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五陰盛苦(五蘊盛苦)とは?

五陰盛苦ごおんじょうくとは、
五陰とは五蘊ごうんのことで、一言でいうと肉体のことですから、
分かりやすくいえば「肉体あるがゆえの苦しみ」です。

五陰盛苦は、人間である限り逃れることのできない
四苦八苦」という8つの苦しみの1つですが、
中でも一番意味が分かりにくいといわれます。

なぜ肉体があると苦しいのでしょうか?
楽しいこともあるのではないでしょうか?

五陰盛苦はよく世間で間違った解説がされることがあるので、
本当はどんな意味なのかを分かりやすく解説します。
五陰盛苦とはどんな意味で、お釈迦様は何のために教えられたのでしょうか。

五陰盛苦とは

まず、仏教辞典で意味を確認しておくと、こう書いてあります。

五取蘊ごしゅうん苦(五陰盛ごおんじょう苦とも。現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は苦であるということ)

五陰盛苦は、四苦八苦の一つですが、
この仏教辞典では、五陰盛苦としての独立した項目はなく、
四苦八苦の項目の中の説明の一部として入っていたものです。
そのため、意味が括弧に入って簡潔にまとめられています。
ここに書かれていることは間違いではありませんが、
あまりに簡潔で、五陰盛苦と言っても五取蘊苦ごしゅうんくと言っても同じ
ということくらいしか、分からないのではないでしょうか。

この記事では、五陰盛苦について、分かりやすく解説します。

五陰盛苦の言葉遣い

よく「五陰盛苦」を「五蘊盛苦」だと思っている人がいます。
確かに「五陰」は「五蘊」のことなので、仏教をよく勉強されているのだと思います。
五陰」は鳩摩羅什くまらじゅうの翻訳した旧訳で、
五蘊」は玄奘げんじょうの翻訳した新訳という言葉遣いの違いだけで、
意味は同じです。

ですが仏教では、「五陰盛苦」とはいわれますが、
五蘊盛苦」とはいわれません。
漢字も「」はただの「かげ」ですが、
」はウンチクの「うん」でちょっと難しいので、
陰のほうが簡単に変換して出せるのではないでしょうか。

なぜ「五陰盛苦」といわれるかというと、
中国の随の時代、浄影寺じょうようじ慧遠えおんが書いた『大乗義章だいじょうぎしょう』に出ているからです。
大乗義章』はこの後出てきますが、大乗仏教の百科事典的な本なので、
それ以来、よく使われるようになったわけです。
例えば唐の時代の善導大師も「五陰盛苦」を使われています。

ですが、「五蘊盛苦」は仏典のどこにも出てきません。
そのため、仏教では「五蘊盛苦」ではなく、
正しくは「五陰盛苦」が使われます。

そういうことで、インターネット上では頻繁に「五蘊盛苦」と書かれていますが、
伝統的には「五陰盛苦」なので、
この記事では「五陰盛苦」で統一したいと思います。

ちなみに五陰盛苦には他にも、上記の仏教辞典に出ている五取蘊苦ごしゅうんくとか、
五盛陰苦」「五受衆苦」「五受蘊苦」「略五盛陰苦
その他、色々な言い方があります。
これらはいずれも正しい言い方です。

では、五陰盛苦とはどんな意味なのでしょうか。

五陰盛苦の意味

五陰盛苦は、四苦八苦の、生苦、老苦、病苦、四苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦の7つの苦しみの後、8番目に挙げられて、前の7つを総括した苦しみです。
四苦八苦のまとめみたいな苦しみなので「総苦」といい、
それ以外の前の七つの苦しみを「別苦」といいます。

お経の根拠

そんなことはどこに説かれているのかというと、
中阿含経』や『増一阿含経』にもありますが、
分かりやすいのは、『涅槃経』です。
お釈迦様は、四苦八苦の7つの苦しみを説かれ、
その最後に、次のように教えられました。

是れ則ち略説五盛陰苦なり。
(漢文:是則略説五盛陰苦)

これは、それまで説かれた7つ苦しみを
是れ則ち略説五盛陰苦なり」と言われていますので、
七苦」を一言で言えば五陰盛苦である、と説かれています。
四苦八苦を総括されたわけです。

