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七仏通戒偈とは?

七仏通戒偈」は、仏教の教えを一言で表した、わずか4行の偈です。
禅宗の一休さんも素晴らしいと絶賛しており、
現代においても、私たちの人生を大きく左右する力があります。
七仏通戒偈」には一体どんなことが教えられているのでしょうか?

七仏通戒偈とは

七仏通戒偈」とは、お釈迦様を含むすべての仏が共通して説かれた、諸仏に共通する教えです。

パーリ仏典の『ダンマパダ』に説かれているものも有名ですし、
漢訳のお経では『増一阿含経ぞういちあごんきょう』『法句経ほっくきょう』『出曜経』『涅槃経ねはんぎょう』、
その他にも様々な律に説かれています。
サンスクリット語でも『ウダーナ・ヴァルガ』に説かれています。

禅宗僧侶一休宗純は、晩年に記した『狂雲集』に、
七仏通戒偈」を取り上げ、
以下のように、この教えは「千金にも値する」と讃えています。

学ぶ者は因果を撥無して沈まん、老禅の一句 価千金。
諸悪莫作 衆善行、すべからく先生酔裏の吟にあるべし。

この千金にも値する「七仏通戒偈」とは、一体どんなものなのでしょうか?

まず「七仏通戒偈」という言葉が最初に記されたのは、
天台宗の開祖である智顗ちぎ(538-597年)の『法華玄義』です。

また七仏通戒偈に云わく、諸の悪は作すことなかれ、衆の善は奉行せよ、自らその意を浄くす、これ諸仏の教えなりと。
(漢文:又七仏通戒偈云 諸悪莫作衆善奉行 自浄其意是諸仏教)

それから「七仏通戒偈」という言い方が使われるようになっていったようです。

七仏通戒偈」というのは、
」というのは歌
通戒」とは、共「」して「」められたと書くように、
共通して教えられた、ということです。

では、「七仏」とはどんな仏かというと、あらゆるという意味です。

狭い意味では、「過去七仏」といわれることもあります。
例えば、パーリ仏典の長部経典にこう説かれています。

今より91劫以前に、毘婆尸ギバッシー世尊・阿羅漢・等正覚者、世に出現し給えり。
今より31劫以前に、尸棄シキー世尊・阿羅漢・等正覚者、世に出現し給えり。
かの31劫中に、毘舎浮ヴェッサブー世尊・阿羅漢・等正覚者、世に出現し給えり。
この賢劫に、拘留孫カクサンダ世尊・阿羅漢・等正覚者、世に出現し給えり。
この賢劫に、拘那含コーナーガマナ世尊・阿羅漢・等正覚者、世に出現し給えり。
この賢劫に、迦葉カッサパ世尊・阿羅漢・等正覚者、世に出現し給えり。
この賢劫に、今我阿羅漢・等正覚者は世に現れたり。

この中の最初の仏である毘婆尸ギバッシー仏が、比丘達に説いたのが「七仏通戒偈」です。
(《南伝大蔵経》第6巻長部経典一p.421)
ですが、仏が複数形ですので、毘婆尸仏だけではなく、他の仏も説かれているということになります。

そしてそれは、過去七仏だけの共通の教えということでもありません。
パーリ語ではこれを「七仏通戒偈」ではなく「波羅提木叉はらだいもくしゃ」といわれていますし、
パーリ仏典の相応部には、過去、現在、未来の三世の諸仏も説かれています。

過去の正覚者 未来の諸仏 今の正覚者

ですから「七仏」とは、すべての仏のことなのです。

このことを浄土宗の開祖・法然上人は、『拾遺黒谷上人語燈録』に
三世の諸仏の通戒なり」と記されています。

諸悪莫作。衆善奉行ハ。三世ノ諸仏ノ通戒也。
善ヲ修スルモノハ。善趣ノ報ヲエ。悪ヲ行スル者ハ。悪道ノ果ヲ感ストイフ。
コノ因果ノ道理ヲキケトモキカザルカコトシ。

このように「七仏通戒偈」とは、すべての仏方が共通して教えられていることです。

では、「七仏通戒偈」自体はどのようなお言葉なのでしょうか?

