「現代人の仏教教養講座」

 

仏教ウェブ入門講座

仏教の教えと生きる意味を分かりやすく
体系的に学べる仏教の総合サイト

日本仏教学院ロゴ 日本仏教学院ロゴ

生きる意味を、知ろう。

老苦とは?

老苦」とは、文字通り老いる苦しみです。
20歳くらいまでは、身長が伸びたり成長していくので、
この老いを感じることは、ほとんどないと思います。
ですが、だんだん見た目や記憶力、思考力などに変化が出てきます。
それで、アンチエイジングということで、色んなアプローチをするようになっていくわけです。

できれば避けて通りたい「老いる」ということですが、
実は、これにはさらに重大な事実が隠れているのです。
そのことを忘れ去られてしまわないために、
お釈迦様は老苦を説かれています。

老苦の先には、一体何があるのでしょうか。
老苦」の苦しみとともに、詳しく見ていきます。

老苦の意味

老苦」について辞書を確認すると、このような意味が出ています。

仏語。
四苦または八苦の一つ。
衆生の年をとるという苦しみ。
老いの苦しみ。

これは確かにその通りで、老苦は四苦八苦の一つです。
ちなみに四苦八苦とは、私たちが人生で避けることができない8つの苦しみのことですが、
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
四苦八苦の意味とは?苦難を乗り越える方法を解説

この国語辞典には、単に年を取るとか老いの苦しみと書かれていますが、
実際は、ただ年を取ることに苦しみを感じるという単純なことではありません。
それに付随する様々な苦しみがあります。
例えば年齢を重ねていくことで、今までできたことができなくなったり、
失うものが多いために、苦しみを感じるということです。

人生というのは一方通行で、「若かったあの頃に戻りたい」と思っても、
戻ることはできません。
その上、 ジャネーの法則 で、年々、1年が過ぎてゆくスピードが
速くなっていきます。
あっという間に1日が終わり、1ヶ月が終わり、
そして1年が終わってしまうのです。

では、老いることによって、どんなことが起きてくるのでしょうか。

具体的にはどんなことがある?

では具体的に、老いることでどのような変化が起きてくるのでしょうか。
一番分かりやすいのは、見た目が変わってくることです。

見た目の変化

学生時代に、授業中、「何歳くらいまで生きたいか」ということが
話題になったことがありました。
質問された人はそれぞれ、90歳とか100歳と
長生き路線で答えている人が多かったのですが、
一人だけ、「私は若くて美しいうちに死にたいので、長生きしたくありません
と言っている人がありました。

そのように、まだ老苦を感じていない人でも確実に分かることは、
見た目が変わっていくということです。
自分自身の祖父母や、街中で年配の方を見ているから分かることです。

全体的に動きがゆっくりになり、階段や坂道を行くのが大変になってきます。
肌にハリ艶がなくなってきたり、シミやシワができたり、
髪が薄くなったり、白くなったりしてきます。
先程の女子学生は、そういう風になりたくないから
長生きはしたくないと言っているのです。

世界三大美人の一人に数えられる、平安時代の歌人、小野小町は
こんな歌をうたっています。

小野小町小野小町

面影の 変わらで年の つもれかし 
 たとい命に 限りあるとも

(小野小町)

たとえ命に限りがあっても、今のままの容貌で年を重ねたい
ということです。

そのように、見た目の美しさということを重視している人には特に、
老苦がさらに、もの凄い苦しみになってしまいます。

ですが、この老いる苦しみは、そういう人を見てあれこれ想像するよりも、
実際に自分がそのようになって初めて、どれだけ苦しいかということが
本当の意味で分かるのです。

現代社会に生きる人でも、老苦は免れません。
例えばサラリーマン川柳では、老苦をこのように詠われています。
「とこや行く 金・ひまあれど 髪がない」
床屋に行くお金もあるし、時間もあるけれども、
肝心の髪の毛がなくなってしまったことを自虐的に表現しています。
若くてイケてた頃とは、見た目もすっかり変わってしまいます。

心理的な変化

病気であれば治ることもありますが、
老いていくことには、回復するということがありません。
そして、身体は徐々に思うように動かなくなってきて、
どんどんできないことが増えていきます。

