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生きる意味を、知ろう。

存在意義(レゾンデートル)

存在意義」は、フランス語でレゾンデートルともいいます。
中学生くらいから、自分の存在意義を意識し始めます。
存在意義がわからず、それを感じることができないとき、
人は自殺したり、暴力や殺人などの非行に走ることもあります。
どうすれば存在意義を見出せるのでしょうか?

存在意義・レゾンデートルの意味

参考までに、まず辞書の意味をみてみましょう。

存在意義・存在理由
=無視することが出来ないと人々が認める、そのもの独自の価値

またフランス語のレゾンデートルの意味はこのようにあります。

レーゾン‐デートル
(フランスraison d'tre)〈レゾンデートル〉存在理由。あるものの存在を正当化する理由。

レゾンデートルは、哲学用語であり、自分自身の存在価値、生きる理由を意味します。
私たちの存在意義は何なのか、詳しくみていきましょう。

ボクは透明な存在だ

1997年、神戸の中学校の校門前で、切断された小学生の頭が発見されました。
その口にくわえさせられていた警察に対する挑戦状の差出人は、酒鬼薔薇さかきばらとあります。
犯人像は30〜40代男性かと思われていましたが、
逮捕されたのは、14歳の中学生でした。

神戸新聞社に対する声明文には、世間の注目を集めたのは、
透明な存在であるぼくを認めていただきたい
とありました。

そして、
警察はぼくの存在をもみ消そうとしているのではないか
存在理由、目的は殺人
透明な存在であるぼくを作り出した義務教育と社会への復讐も忘れていない
とあることから、自分に存在意義が感じられず、
存在意義かを感じるために殺人を行った事件でした。

このように、自分の存在意義が感じられないことが、殺人につながることがあるのです。

そして、殺人だけでなく、自殺につながることもあります。

存在意義がわからず自殺

1903年、東大の前身である旧制一高の学生、藤村操は、
落差97メートルの日光華厳の滝から投身自殺しました。

滝上の傍らの木には「巌頭之感がんとうのかん」と題した遺書が書き残されていました。

そこにはこうありました。

悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、
五尺の小躯しょうくをもってこの大をはからんとす。
ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチィーにあたいするものぞ。
万有の真相は唯だ一言にしてつくす、
曰く、「不可解」。
我この恨みを懐いて煩悶、ついに死を決す

人間の一生の短さ

悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、
五尺の小躯をもってこの大をはからんとす

とは、広大な大宇宙に比べると、地球などはそこに浮かぶ塵のようなものです。
その地球の表面にへばりついて生きている人類は何十億もありますが、
自分はその何十億分の一の存在です。

そして、悠久の時間の流れからすれば、人の一生など短いものです。
地球の歴史を一年間とすれば、人類が生まれたのは
12月31日の午後23時37分、産業革命が始まったのは、
23時59分58秒です。

西洋哲学に存在意義を求めた

ホレーショ」は、英語の人命で、シェイクスピアのハムレットに出てくる登場人物といわれますが、
ホレーショの哲学」は、西洋哲学のことです。

藤村操は、この世界にどんな意味があるのか、自分はなんのために生きるのか知りたいと
西洋哲学を学んだのですが、
いわく不可解」わからなかった、ということです。

実際、同じような疑問を懐き、実存主義哲学を創始したといわれるキルケゴールでも、結局答えを見いだせないまま、1855年に42歳の若さで生涯を閉じています。
西洋哲学では現代でも未だに答えは見いだされていません。

そして藤村操も、自分の存在意義がわからないことに苦しみ、
ついに死ぬことに決めた、ということです。

明治時代に旧制一高に進学するというのは、
現代の東大生よりはるかにエリートです。
藤村操の自殺は国家の損失とマスコミで騒がれます。
それほど将来を期待されている頭のいい学生でも、
存在意義はわからないのです。

存在意義のわからない若者たち

かつて女子高生のカリスマとして一世を風靡した浜崎あゆみの
デビューアルバム『A Song for XX』は、約150万枚を売り上げました。

自ら作詞を手がけた『A Song for XX』には、こう歌っています。

居場所がなかった 見つからなかった
未来には期待出来るのかわからずに

居場所がないと感じるのは、
社会の中に自分の存在意義が感じられないからです。
そして、将来的に存在意義が見いだせる期待もできません。
未来は不透明です。

他にも、『TO BE』という曲では、
自分の事を「ガラクタ」と歌っています。

ガラクタというと値打ちがないので、誰からも大事にされません。
自分なんか居ても居なくても一緒だと感じているのです。
こんな歌が多くの人の共感を呼び、NHKのクローズアップ現代にも
自分を歌う少女たち」というタイトルでとりあげられます。
それほど、存在意義のわからない人は多いのです。
それによって、自殺や暴力、殺人などの社会問題につながる可能性があるのです。

では、存在意義とは一体何なのでしょうか?

