生苦とは?
「生苦」とは、ファイナルファンタジー14でも
「生苦の炎」という攻撃が出てくるので、
見たことがある人もいると思います。
「生苦」は、仏教では「しょうく」と読みます。
お釈迦様が、人生で避けることのできない8つの苦しみの
最初に挙げられているのが「生苦」です。
それは、仏教の目的である苦しみの解決へ導くために
まず教えられていることでもあります。
「生苦」とは一体どんな苦しみなのでしょうか?
「生苦」も含めた、四苦八苦の苦しみというのは、
大きさの程度の差はあっても、誰もが経験しているものばかりです。
ですが、言葉を聞いただけで自分の体験と結びつけるのは、
なかなか難しいこと。
そして、その苦しみということが分からなければ、その状態を抜けたいと思わないので、
本当の意味で幸せになることはできません。
そこで今回は、具体例を挙げながら、分かりやすく解説していきます。
生苦の意味
生苦というと、間違いようがないように見えますが、
実は結構誤解されています。
生苦とは生まれる苦しみ?
例えば「生苦」について辞典を見てみると、このような意味が出てきます。
仏語。
四苦あるいは八苦の一つ。
衆生の生まれるときの苦しみ。(引用:小学館『スーパーニッポニカ 国語辞典』)
このように国語辞典には、「生まれるときの苦しみ」と書かれています。
また、学者の中にも、「生きる苦しみではなくて生まれる苦しみ」という人がいますが、
それは原実の「生苦」(1977年)という論文を根拠にしているのかもしれません。
ですが、この論文は、インドの文献を調べて、
ヒンドゥー教等で生苦をどう言われているかを述べたもので、
論文の最後のほうには、仏教については分からないので専門家に任せたいと書いてあります。
仏教で生苦とは
では仏教では、生苦についてどう説かれているかといいますと、
確かに生まれる苦しみも説かれていますが、
生きる苦しみも説かれています。
国語辞典では分からないかもしれませんが、
仏教での「生苦」の本来の意味は、生まれる苦しみでもあり、生きる苦しみでもある、
ということです。
例えばお経には、生苦の「生」について、こう説かれています。
生とは出相、所謂五種なり。
一つには初出、二つには至終、三つには增長、四つには出胎、五つには種類生なり。
(漢文:生者出相 所謂五種 一者初出 二者至終 三者増長 四者出胎 五者種類生)(引用:『大般涅槃経』)
(生苦の)「生」とは、出るすがたである、よく言われる5つである。
1つには人間界に生を結んだ瞬間、受胎のこと。
2つには心と体が分かれること。
3つには成長して六根ができること。
4つには出産。
5つには、出産から死ぬまでの様々なことである。
このように仏教では、生まれたことも説かれていますが、
その後の胎内で成長することも、出産の後のことも説かれています。
阿含経などのお経の教えを総合して説一切有部という部派で書かれた
『大毘婆沙論』には、このようにあります。
生はこれ一切の苦の安足処なり、苦の良田なるが故に生苦と名づく。
(漢文:生是一切苦安足処 苦之良田故名生苦)(引用:『大毘婆沙論』)
「安足処」というのは足を置く処で、拠り所ということです。
ですからこれは、「生」はすべての苦しみが生ずる拠り所である。
苦しみの生ずる良い田んぼだから、生苦という、ということです。
この「生」は、安足処と、場所にたとえられているので、
生まれるというより、生きていることです。
仏教で「生苦」とは、私たちが生まれてから、生きている間、受ける苦しみを生苦というのだ、ということです。
このように、「生苦」は、生まれる苦しみだけでなく、生きる苦しみも説かれていることは明らかです。
それというのも、仏教の目的は、苦しみの解決ですが、
そこへ導くために、まず四苦八苦を説かれ、
「人生は苦なり」ということを教えられているからです。
ちなみに四苦八苦についての詳細は、こちらの記事をご覧ください。
➾四苦八苦の意味とは?苦難を乗り越える方法を解説
「生まれる」というのは、人生で1回だけで苦しかったかどうか誰も覚えていません。
人生の苦しみが分からないと、苦しみを解決しようという気持ちにならないので、
「生苦」が生まれた時の苦しみだけで終わってしまっては、
仏教の目的に照らしてあまり意味がないのです。
仏教の目的からすれば、「生苦」で重要なのは「生きる苦しみ」です。
苦の解決へ導くために、生きるのは大変なことで、
その苦しみとして生苦を教えられているわけです。
生きるのが苦しくなる理由
なぜ、生きることは苦しいのでしょうか。
それは、生きるのは、ただではないからです。
生きるために衣食住が必要です。
