反出生主義・ブッダの反論
「反出生主義
」というのは「生まれて来ないほうがよかった」という思想です。
そしてそれは「子供を産まないほうがいい」という主張につながります。
「生まれて来ないほうがよかった」という思想は、昔から世界中にある考え方です。
たまに、仏教を説かれたブッダも反出生主義だという人もありますが、本当でしょうか。
実際には、ブッダは反出生主義ではありませんし、それどころか反出生主義と正反対のことを教えられています。
それは反出生主義の人が見落としていることがあるからです。
反出生主義の主張と、それに対するブッダの反論はどんなものなのでしょうか?
反出生主義の2つの系統
「反出生主義」とは、
「生まれて来ないほうがよかった」という思想です。
そこから派生して、
「子供を産まないほうがいい」という出産否定や
「死んでしまったほうがいい」という自殺肯定、
「人類は滅亡したほうがいい」という人類滅亡論など、
人それぞれのさまざまな主張が出てきます。
「生まれて来ないほうがよかった」というのは、人間誰でも苦しい時に、一度は思ったことがあるでしょうから、多くの人は共感できないこともないと思います。
ところが、「反出生主義者」になると、一時的にそう思うだけではなく、どんな時も「生まれて来ないほうがよかった」と考えている人です。
そこから、
「だから自分は子供は産まない」というのは個人の自由で、そういう人もあるでしょうが、「反出生主義」になると「だからみんな子供は産むべきでない」という主張になってきます。
また「人間に生まれて来ないほうがよかった」と考えている人は、すでに生まれてきているので、過去にさかのぼって生まれて来なくなることはできません。
そこで、「死んでしまったほうがいい」というのは当然の論理的な帰結です。
実際、何もいわずに自殺する人はたくさんあります。
ところが「反出生主義者」はなぜかあまり自殺する人はありません。
自分は自殺しないまま「生まれて来ないほうがよかった」と言い続けるのがほとんどの反出生主義者です。
そのため「すべての人は自殺すべき」とか「すべての人を殺すべき」という主張はあまりありません。
ただ「すべての人は出産すべきではない」ということから、必然的に「人類は滅亡したほうがいい」と主張します。
このように、反出生主義は、大きく分けると2つの系統があります。
- 生まれて来ないほうがよかった→出産すべきでない→人類は滅亡すべき
- 生まれて来ないほうがよかった→死んだほうがいい→自殺
「生まれて来ないほうがよかった」という人は、昔からたくさんあります。
ここからのギリシアとショーペンハウアーの文献については、早稲田大学の森岡正博教授の『生まれてこないほうが良かったのか?』からの情報もあります。
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それではまず、古代ギリシアの思想です。
古代ギリシアの3つの例
ギリシア神話では、ミダス王は、特別な知恵を持つといわれる賢者シレナスに教えを受けたいとかねがね思っていました。
どうにかしてシレナスと会いたいと色々努力しているうち、ようやく会うことができました。
その時ミダス王は、シレナスにこう尋ねます。
「この世で最もいいことは何か」
「それはあなたは知らないほうがいいでしょう」
「知らないほうがいいことって何だ?」
「それは、生まれて来ないことです」
「何だ、それはもうできないではないか。では次にいいことは何だ」
「それはできるだけ早く死ぬことです」
これは、古代ギリシアではよく言われることです。
例えばフロイトのエディプスコンプレックスの語源になった父親を殺してしまう『オイディプス王』でもそうです。
『オイディプス王』の続編の『コロノスのオイディプス』では、このように言われています。
この世に生を享けないのが、
すべてにまして、いちばんよいこと、
生まれたからには、来たところ、
そこへ速やかに赴くのが、次にいちばんよいことだ。
(引用:『コロノスのオイディプス』高津春繁訳)
紀元前6世紀の詩人テオグニスの『エレゲイア詩集』にはこうあります。
地上にある人間にとって何よりもよいこと、それは生まれもせず
まばゆい陽の光も目にせぬこと。
だが生まれた以上は、できるだけ早く冥府の門を通って、
うず高く積み重なる土の下に横たわること。
(引用:テオグニス『エレゲイア詩集』西村賀子訳)
このように、ギリシアの思想には、
「生まれて来ないほうがよかった」という反出生主義が見られます。
そして、論理的な帰結として、反出生主義の系統の2番目に挙げた
「早く死んだほうがいい」
という考え方が続きます。
旧約聖書の3つの例
