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生きる意味を、知ろう。

不倫や浮気

不倫」は浮気と違って、結婚している人が、
自分のパートナー以外と肉体関係に及ぶことです。
姦通」ともいわれる不貞行為です。
これは昔からあったことで悪い行いですので、この記事では
・不倫を迫られた女性の有名なエピソード
・仏教で出家の人に対しての教え
・在家の人に対しての教え
・仏教を聞いて知らされること
についてお釈迦さまの説かれたお経の根拠を出しながら、分かりやすく解説します。

まずは、不倫を迫られた美しい女性の選んだ道です。

遠藤盛遠と袈裟御前

平安時代の末期、上皇の警護にあたる親衛隊であった
遠藤盛遠えんどうもりとおが18才の春のことです。

摂州渡辺の橋供養で見かけたひときわ美しい女性に
一目惚れしてしまいました。

すっかり惚れ込んでしまったので、
身元を調べると、名前は「袈裟けさ」といい、
すでに同族の左衛門尉、源渡みなもとのわたる
妻になっていることが分かりました。

ぞっこん惚れ込んだ女性がすでに人妻とは……
かなわぬ恋に苦しんだ盛遠は、ついに耐え切れず、
袈裟の母親に会いに行ってこう言います。

どうか袈裟殿を私にもらい受けたい。
無理は万々承知の上。もしお聞きいれ頂けないなら、
邪魔だてするものはみな殺しだ

この非道な横恋慕に困った母親は、
袈裟を呼んでありのままを打ち明けます。

驚き嘆く袈裟でしたが、やがて心を決めて、
こう言いました。
お母さま、ご心配には及びません。
 渡さまには申し訳ございませんが、
 私、盛遠さまの所へ参ります

やがて盛遠を訪ね、結婚を控えた袈裟は、
時々愁いを含んだ表情を見せます。

「袈裟殿、どうかなされたか」
はい、あなたから愛されるのは嬉しいのですが、
 すでに夫がいることを思うと苦しくなります。
 あの人さえいなければ……

「そうかそうか、そんなことならわけはない。私が解決して進ぜよう」
そうしてくだされば、私も嬉しゅうございます
かくて袈裟と打ち合わせた盛遠は、源渡の寝室に忍び込み、
寝首をかきました。

これで袈裟は晴れて私のもの」と、
ほくそえんで月明かりで首を見てみると、
なんと死ぬほど惚れた袈裟の首ではありませんか。

呆然自失。
ああ、何ということをしてしまったのか……
深い後悔とともに出家します。
それが源頼朝の帰依を受けた真言宗僧侶
文覚もんがくです。

やがて袈裟の手箱から、遺書が発見されました。
そこには、こうあったといわれます。
深い罪を持った私のために、多くの人が死ぬのなら、
私一人が死にましょう。
ただ残されるお母さまが悲しまれることを思うと、傷ましく思います。
先立つことは悲しいことですが、仏になれば、
必ずお母さまも渡さまも迎えに参ります

このようなことは昔からよくあり、
武家の女性は誘惑されて不倫を迫られたときは、
このように振る舞うことが妻の鑑とされたと
新渡戸稲造の『武士道』にも記されています。

現在でも、不倫は法律上でも違法行為(不法行為)ですから
慰謝料を請求されると、何百万円も払わなければなりません。

では不倫について、仏教ではどのように教えられているのでしょうか?

出家の僧侶の場合

お釈迦さまの教団では、問題が起きると、
それに応じて戒律が定められていきます。
そのため最初は戒律はありませんでした。

ところが、お釈迦さま仏のさとりを開かれて13年目に
男女問題が起こり、はじめてできた戒律が、
出家僧侶は男女の肉体関係を持ってはならない
というものです。

これは不倫どころか、出家僧侶は結婚しておらず、
もともとパートナーはいませんので、
男女関係は一切ダメです。

この戒律は、出家の人の「二百五十戒」の中でも最も重く、
もし破れば教団を追放されます。
戒律を教えられている『四分律しぶんりつ』にはこうあります。

たとえば人の頭を断ずれば、また起きるべからざるごとく
比丘尼もまたかくのごとし。
この法を犯す者は、また比丘尼となることをえず。

比丘尼」とは女性の僧侶のことですから、
もう二度と僧侶になることはできなくなるのです。

では、在家の人はどうなるのでしょうか?

在家の人の場合

お釈迦さまは、在家の人の守る5つのルールである
五戒」の一つに「不邪淫ふじゃいん」を教えられています。

邪淫じゃいん」とは、自分の結婚相手以外と肉体関係を持つことで、
不倫のことです。

お釈迦さまは不倫をした人は、この世でも不幸な報いを受け、
死後の世界でも悪い報いを受けると
中阿含経ちゅうあごんきょう』にこのように教えられています。

邪淫は必ず現世及び後世に悪報を受く。

また、パーリ経典の『スッタニパータ』には、
このようにあります。

自分の妻に満足することなく、遊女とつき合い、他人の妻と交わる。
これは破滅への門である。

自分の妻に満足できずに、水商売の女性と遊んだり、他人の妻と交わるのは、破滅の入り口である、ということです。

在家の人の戒律を教えられた『優婆塞戒経うばそくかいきょう』には、こう教えられています。

不倫をした人は、人を見ると疑いの心が起き、ウソが先にたち、
常に心が散り乱れて苦しみ悩んで善い行いができなくなり、財産を失う。
寿命は短くなり、死ねば地獄に堕ちる。

