カルマ(業)とは?
「カルマ」とは何でしょうか?
「カルマ」というと、よくスピリチュアルや占いの世界でも聞く言葉です。
何か自分を縛っている目に見えない運命の力のように思いますが、
一体どんなものなのでしょうか。
カルマの意味を分かりやすく解説します。
カルマ(業)とは
カルマ(業)の意味について、参考に仏教辞典を見てみましょう。
業
ごう[s:karman, p:kamma]
原語の基本的意味は,<なすこと><なすもの><なす力>などで,<作用><行為><行為対象><祭祀>などを表す語としてインド思想一般で広く用いられた。
なお、漢語の<業>は仕事・事業などの意。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
ここで注意が必要なのは、カルマのインド一般の意味では「祭祀」という意味が入っていることです。
一体どういうことなのか、少し難しい言葉遣いで書かれていますので、もっと詳しく分かりやすく解説します。
インドで言われていたカルマ
カルマというのは、インドの昔の言葉であるサンスクリット語で、
「為す」とか「造る」を意味する動詞語根「√kṛ」から派生した言葉です。
為すものとか、為す力という意味で、作用とか行為とか祭祀という意味で使われる重要な言葉です。
お釈迦様は、私たちの運命は、カルマによって生み出されると教えられています。
これは、自分の行為によって自分の運命が作られるということです。
これはお釈迦様が仏のさとりを開かれて、仏智によって体得され、初めて明らかにされたことです。
お釈迦様は、2600年前の方ですが、それと大体同じくらいの時代、紀元前500年頃を中心に成立したといわれる、『ウパニシャッド』といわれる文献があります。
これは、インド哲学で重視される『ヴェーダ』の一部で、奥義書という意味です。
その中で、カルマはだんだん輪廻と結びついて論じられるようになります。
『ウパニシャッド』の一つ、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』にこんなエピソードが伝えられています。
カルマ(業)と輪廻の結びつき
ある議論好きな王様の前で、一番すぐれたバラモンを決める公式の討論大会が開かれました。
その時、ヤージュニャヴァルキヤという人が賞品を全部持って帰ろうとするので、他のバラモン達が、次々と質問をします。
ところが全部答えられてしまい、みんな破れてしまいます。
その中の一人、ジャーラットカーラヴァ・アールタバーガが、「人は死んだらどうなるのか」と尋ねました。
すると、ヤージュニャヴァルキヤは、それは人前で論ずべきではないと言って、二人きりになって語りました。
そこで語られたことが、カルマでした。
そして、人は善いカルマによって善くなり、悪いカルマによって悪くなると言っています。
「きみ、わたしの手をとりたまえ、アールタバーガ殿。
われわれふたりだけでこのことを論じよう。
これをわれわれは人なかで論ずべきではない」
彼等はふたりはその場を去って、論じあった。
彼らが語ったことは、──まさしく「業」について彼等は語ったのであった。
実に、善行によって人は善くなり、悪行によって悪くなるのである。(引用:『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』(3.2.13)
出典『世界の名著Ⅰ』服部正明訳)
これでは人が死んだらどうなるかはあまりよく分かりませんが、
仏教では「人は死んだらどうなるかのか」について、
もっと具体的に非常に深く教えられています。
それについてご関心がある場合は、こちらの記事をご覧ください。
➾あなたは死んだらどうなるのか?来世診断チェック
なぜ業で輪廻するのが奥義?
さて『ウパニシャッド』の哲学といっても、当時の最もすぐれた思想家が、
善いカルマで善くなり、悪いカルマで悪くなるというだけです。
それも、公式の場では言えないような内容です。
それというのも、当時、バラモン教では、人は生まれによって決まるとされていました。
それで現代に続く、四姓制度という厳しい階級制度があります。
ですがひょっとしたらヤージュニャヴァルキヤも、
「人間というのは生まれじゃなくて、行いで変わるんじゃね?」
とうすうす感づいていたのかもしれません。
ですが心ではそう思っていても、当時は人前で言うことがはばかられる内容です。
このヤージュニャヴァルキヤの思想は、当時、ほとんどの人の知るところではなかったでしょう。
ところがそれからは、だんだんカルマが輪廻と結びついて考えられるようになってきます。
お釈迦様は取り入れられた?