子供なら親に育ててもらっているので、
ただで生きられて楽だと思うかもしれませんが、
大人は自分で、着る物、食べ物、住む家をそろえなければなりません。
毎日三食、食費が必要です。
住む場所も、家賃やローンで毎月たくさんのお金が出ていきます。
着る物も消耗品なので、古くなって次の服が必要になります。
それに加えて、住民税や所得税、消費税に社会保険料と、
たくさんの税金も支払わなければなりません。
何もしなくても、ただ単に生きているだけで、
毎月たくさんのお金が生活費として消えていきます。
そのお金を支払うためには、働かなければなりません。
毎日毎日、1日の大部分の時間を汗水垂らして働きます。
日本の会社は、規則が多くて給料が安いといわれているので、大変です。
外資系は給料はいいかもしれませんが、
結果が求められてストレスが凄いといわれます。
「働くのは何のため?」
お金のため。
「お金はなぜ必要なの?」
食べるため。
「食べるのは何のため?」
生きるため。
そして生きるのは働くためだとすれば、
ただ生きるだけで一苦労です。
生きるのは苦しいことなのです。
人生の色々な苦しみの具体例
「生きる苦しみ」というと抽象的ですが、
生きることが、どういう感じで苦しみの良い田んぼなのか、
具体的に考えてみれば、よく分かります。
私たちの人生は、どのライフステージも大変で、
その上に色々な想定外の出来事やトラブルが起きてくることがよくあります。
自分の身に起きたことが、すべて想定の範囲内だったという人は
ほとんどないと思います。
ですので、1つの問題を解決しても、また次の問題が起きて、の繰り返し。
苦しみ悩みが次々とやって来ます。
学校では
学生時代であれば、定期的にテストがあったり、課題の提出があったり、
同じクラスの人と仲良くやっていかないと、仲間外れにされたりして
大変な思いをすることにもなります。
苦手な科目があったとしても、授業に出ないといけないですし、
勉強しなければならないということもあります。
進学のタイミングで、
「上位校を目指したい」とか「あの人と同じ学校へ行きたい」となれば、
試験を突破する必要があるので、そのための受験勉強も必要になってきます。
目標が大きければ大きいほど、友達と遊ぶ時間や自分の好きなことをする時間を削って
勉強時間にあてるという人も多くあります。
それだけ勉強して、希望の学校に入ることができればいいのですが、
それぞれ定員があるので、必ず不合格になる人が出てしまいます。
入学した学校で、それなりに学校生活を楽しめたとしても、
何かをしようとすれば、お金がないとか、時間がないとか、
色々な制約を受けることにもなりかねません。
そういう学生時代を経て、社会人になる時には、
今後の生き方や方向性を決めることになり、
また悩みが出てきます。
思い悩んだ末に決めた進路でも、
就職活動が上手くいかないとか、希望の進路に進むことができなければ、
特にやりたいわけでもない仕事に就くということもあるかもしれません。
就職すると
会社に入れば、最初は研修があったり、覚えることが沢山あります。
自分の仕事のやり方を覚えるのはもちろんのこと、
同じ部署の人の顔と名前を覚えたり、
仕事の分野ごとに詳しい人を知っておくとか。
学生時代と違って、周りはほとんど先輩や上司なので、
分からないことが多い時は特に、気疲れも相当あります。
ですので、中には3カ月くらいでうつになったり、辞めてしまう人もあります。
新入社員のうちは比較的優しいのですが、
やがてだんだん理不尽なことが起きてきます。
サラリーマン川柳にはこんな歌もあります。
「あれやって」言われてやると「なぜやった」
「お前がやれって言ったんじゃないか」
とは言えません。
「申し訳ございません」
と平謝りです。
大変なストレスです。
結婚問題
そんなこんなで仕事にも慣れてくると、
今度は、結婚が問題になってきます。
会社の同期や地元の同級生が続々と結婚して、
家族や周りから、「結婚しないの?」と言われるようになったり、
お見合いの話がきたりします。
結婚相手の理想像みたいなものがあっても、なかなかそういう人と出会うことはなく、
もし運よく知り合っても、その人と結婚まで進むかどうか分かりません。
自分の好きな人と結婚して、幸せに浸っていても、
一緒に暮らすようになると、今まで見えていなかった
相手の嫌な部分が顔を出すこともあります。
サラリーマン川柳には
「恋仇 譲れば良かった 今の妻」
という歌もあります。
そういうことがなくても、結婚してしばらく経つと、
「子供はまだ?」と言われ、
子供が生まれて、またしばらく経つと、今度は