論書の根拠

ではなぜ、略説と言われているのかというと、
百科事典のように、仏教の教えを200巻にわたってまとめてある『大毘婆沙論だいびばしゃろん』には、
このように解説されています。

問う、五取蘊苦は其の量広大なり、何が故に略と名づくるや。
答う、苦は広大なりと雖も、而も略して之を説くが故に名づけて略と為す。
謂わく五取蘊の苦は、極めて多くして広設すべからず、
所化をして厭離を生ぜしめんと欲するが故に略して之を説く。

(漢文:問五取蘊苦其量広大何故名略 答苦雖広大而略説之故名為略 謂五取蘊苦患極多不可広説欲令所化総生厭離故略説之)

五取蘊苦は、五陰盛苦のことです。
問う、五取蘊苦は其の量広大なり、何が故に略と名づくるや」とは、
質問します。五陰盛苦は、その量が非常に広大であるのに、
なぜ「」と呼ぶのですか?
という意味です。

答う、苦は広大なりと雖も、而も略して之を説くが故に名づけて略と為す」とは、
答えると、確かに苦しみは広大ですが、それを簡潔に説明するので
」と名付けているのです、 ということ。

謂わく五取蘊の苦は、極めて多くして広設すべからず」とは
つまり、煩悩ぼんのうに汚れた五陰の苦しみは極めて広大で、
すべてを詳しく説明することはできません、という意味で、
所化をして厭離を生ぜしめんと欲するが故に略して之を説く」は、
しかし、教えを受ける人々に、これらの苦しみから離れたいとの気持ちを起こさせたいので、
苦しみを簡略化して説明するのです、ということです。

このように、五陰盛苦とは、四苦八苦のまとめであり、
前の7つの苦しみを総括であることは分かりましたが、
なぜ「五陰盛苦」といわれるのでしょうか。
漢字一つ一つはどういう意味で、全体としてどのような苦しみなのでしょうか。

五陰(五蘊)の意味

過去の哲学者も、人間の存在について、
人間は火であるとか、水であるとか、
空気であるとか、原子であるとか言ってきました。

しかしお釈迦様の目的は、人々の苦しみ迷いを解決することですので、
そのために人間の存在を、五陰という分け方で教えられています。

ちなみに五陰は十二因縁では、4番目の「名色みょうしき」にあたります。
」とは精神、「」とは物質のことです。
人間の存在を大きく分ければ、「精神」(名)と「肉体」(色)の2つに分けられているのですが、
五陰では、さらに精神を4つに分けて、全部で5つに分けられています。

五陰の「」は陰覆ということで、真理を覆い隠してしまうという意味だといわれます。
また、五蘊の「」は、「積聚」とか「積集」という意味で「集まり」ということです。
苦しみが集まってくるという意味だともいわれます。
ですが、五陰も五蘊も同じ意味で、集まりという意味ですので、
簡単にいえば「5つの集まり」ということで、5つの構成要素のことです。
5つの構成要素とは、それぞれどのようなものでしょうか。

5つの構成要素とは

五蘊」とは、色蘊しきうん受蘊じゅうん想蘊そううん行蘊ぎょううん識蘊しきうんの5つのことです。
五陰といっても五蘊といっても同じです。
それぞれどんな意味かというと、
色蘊」とは、「」は物質のことなので、
目、耳、鼻、舌、身の感覚器官など、私たちの肉体のことをいいます。
心の働きが起きる時、まず色蘊である対象を、色蘊である感覚器官でとらえます。

受蘊」とは、色蘊の感覚器官でとらえた対象を、
苦しいとか楽しいと受け止める働きです。
苦でも楽でもないものもあります。
分かりやすくいえば、対象がいいか悪いか、無意識の印象を持っているということです。
苦は避け、楽に近づこうとして煩悩に密接に関わるため、
心の働きの中でも特にこの働きが取り上げられています。

想蘊」は、表象する働きです。
分かりやすくいえばイメージする働きです。
明確に知覚する時は言葉で把握します。
心のこの働きも、ここから誤ったり迷ったり煩悩を起こしやすいので
特に取り上げられています。