そうすると、以前は一人でも生活できたのが、
誰かの手を借りなければ、生きていくことが難しくなってきます。
自分の子どもに面倒を見てもらおうと思っても、
子どもが近くに住んでいなければ、それも叶いませんし、
初めから、子どもの世話にはなりたくないと、
介護ヘルパーさんに来てもらうことを選んだり、
介護施設に入りたいと思う人もあります。

そのように、自分自身のことでも色々の不自由さを感じる一方で、
周りでは、仲良くしていた友人が亡くなったりして、
葬式に出席することも増えてきます。
長年連れ添ったパートナーとも、近い将来どちらかが先に旅立って、
別れを経験しなければなりません。
すると、段々と話し相手がいなくなり、孤独を感じるようになっていきます。
何とも言えない寂しさと、時間の過ぎる速さによって、
心の余裕がなくなり、一種の焦りのようなものも起きてきます。

老いることで失うもの

老いていくことで、色んなものを失うこともあります。
肉体的なことで言えば、力がだんだん弱くなり、体力も失われていき、
少しのことでも息切れしたり、疲れやすくなったりします。
若さが失われていくため、見た目の美しさや、はつらつとした感じも失われていきます。
同時に能力もだんだん落ちてくるので、
そのことをサラリーマン川柳では、こう詠んでいます。
「50代 給与も肩も 上がらない」
50歳位になってくると、給料も上がらないし、
肩も上がらないことをかけている技巧派です。
年を取ると、四十肩や五十肩になって肩が上がらなくなりますし、
能力も上がらないというか、むしろ下がってくるので、
給料もそのままか、下がってくるのです。

能力が低いのと裏腹に、態度は大きくなっているので、
定年を迎えれば再就職は難しく、
今まで築いてきたキャリアや地位を失うことになります。
たとえ再就職できても、自分の子供くらいの若者が上司になり、
あれこれ命令されて屈辱を味わいます。

ついにリタイヤすると、長年、仕事一筋だった人は、家での居場所がなかったり、
生きがいがなくなってしまうこともあります。
何か新しいことを始めようとしても、色々と衰えも出てきているため、
ハードルは高くなります。
中には、仕事を退職してから、一気に老けこんでしまう人もあります。

私たちは、身体と精神のバランスが取れている時、
健康を保つことができ、思考力や記憶力といった脳の機能をも保つことができます。
ですが、一方に不調が起きると、もう一方にも影響し、機能が低下したりします。
精神的にダメージを受けた時に、身体にも不調が現れるようなものです。
反対に、趣味や生きがいのある人は、精神エネルギーが高くなり、
見た目が若々しくなることもあります。

ですが、そういう若々しい人も老いとは無関係というわけではありません。
どんな人も年を重ねていけば、少しずつ色んなものが失われていって、
老いを自覚するようになっていくのです。
ですので、老苦を感じない人はありません。

老苦を痛感していた有名人

能力が高い人ほど、能力が低下したり、失うことによる苦しみは大きくなります。

例えば、ドイツの文豪ゲーテは、この老いということについて、
このように言っています。

ゲーテゲーテ

老齢は我々を不意にとらえる。
(ゲーテ)

日々少しずつ衰えているのが、ある程度のところまで到達すると、
突然、自分自身の変化に気づき、老いを感じるようになります。
口では「あれ、年かなー?」と言いながら、内心は動揺し、ショックを受けます。
それほど、自分自身が老いて衰えるということは、インパクトのあることなのです。

また、平安時代の歌人、和泉式部は、このような歌を詠んでいます。

和泉式部和泉式部

数うれば 年の残りも なかりけり 
 老いぬるばかり 悲しきはなし

(和泉式部・引用:『新古今和歌集』)