「2人目はまだ?」と言われたりします。
子育て
子供が成長して学校に入るような時期になると、
どこの学校に入れるのか、習い事はどうするかを考えなければなりません。
子供が学校に入学した後も、校庭で遊んでいる時にケガをしたとか、
クラスメイトを叩いたとか、学校で席に座っていられないというようなことがあれば、
学校に呼び出されます。
どんなに仕事で忙しくても、対応しなければなりません。
そうして一生懸命育てたかわいい子供も、
だんだん成長するにつれて、言うことを聞かなくなります。
サラリーマン川柳にはこんなのがあります。
「パパがいい!」 それがいつしか 「パパはいい」
何事も諸行無常です。
昔はかわいいことを言っていたのが、
寂しいことを言うようになります。
そういう子供のことでも心配事が尽きない一方で、
自分自身も、健康診断で「要精検」となったりして、
体に不具合が起きることもあります。
病気になれば、体がだるかったり、痛かったり、色々な苦しみがやってきます。
このように、人生のいつのタイミングでも、
悩みや苦しみは尽きることなく、次々とやってきます。
まことに「生」は、苦しみの良い田んぼです。
生きるのは大変苦しいことなのです。
楽しそうにやっている人は苦しんでいない?
ですが、活躍している人や、楽しそうにやっている人を見て、
「あの人には、生きる苦しみなんかなさそうだ」
と思う人もいます。
本当に楽しそうな人には、生苦はないのでしょうか?
実際、色々な有名な人たちが、人生は苦しいと言っています。
日本の有名人の証言
例えば文豪といわれ、お札にまでなった夏目漱石は
こう言っています。
人間は、生きて苦しむための動物かもしれない。
(夏目漱石)
これは奧さんにあてた葉書に書いてあったことですから、
かなり本心である可能性が高いです。
自由奔放な生き方をしたといわれている林芙美子は、こう言います。
花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき
(林芙美子)
どんなに自由に生きても、人生は短く、苦しいことばかりだった、
ということです。
天才といわれるほど才能に恵まれた芥川龍之介は、こう言います。
人生は地獄よりも地獄的である。
(引用:芥川龍之介『侏儒の言葉』)
地獄というのは苦しみの世界ですが、
苦しみの世界よりももっと苦しいのが生きることだ、ということです。
現在は、芥川賞を受賞するとみんな喜びますが、
その賞の元になるほど才能に恵まれていても、生苦は免れません。
ヨーロッパの有名人の証言
海外でもそうです。
18世紀のフランスは、暗黒時代から理性の光によって啓蒙し、
いよいよ近代化に拍車がかかっていく時代でしたが、
啓蒙主義の哲学者ヴォルテールはこう言います。
幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である。
(ヴォルテール)
幻というのは、あるように見えて、実際にはないものです。
幸せは、あるように見えて実際にはなく、現実に存在するのは苦痛だけだ、
ということです。
19世紀のドイツの哲学者ニーチェは、こう言っています。
人間は、人生に見入ること深きほど、苦悩にも深く見入る。
(ニーチェ)
ということは、人生を浅く見ている人は、そんなに苦しみも感じないかもしれませんが、
人生を深く見ると、苦しみも深くなる、ということです。
20世紀のイギリスの劇作家、サマセット・モームは、
自伝的小説『人間の絆』の中でこう言っています。
人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。
(サマセット・モーム)
世界的に有名な作家でも、人生は苦しんで死ぬだけのようです。
政治家の証言
政治家でもそうです。
日本で人質からスタートして天下統一を果たし、
最高権力者となった徳川家康でも、
遺訓にこう言っています。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
(徳川家康)
「人の一生は」というのは、すべての人のことのようですが、
実は家康自身のことを言っています。
「重荷」というのは苦しみのことです。
家康は、重荷を下ろして、苦しみから解放されたかったのですが、
それが死ぬまでできなかったと言っています。
天下をとって、征夷大将軍という最高権力者となり、
徳川幕府250年の基礎を気づいて歴史に名を残しても、
苦しみはなくなりません。
しかもその上、果てしなく歩き続けなければならなかったと言っています。
死ぬまで苦しみ続けだったということです。
これはどういうことなのでしょうか?
