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あの世とは?冥土の意味と冥土の旅で行き先を決めるもの

あの世とは、どんな世界なのでしょうか?

「生ある者は必ず死に帰す」と言われますように、
死は、100%確実な未来です。
亡くなった家族は、あの世でどうしているのだろうか。
自分も死んだら、どこへ行くのだろうか。
誰でも一度は、そう思ったことがあると思います。

「あの世」とは、死後の世界のことで、「冥土(めいど)」ともいわれます。
一般には、「死んだら霊魂が行く世界」と考えられていて、
お盆やお彼岸には、亡くなった人がそこから帰ってくるともいわれます。

では、死んだらどうなるのでしょうか?

日本でいわれるオーソドックスな冥土(めいど)の旅では、
死出の山を越え、三途の川を渡り、閻魔大王の裁きを受けるといわれます。

ところが仏教では、
あの世は、霊魂がどこかへ引っ越していく先ではないと教えられています。
あの世とは本当はどんな世界で、冥土の旅の行き先は、何で決まるのでしょうか?

あの世とは

「あの世」の意味について、仏教の辞書にはこう書かれています。

あの世
あのよ
死後の世界。
<よみじ><他界><冥途(めいど)><冥界>とも。
仏教の説く輪廻転生(りんねてんしょう)は迷いの世界を比喩的に提示したもので、霊魂不滅説を唱道したわけではない。
けれども、民間へ受容されるにつれ、六道絵や地獄変相図が絵解きによって導入され、それが日本人の他界観に大きな影響を与えた。
しかし、日本人本来の考え方として、死後の世界は現世と連続するところに存在し、死者は盆・彼岸(ひがん)・命日には容易に両界を往来し、子孫に相まみえることが出来ると考えていた。

このように、あの世は、よみじ・他界・冥途・冥界などとも呼ばれます。
あの世について「死んだら霊魂がいく世界」のように理解すると、
本当のところが分からなくなるので、詳しく説明します。

また、この辞書は大変誤解を招く表現をとっていますが、
仏教に説かれる輪廻転生(りんねてんしょう)は、ただの比喩というわけでもありません。
固定不変の霊魂はありませんが、変わりながら続いていく永遠の生命が、
次の世界へ生まれ変わると説かれています。
あの世のことを、冥土とも言われますので、冥土の意味も説明します。

冥土の意味

冥土の意味については、こう書かれています。

冥途
めいど
死者の霊魂が赴くという地下の世界。
<冥土><冥界><冥路(めいろ)><黄泉(よみ)><黄泉路>などとも呼ばれ、暗黒のイメージを持つ。
中国の冥府信仰(人間の寿命や禍福など運命を支配する神である太山府君に対する信仰など)に由来する他界像で、地蔵十王経によると、そこには閻魔(えんま)王に代表される十王がいて、そこに赴く死者(霊)を裁くとされる。
初七日には死者は秦広(しんこう)王の庁に到り、以下順に二七・三七・四七・五七・六七・七七日、百カ日・一周忌・三回忌と各王の庁に到って裁かれる。
三途(さんず)の川や賽(さい)の河原もその道中にあるとされる。

冥土とは、死んだ人が赴く世界で、迷いの世界、三悪道などを意味します。
「冥」とは、かたあかりという意味です。
向こうからは見えて、こちらからは見えないからです。

ちょうど夏にすだれをかけると、家の中から外は見えますが、
外を歩いている人から家の中は見えないようなものです。
ちょうどそのように、あの世からこの世は見えますが、
この世からあの世は見えないということです。

「冥土」とも「冥途」とも書きますが、意味は同じです。
冥土とよく比べられるのが「浄土」です。
浄土は清らかな明るい世界で、
暗い迷いの世界である冥土とは、正反対です。

三悪道については、下記をご覧ください。
➾六道の意味と輪廻から抜け出し解脱する方法

あの世や冥土について仏教では詳しく説かれていますが、
そもそもなぜ私たちは「あの世がどうなっているのか」について知る必要があるのでしょうか。

死後がどうなっているかで生き方が変わる

あの世がどうなっているかを知ると、
私たちが生きている間に、本当になすべきことが分かります。

なぜなら、死後がどのような世界なのかは、
現在(生前)と大きく関係するからです。
それを因果応報としてお釈迦様は教えられています。

生前やっていた行いの結果が、死後に現れます。
私たちがどのような種まきをしているのか、あの世を知ればよく分かるのです。

また、あの世を知ることで、私たちが今何をすべきかも見えてきます。

因果応報についてはこちらをご覧ください。
➾因果応報とは?意味を分かりやすく恋愛の実話を通して解説

では、私たちはどのような臨終を迎え、
どんな冥土の旅をすることになるのでしょうか?