数えてみると、今年の残りの日も少ない。
年老いてしまったほど悲しいことはない、と言っています。

このように、老いるということは、そういう自分自身に驚き、
悲しみさえも感じるようになるのです。
それだけ苦しいことだということが、よく分かります。

では、お釈迦様は、この老苦について、どのように言われているのでしょうか。

お釈迦様の説かれる老苦

お釈迦様の老苦についての教えが『ウダーナヴァルガ』というお経に端的に説かれています。

なんじ、いやしき<老い>よ!いまいましい奴だな。
お前はひとを醜くするのだ!麗しい姿も老いによって粉砕されてしまう。

小野小町や和泉式部だけでなく、すべての人の麗しい姿を粉砕してしまう、いまいましい奴が老いなのです。
それが老苦というものです。

また、『中阿含経』には、さらに具体的に説かれています。

彼、老耆ろうきとなり、頭白く、歯落ち、盛壮日に衰う。
身曲がり、脚戻り、体重く、気上がり、杖をきて行く。
肌縮み皮緩みて、皺麻子あばたのごとく、諸根毀熟きじゅくし顔色醜悪なり。
これを名けて老となす。

人は老人になり、頭は白くなり、歯は抜け落ち、活力は日に日に衰える。
背中は丸くなり、脚は曲がり、体は重くなり、息切れして、杖にたよって歩む。
肌は縮んで皮膚が緩み、皺はあばたのようになり、目や耳などの感覚器官はただれて鈍くなり、顔は醜くなる。
これを老いという。
このような老いに苦しむことを老苦というと、お釈迦様は説かれています。

この『中阿含経』では肉体的なことが詳しく説かれていますが、
涅槃経』には、さらに心理的な面も説かれています。

老とは能く咳逆がいぎゃく上気じょうけを為す。
能く勇力ゆりき憶念おくねん進持しんじ盛年じょうねん快楽けらく憍慢きょうまん貢高こうこう安隠あんおん自恣じしす。
能く背僂はいる懈怠けだい懶惰らんだを作し、他に軽んぜらる。
迦葉かしょう、譬えば池水に蓮花中に満ちて開敷かいふ鮮栄せんよう甚だ愛楽あいぎょうすべきに、天のひさめくだすにわば、悉く皆破壊するが如し。
善男子、老もまた是の如し。
悉く能く盛壮じょうそう好色こうじきを破壊す。

これはどういう意味かというと、
まず、「咳逆がいぎゃく」も「上気じょうけ」も咳の出る病気です。
風邪やインフルエンザ、肺炎など、年老いると、咳の出る病気になりやすくなる。
勇気と力、記憶力や継続力、元気さや楽しさ、自惚れや誇り、のんきで気ままな生活が打ち砕かれる。
背中は曲がり、何でも面倒くさくなって怠けるので、他人から軽んじられる。
迦葉よ、たとえば池の中に満開の蓮の花が咲き、その鮮やかな色彩は実に愛らしく美しい。
しかし、天からひょうが降れば、それらはことごとく破壊されてしまう。
善男子よ、老いもまたこのようなものである。
若き活力と美しき容貌のすべてを破壊してしまうのだ、
ということです。

お釈迦様の出家の動機

お釈迦様が出家なされる前、まだシッダルタ太子と呼ばれていた頃、
有名な四門出遊という出来事がありました。
東西南北の4つの門から外へ出られた時に、それぞれ初めての衝撃的な出会いがあり、
それによって出家されることにもなった重大な出来事です。

ある日、東の門から外へ出ると、太子は初めて老人を見かけます。
腰が曲がって杖をつきながら、やっとのことで歩いている
その老人の様子をご覧になり、一緒に来ていた従者に
私もやがて、このようになるのか
と尋ねていられます。
従者が
どんな人も必ず老人になる日が来るのです
と答えると、ショックのあまり城へ戻られたという話があります。

この後お釈迦様は、他の3つの門から出てみられ、衝撃的な出会いをしたことによって、出家を決意されています。
この四門出遊について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
ブッダ(お釈迦様)の生涯と教えを分かりやすく簡単に解説

当時のお釈迦様は、まだ若くて健康だったのですが、
やがてはその若さや健康も、決して免れることのできない老いによって
崩れる日がやってきます。
お釈迦様の出家の動機の一つは、老苦だったのです。

なぜ老苦を説かれたのか

年を取ったら醜くなるとか、健康が害されるとか、
そんな話を聞いて喜ぶ人はいないと思います。
それなのに、なぜお釈迦様は、老苦を説かれたのでしょうか。
仏教にこんな話があります。

