求不得苦とは?
求不得苦
とは、「求めても得られない苦しみ」のことです。
人生で避けられない8つの苦しみの1つで、
物事が思い通りにならない苦しみを教えられたお言葉です。
私たちは、いつも何かを求めて生きています。
ですが、それがなかなか求まらず、いつも不満を抱えています。
これを放っておくと、どのような人生になるでしょう。
この求不得苦を克服するには、どんな方法があるのでしょうか?
求不得苦の意味
「求不得苦」について仏教の辞典で調べると、あまり詳しくは出ていません。
例えば以下の辞書では1項目として解説されず、
「四苦八苦」という8つの苦しみの1つなので、
「四苦八苦」という項目で、四苦八苦を解説するために、
括弧の中に簡潔に意味が書いてあります。
求不得苦(不老や不死を求めても得られない苦、あるいは物質的な欲望が満たされない苦)
(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
確かに間違いとは言えませんが、これではあまりに簡潔で、
抜けているところもかなりあるので、
その点についても分かりやすく解説してきます。
まず「求不得苦」の意味は、
「求」とは求めるということ、
「不得」とは得られないこと、
「苦」は苦しみなので、
求めるものが得られない苦しみ、ということです。
『阿含経』などのお経の教えをまとめた『大毘婆沙論』には、
このように解説されています。
如意のことを求めて果遂せざる時、もろもろの苦を引生するが故に求不得苦と名づく。
(漢文:求如意事不果遂時引生衆苦故名求不得苦)(引用:『大毘婆沙論』)
「如意」とは意の如くということで、思い通りということです。
思い通りにしたいと思っても、
「果遂せざる」とは、結果を遂げられないということです。
思い通りにしたいと思っても、そうならない。
求めたものが手に入らない。
やりたくてもできない。
願っても、なかなか叶わない。
そういう時に「もろもろの苦を引生する」ということで、色々な苦しみが起きてくる、
ということです。
だから求不得苦というのだ、と教えられています。
生きるということは、求めるということなので、
人間に生まれた以上、いつの時代、どこの国の人でも避けられないのが
求不得苦の苦しみです。
求めても得られない苦しみの具体例
「求不得苦」は、欲しいものが得られない分かりやすい苦しみですので、
日常生活は、この苦しみにあふれています。
小さい頃から、人生はそんなことばかりではなかったでしょうか?
スポーツ
中学校や高校では部活動があります。
運動系の部活なら、なぜか大会があり、試合に出ることになります。
そして出るからには、優勝を目指して頑張ります。
仮に頑張って学校で一番になったとしても、市の大会にいくと、
各学校の強豪が集まるので、一番になれる可能性は低くなります。
市内の大会で優勝できたとしても、
市町村のトップが集まる県大会ではさらに厳しくなります。
さらに県大会で優勝したとしても、全国大会では、もっと激しい戦いとなります。
全国に出るためには、毎日1日も欠かさず努力をしてきましたが、
それでも全国大会で優勝するのはたったの一校です。
あとは全員が求不得苦を味わうのです。
もし全国で優秀な成績をおさめて、
プロやオリンピックに行けば、
さらに熾烈な競争が続きます。
金メダルをとっても、次も期待されます。
何年も連続して世界一でいることはできず、
必ずどこかで求不得苦を味わいます。
勉強
高校2年か3年の春で部活を辞め、大学受験を始めても、
なかなか厳しい競争が待ち受けています。
最初は、偏差値の高い大学を目指し、模試を沢山受けますが、
思ったような結果が出なければ、それが求不得苦です。
最初はオックスフォードだろうが、ハーバードだろうが、
頑張れば行けるのではないかと思いますが、
模試による厳しい現実を直視して、だんだんと志望校を下げていきます。
たとえ模試で合格ラインを超えて大丈夫だと思っていても、
「試験は水物」といわれるように、
本番当日の入学試験で不合格になる人が沢山います。
浪人をしても、行きたい大学に行けない人が大勢います。
大学受験が終わった人は、振り返ってみると、
常に求不得苦の苦しみばかりだったことが知らされるでしょう。
ですがこの苦しみは、ここでは終わりません。
社会に出ても、求不得苦の苦しみは続きます。
仕事
社会に出て、サラリーマンやOLになると、最初は下っ端から始まります。
ですが、一生下っ端では苦しいので、もっといい仕事をしたり、給料も増やして欲しいと思います。
しかし、全員の立場が上がるわけではありません。
ポストは限られているからです。
しかも、上に行けば行くほどポストは少なくなります。
平社員から係長になれたとしても、課長は更に狭き門、部長はもっと狭き門となります。
高い地位や給料を求めてもなかなか得られず、求不得苦に苦しみます。