カルマと輪廻の関係について、
たまに、もともとインドで言われていたことをお釈迦様が取り入れられたと言う人がありますが、そうではありません。
まずお釈迦様は、当時の考え方である生まれによって人間が決まるという身分差別を否定されています。
出生を尋ねてはなりません。
しかして、行ない〔こそ〕を尋ねなさい。(引用:『スッタニパータ』462)
このように、生まれではなく、行いを問題にするようにいわれています。
さらに行いといっても、人間の運命は、祭祀ではなく、自分の行為によってのみ決まる、
とお釈迦様は教えられています。
当時の考え方と全然違います。
では、お釈迦様は一体どんなことが教えられているのでしょうか?
カルマ(業)の意味を分かりやすく解説
まずカルマは、中国の言葉に翻訳されて「
業」と言われます。
意味は、行為のことです。
業といったらカルマのことです。
ですが、業にはもはや祭祀という意味はありません。
行為だけです。
仏教の辞典にもこのように出ています。
造作の意。行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する。
(引用:『仏教学辞典』)
私たちの運命はすべて、
自分の業(カルマ)が原因となって、
因果の道理にしたがって生みだしている、
とお釈迦様は教えられています。
善い行いは善い運命を生み出し、
悪い行いは悪い運命を生み出します。
ひとたび業を造ってしまうと、
そこから生み出される運命は避けることはできません。
まいたタネは必ず生えるということです。
これをお釈迦様は『ダンマパダ』にこう説かれています。
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。(引用:『ダンマパダ』165)
善い行いも悪い行いも、寸分の狂いもなく
強烈な力で因果応報の報いを引き起こす、
ということです。
因果応報の内容は、下記をご覧ください。
➾因果応報とは?意味を分かりやすく恋愛の実話を通して解説
カルマ(業)に3通り
行為というと、普通は「身体で何かすること」だと思いますが、
仏教では、「口でしゃべること」や「心で何か思うこと」も、
業といわれます。
このような、
身体でやったことを「身業」といい、
口でしゃべったことを、「口業」といい、
心で思ったことを「意業」といわれ、
これらを「身口意の三業」といわれます。
- 身業
- 口業
- 意業
仏教ではこのように、
行いを心と口と身体の3方面から見られます。
そして、世間では、心でよからぬことを思っても、
口や身体に出さなければとりあえずセーフと思っていますが、
仏教ではアウトです。
心と口と身体のどれが一番重要?
お釈迦様は、心と口と身体の3つのうちで、どれが一番重いかということについて、このように教えられています。
三つの業のうちで悪業の実行と悪業の生起のためにこころの業が重いとわたしは教えます。
身の業ではありません。
ことばの業ではありません。(引用:『中部経典』優波離経)
このようにお釈迦様は、口や身体よりも、心のカルマが最も重いと教えられています。
それはなぜかというと、心が口や身体を動かす元だからです。
『増支部経典』には、このように教えられています。
私が業と呼ぶのは意志である。
人は意志があって、身体、口、心によって行為する。(引用:『増支部経典』)
仏教で決定的に重要なのは、心なのです。
仏教と同じ時代にあった、ジャイナ教という宗教では、
心や口よりも、身体の行いを最も重視しています。
その身体の行いが最も重要だと信じるジャイナ教の人に対してお釈迦様は、
病気にかかりお湯ばかり飲んで重態になった病人が、それでも水を飲まずに死んだ場合、
一番重いのは心ではないか、という具体例で教えられています。
それというのも、口や身体が動くのは、心が命じたからですから、
口や身体が悪いことを言ったやったりするのは、
心に責任があります。
悪い事をした場合の主犯は、心になります。
この例では、病気の人が死んでしまった原因は、口や身体ではなく、心にあるのです。
それで仏教では、口や身体よりも、
心で何を思っているかを最も重く見られます。
そのことを分かりやすくこのように歌われます。
殺るよりも 劣らぬものは 思う罪
「殺る」とは体で殺すことです。
ところがそれよりも恐ろしいのが、心で殺す思う罪です。
このように仏教では、身体で殺すのも恐ろしい罪ですが、
心で思うのは、最も恐ろしいと教えられています。
カルマ(業)が運命を生み出すしくみ