このギリシア思想に見られる反出生主義は、ユダヤ教の聖典で、キリスト教やイスラム教でも聖典としている『旧約聖書』にも影響を与えたのか、「コヘレトの言葉」には、こうあります。
私は、今なお生きる生者より、すでに死んだ死者たちを讃えよう。
いやその両者よりも、今まで存在しなかった者を幸いと讃えよう。
彼は日の下で行われる悪しき業を見ることがないのだから。
(『旧約聖書』月本昭男訳)
生きている人より死んだ人、それよりも生まれて来なかった人を讃えて幸せだと言っています。
明確な反出生主義です。
また『旧約聖書』の中のヨブ記には、このようにあります。
そしてヨブは言った、
「私が生まれた日なんて消え失せてしまえ、
そして「男の子をみごもった」と告げた夜も。
その日は闇になるがいい…
夜は暗闇にとらえさせるがいい…
なぜなら母の子宮の扉を閉ざさなかったから…
どうして私は子宮で死ななかったのか?…
この今も横たわり黙っていることができたのに…
または、早産で葬られた子のように存在しないでいられたのに、
決して光を見ることのない赤ん坊のように」
(ヨブ記 3章 2-4,6,10,11,13,16節)
さらに、『旧約聖書』の中の、エレミヤ書には、このように記されています。
私の生まれた日は呪われよ。
母が私を産んだ日が祝福されてはならない。
その男は呪われよ…なぜなら私を子宮の中で殺さなかったから。
母が私の墓となり子宮は大きいままでいられるように。
何故私は苦労や悲痛に直面するために子宮から出てきたのか?
(エレミヤ書 20章 14-15,17,18節)
ここまで来ますと、反出生主義であるばかりか、その結果として、さらに産んだ両親まで恨んでいます。
このように、『旧約聖書』では、「生まれて来ないほうがよかった」ということから、死者を讃えたり、産んだ両親を恨んだり呪ったりしています。
その影響からか、19世紀のドイツの詩人、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)はユダヤ人ですが、同じようなことを言っています。
眠りは良いが、死はもっと良い。
だが、勿論、最善なのは全くもって決して生まれないことだろう。
(ハインリヒ・ハイネ『モルヒネ』)
このように、『旧約聖書』にも、反出生主義の主張が記されています。
日本の反出生主義
ところが、このような、『反出生主義』に似た考え方は、日本の文学にもあります。
太宰治と芥川龍之介です。
太宰治
まず、太宰治は『斜陽』にこう書いています。
人間の生活って、あんまりみじめ。
生れて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。
そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。
みじめすぎます。
生れて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。
(引用:太宰治『斜陽』)
「生まれて来ないほうがよかったとみんなが考えている」ということなので、反出生主義です。
『二十世紀旗手』の「生まれて、すみません」も有名です。
そして、自殺未遂を繰り返し、とうとう38歳で自殺によって死んでしまいました。
芥川龍之介
芥川龍之介もそうです。
『河童』という作品では、河童の世界を描いて、人間の世界を風刺しています。
その河童の世界の習慣の一つとして、河童が生まれる時には、生まれてきたいかどうか、本人に確認がなされます。
すると河童はこう答えます。
僕は生れたくはありません。
第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。
その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。
(引用:芥川龍之介『河童』)
芥川龍之介は、人間の場合は、なぜ生まれてきたいわけでもないのに生まれなければならないのか、という問題提起をしています。
これは、「生まれて来ないほうがいい」という思いから出てくるものです。
また『或阿呆の一生』という自伝的作品にも、長男が生まれた時に、こう言っています。
ここにも、生まれて来る意味が分からない、生まれて来ないほうがよかったという思いが見られます。
そして実際に、芥川龍之介自身、35歳で自ら命を断っています。
このように、日本の文学者の中にも、「生まれて来なければよかった」と考える作家がありました。
この2人を反出生主義とするならば、「出産しないほうがいい」とまでは主張せず、2人とも子供を生んでいますので、「生まれて来なければよかった」だから「早く死んだほうがいい」という系統の反出生主義です。
ショーペンハウアーは反出生主義?
