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嫉妬しない方法(愚痴について)

好きな人が、他の人と話をしたり、テレビに出てきた芸能人をほめていると、話題に上がった人に対して、嫉妬の心が起きてきます。
そして、そのライバルを恨み呪う心も出てきます。

このような、嫉妬やねたみ、恨み呪いの心を、仏教では「愚痴ぐち」といわれ、
全部で108ある煩悩ぼんのうの中でも最も恐ろしい、三毒さんどくの1つです。

一般的な嫉妬しない方法

一般的に嫉妬しない方法として、以下のようなことが言われます。

・「嫉妬している」とその場で認める
・「何に嫉妬しているの?」と自分に聞く
・秘密のアカウントで気持ちを吐き出す
・「嫉妬しちゃったんだから、しょうがない!」
・「うらやましい!」と心の中で叫ぶ
・「私も欲しい!」と心の中で叫ぶ
・「私もそうなるぞ!」と、こぶしを握る
・「悔しい!」と地団駄を踏む
・負けを認めてしまう
・白旗を上げる
・嫉妬した相手の「魅力」や「価値」を受け取る
・「与える」ことで苦しみから抜ける
・嫉妬した相手のことを知る
(出典:『つい他人と比べてしまうあなたが嫉妬心とうまく付き合う本』)

このような方法でも嫉妬を解決できるかも知れませんが、
仏教ではどのようにして嫉妬に対応するか見ていきたいと思います。

まずは嫉妬する人はどういう人なのか見ていきましょう。

嫉妬するのは女性?

嫉妬するのは女性の特徴のようにみんないいます。
例えば『源氏物語』の六条御息所ろくじょうのみやすんどころは、すぐれた人だったのですが、彼氏の光源氏が、他の女の所に行くので嫉妬して生き霊になります。
その嫉妬顔を表しているのが有名な般若の面です。

確かにお釈迦様は、『増壱阿含経ぞういつあごんきょう』に女性は朝から嫉妬で苦しむと説かれています。

女人は朝、嫉妬の心で自ら苦しみ、もし日中に至れば睡眠に耽り、暮に向かっては貪欲の心で自ら苦しむ。

他にも、女性の悪徳の1つに嫉妬を挙げておられます。

しかしそれは、女性だけのことでしょうか?

嫉妬すると恨み呪う

嫉妬の心はすべての人が起こします。

男性なら、大好きな彼女が、芸能人の誰それがかっこいいとか、あのイケメン俳優が好き、と言っていたら、嫉妬して悔しがります。

女性でも、大好きな彼が、芸能人の誰それがかわいいとか、映画の女優がきれいとか言い出したら、嫉妬の心が起きてきます。

芸能人や映画俳優なら、高嶺の花で現実味がないのでまだしも、身近な自分の友達をほめていたら、内心穏やかではありません。

嫉妬していることを相手に気づかれたくないですが、
何でそんなこと言うの?
と聞きたくなります。

そして、ライバルを恨み、呪い、ワラ人形を作って夜中に「死ねー」と五寸釘を打ち込みたくなります。

恨み呪えば身の破滅

このように、嫉妬すると、恨んだり呪ったりするのですが、恨み呪えば身の破滅です。

ワラ人形を作って五寸釘を打ち込んでも、相手には何のダメージもありません。

それどころか、ワラ人形を作るお金と時間が自分へのダメージとなります。

夜中に五寸釘を打ち込んだ分、睡眠時間が減って、翌日眠くなり、自分が失敗して何のいいこともありません。

恨み呪いから出てくるのは悪い行いですから、因果の道理にしたがって、悪因悪果、自分に不幸や災難がやってくるのです。

そもそも嫉妬心を起こした時点で不安になったり、ライバルを憎んだり、自分が苦しんでいるのです。

なぜ嫉妬の心が起きるのでしょうか?

