南無阿弥陀仏とは・念仏の意味
よく仏教でお坊さんや仏法熱心なおばあさんが、
「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏……」ととなえているイメージがあります。
南無阿弥陀仏とは一体どんな意味なのでしょうか?
そして南妙法蓮華経との違いも解説します。
南無阿弥陀仏とは
南無阿弥陀仏の意味について、参考までに辞書をみてみましょう。
南無阿弥陀仏
なむあみだぶつ
<南無>はサンスクリット語のnamas(帰依する)の音写語であるから、語義的には「わたくしは阿弥陀仏に帰依いたします」という意味である。
<六字の名号>とも言い、衆生が浄土に往生する因とする。
これを口で称えるのを<口称念仏>、あるいは単に<念仏>とも言い、また、これを書写して本尊を表示する。
浄土三部経の中では、観無量寿経の「智者復た教へて合掌叉手し南無阿弥陀仏と称へしむ」〔下品上生段〕、「声をして絶へざらしめ十念を具足して南無阿弥陀仏と称へん」〔下品下生段〕の2カ所に用例がある。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
少し難しいですので、わかりやすく解説します。
阿弥陀仏の意味
阿弥陀仏は、阿弥陀如来とも言われ、阿弥陀というお名前の仏さまのことです。
大宇宙の全ての仏方の師匠にあたる仏が、阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏を作られたのは阿弥陀仏なので、南無阿弥陀仏には、阿弥陀仏のお名前がおりこまれています。
阿弥陀仏について詳しくはこちらをご覧ください。
➾阿弥陀如来(阿弥陀仏)とは?
南無の意味
南無の意味は、まず、以下のように、帰命の意味と同じです。
「南無」はインドの昔の言葉、「帰命」は、中国の昔の言葉です。
周知のとおり、仏教はお釈迦様がインドで説かれ、中国に伝わり、韓半島を経て日本に伝来しました。
ですから、仏教ではインドの言葉、中国の言葉がよく使われています。
「南無」はインドの発音に漢字を当てた音標文字で、字そのものに意味はありません。
それが中国に伝わり「帰命」という言葉に翻訳されたので、「南無」と「帰命」は同じ意味です。(引用:「正信偈」入門講座)
このように、南無は帰命ということですが、これは信ずる心です。
私たちには、阿弥陀仏というまことの仏さまを信ずる心も念ずる心もありません。
そんな者に、信じてこいといっても無理ですので、
阿弥陀仏は、信ずる心も作って与えてくださるということです。
ですから、南無阿弥陀仏の南無は、阿弥陀仏が与えてくだされる信じる心です。
このように、本来私が持っていなければならない信じる心もおさめて完成されているのが南無阿弥陀仏です。
「南無阿弥陀仏」のことを「名号」ともいいます。
名号とはどんなものなのでしょうか。
名号とは
名号は、私たちの苦しみ迷いを断ち切って、
本当の幸せを与える働きを六字で表したものです。
たとえるなら、私たちの迷いの元を断ち切る薬のようなものです。
私たちは、どんなにお金があっても、
どれだけ科学が進歩しても便利な生活をしても、
心からの安心も満足もなく、
いつも不安や不満を抱えて苦しんでいます。
そんな私たちの苦しみ迷いを根本から治療する特効薬が
南無阿弥陀仏の名号です。
では、南無阿弥陀仏の名号は、誰がどのように作られたのでしょうか?