行蘊」は、想蘊によるイメージに対して、
何かを意図する精神活動です。
苦しいものは避けたい、楽なものに近づきたいと思います。
煩悩は行蘊に入ります。
煩悩によってよからぬことを考え、苦しみを生み出すことになります。

識蘊」は、認識する心です。
主観と客観に分けて認識します。
これを仏教の言葉で「分別」といいます。
また、心の根本でもあります。
心の働きはすべて識蘊におさまり、識蘊を離れた心の働きはありません。
これを詳しく分ければ「八識」という8つの心になりますが、
八識について詳しくは以下の記事をお読みください。
阿頼耶識あらやしきとは?簡単に分かりやすく意味を解説

つまり、「」が肉体のことで、
受想行識」の4つが精神の働きです。

五蘊(五陰)
  1. 色蘊しきうん」:感覚器官などの肉体
  2. 受蘊じゅうん」:苦楽を感受する働き
  3. 想蘊そううん」:イメージする働き
  4. 行蘊ぎょううん」:煩悩や意図する働き
  5. 識蘊しきうん 」:認識する心

このように、五蘊というのは、私たちを構成する5つの構成要素のことです。
ところが「五陰盛苦」というと、これらの5つの構成要素である精神や肉体が盛んな苦しみという字を書きます。

精神や肉体が老化や病気で、衰えて苦しむのは分かりやすいですが、
心身が盛んで苦しむというのは、どういうことでしょうか。
心身が盛んなら健康そうですし、普通、何事も盛んだったら楽しそうです。
五陰「衰苦」だったら分かりますが、
五陰「盛苦」となっているのはどういうことなのでしょうか。

よくある「五陰盛苦」の誤解

五陰盛苦の「」は、
若い時に旺盛な体力や性欲があること、
限度を知らない野望があること、
胃腸が強く食欲旺盛であるといった、
壮健であることをいいます。
それで世間では、五陰盛苦というのは、
壮健なるがゆえの深い悩み苦しみがあることだと思っている人がいます。

例えば旺盛な体力があるゆえに、仕事で働き過ぎたりして体を壊し、
最悪な場合、過労死しています。
体を壊さず出世をし、役員になり社長になりますと、
様々な責任や重圧にかられ、耐えられなくなることもあります。
強い性欲や愛欲は、情念を狂わせ、
ストーカーになったり、強姦罪などの罪を犯してしまいます。
アルコールに強く、何でも食べられるからといって限度なく食べれば、
アルコール依存症や糖尿病になります。
肉体が元気だからといって、やりすぎてしまえば
すべて苦しみに変わるのです。

確かに、これらの苦しみも五陰盛苦の一部ではありますが、
五陰盛苦は元気な人にしかないのでしょうか。
五陰盛苦は、どんな人も避けられない四苦八苦を総称したものですので、
老苦」も含みますし、元気な人だけでなく、すべての人にある苦しみです。
五陰盛苦を肉体が盛んだから苦しむというのは、多分ジョークです。

では五陰盛苦は、本当はどういう意味なのでしょうか。

五陰盛苦の詳しい2つの意味

中国の隋の時代の僧侶浄影寺じょうようじ慧遠えおんは、大乗仏教の百科事典的な『大乗義章だいじょうぎしょう』を著し、その第三本に「五盛陰」について、こう解説しています。

五盛陰とは五陰熾盛しじょうを五盛陰と名づく。
陰盛これ苦なり、体に就いて称を立つ。
この故に名づけて五盛陰苦と為す。
また盛とは盛受の義なり、五陰の中に前の七苦を盛る。
この故に五盛陰苦と為す。
若し正には五陰盛苦と言うべし。

(漢文:五盛陰者 五陰熾盛 名五盛陰 陰盛是苦 就体立称 是故名為五盛陰苦 亦盛者 盛受之義 五陰之中 盛前七苦 是故名為五盛陰苦 若正応言五陰盛苦)

ここには2つの意味が説明されています。
まず1つ目の意味ですが、「五盛陰とは五陰熾盛を五盛陰と名づく」とは、
五盛陰とは、五陰が激しく燃え盛ることを「五盛陰」と名付ける、ということです。

陰盛これ苦なり、体に就いて称を立つ。この故に名づけて五盛陰苦と為す」は、
陰盛とは苦しみのことであり、苦しみの本質に基づいて名称を付ける。
よって五盛陰苦である、ということです。