存在意義(レゾンデートル)とは

存在意義とは、自分が存在する意味ということで、
自分はなんのために存在しているのかという意味です。

これは、誰にとっての意味かということから、
大きく2つあります。

1つは、他人にとって自分の存在にどんな意味があるのか、
もう1つは、自分にとって、自分の存在にどんな意味があるのか
の2つです。

2つの存在意義
  1. 他人にとっての自分の存在意義
  2. 自分にとっての自分の存在意義

そしてほとんどの場合、論じられているのは、
比較的わかりやすい、
他人にとっての存在意義です。
では、他人にとっての存在意義とはどんなことなのでしょうか?

1.他人にとっての存在意義

他人にとっての自分の存在意義とは、
社会やグループの中で自分はどんな役に立っているかということです。
会社なら会社での仕事の内容、
地域なら地域の役割、
家庭なら家庭での役割分担などです。

この存在意義を見出すときには、
自分の強みを考えて、
他人にどんな貢献ができるのか、
自分を必要としているのは誰か、
どんな役割を担えるのかを考えれば見出せます。

これは、生きがいをもって生きるときに大切で、
自分の生き方を大きく左右することです。

他者貢献できない人の存在意義

では、もともと障害などがあって、
他人に貢献するほどのことができない人は、
存在意義はないのでしょうか?

また、これまで会社で活躍していた人が定年退職したり、
だんだん年をとって、社会に貢献するというより
社会の世話になったりすると、存在意義はなくなるのでしょうか?

社会の中で自分の役割があり、多くの人に貢献しているのに、
なんとなく虚しく、自分に存在意義が感じられないという人があります。

そんな人に必要なのは、自分にとっての存在意義です。

2.自分にとっての存在意義

自分にとっての存在意義というと何か変な感じがしますが、
別の言葉でいうと、自分が生きる意味ということです。

他人の役に立つことは大切ですが、
他人にとっての存在意義だけでは、
他人の役に立たなくなったとき、
存在意義がなくなってしまいます。

小学校で運動が苦手な子が、球技大会で
お前は見てればいい」と言われて仲間はずれにされ、
校庭の隅っこに寂しく体育座りをしているようなものです。
球技で他の人の役に立たないからです。

ところが、たとえスポーツができようができまいが、
友達がいようがいまいが、
才能があろうがなかろうが、
他人の役に立とうが立つまいが、
そんなことには一切関係なく、
生きている一人一人に重要な生きる目的があると
仏教で教えられています。

その目的を果たすために、
自分が存在していることが
自分にとって大切になってくるのです。
それが本当の自分の生きる意味です。

そんな存在意義は、実はすべての人にあります。
すべての人に生きる意味があるということです。

存在意義を見出す方法

ですから、その本当の生きる意味を教えられている仏教を聞けば、
どんな人でも、自分の存在意義を見出すことができます。

この存在意義が見出せれば、自殺する必要もありませんし、
殺人事件を起こして社会の注目を集める必要もありません。

他人の役に立つかどうか、
社会の役割があるかどうかにかかわらず、
どんな人でも「人間に生まれてよかった
という喜びの人生を送ることができます。

自分の存在意義=生きる意味

今回の記事では、存在意義・レゾンデートルについて説明しました。

非常に賢い人も自分の存在意義がわからず絶望したり、命を落としたりしますので、
生きる上で最も知らなければならないことが、存在意義です。

そこで存在意義(レゾンデートル)を考える上で、大事なのは、他人にとっての存在意義ではなく、
自分にとっての存在意義です。
なぜなら他人にとっての存在意義、言い換えると他社貢献は、
いずれできなくなったときに存在意義を見失ってしまうから。

では、自分にとっての存在意義は何か、言い換えると、自分にとっての生きる意味とは何か。

生きる意味とは、
「私たちは何のために生まれてきたのか」
「何のためにいきているのか」
「なぜ生きなければならないのか」
「生まれてから死ぬまでに、何をすれば「人間に生まれてよかった、人生これ一つだった』
と満足できるのか」
という人生の目的

のことです。

このような生きる意味とは何かというと、
それは仏教の真髄ですので、
メール講座と、電子書籍にまとめておきました。
一度見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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