19世紀のドイツの哲学者、ショーペンハウアーも反出生主義で後世に大きな影響を与えたと言われています。
ショーペンハウアーは、一切の生は苦しみである、と考えています。
なぜかというと、あらゆる人は、生きようとしているのに、最後は必ず死なないといけないからです。
それはあたかもシャボン玉は必ず破裂することを知りながら、できるだけ長い間、大きく膨らませようとするようなものだとたとえています。
そして生きている間も、何かを求めて努力している時は苦しく、それを手に入れると虚しい退屈がやってきます。
人生は、まるで振り子が苦痛と退屈の間を行ったり来たりするようなものだと表現しています。
主著の『意志と表象としての世界』には、人生をこのように言っています。
ハウアー
願いごとはけっして満たされないし、努力は水の泡となるし、希望は無慈悲に運命に踏みつぶされるし、一生は全体として不幸な誤算であるし、おまけに悩みは年齢ごとに多くなって最後に死がくるというのであれば、これはなんとしても悲劇である。
(引用:ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)
そして、『意志と表象としての世界』の続編に、このように繰り返し言っています。
ハウアー
「われわれは根本的にいって存在すべきではなかった何ものかなのである」
* * *
「われわれはこの世に存在しないほうがよかったのだ」
(引用:ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』続編)
この「存在しないほうがよかった」という所を、
「生まれて来ないほうがよかった」という反出生主義と思われています。
ところがショーペンハウアーは自殺には否定的です。
なぜかというと、自殺するのは、「こんなに苦しいなら死んだほうがまし」だからで、幸せになりたくて死ぬからです。
その幸せになりたいという執着が、苦しみの元なので、自殺はよくないことなのです。
そして仏教に影響を受けていたショーペンハウアーの考えでは、すべての人には意識できないレベルの「生きようとする意志」があり、人が死ねば、それが他の人に入って再生するという輪廻に似た考えを持っています。
そのため、自殺はよくないのです。
仏教の輪廻転生については、以下の記事で詳しく解説してあります。
➾輪廻転生とは?仏教の輪廻転生の意味と解脱する方法
ショーペンハウアーはそれよりも「生きようとする意志」をなくせば、生にも死にも執着しない幸せになれるので、それを目指すべきだといいます。
そして自殺の中でも、苦しくて死ぬのではなく、「生きようとする意志」をなくしたために餓死するようなものはいいとしています。
ちなみにショーペンハウアーは、当時の乏しい資料から仏教に大きな影響を受けて、独自の思想を展開しましたが、本人が仏教の修行をするのかというと、そういうことはなく、それがいいだろうと考えただけでした。
そしてショーペンハウアーが人間はまた人間に生まれ変わると考えていることからすると、
「存在しないほうがよかった」というのは
「生まれて来ないほうがよかった」ということにはなりません。
生まれてくる前も苦しい人生だったであろうからです。
ですからショーペンハウアーの思想が首尾一貫しているとすれば、「生まれて来ないほうがよかった」というのは「存在しないほうがよかった」とは別のことになります。
その場合、ショーペンハウアーは「生まれて来ないほうがよかった」という反出生主義者とはいえないでしょう。
ベネターの反出生主義の論理
デイヴィッド・ベネターは、南アフリカケープタウン大学の哲学の教授です。
2006年の『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』という本で、生まれて来ることは常に害悪だから、人類は絶滅すべきであると主張しています。
ベネターは、本人が生まれたことを苦しいと思っているかどうかに関わらず、どんな人にとっても「生まれて来ないほうがいい」ということを論理的に証明しようとしました。
これは反論不可能とまで言う人がありますが、どんな論証なのでしょうか?