南無阿弥陀仏が完成するまで
南無阿弥陀仏を作られたのは、阿弥陀如来という仏さまです。
大宇宙の諸仏の王であり先生である阿弥陀如来が、
すべての人を何とか本当の幸せに救ってやりたいという願いをおこされたのです。
しかし、阿弥陀如来にいくら大きなお力があっても、
それだけで私たちが幸せになれるわけではありません。
たとえるなら、熱にはものすごいエネルギーがあることが昔から分かっていましたが、
どうすればそれを私たちが仕事に使えるのか、長い間分かりませんでした。
18世紀にようやく蒸気機関ができてはじめて、
私たちが仕事に使えるようになったのです。
このように、大きな力があっても、
それがそのまま私たちを幸せにできるわけではありません。
阿弥陀如来は、すべての人を本当の幸せにするにはどうすればいいのか、
五劫という長い間考え抜かれ、
すべての人の苦しみの元を断ち切る働きのある
名号をつくるしかないという結論に達せられました。
名号とは、南無阿弥陀仏のことです。
それは、兆載永劫という長い間、阿弥陀如来が一瞬たりとも雑念を交えず、
純粋に、すべての人を何とか救ってやりたいという心でご修行なされて、
その功徳を全部封じ込めた名号を作り、
それを私たちに与えて救うということです。
ところが、限りないお力を持たれた阿弥陀如来が
兆載永劫という長い間、純粋な心でなされたご修行は、大変なカサになります。
私たちがそう簡単に受け取ることはできません。
肉体の病を治す薬を飲むときでも、
部屋一杯の薬を飲めといわれても、到底飲めないのと同じです。
私たちが飲むには小さい錠剤にしてもらわなければなりません。
そこで阿弥陀如来は、兆載永劫の間の全身全霊、ご修行なされた功徳を全部封じ込めて、
南無阿弥陀仏の六字の名号を作られたのです。
(参考:大無量寿経「於不可思議兆載永劫積殖菩薩無量徳」)
南無阿弥陀仏は仏心の表れ
このように完成した南無阿弥陀仏は、仏心の表れです。
阿弥陀如来の、すべての人を何とか救ってやりたいという大慈悲心が、
形となってあらわれたものです。
ちょうど、恋心というのは目に見えません。
ところが「あなたが好き」というラブレターをもらうと分かります。
たったの六字ですが、恋人の心がわかるので、
その人にとっては大変な価値があり、大切にします。
それと同じように仏様が、私たちを絶対変わらない幸せにしてやりたいという仏心は、
心ですから目にも見えず、私たちには分かりませんので、
私たちに分かるように、南無阿弥陀仏という六字に表されたのです。
これを「垂名示形」の南無阿弥陀仏といわれます。
名を垂れて形を示された、ということです。
「六字の名号」は、弥陀の大慈悲心の顕現なのです。
恋愛の喜びは、続かない無常の幸せですが、
それでもラブレターを大切にします。
ところが名号は、私たちを絶対の幸福にする働きのある仏心です。
それで非常に大切にされるのです。
あらゆる仏がほめたたえる南無阿弥陀仏
すべての人を本当の幸せにする働きがある南無阿弥陀仏を作ることができたのは、
阿弥陀如来だけですので、大宇宙の仏がたは、
「阿弥陀如来はすばらしい名号を作られた」
と口々にほめたたえておられます。
「十方恒沙の諸仏如来」とは、十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまう。
(漢文:十方恒沙 諸佛如來 皆共讃歎 無量壽佛 威神功徳不可思議)(引用:『大無量寿経』)
大宇宙のガンジス河の砂の数ほどのたくさんの仏様ということです。
「皆共に」ですから、この中に入らない仏様はありません。
大日如来も薬師如来も釈迦如来も、一人残らず口をそろえて、ということです。
「無量寿仏」とは阿弥陀如来のこと、
「威神功徳」とは南無阿弥陀仏の大功徳です。
「讃嘆」とは褒め讃えるということですから、
仏様でも想像できない南無阿弥陀仏の不可思議な働きを、
すべての仏が異口同音に褒め讃えておられるのです。
実際、ブッダは南無阿弥陀仏の功徳を一生涯説き続けましたが、
最後に説ききれなかったと言われています。
一生どころか、こう言われているのです。
もし広説せば百千万劫にも窮め尽すこと能わじ。
(漢文:若広説者 百千万劫 不能窮尽)(引用:『大無量寿経』)
もし南無阿弥陀仏の功徳をすべて説き尽くそうとすれば、
何億年かかって説いても説き尽くせない、と言われています。
南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の違い
「南無阿弥陀仏」とよく似た言葉に、
「南無妙法蓮華経」があります。
「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」はどう違うのでしょうか?
