阿難(アナンダ)とは?
「阿難」は、阿難陀(アナンダ)の略で、読み方は「あなん」です。
手塚治虫の『ブッダ』では、かなりダークなキャラとして描かれていましたが、本当はお釈迦様の十大弟子の一人で、最も多くお釈迦様の説法を聞いた「多聞第一」といわれ、禅宗では第三祖として尊敬されています。
阿難はあまりにイケメンだったので、女性からよく誘惑され、お釈迦様の生前は、なかなか高い悟りが開けなかったといわれますが、お釈迦様がお亡くなりになるとさとりを開き、現代の仏教に影響を与える極めて重大な働きをしています。
一体どんなことがあったのでしょうか?
阿難(アナンダ)とは
阿難とは、どんな人なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。
阿難
あなん
サンスクリット語・パーリ語 Ānandaに相当する音写で、<阿難陀>とも。
アーナンダ。
釈尊のいとこで十大弟子の一人。
侍者として25年のあいだ釈尊につかえ、説法を聴聞することが特に多かったので、多聞第一と呼ばれる。
釈尊の滅後、王舎城で仏典の第1回結集が行われた際には、経典の誦出に重要な役割を果たしている。
マガダ国のアジャータシャトル王(阿闍世)と、ヴァイシャーリーのリッチャヴィー族の双方の帰依をうけ、死後その遺骨は二分されてそれぞれに祀られたことが律蔵や法顕の『仏国記』、玄奘の『大唐西域記』に記されている。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、阿難についてとても簡単に説明されていますので、
ここでは辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
阿難(アナンダ)の生い立ち
阿難はお釈迦様のいとこです。
お釈迦様のお父さんの浄飯王の弟の甘露飯王の子供ですので、やはり釈迦族の王家の生まれです。
ダイバダッタ(提婆達多)の弟だといわれることもあります。
生まれたのは、お釈迦様が仏のさとりを開かれた年だといわれます。
お釈迦様が仏のさとりを開かれたのは、35歳の時ですので、お釈迦様よりかなり年下です。
阿難が生まれた時、お釈迦様のお父さんの浄飯王のもとへ甘露飯王の使いがやってきて
「弟ぎみにお子さまが生まれました」と報告すると、
「何?本当か!?なんと喜ばしい、今日はいい日だ」
と大変喜び、
「よし、その子の名前はアナンダとしよう」
と名付け親になったといわれます。
この「アナンダ」というのは歓喜という意味です。
生まれつきとてもかわいい顔立ちで、目は青蓮華のようで、顔はきよらかな満月のごとく、体は光り輝くようでした。
阿那律などの他の釈迦族の王族たちと一緒に出家しましたが、仏弟子になってからも天性の美貌が現れ、たくさんの女性から誘惑されて修行の気が散り、苦しむことになりました。
女性からの燃えるような視線
お釈迦様が舎衛国におられた時、旦那の人々から、たくさんの餅のお布施がありました。
お釈迦様は阿難を呼ばれ、
「これを仏弟子同士で分けて、余ったら貧しい人々に配るがよい」
と言われました。
仏弟子たちで分け合うと餅が余ったので、貧しい人々に1個ずつ配り始めました。
すると途中で、2つくっついて離れない餅がありました。とろうと頑張ったのですが、
どうしてもとれないので、それはもう1つということにして、2倍大きな餅を次の順番の人に渡すと、相手は非常に美しい娘さんでした。
貧しい人たちは、少しでもたくさん餅が欲しかったので、ねたみの心を起こして、
「あー怪しいー」
と言いました。
美しい娘は、イケメンの阿難尊者から餅をもらって、ただでさえ嬉しかったのに、特別大きい餅をもらって周りからはやし立てられたので、ドキドキしてサッと顔が赤くなりました。
それを見た周りの人が、
「あー、やっぱり怪しい。二人はできてるんだー」
と言うと、
「おー、ヒュー、ヒュー」
とたくさんの人たちから歓声がわき上がり、娘は恥ずかしそうにうつむきました。
阿難は周りの人々に向かって、
「そんなはずないではありませんか」
と冷静に対応している間、うつむいていた娘は、上目遣いに阿難に燃えるようなまなざしを送ったのですが、阿難はそれに気づかずに、何事もなくスルーしたといわれます。
女性に追いかけられる
他にも『摩登伽経』によれば、お釈迦様が祇園精舎におられたある日、阿難が祇園精舎から出発して、舎衛城を托鉢して回っていると、その日はとても暑かったので喉が渇きました。