その前提は、苦痛が悪く、快楽が良いというものです。
するとまず当然ながら、ある人が存在した場合、苦痛が悪く、快楽は善いことになります。
これは直感的にも多くの人はなっとくします。
では存在しない場合はどうかというと、苦痛が存在しないのは良い、快楽が存在しないのは「悪くない」となります。
表にするとこうなります。
ある人が存在する | ある人が決して存在しない | |
---|---|---|
苦痛 | 悪い | 良い |
快楽 | 良い | 悪くない |
なぜ快楽が存在しないのが悪くないになるのかというと、苦痛と快楽の非対称性によるものだといいます。
例えば、生まれてきたら苦痛を味わうことが確定している人間は生み出すのは悪いことで、生み出さないのが良いことだと言えます。
ところが、生まれてきたら快楽を味わうことが確定してる人間は、生み出せば良いのですが、生み出さなくても悪いとは言えないからだ、といいます。
この表から、苦痛を感じている人間は、存在するよりも存在しないほうがよく、快楽を感じている人間も、存在するより存在しないほうがいい、とベネターは主張しています。
ベネターを3つの問題から論破
このベネターの反出生主義の主張には3つの問題があります。
これは、単純に論理的な間違いです。
存在しない時の良い悪いの導き方
まず、ある人が存在した時、苦痛が悪く、快楽が良いならば、ある人が存在しない時、論理的に考えると、悪いと良いを否定して、表は以下のようになります。
ある人が存在する | ある人が決して存在しない | |
---|---|---|
苦痛 | 悪い | 悪くない |
快楽 | 良い | 良くない |
ところが、なぜ表の右下の快楽が存在しないのが「良くない」ではなく、「悪くない」になるのかについて、ベネターはこう言います。
「良くはない」とみなすのも、示している内容が薄すぎて説得力が全然ない
…(中略)…
快楽が存在していないことは「悪くない」のか「悪いのか」が重要な問題になる。
その答えは、私の考えでは…(中略)…「良くはなく悪くもない」である。
「悪くはない」は「良くはない」より情報量の多い価値評価なので「悪くはない」としておきたい。
(引用:デイヴィッド ベネター『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』p.49)
「良くない」というのは、論理的には悪い場合も悪くない場合もあり、悪いのか悪くないのかは分からないのに、悪くないに決定しています。
これは論理的に間違いです。
次に、なぜ右上の苦痛が存在しないのが「悪くない」ではなく、「良い」になるのかについては、ベネターはこう言います。
「存在に含まれる苦痛を回避することは単に「悪くない」のではなくそれ以上のものである。
それは「良い」。
(引用:デイヴィッド ベネター『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』p.49)
これは、苦痛が存在することに比較して、存在しないことを「良い」としています。
ところが、先ほどの表の右下の快楽が存在しないことについては、こう言います。
「快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない」
(引用:デイヴィッド ベネター『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』p.39)
このように苦痛の時は「回避」によって「良い」としていたのに、快楽の時は「剥奪」を除外しています。
ベネターは苦痛と快楽を異なる条件で考えているので、快楽と苦痛に非対称性が現れるのは当然です。
苦痛がないことは苦痛と比べ、快楽がないことは快楽と比べないので、
それで快楽を感じている人間も、存在するより存在しないほうがいいと結論するのは間違いです。
苦痛と快楽だけで常に?
2つ目は、苦痛は悪く、快楽は良く、それ以外にないという前提です。
快楽というのは、一時的で、すぐに色あせます。
例えば、お腹がすいた時に何かを食べれば快楽が感じられるかもしれませんが、食べ過ぎれば苦痛になります。
そして食べ終わった後はすぐに快楽は消えてしまい、3時間もすればまたお腹がすいてしまいます。
もしとても美味しい料理を食べる経験をしてしまい、その後、二度と食べられなくなると、それが苦痛の本になってしまうこともあります。
西洋では快楽が良く、それ以外にないといってもみんな納得するかもしれませんが、東洋の思想では違和感が感じられます。
そして、苦痛と快楽のみを考えて、それでどんな場合も、生まれて来ないほうがいいとしていますが、苦痛と快楽以外にも色々なことがあるので、どんな場合もとは言えません。
苦痛と快楽だけを考えて、どんな場合も常に生まれて来ないほうがいい、と結論するのは間違いです。
ちなみにベネターは、仏教にも少しふれているので、心には快楽以外にも色々な状態があることに気づいてもよかったのですが、涅槃を欲求のない状態と誤解して、この誤りに気づいていません。
生まれて来ないと存在しないは同じ?