ある人が死んで地獄に堕ちると、獄卒に捕まり、
地獄の王であり、裁判官でもある閻魔大王のもとへ引っ立てられました。
閻魔大王は、罪人に問います。
「そなたは初めの使者を見なかったのか」
「見ておりません」
「そなたが人間界に生を受けていた時、頭は白く、歯は抜け落ち、目はかすみ、皮膚はしわより、背中が曲がり、杖にたよってうめきながら歩き、体が震え、気力が衰えた老人を見なかったのか」
「見ました」
「その老人が第一の使者である」

「次に、そなたは第二の使者を見なかったのか」
「見ておりません」
こうして取り調べが進んでゆき、
第二の使者である病人、第三の使者である死人を見ながらも、
自分が老いて病にかかり死んでいくことを自覚せず、
行いを改めずに地獄に堕ちてきたことが判明します。

すると閻魔大王は最後に、このような判決をいい渡します。
「そなたはこのような3人の使者にあいながら、
自分の好きなようにふるまい、今地獄へ堕ち苦しみを受けるのは、
父母の過ちでもなく、兄弟の為でもない。
まさしくそなた自身の自業自得であるぞ」
と怒鳴りつけると、獄卒に命じて地獄の奈落へ送られる、
と説かれています。
(出典:『長阿含経じょうあごんきょう』)

このように、お釈迦様が老苦を経典に繰り返し繰り返し説かれているのは、
生ある限り絶対に免れることのできない老いの苦しみを教え、
それを超えた幸せに導くためなのです。

実は老苦を教えられたのは、見た目が変わるとか、能力が衰えるというだけではなく、
それよりももっと避けられない大変な苦しみがあり、
それを解決しなければ、老苦よりもはるかに大変なことになるからなのです。

老苦よりも大変な現実

老いるということは、死に近づくということです。

禅宗僧侶一休のこのような歌があります。

一休一休

門松は 冥土の旅の 一里塚
(一休)

冥土」とは、死後の世界のことです。
1日生きると、1日死に近づいたということになります。
毎年お正月になると、めでたいということで、おせち料理を食べたりして祝いますが、 お正月というのは、冥土への旅の一里塚なのだと一休は言っています。
若い人も年を重ねた人も、刻一刻と冥土に近づいていきます。
これは、どんなにアンチエイジングに努めたとしても、誰も避けることはできません。
人は老いて、やがて必ず死んでいかなければなりません。
人生100年時代と言っても、100歳まで生きていられる保証はないですし、
長生きした人も必ず命の終わりを迎えます。
たとえ若死にして、老いることがなかったとしても、
死ぬことは、絶対に避けられないのです。

お釈迦様は、この死の苦しみを解決するために出家され、
想像も及ばないご修行の末、ついに仏のさとりを開かれて、
死によっても崩れない本当の幸せを発見されたのです。

老苦を解決するただ一つの道

老いることは避けられません。
老いていくことを避けられないとすれば、
老苦はどうにもならないのでしょうか。

仏教では、死によっても崩れない幸せを教えられていますので、
それは、もちろん老いや病によっても崩れません。
認知症になっても、寝たきりになっても変わらない、
老いと病と死を超えた真の幸福です。
仏教に明らかにされた死の大問題を解決すれば、
老苦のあるままで、人間に生まれてよかったという
変わらない幸せの身になれるのです。
お釈迦様が老苦を説かれたのも、その老苦を超越した真の幸福へ導くためです。

では、そんな老いと病と死を超えた本当の幸せの世界へ出るには、
どうすればよいのでしょうか。

それは、死の問題を引き起こす根本原因が仏教に教えられており、
それは煩悩ぼんのうとは別のものです。
その苦悩の根元をなくせば、死によっても崩れない
真の幸福になれるのです。

では、その苦しみの根元とは何か、どうすれば断ち切ることができるのか、
ということについては、仏教の真髄ですので、
以下のメール講座と電子書籍にまとめました。
ぜひ読んでみてください。

目次(記事一覧)へ

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作