怨憎会苦とは?
「怨憎会苦」とは、会いたくない人や物と会わなければならない苦しみです。
「会社の上司に会うのが怨憎会苦だ」とか
「週末、姑さんに会うのは怨憎会苦で仕方がない」
などと使われます。
怨憎会苦は誰しも避けられませんが、どのように対応すればいいのでしょうか。
怨憎会苦の3つの対策と、本質的な克服法を解説します。
怨憎会苦の意味
「怨憎会苦」について辞書を見てみても、あまり詳しくは書かれていません。
怨憎会苦は「四苦八苦」という8つの苦しみの1つなので、
例えば、以下の仏教の辞典では、「四苦八苦」という項目の中に
簡潔に意味が書かれています。
怨憎会苦(憎い者と会う苦)
(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
これは確かにその通りです。
漢字の意味からいっても、「怨」とは怨むことで、
「憎」は憎むこと、
「会」は出会うこと、
「苦」は苦しみのことですから、
「怨憎会苦」とは、憎んでいる相手や避けたい状況に、
出会わなければならない苦しみです。
ですが、「怨憎会苦」の対象は人間だけではありません。
怨憎会苦の苦しみは、人間関係ではより分かりやすいのですが、
さらに人間以外から味わう苦しみも、「怨憎会苦」に入ります。
例えば『阿含経』の内容をまとめられている『大毘婆沙論』には、
「怨憎会苦」をこのように説明されています。
不可愛の境、身と合する時、衆苦を引生するが故に非愛会苦と名づく。
(漢文:不可愛境与身合時引生衆苦故名非愛会苦)(引用:『大毘婆沙論』)
「不可愛」とは、好ましくないことや心に適わないことです。
「境」とは対象のことなので、
「不可愛の境」とは、好ましくない対象のことで、嫌いな人や嫌な出来事、ということです。
それが「身と合する時」とは、自分の身に降りかかる時ということです。
「衆苦を引生するが故に」は、色々の苦しみを引き起こすから、ということで、
「非愛会苦」は、怨憎会苦のことです。
ですから、嫌いな人に会ったり、嫌なできごとが身に降りかかった時、
様々な苦しみを生じるから、怨憎会苦と名付けるということです。
では具体的には、「怨憎会苦」にはどのような苦しみがあるのでしょうか。
怨憎会苦の具体例
好き嫌いには理由がありません。
「どうして好きなの?」とか
「どうして嫌いなの?」と言われても、論理的な説明は不可能です。
「嫌いだから嫌い」としか言いようがありません。
中には「嫌いで嫌いで同じ部屋の空気を吸うのも嫌だ」という人もいます。
そういう人と同じ部屋の空気を吸わなければならないのが「怨憎会苦」です。
ところが私たちは、会いたい人とはなかなか会えないのですが、
なぜか会いたくない人には、ばったり会います。
この間はこの道で会ったから、今日はこっちの道に行こうと思うと、
今度はその道で会います。
こっちが嫌いだと思っていると、向こうにも伝わりますから、
向こうも同じことを思って、同じ道でばったり会います。
私たちは、とにかく会いたくないものに会いますので、
普段の生活には怨憎会苦があふれています。
それを時系列順に追ってみましょう。
今まで、こんなことはなかったでしょうか?