帰り道に、ある池の近くを通ると、一人の娘が水を汲んでいました。
阿難が近づいて
「すみません、私は仏弟子の阿難と申しますが、水を一杯頂けませんか?」
と声をかけると、あまりの美青年に驚いた娘は、顔を赤くして目をそらし、
「申し訳ございません。私は身分の低い者ですので、とても差し上げることはできません」
と小さい声で答えました。
当時のインドでは、バラモン教の厳しい身分差別がありました。
1番上が「バラモン(婆羅門)」という僧侶で、
2番目が「刹帝利」という王族や武士、
3番目が「吠舎」といわれる商人や職人、
4番目が「首陀羅」で、農家や奴隷でした。
その4つの身分階級の中で、阿難はもともと王族、娘は首陀羅か首陀羅にも入らない低い身分でした。
ところが阿難は、
「あ、いえいえ、そんなことは何の問題もありません。
お釈迦様は、人は生まれながらに平等だと教えられています。
私はそんな差別はしませんから、ぜひ水を一杯頂けないでしょうか」
その言葉に感激した娘は、喜んで水を汲んで布施しました。
「ありがとうございます」
と阿難は美味しそうに水を飲みほすと、祇園精舎に帰っていきました。
ところがその娘は、その気高く優しい美青年の後ろ姿をうっとりと見送っているうちに、すっかり心を奪われてしまったのです。
家に帰っても、阿難のことが忘れられず、恋煩いで何も手につかなくなってしまいました。
お母さんが心配して聞くと、
「阿難さまに会いたい」といいます。
「そりゃ無理だ」と言っても、
「いいえ、阿難さまは、身分は関係ないと言われました」
と言って聞きません。
持て余した母親は、
「死人と煩悩を離れた人には効かないから期待しないでよ」
と言って、祈祷を始めました。
かわいい娘の恋心に、目を血走らせて、恐ろしい形相で昼も夜も神に祈り続けていると、ある日、たまたま阿難が近くを通りかかりました。
「やった、神さまのご利益だ」
とお母さんも娘も家を出て、ニコニコしながら阿難尊者を招き入れようとすると、その異様な雰囲気にハッとした阿難は、その場を逃げ出しました。
それを見た娘は泣き崩れてしまいました。
翌日、阿難が舎衛城へ托鉢に行くと、その娘が待ち伏せしていました。
娘がついてきていては托鉢にならないので、走って逃げると、娘はどこまでもついてきます。
祇園精舎へ帰ってもついてくるので、困ってしまった阿難は、お釈迦様にご相談しました。
するとお釈迦様は娘に
「阿難の妻になるには出家しなければならない」
と言われました。
娘がうなづくので、お母さんにも了解を得て、黒髪を剃って
比丘尼となりました。
お釈迦様は、娘の心が静まるのを待って、こう言われました。
「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。
人は、飛んで火に入る夏の虫のように自らその炎に身を投げる。
しかし、智慧ある者は、常に色欲を遠ざけて、静かな幸せを味わう。
これからはそなたもさとりを目指して修行するがよい」
続けてお釈迦様からの教えを受けるうちに、娘は欲望を遠ざけるようになり、ついには救われたといわれます。
それというのも、かつて阿難は、女性が出家できるようにお釈迦様にお願いしたことがあったのでした。
女性の出家の道を開く
もともと、お釈迦様の教団に出家できるのは、男性だけでした。
仏教の教えはすべての人が救われる教えなのですが、男性が迷ってしまうために、警戒されていたのでした。
お釈迦様が仏のさとりを開かれてから、5年後くらいに、お父さんの浄飯王が亡くなりました。
その時、お釈迦様のお母さんの妹で、お釈迦様を育ててくれたマカハジャバダイ夫人は、無常を見つめ、出家したいとお釈迦様に申し出ますが、許してもらえませんでした。
一時はなくなく宮殿に戻りましたが、次に死ぬのは自分の番だと思うと、居ても立ってもいられなくなり、お釈迦様の後を追おうと決心しました。
同じように無常を見つめた美女500人もお供すると言います。
そこでみんなで長い黒髪を切って、一衣一鉢の比丘尼の姿になって、裸足で城を出ました。
旅の途中、通りかかった人々が、珍しそうにヒソヒソと陰口を言ったり、僧侶ということでお布施をしようとする人もありましたが、一切に目もくれず、ひたすらお釈迦様のもとを目指しました。
道のりは非常に遠く、なれない旅路に足は棒のようになり、息も絶え絶えになって、お釈迦様のおられる門の外にたどりつきました。
それに気づいた阿難が出てくると、みんな髪の毛を切って、泥だらけになり、涙ながらに立っています。