まず、南無妙法蓮華経は、ブッダの説かれたお経にない言葉です。
ブッダは一切経七千余巻というたくさんのお経を説かれたのですが、
南無妙法蓮華経は一回も説かれていないのです。
たまに、説かれているという人は、『法華経』のこの部分を提示したりします。
法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからず。
いかにいわんや具足して受持し経巻に、華香、瓔珞……(中略)是の如き等の、百千種をもって供養せん者を擁護せんをや。
(漢文:擁護受持法華名者 福不可量 何況擁護具足受持供養經卷 華香瓔珞(中略)如是等百千種供養者)(引用:『法華経』)
ですが「法華名」は、『法華経』の名前ということですので、それは南無妙法蓮華経ではなくて、『妙法蓮華経』ですよね。
しかもここに説かれているのは、『妙法蓮華経』の名前を受持する人を擁護してさえも計り知れない幸せがあるのに、ましてや『妙法蓮華経』の名前を受持するだけでなく、その上、『妙法蓮華経』を華香や瓔珞など、百千種類の色々なもので供養している人を擁護するのは、言うまでもない、と説かれています。
これは、そういう人を擁護する人の功徳を説かれている所で、お釈迦さまが説かんとされている文脈も違います。
こんなところを根拠にせざるをえないように「南無妙法蓮華経」はお釈迦さまは一度も説かれていないのです。
では「南無妙法蓮華経」は誰の言葉なのかというと、日蓮宗を開いた日蓮です。
日蓮宗では、南無妙法蓮華経にブッダの修行の功徳が備わっていて、
唱えると即身成仏できると教えますが、
ブッダは「南無妙法蓮華経」さえも説かれていないのに、ましてやそれを唱えたら成仏できるなどということは、一言も説かれていません。
日蓮の創作です。
一切経に説かれていないことは仏教といえませんので、
日蓮は、南無妙法蓮華経の根拠として法華経の寿量品の文底に秘沈していると主張します。
これを「文底秘沈」といいます。
こんなことを言うくらいですから、日蓮自身も
南無妙法蓮華経の根拠はお経のどこにもないことを自覚しています。
文底秘沈という日蓮の主張からも、南無妙法蓮華経が
仏説ではないことは明らかです。
それに対して、「南無阿弥陀仏」は、ブッダが説かれていますから、仏説です。
一例をあげると『観無量寿経』にこうあります。
南無阿弥陀仏と称せん。
仏名を称するが故に、念々の中に於て八十億劫の生死の罪を除く。
(漢文:稱南無阿彌陀佛 稱佛名故 於念念中 除八十億劫生死之罪)(引用:『観無量寿経』)
このように、南無妙法蓮華経はブッダは説かれていませんが、
南無阿弥陀仏はブッダが説かれているという違いがあります。
これは、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の根本的かつ最も大きな違いです。
仏教とは、仏の説かれた教えのことですから、
南無阿弥陀仏は仏教であるのに対して、
南無妙法蓮華経は仏教ではないということが明らかになり、
これによって、仏教上のその他の議論はすべて吹き飛びます。
では、南無阿弥陀仏をとなえることで、私たちは救われるのでしょうか?
南無阿弥陀仏をとなえれば救われる?
この南無阿弥陀仏をとなえることを「念仏」を称えるといいます。
「となえる」が「称える」という漢字が使われるように、
となえるには、たたえるという意味があります。
では、念仏を称えれば救われるのでしょうか?
ほとんどの人は、念仏を称えれば死んだら極楽に往けると思っていますが、
それは誤解です。
念仏には、他力の念仏と自力の念仏があります。
他力の念仏と自力の念仏について
ある人が浄土宗を開かれた法然上人に、
念仏を称えれば死んだら極楽に往けるのでしょうか?
とお尋ねした記録が、『念仏往生要義抄』に出ています。
「問いていわく、『称名念仏申す人は、みな往生すべしや』」
称名念仏とは、念仏を称えることです。
念仏を称えた人は、みんな極楽へ往けるんですか?
とお尋ねしたということです。
すると法然上人は、こう答えられています。
答えていわく『他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまったく往生すべからず。
(引用:『念仏往生要義抄』)
このように、他力の念仏を称えれば救われますが、
自力の念仏ではまったく不可能です。
自力と他力の違いについて詳しくは、下記をご覧ください。
➾自力と他力の違い
単に念仏を称えれば救われるわけではないのです。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人はどうでしょうか?
主著の『教行信証』にこう教えられています。
称名憶念すること有れども、無明なお存して所願を満てざる者あり。
(引用:親鸞聖人『教行信証』)
「称名憶念」とは、阿弥陀如来を信じて念仏を称えることです。
一生懸命念仏を称えていても、助からない者がいると教えられています。
浄土真宗の蓮如上人は、さらに現代人にわかりやすい言葉遣いで
教えられています。
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
極楽に往生すべきように思いはんべり。
それは大きに覚束なきことなり(引用:蓮如上人『御文章』)
ただ声に出して南無阿弥陀仏と称えさえすれば極楽に往けるように思っていたら
それはとんでもない間違いだ、ということです。
このように、ただ念仏さえ称えれば救われるわけではないのです。
ではどうすればいいのでしょうか?
