、車の輪が回るようにぐるぐる回って終わりがないことです。
エンドレスで苦しみ迷いの生死を繰り返します。
ですから、今は人間界に生まれていますが、
死ねばまた六道のどれかの世界に生まれ変わります。
なぜ六道に生まれるかといえば、悪い行いをしているからです。
悪い行いを悪業といいます。
悪い業によって、次の世界へ生まれ変わり、果てしなく輪廻するのです。
悪業を造る元は、煩悩にあります。
「穢土」の「穢」は煩悩のことで、私たちは煩悩によって悪を造り、
その因果応報によって、この世が苦しみの世界になります。
しかも人間は煩悩の塊で、心は100%煩悩でできています。
煩悩でできているということは、煩悩をなくすことはできないため、悪を造り続けます。
その結果、煩悩にまみれた私たちが住んでいる世界は、苦しみの充満した世界となり、「穢土」といわれるのです。
穢土にいる限り、この世だけでなく、死んでも幸福になることはありません。
穢土とは六道のことですが、
この苦しみ迷いの六道輪廻から離れ、極楽浄土にゆかなければ、
私たちは永遠に苦しみから離れられないので、
そこで源信僧都は「厭離穢土」と言われ、
穢土である六道から離れなさいと教え勧められました。
それというのも、お釈迦様がそう教えられているからです。
厭離穢土 欣求浄土を勧められた理由
お釈迦様は、まずこの世は苦しみ悩みの世界で「穢土」であることを教え、
幸福になるためには、穢土を厭い離れなければならないと教えられました。
私たちが、この世を穢土だと分からず、穢土を離れたいと思わないため、
「厭離穢土」を教えられています。
そして、本当の幸せになりたかったら、穢土ではなく浄土を求めなさいと、
「欣求浄土」を教えられたのです。
そのお釈迦様の教えを詳しく解説されている『往生要集』で、
「厭離穢土 欣求浄土」という言葉が初めて使われ、
穢土や浄土を詳しく教えられました。
『往生要集』には「厭離穢土」や「欣求浄土」を一体どのように教えられているのでしょうか?
源信僧都『往生要集』
源信僧都は平安時代に浄土教を明らかにした高僧で、たくさんの著作が残されていますが、その主著が『往生要集』です。
その中でも、最初に教えられているのが「厭離穢土」と「欣求浄土」です。
どんな感じなのか、そのほんの一部分を分かりやすく解説します。
『往生要集』の全体については、以下の記事をご覧ください。
➾源信(恵信)僧都の生涯と往生要集の教えを分かりやすく解説
『往生要集』の序文
まず「厭離穢土 欣求浄土」という言葉が使われているのは、『往生要集』のいきなり序文です。
このように書かれています。
それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。
道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。
但し顕密の教法、その文、一にあらず。
事理の業因、その行これ多し。
利智精進の人は、未だ難しとなさず。
予が如き頑魯の者、あに敢えてせんや。
この故に、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。
これを披き、これを修するに、覚り易く行じ易し。
すべて十門有り。
分かちて三巻となす。
一は厭離穢土、二は欣求浄土、三は極楽証拠、四は正修念仏、五は助念方法、六は別時念仏、七は念仏利益、八は念仏証拠、九は往生諸業、十は問答料簡なり。
これを座右に置きて、廃忘に備えん。(引用:源信僧都『往生要集』)
一応、一つ一つ意味を解説すると、
「教行」とは、教えと実践です。
極楽へ往生するための教えと実践は、現代のような濁った世の中の末世においては、目となり、足となるものである。
「道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん」とは、立場の高い人も、低い人も、僧侶も俗人も、誰がこの教えに救われない人があるだろうか。
誰もが求め、救われるべきである、ということです。
極楽とは極楽浄土という永遠の幸せの世界ですが、
誰もが一時的な幸せではなく、変わらない幸せを求めていますので、
どんな時代でも、心の底ではすべての人が求めてやまないものなのです。
「但し顕密の教法、その文、一にあらず」というのは、
「顕密」というのは、顕教と密教のことで、密教以外の教えと密教のこと、