サラリーマンやOLではなく、例えば俳優やモデルになろうとしているような人も同じです。
そんな人たちは、一般人から見たらとてもイケメンや美人に見えて
いつでもテレビや映画に出られそうです。
しかし、ほとんどの人が俳優やモデルの仕事だけではご飯が食べられず、
何十年もアルバイトを続けており、活躍できるのはほんの一握り。
テレビや映画で見る俳優の後ろには、たくさんの夢破れ、有名になれず、
求めた結果を得られずに苦しんでいる人たちが沢山いるのです。
特に人生の中で非常に辛いのが、恋愛の苦しみかもしれません。
恋愛・結婚
恋愛もそう簡単に成就するものではありません。
サラリーマン川柳にもこういうのがあります。
恋人が いるかと聞かれ 「はい いります」
そもそも恋人を求めても、なかなか得られません。
だから、自分の理想の男性や女性を見つけた時、
その人は、周囲の中で一番輝いている人だと思います。
ところが、自分が一番良い人と思うのであれば、たいていライバルが沢山います。
そのライバルの中で一番にならないといけないので、かなりの努力がいりますが、
身長や顔形、声など、努力では限界があるというのも現実です。
それでも無理して、その理想の相手を求めようとすればするほど距離は縮まらず、
かえって焦りがミスに繋がり、相手に不快な思いを抱かせ、失敗します。
その繰り返しの中で、いつかかなり妥協して自分でも手が届く人と結婚するか、
理想をあきらめられなければ、結婚できずに独身のまま過ごすということも多いようです。
これらは一例ですが、私たちはあらゆる場面で、求めても得られずに、
求不得苦の苦しみを受け続けているのです。
求めたものが得られたら求不得苦は?
では、求めていたものが得られたら、幸せになれるのでしょうか?
ノーベル賞作家、バーナード・ショーは、
世の中には2つの悲劇があると小説の中で言いました。
人生には2つの悲劇がある。
1つは願いが叶わないこと、1つは願いが叶うこと。
(原文:there are two tragedies in life.
One is not to get your heart's desire. The other is to get it.)(出典:ジョージ・バーナード・ショー『人と超人』)
1つ目の、願いが叶わないことは分かりやすい求不得苦ですが、
2つ目に、願いが叶うことも悲劇だといいます。
願いが叶ったこととは、求めるものが得られたことです。
つまり、求めていたものが得られたとしても悲劇だと言います。
それはなぜでしょうか?
私たちは、求めていたものが得られた時、とても喜び、満足します。
ところが、その喜びは一時的で、すぐに次の目標が現れます。
それを昔から、分かりやすくこういわれています。
越えなばと 思いし峰に 来て見れば
なお行く先は 山路なりけり(出典:東素暹・『新続古今和歌集』所蔵)
この古歌の意味は、山道は決して平坦ではないため、
足場の悪い中、必死に登り続けます。
やっと山の頂にたどり着いたと思っても、
そこから見えるのは、次の高い山だったということです。
私たちは、求めていたものが求まれば、達成感はありますが、
それは一時的で、すぐにワンランク上を目指したくなります。
そのためには次の目標を求めていかなければなりません。
高校生なら受験勉強が大変ですが、
夢のキャンパスライフを思い描いて頑張ります。
大学に合格すると、その時は嬉しいですが、
すぐに喜びは色あせて、平凡な大学生活が始まります。
受験勉強が終わって、もう勉強はしなくてよくなったのかと思ったら、
期末試験があり、レポートの提出があり、理系なら実験もあり、
ゼミがあり、研究があり、休みの日でも大学に行かなければ課題が終わらない時もあります。
何とか課題をこなし、卒業単位を取りつつ、
就職活動では多くの大学生と競い合うことになります。
さらに社会に出たら、会社員は安月給で残業まで強いられ、
ノルマを達成しなければなりません。
上司との相性が悪ければ、理不尽な命令をやらされることになります。
出世すれば立場が上がり楽になるかと思えば、
部下が言うことを聞かない、仕事をしないなどの悩みが出ます。
頑張って働きながら、恋をし、好きな人と結婚できたとしても、
相手の家族といがみ合いが待っているかもしれません。
子どもが生まれたなら、その時は嬉しくても、
夜泣きで睡眠不足になったり、病気にかかればその看病で、疲れは取れません。
「子供が小学校に入学すれば楽になる」と思っていても、
子どもが小学生になってみると、進学、習い事といった、
新たな心配事が次々と出てきます。
つまり「もうすべて求まった」とか
「これでもう満足だ、何もいらない」
ということがありません。
いつまで経っても、求まらずに苦しんでいるのが、人間なのです。
他人が羨むものが求まったら幸せ?