3つ目は、生まれて来ない場合は存在しないとは言えないのに、「生まれて来ない」と「存在しない」を一緒にして、子供は産まず、人類は絶滅すべきであると結論していることです。
なぜ生まれて来なければ存在しないと言えないのかというと、すべての結果には必ず原因があります。
心が存在するということは、その原因があります。
ところが、現代の科学では、脳神経とそこを行き交う電気信号で唯物論的に心を作る方法はまったく分かりません。
もしそれができるなら、パソコンを十分に複雑にすれば、心を生み出せるのですが、現代の科学ではどんなにパソコンを複雑にしても心は生み出せません。
しかしながら、すべての結果には必ず原因があるので、心が生まれたということは、生まれる前にその原因があります。
生まれる前に何も存在せず、無から有が生じているわけではないのです。
ベネターの主張は、無から心から生じるとする非科学的な議論であり、科学的には根拠のない信仰のようなものです。
それは信仰として認めるとしても、存在しない場合を考えて、生まれて来ないほうがよいということは導けません。間違いです。
このように、ベネターの主張は、表のどの1カ所が間違っていても結論は導けないのですが、表の、中身と横軸と縦軸の3カ所に論理的な誤りがあります。
そのため論理的には、生まれてこないほうがいいとか、だから出産すべきでないという結論は導けません。
単に自分の感じていることを述べたエッセイです。
それにしても、この時点でのベネターは、快楽と苦痛を一つの軸にまとめ、人生をその一軸だけで考えるという超シンプルな世界観ですが、現代の思想はそんな浅いものでもいいのか疑問になります。
ブッダは反出生主義?
次に、ブッダは反出生主義なのでしょうか?
例えば、反出生主義で有名なエミール・シオランは、『生誕の災厄』という著書にこう言います。
シオラン
真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。
これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。
(中略)
彼は老衰と死の前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生れるという事件を置いたのである。
(引用:エミール・シオラン『生誕の災厄』)
老死の原因を生というのは、おそらくブッダが迷いの原因を教えられた十二因縁だと思います。
確かに老死の原因は生ですが、生の原因は有、有の原因は取……と原因の究明が以下のように全部で12回続きます。
1老死←2生←3有←4取←5愛←6受←7触←8六処←9名色←10識←11行←12無明
その最初の1つだけを知って、自分の考えと同じだと誤解したのです。
十二因縁は「生まれてこなければよかった」という意味ではまったくありません。
これについては、以下の記事に詳しく解説してあります。
➾十二因縁(十二縁起)私たちの12の迷いの元
シオランなどはまったく仏教を理解できていない一例ですが、他にも、ブッダを反出生主義だという人は主に2つの理由をあげます。
1つは、人生は苦なりと説かれていること、2つ目は子供を欲してはならないと説かれていることです。
ところがこれはまったくの誤解です。
仏教に詳しくない反出生主義の人が、ここだけを拾い上げて自説を支持しているに違いないと思っただけで、仏教を正しく理解している人から「人間に生まれて来ないほうがいい」という反出生主義は出てきません。
人生は苦なり
まず1つ目の「人生は苦なり」というのは、仏教に説かれる4つの真理である、「四聖諦」の1番目です。
四聖諦についてはこちらに詳しく解説してあります。
➾四聖諦(ししょうたい)仏教に説かれる4つの真理
反出生主義の人は、「人生は苦しい」だから「生まれて来なければよかった」と思います。
ところが、ブッダは「人生は苦しい」だから「苦しみから離れた境地を求めるべき」と説かれています。
ですから「人生は苦なり」から仏教を反出生主義だと思うのは、まったくの誤解です。
子を欲するなかれ
2つ目の、「子供は欲してはならない」というのは、中村元訳の『スッタニパータ』です。
このように説かれています。
子女を欲するなかれ。況や朋友をや。
犀の角のようにただ独り歩め。(『スッタニパータ』35 中村元訳)
これは「子供を持ってはならない」ではなく、「子供を欲してはならない」ということです。