ただし、仏教の教えは一つではなく、多様である、ということです。
「事理の業因、その行これ多し」というのは、
「業因」とは、浄土へ往生するためのたねまきです。
「事理」とは個別具体的な事象の「事」と、
普遍的な絶対平等の理法の「理」のことです。
浄土へ往生するには、具体的な六波羅蜜などの事の業因と、絶対的な真理を観察する理の業因がありますが、その行はとても多いということで、一言でいうと、仏教の実践の体系が複雑多岐にわたる、ということです。
「利智精進の人は、未だ難しとなさず」とは、
智慧があり修行に勇猛精進できる人にとっては、難しくないのかもしれない。
けれども「予が如き頑魯の者、あに敢えてせんや」とは、
私のような頑固で愚かな者には、とてもできることではない、ということです。
ちなみに源信僧都は、幼い頃から聡明で、
15才の時には比叡山の全僧侶の中から選ばれて天皇に講義をしたり、
その著作が千年以上後の現代の私たちにまで影響を与えていたりと、
当時の日本を代表する知恵者です。
その上、出家して戒律を守り、比叡山で修行されています。
そんな方ができないものは、現代の私たちは誰もできません。
「この故に、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む」とは、
そのため、念仏の教え一つに限定し、経典や論書から重要な文章を少しばかり集めた、ということです。
比叡山というのは、『法華経』の教えに従って修行する天台宗の道場です。
源信僧都は『法華経』などの難しい教えが分からない人にも理解でき、『法華経』に説かれる厳しい修行ができない人でも本当の幸せになれるような仏教の教えを明らかにされた、ということです。
「これを披き、これを修するに、覚り易く行じ易し」とは、
これを読み実践すれば、理解しやすく行いやすいであろう。
仏教で説かれる修行は、出家が必須ですし、
大変厳しく、普通の人では絶対にできません。
そこで普通の人でも苦しみを離れ、真の幸福になれる道を『往生要集』に解き明かす、ということです。
ちなみに仏教の修行について詳しく知りたい方は、こちらをお読みください。
➾お坊さんの仏道修行とは?意味と各宗派の過酷な修行方法
そして「往生要集』の構成です。
「すべて十門有り。分かちて三巻となす」とは、
全部で十章からなり、三巻に分けて書いた、ということです。
第一は「厭離穢土」
第二は「欣求浄土」
第三は「極楽証拠」
第四は「正修念仏」
第五は「助念方法」
第六は「別時念仏」
第七は「念仏利益」
第八は「念仏証拠」
第九は「往生諸業」
第十は「問答料簡」
「これを座右に置きて、廃忘に備えん」とは、
これを手元に置き、忘れないように、ということです。
ここに「厭離穢土」、「欣求浄土 」という言葉が使われています。
では、「厭離穢土」ではどんなことを教えられて いるのでしょうか。
第一章・厭離穢土
次に『往生要集』の第一章「厭離穢土」の冒頭に、
「穢土」とはどんな世界なのかを教えられています。
厭離穢土というは、それ三界は安きこと無し、最も厭離すべし。
今その相を明かすに、すべて七種有り。
一は地獄、二は餓鬼、三は畜生、四は阿修羅、五は人、六は天、七は総結なり。(引用:『往生要集』)
これはどういう意味かというと、
「厭離穢土」とは、三界といわれるこの世は、少しも心休まることがない世界であるから、一刻も早く出離しなければならない、ということです。
穢土は、まず「三界」という3つの世界に分けて教えられています。
3つの世界とは、欲界、色界、無色界の3つです。
欲界に生きる人は、五欲のみで生きている人です。
色界に生きる人は、芸術の世界に生きる人です。
無色界に生きる人は、哲学や思想に生きる人です。
それらはいずれも安きことがないということは、
どんな人の人生も、苦しみ悩みの世界で心が休まらないのです。
次の「今その相を明かすに、すべて七種有り」とは、
そのありのままのすがたを7つに分けて明らかにする、ということです。
第一節に「地獄界」
第二節に「餓鬼界」
第三節は「畜生界」
第四節は「修羅界」
第五節は「人間界」
第六節は「天上界」
第七節は総括である、といわれています。
今度は「穢土」を6つに分けて六道で教えられています。
穢土は、一般的には苦しみ悩みの娑婆世界を意味しますが、