この心と口と身体の三つで造られた行いは、
目には見えませんが業力という力のようなものになって、
決して消えることなく蓄えられます。
これを「業力不滅」といいます。
お釈迦様このように教えられています。
人がもしも善または悪の行いをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。
実に業は滅びないからである。(引用:『ウダーナヴァルガ』9-8)
『ウダーナヴァルガ』は日本語では『感興のことば』というタイトルで翻訳されています。
「業は滅びない」ということは、行いは決して消えることがない、ということです。
また、『スッタニパータ』(経集)にもこのように教えられています。
行為(業)はまさに滅することがない。
それは必ず至り行き、行為の主がまさしくその報いを得る。(引用:『スッタニパータ』666)
一度なした行いは、決して消えることはないのです。
その不滅の業力が、私たちが生まれる前、果てしない遠い過去から
死んだ後、永遠の未来に向かって流れて行る藏のような心に蓄えられます。
「私」というと、自分の肉体だと思っていますが、
肉体は河の水面に浮かぶあぶくのようなもので、
あぶくが生まれたり消えたりしている間も、
とうとうと流れる大河のような永遠の生命があります。
この永遠の生命が、「阿頼耶識」といわれる藏のような心です。
この阿頼耶識は、心理学でいう深層心理や無意識よりはるかに深いもので、
私たちの本心です。
阿頼耶識については、以下の記事にもっと詳しく解説してあります。
ぜひご覧ください。
➾阿頼耶識とは?簡単に分かりやすく意味を解説
この前世から現世、来世へと流れて行く不滅の阿頼耶識に
不滅の業力がおさまるのです。
そして縁が来たときに、因と縁が和合して、
目に見える運命となって現れます。
そのことを、阿頼耶識について詳しく教えられた天親菩薩は、
このように教えられています。
業百劫を経といえども、しかもついに失壊すること無し。
衆縁合する時に遇えば、かならずまさに彼の果を酬うべし。
(漢文:業雖経百劫 而終無失壊 遇衆縁合時 要当酬彼果)(引用:天親菩薩『大乗成業論』)
「業」というのは、阿頼耶識におさめられた業力です。
「百劫」とは、1劫は4億3200万年といわれる非情に長い期間ですので、百劫はほとんど永遠ともいえる長い期間です。
そんな長い時間が経っても、業力は消えることはありません。
業力不滅です。
そこへ、色々な縁がそろった時に、結果の報いを受ける、ということです。
この、目に見えない業力が、どうして目に見える運命を生み出すのかを
さらに分かりやすく説明した、このような歌があります。
年毎に 咲くや吉野の 山桜
木を割りて見よ 花のありかは
平安時代の昔から桜の名所といわれる奈良県の吉野山は、
毎年春が来ると、きれいな桜が咲き誇ります。
そこである人が、冬に吉野山に行ってみると、
枯れ木のような桜の木がつくんつくんと立っているだけでした。
「なぜ春になるとあんなきれいな花が咲くのだろう」
と思って、木を割ってみたところ、
花やつぼみのような、花が咲きそうな形跡はどこにもなかった
という歌です。
しかし、目には見えませんが、桜の木には、
花を咲かせるような勢力がありますので、春の陽気にふれると、
目に見える美しい桜の花が咲き乱れるのです。
ちょうどそれと同じように、
私たちが心と口と身体で何かの行いをしますと、
目には見えませんが不滅の業力となって
阿頼耶識に蓄えられて決して消えることなく流れて行きます。
そしてやがて縁が来たときに、目に見える運命となって現れるのです。
カルマ(業)の異常な力の強さ
この業力は「大象100頭よりも強い」と言われます。
象は、お釈迦様の当時のインドで最も力の強かったもので、
鼻で自動車をひっくり返すくらい簡単です。
それが大きな像が100頭ですから、
今日でいえばブルドーザー100台よりも強いということです。
ブルドーザー100台と、自分一人と綱引きをしても、
勝てるはずがありません。
よく、自分でもそんなことをしたら悪いと分かっているのに、
「分かっちゃいるけどやめられない」
といって他人から見ると自ら自爆しているようにみえる
自業自得な人があります。
もしあなたの造った業が善業力であれば、
ぐいぐいと幸せな運命へと引っ張られていきますが、
もし悪業力を造ったならば、決してあがなうことのできない強い力で、
ぐいぐいと不幸や災難へと引きずられていくのです。
カルマ(業)を消す・断ち切る方法は?