ちなみにサイの角というのは、牛と違って1本で生えているので、サイの角にたとえて教えられているものです。
子を欲してはならないというのはなぜかというと、ブッダは、欲望などの煩悩を離れたら本当の幸せになれると教えられる時があります。
その場合、幸せを求める出家の僧侶に対して、煩悩を離れるように教えられます。
煩悩を離れれば必然的に結婚もしませんし、子供も産みません。
ですが在家の人は、結婚してもいいですし、子供を産んでもOKです。
そしてブッダは、煩悩を離れなくても本当の幸せになれる道も教えられています。
反出生主義の出産否定は、すべての人は子供を産むべきではないという主張ですが、ブッダは、在家の人には子供を産むべきではないと言われていないので、反出生主義とは明確に異なります。
そして、ブッダが反出生主義だと思う人は、仏教に何が教えられているのか知らないのです。
ブッダはどんなことを教えられているのかが分かれば、反出生主義とは全然違うことが分かります。
反出生主義と真逆のブッダの教えとは
仏教には、反出生主義と真逆のことが教えられています。
人間に生まれることは難しい
まず仏教では、人間に生まれることは非常に難しいことで、
ブッダは、その難しさを『阿含経』に、盲亀浮木のたとえで教えられています。
それは、果てしなく広がる海の海面を、小さな穴の開いた丸太棒が浮いて、ただよっている。
海の底に、目の見えない亀がいる。
その目の見えない亀が、100年に1度、海面に顔を出す。
その時に、広い海のどこかにただよう丸太棒の穴に、亀が顔を通すよりも、人間に生まれることは難しい、と教えられています。
この人間に生まれる難しさを、『法句経』にはこう説かれています。
人間の身を受けることは難しい。
死すべき人々に寿命があるのも難しい。
正しい教えを聞くのも難しい。(引用:『ダンマパダ』182)
これは、人身を得ること難し。
生れて寿あること難し。
妙法を聞くこと難し、ということです。
そして、人間に生まれなければどうなるかというと、六道といわれる6つの迷いの世界を、生まれ変わり死に変わり、六道輪廻しています。
その6つの迷いの世界は、苦しい順に、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つです。
この中で、人間よりいい世界は、天上界だけで、人間より苦しみの激しい地獄、餓鬼、畜生に生まれるケースのほうがはるかに多くあります。
そのことをブッダは『涅槃経』にこう説かれていると『往生要集』に教えられています。
人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし。
(漢文:生人趣者 如瓜上土 墮三途者 如十方土)(引用:『涅槃経』)
「人趣」とは人間界のことです。
「三途」とは地獄・餓鬼・畜生の苦しみの世界です。
「十方」は大宇宙のことですから、人間に生まれる人を爪の上の土とすれば、苦しみの世界に生まれる者は大宇宙の砂の数ほど多い、と説かれています。
ですから仏教では、人間に生まれることは大変な喜ぶべきことなのです。
そのことを平安時代の高僧である源信僧都もこう教えられています。
まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。
(源信僧都『横川法語』)
「三悪道」とは地獄、餓鬼、畜生の3つの苦しみの世界です。
そんな苦しみの世界でなく人間に生まれたことを喜びなさいと仏教では教えられています。
仏教が「生まれて来なければよかった」という反出生主義だと思うのは、とんでもないことです。
幸せになれるのは人間に生まれた時だけ
ではなぜ人間に生まれたことを喜ぶべきなのかというと、苦しみから離れて本当の幸せになる道が説かれた仏教を聞けるのは人間界だけだからです。
仏教では、仏教が聞き難い8つの難所を八難と教えられています。
以下の8つです。
- 在地獄の難
- 在餓鬼の難
- 在畜生の難
- 在長寿天の難
- 在辺地の難
- 聾盲瘖瘂の難
- 世智弁聡の難
- 仏前仏後の難
最初の3つは、地獄・餓鬼・畜生の3つの世界では、苦しみが激しいために仏教が聞けないということです。
次の2つは、天上界です。
長寿天や辺地などの天上界では、楽におぼれて仏教が聞けないということです。
「聾盲瘖瘂」の「聾」は耳が聞こえないこと、「盲」は目が見えないこと、「瘖瘂」は口がきけないことで、障がいのために仏教が聞けないことです。