源信僧都は穢土を迷いの三界六道と教えられています。
その世界を『往生要集』の第一章に一つ一つ詳しく教えられ、
中でも地獄は特に詳しく教えられています。
地獄がどんな世界なのかについては、こちらの記事をご覧ください。
➾地獄とは?種類と階層(八大地獄)と苦しみについて
このように六道を教えられた結論として、三界六道は苦しみ悩みの世界であり、
この三界六道を離れよ、と勧められているのです。
そして、源信僧都は次に、穢土を離れるためには浄土を求めなさい、と教えられています。
第二章・欣求浄土
『往生要集』の第二章では、「欣求浄土」について、
このように、浄土の素晴らしさを詳しく解説して、願い求めることを勧められています。
欣求浄土というは、極楽の依正は功徳無量なり。
百劫、千劫に説くとも尽くすことあたわじ。
算分・喩分も亦知る所にあらず。
(中略)
今十の楽を挙げて浄土を讃ずること、なお一毛をもって大海を渧らすが如し。
一には聖衆来迎の楽、二には蓮華初開の楽、三には身相神通の楽、四には五妙境界の楽、五には快楽無退の楽、六には引接結縁の楽、七には聖衆倶会の楽、八には見仏聞法の楽、九には随心供仏の楽、十には増進仏道の楽なり。(引用:『往生要集』)
これはどういう意味かというと、
まず「依正」とは、「依報」と「正報」のことです。
「正報」とは浄土に生まれた人のこと、
「依報」とはその依りどころとなる浄土の世界のことです。
「欣求浄土というは、極楽の依正は功徳無量なり」とは、
「欣求浄土」ということは、極楽浄土に生まれた人も、極楽世界も、その功徳は、計り知れないほど素晴らしい、ということです。
「百劫、千劫に説くとも尽くすことあたわじ」とは、
一劫は4億3200万年といわれますので、百劫や千劫といった非常に長い時間をかけて説いても説き尽くすことはできない、ということです。
「あなたは幸せですか?今の生活のどんなところが幸せかあげてみてください」
といわれたら、どのくらいの時間、説明できるでしょうか。
幸せな人でも、5分もいらないのではないでしょうか。
10秒かからない人もいるかもしれません。
ですが、苦しいことなら何時間でもとうとうと語る人はいます。
浄土というのは、幸せをどれだけ語っても語り尽くせないという想像を超えた世界です。
次の「算分・喩分も亦知る所にあらず」とは、
数えることも、たとえを用いて表現することもできないほどである、ということです。
同じように、「あなたは今日、何かよかったことはありましたか?挙げられるだけ挙げてみてください」
といわれたら、いくつ挙げられるでしょうか。
「今日よかったことなんてあったかな?……ない」となってしまいがちです。
ところが極楽浄土の素晴らしさは、数え上げたらきりがなく、
たとえを使ってさえも言葉で言い表せないほどなのです。
「今十の楽を挙げて浄土を讃ずること、なお一毛をもって大海を渧らすが如し」とは、
ここでは、10の喜びを挙げて極楽浄土の素晴らしさを解き明かしていくけれども、
本当の素晴らしさからすれば、それは一本の毛を浸して大海の水をくみ干そうとするようなものである、ということです。
源信僧都は、言葉を尽くして言い表されますが、
それはあくまで浄土の限りない素晴らしさのごく一部に過ぎないといわれていま す。
ちなみに極楽浄土がどういう世界なのかについては、以下の記事をご覧くだ さい。
➾極楽浄土への行き方とどんなところかについて解説
浄土の十種類の喜びとは、
第一に「聖衆来迎」
第二に「蓮華初開」
第三に「身相神通」
第四に「五妙境界」
第五に「快楽無退」
第六に「引接結縁」
第七に「聖衆倶会」
第八に「見仏聞法」
第九に「随心供仏」
第十に「増進仏道」である
ということです。
源信僧都は、浄土の無限の喜びを、分かりやすいように10におさめて、
それらを一つ一つ、お経や、それを解説した論にもとづいて、
この世のありさまと比較しつつ明らかにしていかれます。
それぞれどんな喜びなのかというと大体このような感じです。
1番目の「聖衆来迎の楽」とは、普通死ぬ人は人生最大の苦しみを味わいますが、すでに浄土へ往ける身になっている人は、菩薩たちが迎えてくれるので大変な喜びが起きる、ということです。
すでに浄土へ往ける身になった時点で、常に諸仏菩薩に取り巻かれ護られているので、臨終も大安心です。
死んだ次の瞬間、観音菩薩に手を引かれ、浄土へ生まれます。
