死の恐怖(タナトフォビア)のなくし方
死が居ても立ってもいられないくらい怖いことを
「死恐怖症」とか、「タナトフォビア」といわれることがあります。
死の恐怖は、よい兆候の可能性もありますが、
克服方法を間違えると、よけい恐ろしい目にあいますので、
慎重な対応が必要となります。
この記事では、
・死恐怖症(タナトフォビア)とは何か
・よくあるタナトフォビアを悪化させる対処法
・死の恐怖の本質
・死の恐怖を本当になくす方法
について分かりやすく解説して行きます。
死恐怖症(タナトフォビア)とは?
タナトフォビアは、1950年代に、フロイトが、
死の恐怖を訴える人々を表す言葉として造った言葉です。
「タナトフォビア」の
「タナト」は、ギリシア語で死を意味する「タナトス」から来た言葉で、
「フォビア」は恐怖症ですから、
「タナトフォビア」とは、「死恐怖症」ということです。
誰しも、小さい頃に、人は必ず死んで行くと知って、
死が怖くなったことがあると思います。
夜寝るときに
「このまま死んで目が覚めないかもしれない。
死んだらどうなるんだろう」と怖くなったり、
お父さんやお母さんに、「死んだらどうなるの?」と聞いたり
した人もあるのではないでしょうか?
そのように、「自分が死ぬこと」が、居ても立ってもいられないくらい
怖くなることがあります。
そんなとき、タナトフォビアとか死恐怖症と言われて治療を受けたり、
自分で克服しようとします。
ところが、世間で言われることは、ほとんど間違った方法ばかりで、
まったく治らないばかりか、何の解決にもならず、
余計にひどい目に会うことも多いですので、
注意が必要です。
悪化させるおそれのある克服法
タナトフォビアの克服法でよく言われるのは、
「曝露療法」です。
これは恐怖症全般に使われるもので、
恐怖を抱いている対象にあえてさらすことによって、
慣れさせるというものです。
例えば高所恐怖症ならあえて高い所に行き、
閉所恐怖症なら、あえて狭い所へ行って、慣れるようにします。
しかし、タナトフォビアに限っては、
死を恐れているときに、
死に近づいて慣れるということはできるのでしょうか?
死に近づくといっても、それは結局、他人の死です。
他人の死と自分の死はまったく違います。
死は誰にとっても100%確実な未来ですから、
必ず自分の死に直面します。
自分が死が怖くないのでしょうか?
そんなはずはありません。
曝露療法では、一時の気休めであって、
何の解決にもなっていないので、
自分の死が気になってくればすぐに再発しますし、
遅くとも自分の臨終を迎えたときには、
最も深刻な死の恐怖がやってきます。
タナトフォビアの克服方法として出てくる薬やその他の方法も、
曝露療法と同じように、結局気休めであって、根本的な克服にはなりません。
逆に、目隠しして真っ暗な中を走り続けるようなもので、
余計ひどい目にあいます。
臨終に後悔することのないよう、
この死の恐怖を本当になくすためには、
死の恐怖の本質について知らなければなりません。
死の恐怖の本質
死が恐いといっても色々あります。
死ぬ瞬間、痛そうだとか、
死んだら二度と愛する人たちと会えないとか、
まだやり残したことがあるなどです。
しかし、これらの恐怖は、
ない人もありますし、なくせるものもあります。
例えば、身寄りがない人や、
やり残したことがない人もあります。
また、死ぬときの痛みは、
薬物などによってまったく感じずに眠るように
死ぬこともできます。
まったく痛くなくても、
死ぬとなると、怖いのではないでしょうか?
ギロチン伯爵の慈悲
死刑に使うギロチン(断頭台)も、もとはといえば、
死ぬときの苦しみを和らげるために開発された道具でした。
当時、フランスでは、死刑執行人が首を斬っており、
一度で切れないと、何度も斬りつけるため、
死刑を受ける人は大変苦しむことになります。
それをかわいそうに思った慈悲深いギロチン伯爵という人が、
100%一瞬で死ねるように、ギロチンという道具を開発したのです。
ではあなたも、麻酔をかけてギロチンで即死するなら、
死は怖くないでしょうか?
それでもみんな怖がるのですが、
それはなぜかというと、
死んだらどうなるか分からないからです。
特に、死んだら無になると思っている人が
「死んで無になったらどうなるのだろう?」と思って、
もっとも死の恐怖を感じる傾向にあります。
この死んだらどうなるか分からないことが、
死の恐怖の本質なのです。
死の恐怖を本当になくす方法
死の恐怖の本質が、
死んだらどうなるか分からないことですから、
死んだらどうなるかハッキリすれば、
死の恐怖はなくなります。
ここで、死んだらどうなるかハッキリするといっても、
死生観を持つとか、
死んだら天国に行けると信じるとか、
死んだら極楽に往けると信じるとか、
はたまた死んだら千の風になると信じるとか、
来世はまた人間に生まれて魂の修行を続けると信じるとか、
根拠もないことを信じ込むのではありません。
よくタナトフォビアの治療に宗教が有効といわれますが、
それは効果があったとすれば、やはり曝露療法と同じように、
一時の気休めに過ぎませんから
何の解決にもなりません。
その点、ノーベル賞を受賞した哲学者のバートランド・ラッセルは鋭く観察しています。
死が、より善き生活の入口であるという信念は、論理的にいうなら、死の恐怖を感じなくするものである。
医者商売にとって有難いことには、この信念は、事実ごく小数の珍しい場合を除いて、死の恐怖をなくす効能を誰も認めるものはない。
(バートランド・ラッセル「克己心と健全な精神」『怠惰への讃歌』所蔵)
大変シニカルな表現で、信念くらいでは死の恐怖は克服できないと指摘しています。
信念ではなく、死んだらどうなるか、本当にハッキリしなければ、
死の恐怖はなくなりませんから、心からの安心も満足もありません。
それが、仏教の教えによれば、
あっという間に死んだらどうなるかハッキリしますから、
根本的に変わります。
死んだらどうなるかが、今ハッキリします。
それはだんだんハッキリしてくるとか、
死んだら極楽と信じ込むのではなく、
一瞬で水際だって、死の恐怖がなくなりますから、
仏教の教えによって死んだらどうなるかハッキリした人は、
「死の恐れなし」といわれます。
そして、人間に生まれてきたのは、これ一つの為であったという
生命の歓喜が起きて、それは死ぬまでなくなりません。
これを絶対の幸福といいます。
ではどうすれば、絶対の幸福になれるのかといいますと、
それには苦悩の根元を知り、それをなくさなければなりません。
苦悩の根元については、電子書籍とメール講座に詳しくまとめてあります。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)