次にもう1つの意味です。
盛とは盛受の義なり、五陰の中に前の七苦を盛る。この故に五盛陰苦と為す」とは、
」とは、盛り込まれるという「盛受」の意味である。
五陰の中に、生・老・病・死・愛別離苦あいべつりく怨憎会苦おんぞうえく求不得苦ぐふとくくの7つの苦しみが盛り込まれる。
そのため「五盛陰苦」と呼ぶのである、という意味です。

若し正には五陰盛苦と言うべし」の意味は、
正確に言うならば「五陰盛苦」と言うべきである、
ということです。
おそらく、2つ目の五陰に盛り込まれているという意味からすると、
五と陰が離れているのは、意味の上からおかしいと思ったと考えられます。
このように漢字の意味から、その言葉の意味を説明することを通俗語源解釈といいますが、
インドでもサンスクリット語の発音などから色々な説明をするので、伝統的によくあることです。
この2つの意味を持たせた漢訳としては「五陰盛苦」が適切なのでしょう。

この2つの意味のうち、
2つ目は、五陰盛苦を四苦八苦の総称ということなのでいいとして、
1つ目の「五陰盛」とは五陰が熾盛という意味で、
しかもそれが苦しみであるというのは、どういう意味なのでしょうか。

盛とは

五陰盛苦の「」には、熾盛というだけにとどまらず、さらに深い意味があります。

サンスクリット語での意味

五陰盛苦をサンスクリット語では、
パンチャ・ウパーダーナ・スカンダ・ドゥッカ
(pañca-upādāna-skandha-duḥkha)
といいます。

それぞれの単語の意味は、
パンチャ(pañca):「5つの
ウパーダーナ(upādāna):「執着」「取著」「
スカンダ(skandha):「集合」や「
ドゥッカ(duḥkha):「」や「不満足
といいことです。

このように五陰盛苦は、サンスクリット語の直訳では、
五盛陰苦または五取蘊苦ごしゅうんくとなります。
」や「」は煩悩を意味しますので、
五盛陰」とか「五取蘊」は、煩悩にまみれた五蘊ということです。

漢語での意味

また、五取蘊と言われる理由について、
成唯識論じょうゆいしきろん』の代表的な解説書である『成唯識論述記じょうゆいしきろんじゅっき』に
このようにあります。

欲貪を取と名くと。
唯貪をもって体となす。
五蘊を染希するをもってなり。
蘊よく取を生じ、蘊、取より生ずれば蘊に取の名を立てたり。

(漢文:欲貪名取 唯貪爲體 染希五蘊 蘊能生取 蘊從取生 蘊立取名)

欲貪を取と名くと」とは、「」とは、煩悩の欲の心のことだ、ということです。
サンスクリット語の「」は執着のことですし、
著者の窺基ききはサンスクリット語も分かりますので、
」とは、欲の心を言っている、ということです。
唯貪をもって体となす。五蘊を染希するをもってなり」とは、
」は欲の心を本質とするので、五蘊が欲に染まりきっているのである、
ということです。
蘊は取により生じ、或いは能く取を生ずれば蘊に取の名を立てたり」とは、
五蘊は、取(・煩悩)によって生じ、また取(欲・煩悩)によって五蘊が生じるので、「取蘊」と呼ばれる、ということです。

これはどういうことかというと、五蘊というものは、
色蘊である感覚器官が対象をとらえるのと、
受蘊で印象を持つのは同時か、
若干、感覚器官が早いくらいでほぼ同時です。
受蘊と想蘊と行蘊と識蘊は同時に働きます。
これが一刹那のうちにパッと生じるので、
五蘊から煩悩が生じるともいえますし、
煩悩から五蘊が生じるともいえます。

五蘊は煩悩に染まっているのです。
五蘊=五取蘊といえます。

五蘊は、煩悩と密接不離であり、煩悩とは私たちを、苦しめ、悩ませるものです。
五蘊とは私たちのことですので、
私たちは煩悩から決して離れきれない存在、ということです。
五陰は、煩悩によって「盛苦」となり、
私たちは常に煩悩によって苦しめられ、悩まされ続けているため、
一切が苦しみとなるのです。