嫉妬してしまう原因

私たちが嫉妬心を起こしてしまう原因は、
煩悩の1つ「愚痴」の心があるからです。
仏教では、嫉妬やねたみ、恨み憎しみの心を「愚痴」といいます。

愚痴の「」は愚か、「」も智慧ちえが病だれに入って病院に入っていますから、バカということです。
愚痴」とは、愚かでバカな心ということなのです。

世間では、「愚痴」というと、何か嫌なことがあったときに、ぶつぶつ不平を言うことを愚痴を言うといいます。しかし仏教ではそれだけではありません。
人の幸せをねたみ、逆に人の不幸を喜ぶ醜い心をいいます。

他人の不幸を喜ぶ心

俗に、人の不幸を喜ぶことを「人の不幸は蜜の味」とか「隣の貧乏雁の味」と言われます。
隣が貧乏で苦しんでいると「お気の毒に」とは言いながら、内心ほくそえんではいないでしょうか。

自分よりすぐれた人や、嫌いな人が苦しんでいると、内心「ざまあみろ」「いい気味だ」と思う心はないでしょうか。
あの程度ではまだまだ足りないから、もっとひどい目に遭ったらいいと思う心がでてきます。
自分以上にうまくやっている人を見ると、足を引っ張ってやりたい心も出てきます。

ある人に、今まで一番うれしかった事は何ですかと聞いたら、
碁の友達が火事にあった時だ」と言った人がありました。
その人は、きっといつも負けていたのでしょう。
それで、その友達が火事にあった時が一番うれしかったと言っているのです。
人の失敗を喜ぶ、真っ黒な心です。

対岸の火事」というと、火事にあっている人は家も財産も焼けて不幸のどん底ですが、自分には何の関係もないので、高みの見物と行きます。
それどころか旅先の火事は大きいほど面白いといわれます。
表面的には心配しているように装いますが、内心には、もっと派手に燃えたほうが面白いのにと思う心はないでしょうか。
もっと燃えろ、もっと燃えろ」と思います。

これは雑誌なら、芸能人が結婚したおめでたい話より、離婚したりスキャンダルをおこしたほうが、みんなの関心を強くひきつけます。
ニュースなら、残虐性の強い事件ほど、テレビの視聴率はあがり、週刊誌が売れるのは、この醜く汚い私たちの愚痴の心の強さを物語っています。

雨上がりの日に美しい着物を着た女性がしゃなりしゃなり道を歩いている横を、トラックが、バシャッと水をかけて通り過ぎて行くのを目撃すると
やった!
と顔をほころばせて面白がるのではないでしょうか。

アメリカのジャーナリスト、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』には、「幸福とは、他人の不幸を見て喜ぶ快感」と書かれていますが、このような他人の不幸を喜ぶ醜い心を「愚痴」の心と言います。

人の幸せをねたむ嫉妬の心

反対に、自分以上に幸せな人を見ると、内心、苦々しく思う心があるのではないでしょうか。
自分でもいやになってくる、ねたみ、そねみの心が起きてきます。
幸せそうな2人を見ると許せないという、嫉妬の心だけではありません。
恋愛関係でなくても、何でもそうです。

例えば、自分の家は不幸続きで、イライラしている時に、隣の家は新築して、蔵まで建つと、腹立たしく思います。
それどころか、
隣に何か災難がおきればいいのに、火事にでもあって家が燃えてくれないかなぁ。 もちろん、自分の家には燃え移らないように
と、隣の不幸を祈る心さえ出て来る始末です。

宮本武蔵の父親の無二斎むにさいは、武蔵に武芸を教えたのですが、やがて子供が自分より強くなり、名前が売れてくると、我が子の武芸をねたんで常に武蔵をつけねらったといわれます。
親子の間でもねたみの心は火花を散らすのです。

また、お釈迦様のいとこのダイバダッタは、当時のインドでは、お釈迦様に次いで二番目にすぐれた人でしたが、嫉妬の心が強く、お釈迦様の命をつけねらうようになりました。
そして最後は自分の爪に毒を塗ってお釈迦様をひっかき殺そうとしますが、誤ってその毒が自分に入り、死んでしまいます。
ダイバダッタは、愚痴の心によって命を失ったのです。

この勝るをねたむ心を「愚痴」というのです。
嫉妬というのは、この愚痴の1つの表れです。

では、愚痴はなぜ愚かなのでしょうか?