「世智弁聡の難」は、世間の智恵に長け、自信過剰で屁理屈ばかり多いために、仏法が聞けないことです。
「仏前仏後の難」は、仏が生まれる前、またはお亡くなりになった後に生まれたために仏教が聞けないということです。
このように、人間界でしか仏教は聞けませんので、苦しみを離れて本当の幸せになれるのは人間界だけということになります。
本当の幸せになれる人間に生まれたことは喜ぶべきことなので、仏教では「生まれて来ない方がよかった」ということには決してならないのです。
- 反出生主義:生まれて来なければよかった
- ブッダ:生まれがたい人間に生まれてよかった
自殺は禁止
そんな貴重な人生を、自ら終わらせていいと仏教で教えられるはずがありません。
反出生主義では、「生まれて来なければよかった」ということから「早く死んだ方がいい」と考えて自殺する人があります。
ところが、仏教では自殺は戒律で禁止です。
戒律の由来を記された『根本説一切有部毘奈耶』や『鼻奈耶』によると、ブッダが不浄観を説かれた時、聞き誤ったお弟子が、自分の肉体は汚れていると嫌うようになり、自殺をしてしまったことがあります。
その時ブッダは、自殺はしてもならないし、手伝ってもならないという戒律を定められています。
もちろん出家の人だけでなく、在家の人に対しても、自殺をとめられています。
仏教では、自殺はしてはいけないのです。
自殺については以下の記事に詳しく解説してあります。
➾自殺は地獄行き?仏教で自殺がダメといわれる理由
- 反出生主義:早く人生を終わらせるべき
- ブッダ:自殺してはいけない
親を恨むのは恐ろしい罪
仏教ではそんな人間界に生まれる縁となった親の恩を非常に大切にします。
パーリ仏典にはこのように説かれています。
比丘たちよ、善き人は恩を知り、恩を感じる。
比丘たちよ、恩を知り、恩を感じるということは、気高い人々によって賞賛されている。
比丘たちよ、恩を知ることと恩を感じることというこれは、専ら善き人の基盤である。
比丘たちよ、ふたりの人に対して報い尽くすということはできない、とわたしは説く。
ふたりの人とは誰か。母と父である。(引用:『増支部経典』第二集第四章)
恩を知り、恩を感じることはよいことで、
特に親孝行はどれだけしてもし過ぎることはない、と教えられています。
このことを『心地観経』には、こう説かれています。
父に慈恩あり、母に悲恩あり。
母の悲恩はもし我世に住し、一劫の中に説くも尽くすことあたわず。(引用:『心地観経』)
「劫」というのは4億3200万年ですので、ブッダの大雄弁をもってしても、何億年かかっても親の恩を説き尽くすことはできないといわれています。
それはなぜかというと、先ほどのパーリ仏典の続きにこう教えられています。
それはなにゆえか。
比丘たちよ、父母は子にとって、おおいに尽くしてくれた人、生んでくれた人、育ててくれた人であり、この世界を見せてくれた人であるからである。(引用:『増支部経典』第二集第四章)
ブッダは、父母の恩は報いきることができないのはなぜかというと、人間に生んでくれた人だからだと言われています。
仏教で「生まれて来なければよかった」というのはあり得ません。
逆に、仏教で親の恩に報いないことは悪です。
『スッタニパータ』には、こう説かれています。
みずからは豊かに暮しているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、──これは破滅への門である。
(引用:『スッタニパータ』)
さらに、仏教ではたくさんの人を殺すことも恐ろしい悪ですが、
人間に生んでくれた親を殺す罪は、五逆罪という非常に恐ろしい罪です。
五逆罪を1回でも造った人は、地獄の中でも最も苦しみの激しい、無間地獄に堕ちると説かれています。
ところが仏教では、私たちの行いを心と口と身体の3方面から見られます。
その3つの行いの中でも、一番重要なのは心です。
体で親を殺すのは、もちろん五逆罪ですが、「もう死んでくれたらいいのに」と心で殺すのも五逆罪です。
そういうことからいうと、
「生まれて来なければよかった」と思うのも、
「親が生まなければ、私はこんなに苦しまなくてよかったのに。
私が苦しんでいるのは親が生んだからだ」
と親を恨んでいることになりますから、やはり心で親を殺しているのです。
ですから、反出生主義者は、仏教では五逆罪の極悪人です。
- 反出生主義:親を恨む
- ブッダ:親に感謝
人生は苦なりという目的
ではなぜ仏教では「人生苦なり」と教えられているのでしょうか?