その秘密は、天下の副将軍であらせられる黄門様が教えてくれています。
水戸黄門も天下の副将軍ですから、
確かに「人生楽ありゃ苦もあるさ」と歌っていましたが、
日本中どこへ行っても「この印籠が目に入らぬか」とさえ言えば
全員平伏してしまいます。
「いいなあ、あんな印籠が欲しいなあ」と思います。
ところが、水戸光圀は、こんな歌を詠んでいます。
ただ見れば 何の苦もなき 水鳥の
足にひまなき わが思いかな
(徳川光圀)
副将軍といえば、周りの人はみんな言うことを聞いて、
何の苦しみもないのだろうと思うかもしれないが、
水辺をスイスイ泳ぐ水鳥が、
水面下ではもの凄い勢いで足をバタバタさせて泳いでいるように、
みんなの見ていないところでは大変なんだ、ワシは。
ということです。
他人の前では楽しそうに振る舞っている人でも、
生苦のない人なんていないのです。
人生は結構楽しい?
ですが中には、
「『生きる苦しみ』とか言われても、自分は結構楽しくやっているので、
そういう苦しみをあまり感じたことがない」
という人がいます。
「人生とは、少しでも多く自分の楽しみを見つけて、幸せをつかむところだ」とか、
「人生には生きがいなどの楽しみも多くある」
という人もあるかもしれません。
逆立ちした考え(顛倒の妄念)
仏教では、「人生楽しい」という考えは、「顛倒の妄念」と言われています。
「顛倒」とは逆立ちしていること、ひっくり返っていることで、
「妄念」とは迷った考えのことですから、
「顛倒の妄念」は、逆立ちした迷った考えということです。
「楽」というのは顛倒の妄念で、その実態は「苦」なのです。
倶舎論の根拠
なぜ楽があると思うのが迷いなのかというと、
『倶舎論』にはこう教えられています。
重苦を対治する因の中に於て、愚夫は妄に計す、「これよく楽を生ず」と。
実に決定してよく楽を生ずる因なし。
苦の易脱する中に愚夫は楽と謂う、
重担を荷うてしばらく肩を易うる等の如し。
故に受は唯苦なり。
定んで実の楽なし。
(漢文:於対治重苦因中 愚夫妄計此能生楽 実無決定能生楽因 苦易脱中愚夫謂楽 如荷重担暫易肩等 故受唯苦 定無実楽)(引用:天親菩薩『倶舎論』)
これは、お腹が空いたとか、喉が渇いたとか、寒いとか、疲れたとか、欲しいとか、
苦しみを軽減する時に、愚かな人は、「ああ楽しい」と思い込む。
実際には全く楽を生じるものはない。
右肩の重荷を左肩に掛けかえる的な、
苦しみが変わっていく時に楽だと言っているだけである。
だから、実際には苦しみだけで、本当の楽しみはないのだ、ということです。
分かりやすい解説
私たちはお腹が減って、もうすぐ餓死するくらいになると、
何でも美味しく感じます。
飢餓状態で、何でもいいから食べたい、という時に
ごちそうにありつくと、飛びついて食べ始めます。
そして、空っぽの胃がだんだん食べ物によって満たされていきます。
その時に「こりゃうんめぇ、幸せだなー」という気持ちになるわけです。
それは空っぽの胃が、だんだん食べた物によって満たされていく過程です。
飢餓の苦しみ100だったのが、80くらいになる時が一番幸せを感じますが、
実はそれはどちらにしろ、飢餓100とか飢餓80の苦しみの状態なのです。
もしお腹が全く空いていない飢餓の苦しみ0の時に、
もっと食べろと言われても、食べられません。
無理矢理食べさせられると、食べ物で胃袋が一杯になって、
それが食道まで出てきて、美味しいどころか気持ち悪くて苦しみになります。
ということは、ごちそうは、元来幸せのもとではないのです。
自分が飢餓に苦しんでいる時、それが軽減されることで幸せと感じるだけです。
それは本当の幸せではありません。
苦しみがなくなると、今度はごちそうが苦しみのもとになるのです。
他にも分かりやすい例でいえば、背中がかゆい時、背中はなかなかかけないので、
もの凄くむずがゆくなります。
ようやく孫の手をとってきて、背中をかくと、とても気持ちよく感じます。
それは、かゆくて苦しいからです。
その苦しさが、かいているうちに、だんだんと減っていきます。
そのプロセスが気持ちよく感じるのですが、かゆくなくなってからは痛くなってきます。
それでもボリボリかいていると、皮膚が破れて痛くなります。
楽しいと思ったものが、1分もしないうちに、すぐに苦しみに変わってしまうのです。
楽しみと思っているのは「顛倒の妄念」で、本当は苦しみなのです。
これを「楽しみとは、楽しみという形をとって現れた苦しみである」
と教えられています。