原文と現代語訳

七仏通戒偈」の原文と現代語訳です。

漢訳経典の『法句経』とパーリ仏典の『ダンマパダ』、
サンスクリット語の『ウダーナ・ヴァルガ』の原文と現代語訳を掲載します。

漢訳経典

諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教

これを書き下すと、
もろもろの悪をなすことなかれ
 もろもろの善を行じたてまつれ
 自らその心をきよめよ
 これ諸仏の教えなり

となります。

パーリ仏典

ダンマパダ』の183偈に、こうあります。

一切の悪をなさず、善を行い、自己の心を浄む。
これ諸仏の教えなり。

sabbapāpassa akaraṇaṃ
kusalassa upasampadā
sacittapariyodapanaṃ
etaṃ buddhāna sāsanaṃ

パーリ語版を和訳すると、
すべての悪をなさないこと
 諸々の善を具足すること
 自分の心を清らかにすること
 これが諸仏の教えである

となります。

細かく単語を見ていくと
1行目のsabba は一切の、
pāpassa は悪の、
akaraṇaṃ はなさないこと。

2行目のkusalassa は善業の、
upasampadā は得ること、具足すること。

3行目のsacitta は自己の心、
pariyodapanaṃ は清めること。

4行目のetaṃ はこれ、
buddhāna は諸々の仏の
sāsanaṃ は教え。
このように全部名詞で動詞がありませんが、
パーリ語ではbe動詞にあたる動詞が省略できるからです。
です」「ます」は補ってOKです。

サンスクリット語

サンスクリット語では『ウダーナ・ヴァルガ』の28章1偈にあります。

sarvapāpasya akaraṇam
kuśalasya upasampadaḥ
svacittaparyavadanam
etad buddhasya śāsanam

これを和訳すると、
すべて悪しきことをなさなさいこと、善いことを備えること、自己の心を浄めること、
これが仏の教えである

となります。

単語の意味としては、
1行目のsarva は、すべての、
pāpasya は悪いことの、
akaraṇam はなさないこと。

2行目のkuśalasya は善きことの、
upasampadaḥ は備えたもの。

3行目のsva は自己、
citta は心、
paryavadanam は浄めること。

4行目のetad はこれ、
buddhasya は仏の、
śāsanam は教訓です。

パーリ語と違うのは、一行の音節(母音の数)が
パーリ語では大体9つのところ、サンスクリット語では8つにして
8×4のシュローカの形式にしようとしていることと、
仏(buddhasya)がパーリ語では複数、サンスクリットでは単数であることです。

七仏通戒偈」は、仏教の教えを端的に表した言葉ですが、
当たり前のように思われてしまうのか軽視されやすく、仏教の入門書でも記載されていないことも多いのが現状です。
この「七仏通戒偈」にはどんなことが教えられているのでしょうか?

七仏通戒偈の教え

七仏通戒偈」は仏教の教えを一言で表したものですが、
仏教のすべての教えが立脚しているのは、
すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理です。
この因果の道理は、いつでもどこでも変わらない法則であり、大宇宙の真理です。
例外は万に一つもありません。

しかも仏教では、太陽が東から昇る原因とか、
風が吹く原因よりも、すべての人が最も知りたい、
私たちの運命は何によって決まるのかという運命の原因を教えられています。
その運命の原因は何かというと、仏教では、自分自身の行いだと教えられます。
自業自得」という言葉がありますが、
この「」というのは行いのことです。

では、どのような行いで、どのような運命が生じるのかについては、
このような法則が説かれています。

善因善果ぜんいんぜんか
悪因悪果あくいんあっか
自因自果じいんじか

これは、善い原因は善い結果を生み出す、
悪い原因は悪い結果を引き起こす、
自分のまいた種は自分に結果となって現れる、ということです。

ですから、善い行いをすれば幸せという運命が生み出され、
悪い行いをすれば不幸という運命が引き起こされる。
自分の行いによって自分の運命が決まるという法則が
仏教で教えられる因果の道理です。

自分にやって来る運命は、自分がまいた種と同じものしか来ないので、
悪いことばかりしているのに、幸せになることもなければ、
善いことをしているのに、不幸ばかりがやって来るということもありません。

また、運命という結果は種をまいた本人にしかやって来ないので、
誰かがこんなことをしたから、自分がひどい目に遭った
ということはあり得ません。
その人は悪い結果を引き起こす縁となっただけです。

それはちょうど、お米という結果を得るには、モミダネという因(たね)と、
空気や水、温度などの環境(縁)が必要であるようなものです。
どんなに周りにいい環境があっても、モミダネがなければお米はとれないように、
何か悪い縁があったとしても、自分に原因がなければ、結果は現れないのです。
悪い結果の原因は自分にある、ということです。

そうなると、誰しも幸せになりたいので、どうすればいいかは一つに決まります。
それを教えられているのが、この「七仏通戒偈」です。

もろもろの悪をなすことなかれ
 もろもろの善を行じたてまつれ
 自らその心をきよめよ
 これ諸仏の教えなり

まず「もろもろの悪」とか、「もろもろの善」とは、
どういうことを言われているのでしょうか。
いいと思ってやったことが、結果的に裏目に出ることもあります。
善とか悪は、どのように判断すればいいのでしょうか。