「あれ、おばさんじゃないですか。どうされたんですか?」
と尋ねると、
「出家して仏教を求めたいと思ってここまで来ました」
と言います。
阿難は命をかけて仏教を聞きに来られた女性達の心を思いやり、お釈迦様に許しを願いました。
ところがお釈迦様は、
「阿難よ、女性の出家はならぬ、諦めるがよい」
といわれます。ところが阿難は、重ねてお尋ねします。
「出家できないということは、仏教では女性は救われないということでしょうか」
「いや仏教に、男女の差別はない。すべての人が救われる教えである。
しかし女性が出家すると、道を誤る者が多く出て、かえって救われる者が少なくなるであろう」
こう言われると、阿難はいつもはお釈迦様の教えられた通りにするのですが、この時ばかりは諦めきれませんでした。
「お釈迦様、仏教ですべての人が救われるとすれば、お釈迦様を長い間お育てになられたマカハジャバダイ夫人が、命をかけて教えを求めてきているのです。
どうか女性の出家をお許しください」
と真剣にお願いします。
お釈迦様はしばし考えられると、ついに女性のために新しい戒律を設けて、出家を許されたのでした。
こうして阿難は女性に救いの道を開いたということで、マカハジャバダイ夫人は丁寧にお礼を言ったといいます。
20才でお釈迦様の秘書に
なぜこのように、阿難は、お釈迦様にお願いできたのかというと、阿難が20歳になった時、お釈迦様は55歳になられ、身の回りのお世話をする係が選ばれることになりました。
その話を聞いて、
「はい、私がさせて頂きます!」
と真っ先に立候補したのは、お釈迦様が出家される前から仕えていて、お釈迦様のお父さんの
浄飯王の命で、お釈迦様と一緒に修行し、お釈迦様が仏のさとりを開かれた後は、一番最初にお弟子になった、キョウチンニョ(憍陳如)でした。
ところがキョウチンニョは、積極性は高いものの、お釈迦様より年上です。
自分のことでも精一杯なのにとてもお釈迦様のお世話をするどころではありません。
お釈迦様は、
「いやいや気持ちは嬉しいが、自分のことをしたらよい」
と言われました。
そこで、舎利弗などの他のお弟子が考えて、若くて記憶力のいい阿難を推薦しました。
阿難は
「いえいえいえ、私にはとてもそんな大それたことはできません」
と固く辞退していたのですが、みんなが強く勧めたので、最終的に、阿難がその大任につくことになりました。
現代でいえば、秘書のようなものです。
それからお釈迦様が80歳でお亡くなりになるまでの25年間、常にお側で仕えることになりました。
阿難尊者の聞法の真剣さ
阿難尊者はいつもお釈迦様の近くにいたので、最もたくさんの教えを聞く機会に恵まれました。
その上、阿難の聞法心は、想像を超えた真剣さでした。
『毘奈耶破僧事』によれば、ある時、阿難の背中にできものができてしまって、触ってみるとものすごい痛みが走ります。
お釈迦様にご相談して、名医の耆婆に見てもらうことになりました。
阿難の背中のできものを診察した耆婆は、これは化膿しているので、切り取らないと毒が回って危険だと見抜きます。
当時は麻酔がなく、切り取るには直接刃物で大変な痛みが走るので、どうしたものかと考えていると、名案を思いつきます。
阿難尊者は、お釈迦様のご説法を聴聞する時には、微動だにもしないので、その時に切り取るのが一番痛くないのではないか、というものです。
阿難尊者も、「ではそれでお願いします」というので、お釈迦様にお許しを頂いて、いよいよ説法の日を迎えました。
お釈迦様の尊いお話が始まると、阿難尊者は全身を耳にして真剣に聞き入ります。
阿難尊者がお釈迦様のご説法に集中したところを見計らって、耆婆が近づき、切開を始めます。
普通はあまりの激痛に、大人でも叫び声をあげて反射的にのけぞるのに、阿難は微動だにしません。
やがて手術を終え、お釈迦様のご説法が終わって、
「すごい精神力ですね。痛くなかったですか?」
と阿難に尋ねると、
「え?何の話ですか?」
「できものの切開手術の話ですよ」
「えっ?そんなことしたんですか?」
麻酔なしの外科手術にまったく気づいていなかったといわれます。
阿難尊者はそれほど真剣に聞いていたので、一回聞いたことはICレコーダーのように何十年でも克明に記憶して、一言一句忘れなかったといいます。
ある時、阿難尊者は、頭の上に地球を乗せても少しも重くない夢を見ました。
「これはどういうことだろう」
と思ってお釈迦様にお尋ねすると、
「それは、そなたが私の説いた教えを一句も忘れず、仏滅の後、暗唱するという意味である」