では、みんなと同じような人生ではなく、
他人が羨むようなものが手に入ったら、
苦しみはなくなるのでしょうか。
たとえば会社の社長になって、地位やお金を手に入れた場合、
周囲からはとても羨ましく思われます。
しかし、会社を運営することで、家族だけではなく、
従業員の人生も背負わなければなりません。
また、社員が失敗したとき、最終的に全責任を負うことにもなります。
一介のサラリーマンでは味わえないほどの重圧が、のしかかっているのです。
昔から「楽は下にあり」といわれるのも頷けます。
その重い責任を背負った上で、経営者である以上、
会社の存続を求めてどこまでもどこまでも走り続けなければなりません。
どんなに成功者といわれても、何かを求め続けているのは同じです。
天下を統一して、征夷大将軍となり、徳川幕府の礎を築いた徳川家康でも、
晩年に、こう言っています。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
(徳川家康)
「人の一生」といっても家康自身のことです。
家康も、一生涯色々なものを求め続け、ついには天下を手に入れたのですが、
それでも重荷を下ろすことはできなかったといいます。
重荷というのは苦しみのことですから、家康が求めていたものは、
本当は天下や将軍ではなく、重荷を下ろすことだったのですが、
ついに手に入らなかったのです。
しかも、「遠き道を行くが如し」と、果てしない道を死ぬまで歩き続なければならなかったと言っています。
あれほどのことをやっても、求めるものが得られずに、
歩き続けなればならなかったのです。
やはり求めても得られない、求不得苦です。
死ぬまで求まらないからこそ良い?
ところが、たまに「欲しいものが求まってしまったら、つまらないじゃないか」とか
「死ぬまで求まらないからいいんだ、無限に求めることができる」とか、
「頑張って求める過程が幸せなんだ」
という人もいます。
本当に一生懸命求める過程が大切で、結果はどうでもいいのでしょうか?
例えば大学受験で、模試ではずっとA判定だったのに、
受験では不合格となってしまった人に、
「受験勉強のプロセスはいい成績で、ずっとA判定だったから、いいじゃないか」
と言っても、絶対に納得されないでしょう。
結果が伴わなかったからです。
また、大好きなプロ野球チームが、打撃では何人もホームランを打ち、守備ではファインプレーも生まれ、9回までずっとリードしていたとします。
しかし、9回裏で相手チームの猛攻にあい、ヒットとホームランで、逆転負けをしてしまいました。
その時の負けたチームのファンに対して、
「いい試合だったから喜べよ」と言ったら大変です。
ケンカになるかもしれません。
どんなにプロセスがよくても、最終的に負けたら喜べないのです。
このように、求不得苦は、望む結果が得られないのも苦しいですが、
ブロセスは頑張ったのに、結果が伴わないのも求不得苦だと、
『涅槃経』に、このように説かれています。
求不得苦にまた二種あり。
一つには所悕望の処、求むるに得ること能わず。
二つには多く功力をするも果報を得ず。
かくの如きをすなわち求不得苦と名づく。
(漢文:求不得苦復有二種 一者所悕望処求不能得 二者多役功力不得果報 如是則名求不得苦)(引用:『大般涅槃経』第十二)
お釈迦様は、求不得苦に2つあると教えられています。
1つ目の、「所悕望の処」とは、欲望の対象、求めている結果のことです。
「所悕望の処、求むるに得ること能わず」とは、
望んだ結果が得られないために感じる苦しみを教えています。
日本一になりたいと思っても、なれないのが苦しみです。
2つ目の、「功力」とは、努力や行為です。
分かりやすく言えば種まきです。
「果報」とは、その努力の種まきに報いる結果のことです。
ですので「多く功力をするも果報を得ず」とは、
たとえ多くの努力をしても、望む結果や報酬を得ることができない苦しみ、
種まきが実を結ばないことから生じる失望などの苦しみを教えられています。
家康のように、重荷を下ろそうと天下統一をしてみたり、
征夷大将軍になってみたり、幕府を開いてみたり、努力はすごいのですが、
とうとう重荷は下ろせなかったというのも、求不得苦なのです。
「かくの如きをすなわち求不得苦と名づく」とは、
このような苦しみを求不得苦と名づけるのだと言われています。
求めすぎず、ほどほどにしたら?