子供時代によくある怨憎会苦
小学校に入ると、友達100人できるのですが、
中には一定の確率で馬の合わない友達もいます。
妙にマウントを取ってくる友達とか、
悪口を言ってくる友達もいます。
中には、ボールをぶつけてくる友達もいます。
そういう友達からはなるべく離れようと思っても、
同じクラスだと必ず顔を合わさなければなりません。
そういうのが怨憎会苦です。
小学校の場合、お昼は給食が出ました。
メニューは栄養士さんが作ってくれているため、
嫌いなものが出ることがあります。
昔は、小学校の給食は食べ切るまで昼休みもなしという教育だったためか、
給食の時間に嫌いな食べ物を食べることができず、
昼休みも掃除の時間も居残りさせられている場合がありました。
そういう時は、嫌いな食べ物が出てきたことで、本当に暗い気持ちになります。
こういうのも怨憎会苦です。
また、歯医者に行くのも恐怖でした。
歯医者は何も悪いことをしていませんが、
治療中のキュイーン・ガリガリガリという音や、
消毒や何かの歯医者特有のにおい、
それに続く刺すような痛みから、
パブロフの犬のように、においがしたり、音を聞いただけで、顔をしかめたり、
大声で泣いて嫌がり、歯医者を嫌いになります。
そして虫歯の治療は一回で終わることはなく、
少しずつ少しずつ段階をおって治療されるので、
何度も何度も歯医者に通わなければなりません。
虫歯の治療中は、歯医者に行くたびに、怨憎会苦の苦しみを味わうのです。
中学・高校時代によくある怨憎会苦
中学生になると、嫌いな授業があれば、毎週その授業のたびに憂うつになります。
授業中は早く終わらないかなとずっと考えて、面白くもなく、集中もできません。
さらに、中間テストや期末テストもやってきます。
苦手な分野は点数も低いため、絶対に受けたくないのですが、
進学するためには受けるしかありません。
そして、学年順位や偏差値が計算されて、友達同士で競争させられます。
そのため、授業や担当の先生と会うことも怨憎会苦なら、
中間・期末テストも怨憎会苦です。
他にも、プールが嫌だったり、
疲れるだけの謎のマラソン大会が嫌だったり、
運動会や合唱コンクールのように練習が必要な年中行事が嫌だったり、
人それぞれ会いたくない嫌なこと、うんざりすることはたくさんあります。
それらがみんな怨憎会苦になります。
会社でよくある怨憎会苦
社会人になると、就職した会社で、理不尽な上司に悩まされます。
毎回打ち合わせのたびに意見が変わる上司、作業を丸投げする上司、
高圧的な上司などに当たると、かなりのストレスを抱えてしまいます。
サラリーマン川柳でも、こう詠まれています。
丸投げの 上司の肩の 強さ知る
野球の先発ピッチャーなら、投げ続けると肩が壊れるので
4回くらいで勢いがなくなり、ベンチへ戻ることになりますが、
上司の丸投げは、9回でも10回でも無限に投げ続けることができます。
会社に行くたびに嫌な上司と会わなければならない苦しみも、怨憎会苦です。
何とか耐えて昇進し、部下を持ったとしても、
部下が言い訳ばかりで仕事をしなかったり、
機嫌が悪いと怒鳴りつける部下かもしれません。
できるだけ部下とコミュニケーションを取らずに、自分で仕事を片付けたくなります。
サラリーマン川柳では
新人に 言えない上司 言う新人
といわれています。
自分が上司の立場になると、新人に気を遣って厳しく物が言えないのですが、
新人はまだ気遣いが足りないため、
「ヤバイッス」とか言いながら、
「そんなことできませんよ〜」とか何でも言いたいことを言います。
そうなってくると、だんだん部下と会うのも苦しく、
また、自分の責任ではない仕事に向かうのも苦しく、
どちらも怨憎会苦の苦しみとなります。
そして、平日は頑張って仕事に行ったり、授業に出たりして、
土日にはリフレッシュできたとしても、
日曜日の夜になると、子供も大人も「月曜日にならないでほしい」と願い、
憂うつな気分になる人がいます。
通称「マンデーブルー症候群」とか「サザエさん症候群」といわれます。
テレビ番組の「サザエさん」は50年以上、
日曜日の午後6時半から7時まで放送されているため、
サザエさんのエンディングテーマを聞く頃になると、
翌日の嫌な仕事や授業が思い出され、月曜日が嫌だなと思うからです。
月曜が来るたびに味わう憂うつさも、怨憎会苦と言えます。