悪とは

まず、「もろもろの悪」というのは、
仏教でとは、苦しみを生み出すもののことです。
たくさんの悪がありますが、お釈迦様は代表的な10の悪、十悪を教えられています。

十悪
  1. 貪欲とんよく(欲望)
  2. 瞋恚しんい(怒り)
  3. 愚痴ぐち(嫉妬)
  4. 綺語きご(お世辞)
  5. 両舌りょうぜつ(噂・二枚舌)
  6. 悪口あっこう(わる口)
  7. 妄語もうご(嘘)
  8. 殺生せっしょう(生き物を殺すこと)
  9. 偸盗ちゅうとう(泥棒)
  10. 邪淫じゃいん(よこしまな男女関係)

悪について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
悪の意味とは?仏教に説かれる悪とキリスト教との違い

仏教で悪というのは、お釈迦様の説かれた悪のことです。
みんな不幸や災難には来てほしくありませんが、
これらの悪を行うことで悪い結果が生じるので、
七仏通戒偈」では「もろもろの悪をなすことなかれ
悪いことをしてはならない」と教えられているのです。

善とは

次に、「もろもろの善」というのは、
仏教でとは、悪の反対で幸せを生み出すもののことです。
お釈迦様は、お経にたくさんの善を教えられていますが、
代表的なものとしては、十悪に「」をつけたものを十善といわれます。

十善
  • 不貪欲ふとんよくの心で他人を苦しめない)
  • 不瞋恚ふしんい怒りで心の中で相手を切り刻まない)
  • 不愚痴ふぐち(嫉妬などの愚痴の心で人の不幸を喜ばない)
  • 綺語ふきご(心にもないお世辞を言って相手を騙さない)
  • 不両舌ふりょうぜつ(仲の良い人の間を裂く二枚舌を使わない)
  • 不悪口ふあっこう悪口で他人を傷つけない)
  • 不妄語ふもうご(事実無根ので相手を苦しめない)
  • 殺生ふせっしょう(生き物を殺さない)
  • 偸盗ふちゅうとう(他人のものを盗まない)
  • 邪淫ふじゃいん(よこしまな男女関係をつくらない)

善についての詳細は、こちらをご覧ください。
善とは何か、善をするとどうなるのか?仏教における善の意味と実践法

みんな幸せになりたいと思っているのですが、
これらの善を行うことで、善い結果を得るので
七仏通戒偈」では、「もろもろの善を行じたてまつれ
善をしなさい」と教えられているのです。

この誰でも分かりそうなことを、一休さんはなぜ千金にも値すると言ったのでしょうか?

それは「価千金」の前に記されていることですが、
有名な白楽天と鳥窠禅師のやりとりを引用して、
もし鳥窠禅師の一言がなければ、みんな本来無一物とか邪正一如を誤解して、
因果の道理を信用じずに否定し、善いことをしなくなってしまっただろう、と言っています。
その文脈でこういう詩を歌うわけです。

学ぶ者は因果を撥無して沈まん、老禅の一句 価千金。
諸悪莫作 衆善行、すべからく先生酔裏の吟にあるべし。

仏教を学んでいる人が、誤解して仏教の根幹である因果の道理を否定して苦しみに沈んでいくだろう。
だから、熟達した禅師の一言は千金に値するのだ、ということです。
諸悪莫作 衆善行」というのは、これは漢詩ですので、
一行7文字に合わせるために1字省略しています。
先生とは、白楽天のことです。
白楽天の詩の中に「諸悪莫作 衆善奉行」の七仏通戒偈があるはずだ、
と一休は言っています。

では、その「七仏通戒偈」にまつわる価千金の一言とは何でしょうか?

すぐれた詩で有名な白楽天は、
29才で科挙に合格して高官となり、71才で引退します。
それから悠々自適の生活を送りながら、仏教を学んだ人です。

そんな白楽天が、50才過ぎに杭州に赴任した時のことです。
ある日、木の上で目をつぶっている人を見つけます。
親切に「おーい、そんなところで目をつぶって坐禅していたら危ないぞ。
居眠りしたら落ちて怪我するぞ
」と声をかけてあげます。
すると「そういうそなたこそ危ないぞ」という返事が返ってきます。
誰がどう見ても、道を歩いている人より、木の上で目をつぶっているほうが危ないのに、
こんなことを言うなんて、ただ人ではないな、
と白楽天はピンときます。
私は名もなき白楽天という者だが、ぜひとも貴僧の名前をお聞かせ頂きたい