それならば、求めすぎず、ほどほどに求めていたら幸せでしょうか。
お金もほどほど、欲しいものもほどほど、
人間関係もほどほどにして、求めすぎないように生きれば、
刺激はないかもしれませんが、大きな不満はないかもしれません。
しかし、いつもほどほどの人生を過ごすのは難しいといわれます。
家族同様、大事にしていたペットが亡くなった時、
「ほどほどに長生きしたからいいや」と悲しまないでいられるでしょうか。
やはり失ったものを「欲しい」「取り返したい」という気持ちが出てきて、
それが大きい人は、ペットロスといううつ状態にまでなってしまいます。
また、お金や趣味はほどほどでも、「あの人とは結婚したい」という人が現れた場合はどうでしょう。
あの手この手で努力して、手に入れようとするかもしれません。
自分にとって大事なものに関しては、ほどほどでは済まないほど
強い気持ちが起きるのです。
ほどほどでいられるほど、人間は強くなく、
やはり求不得苦の苦しみがつきまとう、ということです。
人生最大の求不得苦
私たちすべての人にとって、一番求めてやまないものは、
死にたくない、ということです。
だから寒かったら暖かくし、風邪をひいては直ぐに病院に行き、
健康的な食事に気をつけます。
医療や科学、政治、経済の発展もすべて、
私たちが死なないようにしてきた努力です。
ところが、たまに、「自分はもう、いつ死んでもいい」とか
「死は怖くない」
「永遠に生きるほうが怖い」とか
「病気になって苦しんで死ぬくらいなら、ぽっくり死にたい」
という人がいます。
実際、以前に「ぽっくりツアー」が流行ったことがあります。
参加していたのは、健康なまま「ピンピンコロリ」で人生を終えたいという人たちです。
「ピンピンコロリ」というのは、ピンピン健康で長生きして、
寝たきりになったり、要介護で家族に迷惑をかけることなく、
最後はコロリと死ぬという意味です。
そのような最後を願う人々が、「ぽっくりツアー」に参加していました。
それは、「ぽっくり寺」といわれる寺社仏閣にお参りすると、
長患いせず安らかに、ぽっくりと死ねるという謳い文句のツアーです。
長患いしたくない、幸せなまま死にたいと願った人たちが殺到したといいます。
観光を楽しみ、美味しい食事をとり、目的のお寺でお参りを済ませた一行。
帰りのバスの中で「これで幸せな老後が送れる」と喜び合っていました。
ところが、解散地に着いてみると、一人の参加者が眠ったまま目を覚まさず、
死んでしまったといいます。
早速ご利益があったのか、願いが叶ったわけですが、
それを見聞きした人たちは「あまりにも早すぎる」と驚き、
怖がって、その後、ぽっくりツアーへの参加者がいなくなったといいます。
口では死にたいと言っていても、本心では絶対に死にたくないということです。
しかし、肉体があれば、必ず死にます。
この永遠の命を求める限り、永遠の命は求まらず、
最後は必ず求不得苦の苦しみを受けなければなりません。
誰も避けられないのは、死にたくないのに死ななければならないという求不得苦なのです。
それを『中阿含経』には、こう説かれています。
老法・死法は憂感の法にして、憂感の法を離れず。
我れをして憂感せざらしむるを得んと欲するも、此れ亦以て欲して得べからず。
(中略)
所求不得苦を説くとはこれによるが故に説くなり。
(漢文:老法死法愁憂慼法 不離憂慼法 欲得令我不憂慼者 此亦不可以欲而得(中略)説所求不得苦者 因此故説)(引用:『中阿含経』)
「老法・死法」とは、老いる性質・死ぬ性質、ということです。
人間には必ず老いる性質と死ぬ性質があります。
その「老法・死法は憂感の法にして、優感の法を離れず」とは、
老いる性質や死ぬ性質は、憂いを感じる性質なので、
憂い苦しみから離れることができない、ということです。
「我れをして憂感せざらしむるを得んと欲するも、此れ亦以て欲して得べからず」とは、
苦しみを感じたくないと思っても、命ある限り
必ず老いて死んでいかなければならない私たちは、
苦しみから逃れることはできない、ということです。
次の「所求不得苦」とは、求不得苦のことです。
「所求不得苦を説くとはこれによるが故に説くなり」とは、
老いや死を避けることができないから、求不得苦を説くのだ、ということです。
これでは不老不死にならないと求不得苦は克服できないのかと思いますが、
そうではありません。
仏教では、求不得苦の原因を解明し、
絶対変わらない幸せになる方法が説かれています。
では、求不得苦の原因は何なのでしょうか?