その喜びは天上界すら比較になりません。
2番目の「蓮華初開の楽」とは、浄土で蓮華の華が開くと、初めてさとりのまなこで浄土の輝く光景にまみえ、法音を聞きます。
そのあまりの素晴らしさに、生まれつき目の見えない人が、初めて目が見えるようになったような今までの百千倍の大きな喜びが起きる、ということです。
3番目の「身相神通の楽」とは、浄土へ生まれた人の姿は、人間や天人と比較にならないほど美しく、仏の三十二相も出現しています。
そして神通力を自由自在に使えるようになります。
4番目の「五妙境界の楽」とは、浄土で見るもの聞くもの、薫るもの、味わうもの、触れるもの、すべて喜びに満ちているのに、輪廻の業となるものは何一つなく、清浄で極めてすぐれている、ということです。
5番目の「快楽無退の楽」とは、この世の楽しみは一時的で、天上界の楽しみさえもやがて衰えて苦しみに変わりますが、浄土の無上の喜びは永遠に変わらないということです。寿命も無量です。
6番目の「引接結縁の楽」とは、自在の神通力によって、縁のある人を思う存分救い導くことができる喜びです。
7番目の「聖衆倶会の楽」とは、普賢菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩、 地蔵菩薩、観音菩薩、勢至菩薩のような有名な菩薩はもちろん、数え切れない尊い菩薩方とあいまみえることができる喜びです。
また、『阿弥陀経』に「俱会一処」とあるように、
生きている時に仏教を聞いて浄土へ往ける身になった人は、
死ねば浄土で俱に一処に会い、再会できる喜びです。
8番目の「見仏聞法の楽」とは、地球上で仏を見るにはお釈迦様が生まれた時代に生まれた人だけで、それは極めて希有なことでしたが、
浄土へ生まれればいつでも阿弥陀如来にまみえ、直接法を聞くことができる喜びです。
9番目の「随心供仏の楽」とは、心にしたがっていつでも仏に供養できる喜びです。
もらうのも嬉しいですが、施すのはもっと嬉しいのです。
10番目の「増進仏道の楽」とは、生きている時は、煩悩に妨げられて、なかなか仏道を進むことができず、浄土へ往ける身になってさえも煩悩はそのままなので、色々と思い通りにはならないこともありましたが、
浄土では煩悩が消滅するので、いよいよ仏の道を進ませていただける喜びです。
それは大悲の風に打ちまかせて、思う存分、未だ苦しみ悩む人々を訪れ、導き救う大活躍ができるということです。
このように『往生要集』では、言うことも説くこともできない限りない浄土の喜びを、10種類にまとめて教えられ、
最後に、このような素晴らしい浄土を願い求め、生きている時に浄土に生まれる身になりなさい、と勧められているのです。
では、私たちが極楽浄土に往ける身になるためには、どうしたらいいのでしょうか。
厭離穢土 欣求浄土を実現する方法
今回の内容をまとめると、「厭離穢土 欣求浄土」は、源信僧都の『往生要集』で最初に使われた言葉で すが、
徳川家康が旗印として掲げたことで有名です。
家康は、「穢土」を戦乱の世、「浄土」を平和な世の中として理解し、
戦乱のない世の中をつくるために「厭離穢土 欣求浄土 」を座右の銘としました。
しかし、ここまで読まれれば本当の意味はそうではないと、ご理解いただけたと思います。
「厭離穢土 欣求浄土」の本当の意味は、
「穢土」は、この世の苦しみ悩みの世界であり、
『往生要集』では六道として教えられています。
この苦しみ迷いの世界から離れなさい、というのが
「厭離穢土」の意味です。
そして、浄土に生まれられる身になりなさい、と教えられたのが
「欣求浄土」です。
なかなか穢土を穢土と分からず、穢土を離れようとせず、
この世から未来永遠の幸せになれる浄土へ生まれる身になろうとしない私たち に、
一刻も早く穢土を離れ、浄土へ生まれる身になりなさい、と教えられたのが、
「厭離穢土 欣求浄土」なのでした。
では、生きている時に苦しみ迷いから離れ、
いつ死んでも浄土へ往ける未来永遠の幸せの身になるには、
どうしたらいいのでしょうか?
それには苦しみ迷いの根元を知り、断ち切らなければなりません。
その苦しみ悩みの根元については仏教の真髄ですので、
電子書籍とメール講座にまとめました。
ぜひ一度見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)