当時、白楽天は非常に有名な人でした。
それに対してすかさず
私は名もなき鳥の巣という者だ
と返答します。
この人があの超有名な鳥窠禅師かー、ラッキー
と思った白楽天は、
貴僧は有名な高僧とかねてより聞いています。
今日は是非とも、仏法とはどのような教えなのか一言お聞かせ頂きたい

と尋ねます。

ここで鳥窠禅師が答えたのが七仏通戒偈
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でした。
それを聞いた白楽天、冷ややかに笑い、
そんなことぐらいなら、3才の子供でも知っているではないか
と言います。
すると鳥窠禅師は
3歳の童子でもこれを知るが、80の翁でも行うは難し
と返答すると、白楽天は赤面して鳥窠禅師を礼したといいます。

人は、悪いと分かっていても、なかなかやめられません。
法律をよく分かっていて、悪い人を捕まえるはずの警察官が
悪いことをして捕まることさえもあります。
これは理屈ではありません。
分かっちゃいるけどやめられない」ということです。

また逆に、善いと分かっていても、そう簡単には実行できません。
つい楽なほうへ流れてしまいます。
分かることと、できることは天地雲泥の違いがあります。
あらゆる仏が教えられている「七仏通戒偈」は、
実践が大切なのです。
実践に価値があるので、今すぐ今まで以上に実践するようにしてください。

今日からできる実践例
  • 悪口や嘘を言いそうになったら、一度口を閉じて深呼吸する
  • 1日に1つ善をする
  • 自分の心を見つめる

しかも「悪いことをしてはならない、善いことをしなさい」というのは、倫理・道徳でも言われることですが、
仏教で教えられることは、それだけではありません。

心を浄くする

仏教では、自分自身の心がそれぞれの世界を生み出していると教えられ、
心で何を思うかが最も重要です。

ダンマパダ』の一番最初には、
このように説かれています。

1. 諸法は意に支配せられ、意を主とし、意よりなる。
人もし穢れたる意を以て、或いは語り或いは行わば、苦の彼に随うこと、車輪が牽獣の足に〔随う〕が如し。
2. 諸法は意に支配せられ、意を主とし、意よりなる。
人もし浄き意を以て、或いは語り或いは行わば、楽の彼に随うこと、影の〔形に随いて〕離れざるが如し。

普通は行いというと、身体でやることのように思われますが、
仏教では、私たちの行いは心と口と身体の3方面から説かれ、
中でも心の行いが重視されます。
それは、心が口や身体に命令して動かしているからです。

心で悪いことを思っていれば、口や身体も悪を行います。
それで、「心を浄くせよ」と教えられているのです。

自然にそうなる?

ダンマパダ』の第1句は悪をやめること、
第2句は善をやることの実践を説いたもので、
その結果、たとえ自分では努力しなくても、
自然にその人の心は浄くなっているはず、という人もいます。
ですが、そんなことはありません。
大無量寿経』には、こう説かれています。

心口各異しんくかくい 言念無実ごんねんむじつ

これは、心と口は各々異なり、言っていることにも思っていることにも真実がない、ということです。

普通は心のままを口に出すことはありません。
行きたくない飲み会に誘われた時には、
残念です。あいにくその日は先約がありまして……
と言ってみたり、
仕事で自分が手掛けたプロジェクトが成功した時、自分の努力の賜だと思っていても、
すべて課長のお陰です」と言ったりします。
相手のことを思っているようなことを言って、
心の中では、自分のことばかり考えているのです。

仏教では、私たちは欲や怒り、愚痴といった煩悩ぼんのうの塊で、
それによって悪を行い苦しんでいると教えられます。

ですから、意識しなければ自然と悪いほうへ傾いてしまい、
自然に心が浄らかになっていくことはありません。
口や身体で善い行いをして、心もそれに合わせて善いことを思うように心がけないといけないのです。
それで「自浄其意」自らそのこころを浄めよ、と言われて
心から善を実行しなければならないのですよ、
と教えられているのです。

では、なぜ仏方はこのように教えられているのでしょうか。

なぜすべての仏が教えられたのか

では、なぜすべての仏方が共通して、
七仏通戒偈」の、
悪いことをしてはならない、善いことをしなさい
ということを教えられたのかというと、本当の幸せへと導くためです。
本当の幸せというのは、お金が儲かるとか、地位や名誉を得るとか、
やりたいことをやりたいだけやるということではありません。
色あせることも薄れることもない幸せになることです。

それは悪いことをやめて、善いことをすればなれるものではありません。
本当の苦悩の根元を知り、それを断ち切らなければならないのですが、
それは仏教の真髄ですので、
仏教に教えられる本当の幸せとは何か、
そして、どうすればその幸せになれるのかについて、
電子書籍とメール講座にまとめましたので、ぜひ一度読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。