求不得苦の原因
求不得苦は、人間に生まれたからには避けられない、
四苦八苦という8つの苦しみの1つですが、
その四苦八苦は、仏教の基本的な教えである、四聖諦の一部です。
四聖諦とは、仏教に説かれるこれら4つの真理です。
1つ目が、苦諦で、人生苦なりという真理です。
2つ目が、集諦で、苦しみの原因を明かされた真理です。
3つ目が、滅諦で、真の幸福を明かされた真理です。
4つ目が、滅諦で、真の幸福になる道を明かされた真理です。
この4つの中で、四苦八苦は、苦諦の内容として教えられています。
ですからその苦しみの原因は、集諦で明かされています。
それが煩悩です。
つまり、四苦八苦の一つである求不得苦の原因も、煩悩によるものなのです。
煩悩について詳しくは、以下の記事をご覧ください。
➾煩悩とは?意味や種類、消す方法を分かりやすく網羅的に解説
私たちが、幸せに生きたい、老いたくない、病気にかかりたくない、死にたくないと望むのも、すべて、煩悩があるからです。
この煩悩がある限り、求不得苦の苦しみはなくなりません。
では、どうしたら求不得苦の苦しみを克服できるのでしょうか。
求不得苦を克服する方法
求不得苦の原因が煩悩だとすれば、
原因がなくなれば結果はなくなりますので、
求不得苦の苦しみを克服するには、煩悩をなくす、という方法があります。
それで、仏教では、出家して、戒律を守り、煩悩をなくすための厳しい修行を教えられています。
しかし、煩悩をなくすのはそう簡単なことではなく、
必ず出家が必要ですし、長期間、大変厳しい修行をしなければなりません。
それは普通の人には絶対にできないレベルのものです。
そこで、もう1つの方法が説かれています。
私たちが、求不得苦を克服し、生老病死を超えた本当の幸せになるには、
苦悩の根元を断ち切って、煩悩あるがまま幸せにならなければなりません。
煩悩あるがままで本当の幸せになることを煩悩即菩提といいます。
仏教では、苦しみの原因は煩悩ですが、
さらに苦しみの根本原因があり、それは煩悩ではありません。
その苦しみの根本原因をなくせば、
煩悩を持ったまま本当の幸せになれることを教えられたのが、仏教なのです。
煩悩あるがまま本当の幸せになる方法
今回は、「求不得苦」の意味と、その克服法について解説しました。
求不得苦とは、求めるものが得られない苦しみです。
ですが、求めるものが求まった場合でも、期待通りの幸せではなかったり、
次から次へと求めるものが現れてきて、
いつまで経っても「求まった、満足した」ということがありません。
さらに、どんな人も求めるのが「死なないこと」ですが、
決して得られず、大変な苦しみを味わうことになります。
この求不得苦の原因は煩悩です。
欲しくなって求めるから得られずに苦しむわけです。
煩悩が原因なら、なくせばいいと思うかもしれませんが、
煩悩をなくすことはできません。
老いと病と死を超えた本当の幸せになるためには、
苦悩の根元を断ち切って、煩悩あるがまま幸せになるしかないと
仏教では教えられています。
では、苦悩の根元とは何なのか、どうすれば断ち切れるのかについては、
仏教の真髄ですので、以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
ぜひ一度、お釈迦様の深い教えを、学んでください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)