南無阿弥陀仏の力が発揮される時
ではどうすればいいのかというと、
南無阿弥陀仏の名号の働きによって、
私たちの苦しみ迷いの根元を絶ちきられればいいのです。
これを「信心獲得」とか、
「信心決定」といいます。
信心獲得には時間はかかりません。
名号を頂いた「一念」に、信心獲得します。
一念とは、何億分の一秒よりも短い時間のことです。
これを親鸞聖人は、こう教えられています。
一念とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す。
(引用:親鸞聖人『教行信証』)
「信楽開発」とは、苦しみ迷いの根元が絶ちきられて、絶対の幸福になることで、
「時剋の極促」とは、これ以上速いということのない速い時間のことです。
ですから「一念」とは、絶対の幸福になる何億分の一秒よりも短い時間をいう、
ということです。
一念で信心獲得するとどうなるかということについて、
蓮如上人は分かりやすくこう教えられています。
一念帰命の信心を発せば、まことに宿善の開発に催されて
仏智より他力の信心を与えたまうが故に、
仏心と凡心と一つになるところをさして信心獲得の行者とはいうなり。(引用:蓮如上人『御文章』)
まったく阿弥陀如来のお計らいによって一念で他力の信心を頂き、
阿弥陀如来の心と私の心とが一体になったのを、信心獲得した人という、
ということです。
つまり、南無阿弥陀仏と一体になるのです。
これを「仏凡一体」といいます。
南無阿弥陀仏の3つの名前
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える念仏が、
自力なのか他力なのかは、一念で分かれます。
信心獲得までは、すべて自力の念仏です。
信心獲得した後は、すべて他力の念仏です。
自力の念仏と他力の念仏は、一念で水際立って切り替わります。
他力の念仏は、南無阿弥陀仏を頂いて、変わらない幸せに救われた喜びから
称えずにおれないお礼の念仏が他力の念仏なのです。
この「名号」と「信心」と「念仏」は、
どれも南無阿弥陀仏ですが、
阿弥陀如来のお手元にある間は「名号」といい、
私たちが頂くと、「信心」といい、
それが口から表れたのを「念仏」といいます。
名前は変わりますが、体は一つです。
ちょうど、娘と結婚すると嫁といわれ、
子供が生まれると母といわれるようなものです。
名前が変わるだけで体は変わりません。
娘のときに出べそなら、
嫁になっても出べそですし、
母になっても出べそです。
ところが、隣にどんな美人で気立てのよい娘がいても、
結婚しなかったら私と関係ありません。
どんなに阿弥陀如来が名号を完成されていても、
頂かなければ幸せにはなれません。
信心獲得の一念が最も大切ですから、蓮如上人は、こう言われています。
たのむ一念のところ肝要なり。
(引用:『御一代記聞書』)
肝要とは、最も大事ということです。
ではどうすれば信心獲得できるのでしょうか?
どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるの?
どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるのかは、
ブッダに聞かなければわかりません。
ブッダは、『大無量寿経』にこのように説かれています。
その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。
(漢文:聞其名号 信心歓喜 乃至一念)(引用:『大無量寿経』)
「名号」とは南無阿弥陀仏のことですが、
名号を聞いた一念に、信心獲得するということです。
『無量寿如来会』にはこのように説かれています。
無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信をおこして、歓喜愛楽せん。
(漢文:聞無量寿如來名号 乃至能発一念浄信 歡喜愛楽)(引用:『無量寿如来会』)
名号を聞いた一念に、信心獲得して絶対の幸福になれるということです。
他にもこのように説かれています。
仏、弥勒に語りたまわく「それ彼の仏の名号を聞くことを得て
歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。
まさに知るべし。この人は大利を得と為す、
すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」
(漢文:仏語弥勒 其有得聞彼仏名号 歡喜踊躍 乃至一念 当知此人為得大利 則是具足無上功徳)(引用:『大無量寿経』)
ブッダは、弥勒菩薩にこう仰せられた。
「どんな人も、阿弥陀如来の作られた名号・南無阿弥陀仏の大功徳を聞いた一念に、
絶対の幸福になれる。すなわち無上の功徳と一体になるのである」
ということです。
このように、名号を「称える」のではなく、
名号を「聞く」ことで苦悩の根元を断ち切られ、
本当の幸せになれるのです。
ではその苦悩の根元とは何か、ということは仏教の真髄ですので、
電子書籍とメール講座にまとめました。
今すぐ読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)