日本人の最期

日本では、約7割の人が病気で死にます。
そのトップは癌です。
普段から食事と運動、睡眠に心がけ、
くれぐれも健康に気をつけてください。
寿命が延びます。

ただ、いくら寿命が延びても、死ななくなるわけではありません。
そういうわけで、あなたもついに人生最後の病気にかかりました。

病院で、二度と退院できる見込みのない闘病生活を送ります。
どんなに検査をしても、薬を飲んでも、身体は弱る一方で、
起き上がることもできません。

日本は、経済的に豊かで、科学技術、医療技術もすぐれています。
今まで働いて貯めたお金で、高額な延命装置をつけますが、
命はそれほど延びません。
どんなにお金があっても、科学の発展も、医学の進歩も、もはやこれまで。
ついに、最後の時を迎えます。

日本で言われる基本的な冥土の旅

気がつくと、あなたは独りぼっちで、
真っ暗な所にいます。
いよいよ「冥土の旅」ともいわれる
「死出の旅」へ出発するのです。

生前に五逆罪(ごぎゃくざい)や謗法罪(ほうぼうざい)のような、重い罪を造った人はすぐに地獄に堕ちますし、
逆に仏教を聞いて、輪廻転生の原因が根本から断ち切られていれば、
死ぬと同時に極楽浄土へ往生(おうじょう)できるのですが、
どちらでもない人は、次に生まれる世界を決めるための
裁判を受けなければなりません。

死出の山路

冥土の旅の最初は、死出の山路です。
真っ暗な山道を独りでとぼとぼ歩いて行かなければなりません。
約800里の遠い道のりです。

その長い長い道のりを、独り寂しく歩いて行くと、
やがて見えてくるのが、三途の川です。

賽(さい)の河原

三途の川が近づいてくると、たくさんの子供がいるのが見えてきます。

三途の川の手前の岸が「賽(さい)の河原」です。

賽の河原にいるのは、親よりも先に死んだ子供たちです。
「えっ、子供だったら、大人よりも純心だし、
まだ悪いこともあまりしていないんじゃないの?
」
と思うかもしれませんが、実は、子供ならではの罪があります。

それは、親より先に死んで、親を非常に悲しませたということです。
仏教では、親の大恩は山より高く、海より深いと教えられています。

どんな大恩があるのかについて以下の記事に詳しく解説してあります。
➾親孝行の意味とやり方・ブッダのおすすめは?

その大恩ある親を悲しませるのは、大変な重い罪なのです。

そのため、子供たちは、河原の石を積んで、塔を作る、
起塔の行を修めなければなりません。

ところが、少し石が積み上がると、
鬼がやってきて、金棒でぶち壊されてしまいます。

そして、わんわん泣いていると、
鬼は「何を泣いているんだ。恨むなら、オレではなく、両親を恨め」
と教えてくれますが、鬼は基本的に無慈悲で意地悪ですから、
ここでだまされてはいけません。
鬼の言う通りに親を恨んだら、余計罪を造ってしまいます。

仏教では、自業自得の因果の道理がありますから、因果応報です。
恨むなら自分のたねまきを恨み、反省しなければなりません。

こうして、積み上げては崩されて、積み上げては崩されて、
永遠に石を積み続けなければならないのが賽の河原です。

三途の川

しかし、他人の心配をしている場合ではありません。
自分も死出の旅路の途中ですから、
三途の川を渡らなければなりません。

三途の川には橋がかかっているのですが、
比較的罪の軽い人は、渡ることができます。
罪が重い人は、川を歩いて渡らなければなりません。

ところが、渡し船がいた場合は、
渡し賃を払うと、乗せてもらえる時があります。
その値段は、六文です。
真田家の家紋が「六文銭」なのも、
いつでも死ぬ覚悟を示しているそうですが、
その位の時代の話でしょう。

現代では、六文はかなり珍しいので、渡し船を利用するのは極めて困難です。
当時からあの世の物価はどれくらい高騰しているのか、
60円とか600円で乗せてくれるかは分かりませんので、
三途の川は徒歩で渡る心づもりをしておいてください。