では、煩悩とはどのようなものなのでしょうか。

煩悩とは

煩悩とは、煩い、悩ませるもの、ということで、
私たちの人生は、目には見えませんが、
生まれながらにして「煩悩」に支配されています。
常に私たちと共にあり、絶え間なく心を乱し、苦しみをもたらしています。

たとえば、
美味しい食事を楽しんでいるときには、
もっと食べたい
珍しいものが食べたい
と思う食欲も煩悩です。
また、新しい服を買ったときに満足できず、
あれも欲しい
あっちのほうが良かったかも
という渇望も煩悩です。
何かに成功したときには、
もっと多くの人に認められたい
このステータスを失いたくない
という執着も煩悩です。
これらは貪欲とんよくといわれる煩悩です。

さらに、この欲の心が妨げられれば、怒りの心が出てきます。
自分の好きなものを兄弟に奪われたなら、絶対に許せない心が湧き上がってきます。
好きな人と付き合ったとしても、誰かにとられたら、とった相手を傷つけたくなります。
これら怒りの心も煩悩です。

このように、私たちの煩悩が熾盛なるがゆえに、苦しみ続けるのです。
だから「盛苦」といいます。

しかも、煩悩には108つあり、ありとあらゆる場面で
私たちは苦しみ続けなければなりません。
すべての人は、煩悩から離れきれないため、
五陰盛苦」の苦しみを受け続けているのです。

私たちの存在そのものが苦しみ

では、煩悩はなくせるのでしょうか。

それには出家して、戒律を守り、煩悩をおさえ、遮り、断ち切る修行をしなければなりません。
その厳しい修行を完成できれば、
煩悩をなくして、五蘊が清らかな状態になるかもしれませんが、
修行で煩悩がなくならない限り、五蘊は煩悩に穢れた状態です。
まず出家が必須なので、スタート地点に断つことさえも不可能な人がほとんどではないでょうか。

ですから五陰盛苦とは、五陰は最も端的にいえば、私たちの肉体のことですから
肉体あるがゆえの苦しみ」を五陰盛苦といい、
肉体がある間、生きているうちのすべてが苦しみであることです。
仏教で煩悩具足と教えられるように、私たちは煩悩でできている存在ですので、
私たちの存在そのものが苦しみ」ということです。

この絶望的な状況を、どうしたらいいのでしょうか?

五陰盛苦あるがままの幸せとは

今回は、「五陰盛苦」の意味について解説しました。

五陰とは、「私たちがどのような存在なのか」というと、
5つの構成要素によって成り立っていると、お釈迦様が教えたものです。

5つの構成要素とは、以下の5つです。

  1. 色蘊しきうん」:感覚器官などの肉体
  2. 受蘊じゅうん」:苦楽を感受する働き
  3. 想蘊そううん」:イメージする働き
  4. 行蘊ぎょううん」:煩悩や意図する働き
  5. 識蘊しきうん」:心の根本

そして五陰は、煩悩に染まりきっていますので、
五盛陰」とか「五取蘊」ともいいます。
この煩悩が燃え盛っていることによって、私たちは常に苦しみ続けざるをえないので、
その苦しみを「五陰盛苦」と教えられています。

お釈迦様がこの五陰盛苦を教えられた真意は、苦しみの人生を私たちに分からせ、
本当の幸福になりたい、という気持ちを起こさせるためです。
私たちがこれらの煩悩の苦しみから離れ、本当の幸福を求めるためには、
仏教を聞かなければならないので、その聞法心を起こさせるために五陰盛苦を教えられているのです。

苦しみの人生を脱し、本当の幸せになるためには、
煩悩がなくせないのであれば、煩悩あるがまま、幸せになるしかありません。
それが「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」です。
煩悩即菩提とは、煩悩あるがままでそのまま本当の幸せになることです。
煩悩あるがまま幸福になれる、ということです。

この煩悩即菩提という幸福になるには、
苦悩の根元を断ち切らなければなりません。
苦悩の根元は煩悩ではないので、それさえなくせば煩悩即菩提になれます。
それについては、仏教の真髄ですので、
以下のメール講座と電子書籍にまとめまておきました。
ぜひ一度お読みください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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