愚痴で嫉妬することはなぜ愚かなの?

お釈迦様は、なぜ愚かでバカだと言われたのかというと、計算ができないからとか、字が読めないからではありません。

お釈迦様が愚かだと言われているのは、因果の道理が分からないからです。

因果の道理とは「すべての結果には必ず原因がある」、
まかぬたねは生えませんが、まいた種は必ず生えるということです。

その種まきと結果には、このような関係があります。

善因善果ぜんいんぜんか
悪因悪果あくいんあっか
自因自果じいんじか

善い行いは善い運命を生み出し、
悪い行いは悪い運命を生み出す。
自分のまいたたねは自分が刈り取らなければならない、ということです。

自分よりもすぐれた人には、他人の知らないたねまきがあり、因果の道理に従って、たねまきに応じた結果を受けているだけです。因果応報いんがおうほうの因果の道理には寸分の狂いありません。

自分に起きる結果のすべては、自分の行いが生み出しているのです。

その因果の道理が分からないのが愚痴の心です。
自分よりすぐれた人がいれば、因果の道理からすれば、自分が努力してその人以上に向上しなければならないのに、因果の道理が分からずに、ねたんだり、嫉妬したり、怨んだり呪ったりして、足を引っ張るのです。
また、愚痴の心によって、自分に悪いことが起きると自分を反省することもなく人のせいにします。
そんなことをしても、何も善いことはありません。
愚痴の心によって、人をねたんだり、嫉妬したり、怨んだり、呪ったり、人のせいにしたりするのは悪いたねまきなので、ますます不幸や災難が起きてきます。
愚痴の心は、自分の向上を忘れて、他人の足を引っ張ろうとして自分が不幸になるので、お釈迦様は、愚かだと言われているのです。

嫉妬しない方法は因果の道理を知ること

嫉妬やねたみ、恨みや呪いの原因は、因果の道理が分からないところにありますから、因果の道理が分かれば、嫉妬は起きません。

ライバルが現れたときは、自分の至らない点を見つけて、そこを向上して、ライバル以上の自分になれば問題はありませんから、嫉妬の心も起きません。

恨み呪ってライバルの足を引っ張ろうとしても、無駄ですし、心の狭い人と思われて、逆効果です。

逆に、至らない自分にもかかわらず、今のような幸せがあることに感謝して、反省・努力し、向上するのが大切です。

因果の道理をよくよく知りましょう。

それでも好きな人をとられた場合は、大変なショックを受けます。
一晩中一睡もできずに、目を真っ赤にはらして、天井を見ながら、朝を迎えるかもしれません。

そんなときは、もし好きな人が他の人になびくとすれば、必ず何か、自分に至らない点がありますから、その自分のたねまきを見つめて、やがて相手が
あなたと結婚すればよかった
後悔するくらい、反省・向上しましょう。

どんなことでも、自分を磨く糧とすれば、よりよい人生を築くことができるのです。

なぜお釈迦様は愚痴を教えられたの?

今回は、嫉妬しない方法について解説しました。

嫉妬するのは女性の特徴のように思われていますが、もちろん男性も嫉妬します。
その理由は、煩悩の1つである愚痴の心があるからです。

愚痴の心が「愚か」だと言われるのは、
大宇宙の真理である「因果の道理」が分かっていないからです。
因果の道理を知ることこそ、嫉妬しない方法であることをお伝えしました。

ではなぜお釈迦様は、このような愚痴の心を教えられたのでしょうか?
嫉妬しない方法を伝えるためのご方便だったのでしょうか?

お釈迦様が愚痴の心を説かれている真意は、
本当の自分の心を知らないまま、本当の幸せになることはできないからです。
仏教を聞いて、その教えにしたがって進んで行きますと、今まで知らなかった自分の姿が知らされて来ます。
自分の本当の心が知らされることは、苦しい、恐ろしいことです。
しかし、自分の姿が知らされて、進んでいった先に本当の幸せがあるのです。

では、本当の幸せとはどんなもので、どうすれば本当の幸せになれるのか、については、仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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