このような、お経に説かれている不倫の報いを、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の『 大智度論だいちどろん 』にこのように10通りにまとめられています。

邪淫に十罪あり。
一には常に淫せらるる所の夫主は之を危害せんと欲す。
二には夫婦むつまじからず、常に共に闘諍す。
三には諸の不善法、日々に増長し、もろもろの善法に於て日々に損減す。
四には身を守護せず、妻子孤寡なり。
五には財産日に耗し。
六には諸の悪事あって常に人の為に疑わる。
七には親族知識の愛喜せざる所なり。
八には怨家の業因を種う。
九には身破れ、命終り、死して地獄に入る。
十にはもし出でて女人と為っては多人共に夫と為り、若し男子と為っては婦貞潔ならず。

(漢文:邪婬有十罪。
一者常爲所婬夫主欲危害之。
二者夫婦不穆常共鬪諍。
三者諸不善法日日増長。於諸善法日日損減。
四者不守護身妻子孤寡。
五者財産日耗。
六者有諸惡事常爲人所疑。
七者親屬知識所不愛喜。
八者種怨家業因縁。
九者身壞命終死入地獄。
十者若出爲女人多人共夫。若爲男子婦不貞潔)

これはどういう意味かというと、
1.不倫相手の配偶者が常に殺そうと狙ってきます。
2.夫婦仲が悪くなり、常に喧嘩が絶えなくなります。
3.色々な悪事が毎日のように増えていき、色々な善は毎日のように減って行きます。
4.身を守れずに、妻は未亡人になり、子供は孤児になります。
5.お金が日に日に減っていきます。
6.色々な悪事が起こり、常に他人から疑われます。
7.親族や先生から愛されなくなります。
8.将来恨まれるポテンシャルエネルギーを蓄えます。
9.死ねば地獄に堕ちます。
10.もし地獄を出て女に生まれれば夫は浮気します。男に生まれれば妻が浮気します。

このように、不倫は怖ろしい罪悪ですから、
自業自得の因果の道理によって
怖ろしい報いを受けるのです。

では、邪淫とはどんなことなのでしょうか?

邪淫とは?

邪淫について、『スッタニパータ』には、このように教えられています。

力ずくで、あるいはよしみをもって、
親類たちの、あるいは友人の妻と交わる人、
かれを賤しい人であると知れ。

力ずくかどうかにかかわらず、親戚や友人の配偶者と交わるのは、賤しい人である、ということです。

また、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の『大智度論だいちどろん』には、このように詳細に教えられています。

邪淫とはもし女人ありて父母兄弟姉妹夫兒子、世間の法、王法の為に守護せらるをもし犯せばこれを邪淫と名づく。
もし守護せられずといえども法を以て守となすあり、いかんが法守なる、一切の出家の女人と在家の一日戒を受くると、これを法守と名づく。
もしは力をもって、もしは財をもって、もしは誑誘し、もしは自ら妻あるも、受戒、有娠、乳児、非道、乃至華鬘をもって淫女に与えて要をなし、かくのごとく犯せば名づけて邪淫となす。
かくのごとく種々なさざるを不邪淫となす。

家族や法律などで守られている人を犯せば邪淫です。
または、守られていなくても、出家している人や、在家でも一日戒律を守る日の人でもダメです。
または、力ずくや、お金の力を使って、その他色々なことで犯せば邪淫である、ということです。

ではこれは、不倫をしていなければ無関係なことなのでしょうか?

不倫は他人事?

仏教では、基本的にこう教えられています。

他人の過失を見るなかれ。
他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。

私たちは、他人の欠点は実によく見えますが、
自分の欠点はなかなか分かりません。
ことわざにも
他人のふり見て我がふり直せ
といわれるように、
自らを振り返ることが大切です。

しかも仏教では、口や身体で犯す罪よりも、
口や身体を動かしている心で犯す罪は
もっと怖ろしいと教えられています。

仏教では、心で思っただけでダメなのです。
そうなると、これは他人事ではなくなってきます。

お釈迦さまは、あらゆる人の姿を
大無量寿経だいむりょうじゅきょう』にこのように教えられています。

ただ婬を念いて、煩い胸の中に満てり。
愛欲交乱して、坐起安からず。
細色をめんらいして邪態外にほしいままなり。
自らが妻を厭い憎みて、ひそかに妄りに入出す。

これは「つねに淫猥なことばかり考え、
愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、起つも坐るも、安らかでない。
女性の姿に眼を輝かせ、卑猥な行為を思いのままにしている。
我が妻をいとい憎んで、ひそかに他の女をうかがって煩悶している

ということです。

仏教を聞いて行くと、このような、
今まで知らなかった自分の心が知らされてくるのです。

仏教を聞くと知らされる自分の心

仏教は、法鏡といわれ、
真実の自分の姿を映し出す鏡のようなものだと
お釈迦さまは教えられています。

鏡に近づけば近づくほど自分のすがたがハッキリ見えてくるように、
仏教を聞いて行くと、今まで知らなかった自分のすがたが見えてきます。

仏教を聞く前は、他人のことばかり目について、
あいつ、泥棒猫め
自分はそんなことはしていない
あの人より私はましだ
と思っていますが、
仏教を聞けば聞くほど、
自分の本当の姿が知らされてきます。

真実の自分のすがたが知らされなければ、
本当の幸せにはなれませんから、
お釈迦さまは邪淫の罪について、
このように教えられているのです。

ではどうすれば、邪淫の罪を造るまま、地獄を逃れて
本当の幸せになれるのかについては、
仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
ぜひ一度読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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