また、会社で健康診断や人間ドックを受けて再検査となった時、
不安が心をよぎります。
再検査を受けて、その結果を受け取る時も、
もしかしたらガンなどの重要な病気かもとドキドキします。
あまりにひどい場合は病院に行きづらいので、
家族に付き添ってもらうこともあります。
健康診断の結果を聞く当人にとって、とても嫌な怨憎会苦となります。
家庭でよくある怨憎会苦
夜になると、仕事に疲れきった表情のサラリーマンが、
終電まで居酒屋で飲んでいることがあります。
早めに家に帰って休めばいいのに、と思うかもしれませんが、
妻や思春期の娘の冷たい言動が辛いため、家に帰りたくないと思う人もいるようです。
家に帰ると妻の機嫌を窺わないと行けないので、
サラリーマン川柳では
帰宅して 妻の機嫌を 犬に聞く
と詠んでいます。
家に入る前に、ペットのポチに妻の機嫌を確認しておかないと危険なのです。
この場合、家族に会うことが、怨憎会苦となってしまっています。
一方、妻の方にも「主人在宅ストレス症候群」で悩まされている人がいます。
「主人在宅ストレス症候群」は、
夫が自宅に帰ってくると、体調が悪くなることをいいます。
夫が出かけると、また元気になります。
サラリーマン川柳には
定年を 恐れているのは 妻の方
というのがあります。
退職で夫が家にいることが多くなると、それだけ体調が悪くなるからです。
「主人在宅ストレス症候群」の人は、夫と怨憎会苦になってしまったのです。
怨憎会苦について、『涅槃経』というお経には、次のようにも教えられます。
何等をか名づけて怨憎會苦と為すや。
愛せざる所の者と共に聚集するなり。
(漢文:何等名為怨憎会苦 所不愛者而共聚集)(引用:『大般涅槃経』第十二)
「何等をか名づけて怨憎會苦と為すや」とは、
「どのようなことを怨憎会苦と呼ぶのか?」ということです。
「愛せざる所の者と共に聚集するなり」とは、
愛していない人と、または嫌いな人と一緒にいることが
怨憎会苦である、という意味です。
他人と仲良くなれないだけでなく、家族や身内との場合でも、
怨憎会苦の苦しみを受けることがあります。
このように怨憎会苦の例は、枚挙にいとまがありません。
怨憎会苦は、人として生まれたからには、
いつの時代、どこの国の人でも避けることのできない苦しみなのです。
では怨憎会苦は、どのように克服したらいいのでしょうか。
怨憎会苦の3つの克服法
怨憎会苦の克服法として、次のような3つの克服法がよく提案されます。
これは消極的なものから積極的なものまであり、難易度や効果は様々です。
まず簡単なものから紹介しますが、
後で解説する難易度が高い積極的なものほど効果は絶大なので、
かなり怨憎会苦は緩和されるはずです。
できるだけ会わない
まず、一番簡単でよくある対応は、嫌いな人に会わない、嫌いなことをしないことです。
できれば関係性を断つとか、
付き合わなければならない場合は、必要最小限の会話に留めるとか、
仕事や用件に関係する話題に焦点を絞るとか、
できるだけ会わないといっても、色々な段階があります。
これについては、確かにお釈迦様もこう教えられています。
悪い友と交わるな。
卑しい人と交わるな。
善い友と交われ。
尊い人と交われ。(引用:『ダンマパダ』78)
仏教でも、悪い人は避けて、立派な人と付き合ったほうがいいのです。
ところが、ここで1つ注意点があります。
自分に対して厳しい人が必ずしも悪人ではないということです。
例えば親なら、子供の将来を思って厳しくしつけますが、
子供はそれを嫌うことがあります。
また、「良薬は口に苦し」と言われるように、
苦しいことから逃げていたら、あまりいい結果にならないことがあります。
人間関係は全部煩わしいといって、引きこもりになってしまってもよくありません。
ですから、もし怨憎会苦の対象が、
自分に悪い影響を与える人や物だった場合は避けたほうがいいのですが、
いい影響を与えてくれそうな人や物には、
努めて近づいたほうがいいのです。
視点を変える
怨憎会苦への対応として、できるだけ会わないというのも
確かに学生時代などは可能です。
ですが、社会人になると、そういうわけにもいかない場合があります。
これまでの具体例で見てきた通り、職場や家庭内で関係をこじらせてしまった場合、
会わなくするには、相当の決断が必要になります。
必ず会わなければならない相手の場合は、どうすればいいのでしょうか?