よく、過去の悪業力を消す(断ち切る)とか浄化するといって、
「カルマ落とし」などと名付け、
「カルマを消す方法」が存在するように言う人があります。
たとえばカルマを消すには、怒りなどの感情をコントロールし、自分の行為を良くしたり、思考(潜在意識)を変えたりすることで、消えるというのです。
しかしそのような方法でカルマは消えませんし、カルマを消す方法ははありません。
一旦造った業力は、結果が現れるまで決して消えることはないのです。
お釈迦様はこのように死んでも消えないと教えられています。
故意に為され、積み上げられた業が、(その果報を)受けずに消滅してしまうと私は説かない。
その(果報)は現世、来世、あるいはその次の世において必ず受けるべきものである。(引用:『増支部経典』)
では結果を受ければ業は消えるのかというと、それはそうです。
確かに結果が現れると確かにその業力は消えるのですが、
それで悪業が減るわけではありません。
悪業の生み出す結果は不幸や災難なので、その苦しみから、惑いを起こし、
さらなる悪業力を何倍も造ってしまいます。
これを「惑業苦」といいます。
「惑」とは煩悩のことで、煩悩によって悪業を造ります。
これが「惑」が「業」を生み出すということです。
「業」とは悪業のことです。
その悪業は、悪因悪果の因果の道理にしたがって、
苦しい運命を生み出します。
これが「業」が「苦」を生み出すということです。
「苦」とは苦しみのことですが、
その苦しみから、また煩悩を起こしますので、
「苦」が「惑」を生みだします。
こうして「惑→業→苦→惑→業→苦……」
という悪循環に陥るのです。
- 惑……煩悩
- 業……悪い行い
- 苦……苦しみ
その悪循環は、死んでも終わりはありません。
業力は肉体ではなく阿頼耶識に蓄えられるからです。
カルマ(業)が結果になる時期
お釈迦様は、たねまきがいつ現れるかについて
4通りあると教えられています。それが次の4つです。
- 順現業
- 順次業
- 順後業
- 順不定業
順現業とは、生きているうちに結果が現れる行いです。
順次業とは、次の生で結果が現れる行い、
順後業は、もっとずっと後の生で結果が現れる行いです。
順不定業とは、いつ現れるか結果が決まっていない、
突飛なときに現れる行いです。
順現業というのは米のようなものです。
今年まいて今年収穫します。
順次業は麦のようなものです。
今年まいて来年収穫します。
順後業は、桃や栗のように、桃栗三年柿八年と、
まいてからずっと後に実がなるようなものです。
ですから、死んで持って行けるものはただ1つ、業力だけです。
死んでも続いていく?