生苦の原因
このような、生まれ、生きる苦しみである生苦の原因は、一体何なのでしょうか。
仏教では、それは煩悩だと教えられています。
『中阿含経』には、こう説かれています。
いかんが苦の習の如真を知るや。
いわくこの愛、当来の有と楽欲を受け、共に倶に彼々の有を求む。
これを苦の習の如真を知ると謂う。
(漢文:云何知苦習如真 謂此愛受当来有楽欲 共倶求彼彼有 是謂知苦習如真)(引用:『中阿含経』)
「苦の習」というのが苦しみの原因ということです。
「苦集」といわれることもあります。
ですから、「いかんが苦の習の如真を知るや」とは、
どのように苦しみの原因の真理を知るのでしょうか、ということです。
次の「愛」とは執着のことで、煩悩の1つです。
「この愛、当来の有と楽欲を受け、共に倶に彼々の有を求む」とは、
執着心が、自分の未来の存在と欲望を受けて、
その身と欲望のために、色々な苦しみの存在を求める。
このように苦しみの原因の真理だと知りなさい、ということです。
つまり、苦しみの原因は煩悩です。
このように仏教では、苦しみの原因を煩悩だと教えられていますが、
煩悩には他にも、
これが欲しい、あれを手に入れたいと思う欲の心、
イライラしたり、腹を立てたりする怒りの心、
誰かに嫉妬したり、恨んだりする愚痴の心など、
全部で108あります。
煩悩について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
➾煩悩とは?意味や種類、消す方法を分かりやすく網羅的に解説
このような欲や怒り、愚痴の煩悩によって、
私たちは苦しみから逃れられないと仏教では教えられています。
ですから、生苦の原因ももちろん煩悩です。
原因をなくせば結果もなくなりますから、
煩悩をなくすことができれば、生苦もなくなります。
では、煩悩をなくすことはできるのでしょうか。
生苦をなくすことはできる?
生苦をなくすためには、苦しみの原因である煩悩をなくさなければなりません。
仏教の目的は、苦しみの解決ですので、煩悩をなくすために、
八正道や六波羅蜜をはじめ、様々な修行が教えられています。
ですが、煩悩をなくすには、出家して、戒律を守り、
大変厳しい修行をしなければなりません。
出家は必須ですので、現代人には、スタート地点にも立てない人が多いのではないでしょうか。
そして、出家して修行をしたからといって、
必ず煩悩をなくして悟りを開けるわけではありません。
それというのも、仏教で、人間は煩悩具足だと教えられています。
具足というのは、それでできているということです。
雪だるまであれば、雪をとったら何もなくなってしまうように、
人間から煩悩をとったら何も残りません。
心は100%煩悩だということです。
ですから煩悩は、死ぬまでなくすことはできません。
生苦の原因である煩悩をなくせないということは、
生苦はどうにもならないのでしょうか。
生苦を超えた真の幸せの世界
もし煩悩がなくせないのであれば、煩悩を喜びに転じるしかありません。
これを「煩悩即菩提」といいます。
また、悪が転じて善となるということで、「転悪成善」ともいわれます。
仏教では、煩悩は変わらないけれども、煩悩がそのまま喜びになる、
想像も及ばない究極の幸せの世界が教えられています。
生苦とは、生まれ、生きる苦しみということで、
いつの時代、どこの国の人でも、人間に生まれたからには絶対に避けることのできない苦しみです。
その原因は煩悩ですが、人間は煩悩でできているので、
煩悩をなくすことはできません。
ですが、煩悩をそのまま喜びに転じ、
生苦があるままで、生苦が苦しみとならない不思議な幸せの世界がある
と仏教で教えられています。
では、そんな煩悩即菩提の状態になるには、どうすればよいのでしょうか。
それは、煩悩は確かに苦しみの原因ですが、
さらにもっと深い、苦しみの根本原因があります。
その苦しみの根本原因をなくせば、煩悩あるがままで
煩悩即菩提の幸せの世界へ出られるのです。
その苦しみの根元は、煩悩とは別の心です。
それを生きている時になくすことができます。
その真の幸せに導くことが、お釈迦様が生苦を説かれた目的なのです。
では、その苦しみの根元とは何か、どうすれば断ち切ることができるのか、
ということについては、仏教の真髄ですので、
以下のメール講座と電子書籍にまとめました。
ぜひ一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)