ソクラテス法
怨憎会苦の克服法の2つ目は、今の苦しみに対する視点を変えてみるという方法です。
これは昔から実践されていることで、
古代ギリシアの哲学者、ソクラテスもやっています。
古代ギリシアの哲学といえば、宇宙や自然現象の探究が主流でした。
しかし、ソクラテスの登場により、
「汝自身を知れ」という人間性の探究へと移行していきました。
そんな「汝自身を知れ」を説いたソクラテスですが、
自身の結婚生活では苦労が絶えなかったようです。
妻のクサンティッペは、その気性の激しさで歴史に名を残しました。
現代でも英語では「クサンティッペ」(Xanthippe)という単語が
「口やかましい妻」の代名詞として使われていたり、
英和辞書を引くと「がみがみ女」という意味が出ていたりするほどです。
ソクラテスは質素な生活を好み、
「他の人間は食うために生きるが、私は生きるために食う」
という言葉を残しています。
しかし、そんな夫の姿勢が癇に障るクサンティッペが一日中小言を言います。
そんな妻の態度にもソクラテスは、
「水車の音も聞き慣れれば苦にならない」と言い、どこ吹く風でした。
我慢できなくなったクサンティッペは、それならと、
ある日、夫が弟子たちと哲学談義に興じている最中に、頭から水を浴びせかけました。
その時のソクラテスは、
「さっきから雷が鳴ると思っていたが、とうとう夕立が来たわい」と、
冷静に受け流したのです。
後日、結婚について相談した弟子に、ソクラテスはこう答えました。
「結婚しなさい。良い妻を得られれば、この上ない幸せを手に入れることができる。
仮に難しい妻を得たとしても、それはあなたを哲学者に導くだろう」
悪妻と思えば腹が立ちます。
じゃじゃ馬を乗りこなすと思えば勉強になります。
馬術に秀でるには、荒馬を慣らす技術がいります。
「一番難しい馬を操ることができるようになれば、天下に怖い者はない」
ソクラテスは、自分の家族の例をひいて弟子たちにそう教えたのです。
無常を見つめる
次に、仏教では、諸行無常と教えられています。
人間に生まれる前は、果てしない遠い過去から生まれ変わり死に変わり
輪廻転生を繰り返してきました。
その中で人間に生まれるということは、「人身受け難し」と言われるように、
何億年にも何兆年にもない、非常に珍しいことです。
たとえ今は人間界に生を受けたといっても、無常は迅速なので
あっという間に過ぎ去ります。
そして死ねば、それまでの行いによって、因果の道理に従って、
次の迷いの世界へと旅立ち、輪廻転生を永遠に繰り返していきます。
今、人間界で接している人というのは、一時的な縁なのです。
例えるならば、色々な所から集まって、同じ船に乗り合わせて
進んでいるようなものです。
それも一時的なことで、岸に着いたら思い思いに散っていきます。
鳥であれば、どこからともなく一本の木に多くの鳥が安らいでいても、
夜が明ければ、それぞれが餌を求めて飛び去ってゆきます。
向こう岸に着くまで、一夜の間だけと知らされれば、
どんなに嫌いな相手でも懐かしくもなります。
毎日会っているといっても、それは別れれば二度と会うことのない
一期一会の縁です。
お互いの命もいつまで続くか分からない儚い命ですので、
無常を見つめて、今日限りの命という気持ちで接すれば、
怨憎会苦も緩和されてくるのです。
このように苦しみに対して視点を変え、受け取り方を変えることで、
怨憎会苦の苦しみから多くのことを学び、
自分を成長させる勝れたチャンスになります。
ですが、視点を変えるだけでは、相手は何も変わっていません。
相手さえも変えてしまいかねない大技がありす。
接し方を変える
怨憎会苦の克服法の3番目は、接し方を変えるという方法です。
嫌いな相手というのは、たいてい向こうも自分を嫌っています。
その原因は自分が嫌いだから、その結果、相手も自分を嫌っているという場合があります。
もしそうなのであれば、自分がフレンドリーに接すれば、
相手も態度を軟化するようになります。
まずは挨拶をするだけで、心が開きはじめます。
仲が悪いと思っていた人から挨拶されると、
「案外、人間関係は悪くないのかな」と思います。
まずは挨拶から接し方を変えてみましょう。
それが難しい場合、嫌いな相手との接し方さえ変えずに
関係を改善する方法があります。
例えば嫁と姑の間は、古来仲が悪いといわれています。
嫁は「いい加減に、女の古いのは死ね」とか
「いつまで生きているつもりや」
と思っていたりします。
姑さんとしては、
「後から入ってきて、何文句言ってるかい」
「魚も焼けんといて、雑巾の絞り方も知らない。それでも女か」
と思っていたりして、お互い険悪な仲だったとします。