昔、あるおばあさんが、朝5時の早朝に寺参りに行くと、
帰りに水たまりに金貨が落ちているのを見つけました。
おばあさんは、「よっしゃ早起きは三文の徳!」
と喜んだのですが、その日は寒かったので、
水たまりが凍りついて、カチカチでした。
おばあさんには、とても氷を割ってとる力はありません。
長年生きてきたおばあちゃんの知恵で何とかしようと
「何か湯たんぽのお湯でもあれば氷をとかせるんだけどなー」
と考えますが、まだ早朝なので、周りのお店もやっていません。
ところが賢いおばあさんは、そのうちお湯を発見しました。
灯台もと暗しといわれるように、何とおばあさんの体内にあったのです。
「どっこらしょ」と、金貨の上にまたがって、ちょっと失敬すると、
氷がみるみるとけて、金貨が手に入ります。
ところが拾ってみると、ビールのフタだったので、
「あそこまで頑張って手に入れたのに……」とがっかりしているうちに
目が覚めました。
「金貨かと思ったらビールのふただったなー」
と回想していると、
手には金貨もビールのふたも残っていないのですが、
布団をめくると日本地図ができていた
という話があります。
ちょうど私たちも、それが価値あるものと思って
色々なものを追いかけて生きています。
目標にたどりつくと、喜びは一時的で、
すぐに色あせて次の目標に向かって頑張ります。
また次の目標が手に入れば、
「なんだこんなものだったのか」
とまた次の目標に向かって頑張ります。
そんなことを繰り返して生きているのですが、
死んで行くときには必死でかき集めたものは、何も持って行けません。
持って行けるのは、唯一、業力だけです。
このことをお釈迦様は、『雑阿含経』など、色々な所に説かれていますが、例えば『大方等大集経』にはこのように説かれています。
妻子、珍宝、王位、命終の時に臨みてしたがわず。
唯、戒及び施、不放逸、今世後世の伴侶となる。(引用:『大方等大集経』)
これは、妻子も、財宝も、地位も、臨終には持っていけない。
唯一、生前に戒律を守ったり、布施をしたり、精進したという業力だけが来世へ持って行けるのだ、という意味です。
パーリ仏典の相応部経典には、死ぬとどうなるかということについて、このように説かれています。
穀物も富も金銀もはた如何なる所有も奴隷、下男、傭人及びその他の従属者もすべて従いて行くべからず。
すべてを捨てて行くなり。
身にて行い、口または心によりて行うこと、これぞ彼自身のものにてこれに従いて行くなり。
影の形に従うがごとく、その〔業に〕従うなり。(引用:『相応部経典』)
生きている時にかき集めたどんな持ち物も、いよいよ死んで行く時には一つも持っていけません。
召使いなどもついてはきてくれません。
この世の一切を置いていくのです。
ただ心と口と身体で造った業だけが、影が本体を離れずついてくるように、次の世界に旅立つのだ、ということです。
どれだけお金を稼いでも、
この世とお別れするときには、一円たりとも持っては行けません。
どれだけ土地や財産を持っていても、
死出の旅路には、紙切れ一枚持っては行けません。
生きるためには仕方がないと、たくさんの生き物を殺して食べた殺生罪、
お金や財産を手に入れるために、
他人と競争し、嘘をついたり、人を陥れたりして苦しめてきた
色々の罪悪だけをもって次の世界に旅立っていきます。
死んでも続いていく阿頼耶識に蓄えられた業力だけが、
消えることなく私についてくるのです。
そして輪廻転生へ
こうして私たちの人生は死ぬと夢のように消えてしまい、
阿頼耶識に蓄えられた業力が、次の世界を生み出します。
それは因果の道理にしたがって、次の6つの迷いの世界のどれかを生み出します。
この6つの迷いの世界を六道といいます。
これらの迷いの世界に車の車輪が同じところをぐるぐる回るように、無限に生まれ変わり続けることを「輪廻転生」といいます。
輪廻転生について、詳しくは下記をお読みください。
➾輪廻転生とは?仏教の輪廻転生の意味と解脱する方法
これらの六道を限りなくへめぐって無限ループしますので、
「六道輪廻」ともいわれます。
仏教の目的は、この果てしない輪廻から離れ、
永遠に変わらない幸せになることです。
たとえカルマを消すことができなくても、
輪廻から離れれば、変わらない幸せになれます。
それには因果の道理にしたがって、
迷いの根本原因を知り、なくさなければなりません。
そこで、迷いの根本原因については
電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひご覧ください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)