反出生主義者は、人生は苦しいことから、生まれて来なければよかったとか、子供を産むべきではない、と主張します。
ところが、仏教ではまったく違います。
人は、欲望を満たす喜びを幸せだと思って、人生楽なりと思っています。
ところが欲望を満たす幸せは一時的で、続きません。
すぐにまた欲しくなります。
欲望はただでは満たせないので、欲望を満たすには時間と労力が必要です。
ですが人は欲望を満たす幸せしか知らないので、少しでもたくさん欲望を満たしたいと思って一生をそれだけに費やしてしまうのです。
仏教では、欲望を満たす幸せは一時的な儚いもので、どこまで行ってもきりがないので、死ぬまで欲望を求めて苦しみ続ける人生になってしまうから、そんな人生は苦しみであることを教えて、欲望を満たす幸せとは異なる、本当の幸せを求めるべきだと教えられているのです。
つまり仏教で人生は苦なりと教える目的は、欲望を求めて人生は楽なりと思っている人々の迷いを打ち破り、本当の幸せへ導くためです。
『スッタニパータ』にはこのように教えられています。
苦しみを知り、また苦しみの生起を知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの止滅に達するかの道を知った人々、──
かれらは心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。(引用:『スッタニパータ』)
- 反出生主義:人生は苦しい→生まれて来なければよかった・子は産むべきでない
- ブッダ:(欲望を満たすだけの)人生は苦なり→本当の幸せを求めなさい
人間に生まれてよかった
ブッダを反出生主義だという人が、一番分かっていないのは、仏教に何が教えられているのかという最も大事なことです。
ブッダが教えられたのは、一言でいうと、人間に生まれて来た目的であり、生きる意味なのです。
人間に生まれて来たのは、欲望を満たす儚い幸せを追い求めるだけで人生を終わるのではなく、変わらない幸せになるためだ、と教えられています。
その変わらない幸せになった時に、人間に生まれてよかったという喜びが起きます。
その喜びの言葉が、これです。
人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く。
この身今生に向って度せずんば、
さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。(ブッダ)
「人身受け難し、今すでに受く」とは、生まれがたい人間に生まれることができてよかった、という喜びの言葉です。
盲亀浮木のたとえに教えられるように、人間に生まれるのは非常に難しい有り難いことなのに、よくぞ人間に生まれることができたものだという生命の大歓喜です。
「こんなことなら生まれて来なければよかった」とか、「こんなに苦しいなら死んだほうがましだ」と自殺するのは、本当の生きる目的を知らないからです。
その本当の生きる目的が教えられているのは仏教だけなので、仏教を聞かないとそれは分かりません。
それで次に「仏法聞き難し、今すでに聞く」といわれています。
これは、聞き難い仏教を聞くことができてよかった、という喜びの言葉です。
仏教を聞く難しさは、先ほどの八難でも教えられていますし、たとえでも
「ヒマラヤの山頂より糸を垂らして、麓にある針の穴に通すことよりも仏教を聞くことは難しい」
と説かれています。
そんな聞き難い仏教を聞くことができてよかったという喜びが起きます。
そして、「この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」とは、もし今生に迷いの解決ができなかったとすれば、一体いつできるというのだろうか。永遠に助からなかったに違いない。危ないところを救われた、ということです。
- 反出生主義:生きる意味はない
- ブッダ:生きる意味はある
このように、反出生主義とは似ても似つかない、真逆のことを教えられているのがブッダであり、仏教なのです。
これまでの所を表にまとめると以下のようになります。
テーマ | 反出生主義 | ブッダ |
---|---|---|
人間 | 生まれて来なければよかった | 人間に生まれて本当によかった |
出産 | なし | あり |
自殺 | あり | なし |
親 | 恨む。自分を苦しめている | 感謝。恩に報いきれない |
人生は苦なり | 生まれるのも生むのもダメ | 本当の幸せを求めないとダメ |
生きる意味 | ない | ある |
まとめると分かりやすいと思いますが、
このようにブッダは、反出生主義と180度反対です。
それどころか反出生主義に反論され、完膚なきまでに論破されているのです。
その最も根本にあるのは、反出生主義の人が分からない、
生きる意味を明らかにされていることによります。
生きる意味を教えてすべての人を本当の幸せに導くのが、
まさに仏教の目的なのです。
ではどうすれば、生きているこの世で、苦しみ悩みを離れて、本当の幸せになれるのか、
ということは、仏教の真髄ですので、
分かりやすいように電子書籍とメール講座にまとめておきました。
今すぐ読んで見てください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)