このような場合、自分が姑さんだとすれば、
まず隣の家の姑さんのところに行きます。
そして
「うちの嫁は本当にいい嫁で、
掃除洗濯、何でも私の言うこと、はいはい言ってくれるんですよ」
とお嫁さんのことをほめるのです。
これが、めぐりめぐって必ずお嫁さんの耳に入ります。
そうすると、お嫁さんはいっぺんに好きになります。
「私はそんなこと一回もしてないのに、
お義母さんが、私のことほめてほめてほめまくっている。
お義母さんがほめてくれる半分でもしなかったら申し訳ない」と思います。
ほめれば必ず好かれますので、態度が変わってきます。
だから、この記事を読まれただけで家の中がひっくり返ります。
このように、怨憎会苦に対応する方法は3種類ほどあります。
どれもいい方法なので是非オススメですが、
仏教には、もっといい怨憎会苦の克服法が教えられています。
最大の怨憎会苦とは
このように、物事への捉え方や考え方、意味づけを変えたり、
接し方を変えることによって、苦しみを緩和したり、なくしたりできます。
これらは欲や怒りの心を、上手くコントロールする方法です。
欲や怒りは自分で自分を苦しめる悪い心なので、
できるだけコントロールしたほうが幸せになれる、大変いいことです。
ですが、欲や怒りの心をなくすことはできませんし、
効果も一時的で、長くは続きません。
一方で、仏教ではさらに深く、本当の怨憎会苦の克服法を教えられています。
それは命ある限り、決して避けることのできない
「死」に対する怨憎会苦を克服する方法です。
私たちは必ず死んでいかなければなりません。
どんなに健康に気をつけて毎日生活したり、
アンチエイジングに高額のお金をかけても、
決して避けられないのが死です。
ですが、最も会いたくないのは自分の「死」なのです。
たまに、自分は死は怖くないと言う人がいますが、
それはあまりに怖いために、目を背けているだけです。
フランスの貴族で文学者のラ・ロシュフコーは、こう言っています。
死と太陽は直視することができない
(ラ・ロシュフコー『格言集』)
死があまりにも怖いため、私たちは死を考えないようにして生きていますが、
「死ぬほど苦しい」という言葉があるように、
最も苦しいのが死であり、
最大の怨憎会苦が死ななければならないことなのです。
これは、会わないようにはできませんし、
考え方を変えるとか、接し方を変えることでは克服できません。
ところが仏教では、この死の問題の解決を明らかにされているのです。
それは一体どうすればいいのでしょうか?
怨憎会苦の真の克服法
怨憎会苦は、欲や怒りの煩悩によって引き起こされる苦しみです。
人間に煩悩があり、それをなくすことができない以上、怨憎会苦をなくすことはできません。
ですが、煩悩は苦しみの原因ではありますが、根本原因ではありません。
根本原因は、死ねば生まれ変わり死に変わり、
未来永遠に苦しみ迷いの旅を続けていかねばならないという
輪廻転生の原因になっている心です。
その苦しみ迷いの根本原因さえ絶ち切れば、
煩悩はあるがままで、煩悩即菩提の身になれると仏教では教えられています。
煩悩即菩提というのは、私たちを煩わせ、悩ませる、
欲や怒りの煩悩がそのまま喜びのたねになる、ということです。
この煩悩即菩提の身になれば、怨憎会苦の苦しみはそのまま、
人間に生まれてよかったという変わらない幸せになれるのです。
それこそが、仏教に教えられる、怨憎会苦の真の克服法なのです。
怨憎会苦の苦しみあるがまま幸せになるには?
今回は「怨憎会苦」の意味と、その克服法について解説しました。
怨憎会苦とは、会いたくない人や物と会わなければならない苦しみです。
私たちの人生には、多くの怨憎会苦があふれています。
これらの理由によって生じる怨憎会苦の克服法は、
嫌いな人や物事に会わないようにしたり、
嫌いな人や物事の捉え方を変えたり、
嫌いな人との接し方を変えたりすることで、
緩和したり、なくすことができます。
ですが、それは一時的なことで、また次の怨憎会苦が起きてきますし、
最後は最も会いたくない死に直面しなければなりません。
そこで仏教では、さらに深く、
未来永遠苦しまなければならない根本原因を絶ち切ることによって
怨憎会苦の苦しみあるがままで、変わらない幸せになれると教えられています。
これを煩悩即菩提といいます。
では、その苦悩の根元とは何なのか、どうすれば断ち切れるのかについては、
仏教の真髄ですので、以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
ぜひ見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)