と答えられたといいます。
お釈迦様の最期
阿難尊者が45歳になった時、80歳になられたお釈迦様は、マガダ国の王舎城から、故郷のカピラ城に向かって旅に出られました。
450キロ以上ある道のりですが、80歳で歩いての旅ですので、大変お疲れになられました。
やがて300キロ以上過ぎたクシナガラで、一歩も歩けなくなってしまわれます。
そこで阿難に命じて沙羅双樹の下に涅槃の床を作らせられました。
お釈迦様がそこに頭を北に向けて横になられると、沙羅双樹の花が咲き、はらはらと乱れ散りました。
そして、お釈迦様のお弟子が続々と集まってくると、阿難は枕辺で、最期の質問をしました。
「お釈迦様がおられない時は、私たちは女性にどう接したらいいのでしょうか」
「阿難よ、煩悩を離れて、悟りを開きたければ、女性を見てはならない。
しかしどうしても接しなければならない時は、母と思い、姉妹と思うがよい」
と答えられました。
そして、さらに色々な質疑応答を続けていると、阿難は、これが最期と思うと悲しくなり、その場を離れて、断腸の思いで声を上げて泣き始めてしまいました。
お釈迦様が阿難を呼び戻されると、
「阿難よ、悲しんではならない。
この世は無常の世界、生まれたからには必ず死ななければならない。
そなたはこれまでよく頑張ってくれた。
私の亡き後も、目的に向かってますます努力するがよい」
こうしてお釈迦様が入滅され、涅槃の雲に隠れられると、阿難は号泣して、
「私は怠りがちだった。きっと失礼なこともたくさんあっただろう」
と深く反省しました。
火葬が終わると、他のお弟子は王舎城へ向かいましたが、阿難は一人祇園精舎へ赴き、悲しみの中、懐かしいお釈迦様のお部屋を掃除してから王舎城へ向かいました。
お経をまとめる
お釈迦様は、一冊の本も書かれなかったので、お釈迦様がお亡くなりになって3カ月後に、王舎城で仏の教えを確認する会議を開くことになりました。
これを「結集」といいます。
しかしながら、お釈迦様の説かれた教えは、すべての人が救われる道なので、間違ったら大変なことになります。
人類永遠の宝を残す重要な会議なので、お釈迦様のお弟子の中でも、阿羅漢という高い悟りを開いたお弟子500人が集まって、仏典結集を行うことになりました。
ところが一番多くの教えを聞き、抜群の記憶力を持つ阿難は、まだ阿羅漢の悟りを開いていなかったので、焦りました。
そこで、よく反省して、お釈迦様の教えの通りに勇猛精進して修行に打ち込み、結集までに阿羅漢の悟りが開けたのでした。
仏典結集では、十大弟子の一人、迦葉が議長になり、
「あの時お釈迦様はどのように説かれましたか?」
と尋ねると、阿難尊者が
「私はこのように聞きました」
と言って一字一句克明に記憶しているお釈迦様のお言葉をそらんじます。
その「私はこのように聞きました」というのが、お経の最初にある
「如是我聞」(かくの如く我聞く)という言葉です。
この「我」が阿難です。
そこで聞いていた500人の阿羅漢が、一人でも、
「そうではなかったと思う」
と言ったら、そこは議論して確認し、全員一致で確認がとれたことだけがお経として伝えられることになったのです。
ところが、阿難の記憶力はすばらしく、お釈迦様の最初のお弟子、キョウチンニョ(憍陳如)は、ありし日のお釈迦様が思い出されて、感激のあまり気絶したといわれます。
こうして、阿難の正確な記憶によって、お釈迦様のお言葉が思い出され、お経が残されたのでした。
その中には、『大無量寿経』のように、阿難に対して説かれた内容もありますし、
『法華経』や『阿弥陀経』のように、他の人に説かれたこともありますが、近くで聞いていた阿難が思い出して「かくの如く我聞く」と暗唱したのです。
こうしてお釈迦様の説かれた教えは七千余巻の一切経となって今日に伝えられています。
お釈迦様の時代から現代まで、インド、中国、日本の幾億兆の人が、仏教の教えに救われたか知れません。
このように阿難は、人類の光となる仏教の教えが、現代に伝えられるのに重大な役割を果たしたのでした。
では、お釈迦様が七千余巻の一切経に説かれた教えとは一体何だったのかというと、それは、すべての人の苦悩の根元を断ち切って、変わらない幸せにする道です。
ではその苦悩の根元とは何か、どうすればそれを断ち切られて、変わらない幸せになれるのかということは、仏教の真髄ですので、以下のメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)