そして、三途の川の向こう岸に渡ると、
二度とこちらの岸には戻って来れません。

脱衣婆(だつえば)

三途の川を渡ると、そこには「脱衣婆(だつえば)」と、
「懸衣翁(けんねおう)」がいます。
脱衣婆が、服を脱がすお婆さんで、
懸衣翁が、脱がせた服を木に懸けるお爺さんです。

脱衣婆が、あなたの服をはぎ取ると、
懸衣翁が、「衣領樹(えりょうじゅ)」という木の枝に
その服をかけます。

すると、生前の罪の重さにしたがって、枝がしなります。
この後の裁判でも、重さによって目盛りに行く先が表示される
「業(ごう)のはかり」がある所がありますので、要チェックです。
ここでかなり枝がしなるようだと、かなり先行きが暗い兆候です。

そこで身ぐるみ剥がれて、
あとは裸一貫で死出の旅を続けることになります。
死出の旅路はすごく寒いので、ぶるぶるがたがた震えながら
独り寂しく歩いて行きます。

やがて閻魔大王の法廷が見えてきます。

閻魔大王(えんまだいおう)

閻魔大王の法廷に着くと、
牛頭(ごず)、馬頭(めず)、赤鬼、青鬼などの獄卒の鬼に引きたてられて
閻魔大王の前へ突き出されます。

閻魔大王の所には、浄玻璃(じょうはり)の鏡があります。
ここでは、一切のごまかしはできません。
生前の行いが全部映し出されます。

ちょうど、車で言えばドライブレコーダーがついていて、
事故に遭ったときに、それを見れば状況が分かりますので、
言い争いや弁護士の仕事が減っているようなものです。

生前に1匹でも生き物を殺したことがあり、
この浄玻璃の鏡に、殺生罪が映し出されると、
地獄行きになります。

閻魔大王のお言葉

そして閻魔大王は、あなたをハッタとばかりにらみつけて
破れ鐘のような大声で怒鳴りつけます。

「お前は娑婆にいた時、老人を見なかったか。
頭は白く、歯はぬけ、眼はくぼみ、肌はシワより、身体はふるえ、
気力は衰え、うめきつつ、杖にすがって歩む者、これこそ第一の天使じゃ」

「次にお前は娑婆にいた時、病人を見たことはなかったか。
身体はやせ細って衰え、傷みが走り、立つことも自由にならず、
飲食やトイレにさえ人の助けを待ち、
一日中寝たきりでうめき苦しむ者、これこそ第二の天使じゃ」

「最後にお前は死人を見なかったか。
命終って最後の息がながく絶えたならば、身体は崩れて枯木のようになり、
塚の間に捨てられて鳥や獣に食われ、棺に納められて
火葬場から立ち上る一条の煙となり、一つまみの白骨が残る。
この者こそ第三の天使じゃ」

「このようにお前は娑婆に於て、三天使に会いながら仏教を聞かず、
今地獄へ堕ちて苦しみを受けるのは、父母両親の過ちでもなく、
兄弟のためでもない。まさしくお前自身の自業自得であるぞ」
こうして最後、獄卒に命じられ、罪人として
地獄の奈落へ送られることになるのです。

もしあなたがすでに殺生罪を造ってしまっている場合、
最大の対策としては、殺生罪を造っても
地獄に堕ちない方法が仏教に説かれています。

冥土の旅で行き先を決めるもの

あの世とは、死後の世界です。
死後どうなっているかを知ることで、現在何をすべきかが見えてきます。
冥土の旅には、いくつもの関所がありましたが、
どの関所で問われていたのも、たった1つのことでした。

賽の河原で子供たちが石を積み続けるのは、
親より先に死んで、親を悲しませたからでした。
三途の川を、橋で渡れるか、歩いて渡らなければならないかは、
罪の軽い重いで決まりました。
衣領樹の枝のしなり方も、業のはかりの目盛りも、生前の罪の重さです。
浄玻璃の鏡に映し出されるのは、生前の行いのすべてです。
そして閻魔大王も、地獄へ堕ちるのは父母や兄弟の過ちではなく、
自業自得だと告げています。

冥土の旅で問われるのは、どこへ行くかではありません。
生きている間に、自分が何をしてきたかです。
あの世の行き先を決めているのは、閻魔大王ではなく、自分自身の行いです。

あの世については、世間では大きく2つの考え方があります。
1つは、「死んだら霊魂がどこかの世界へ行く」というものです。
もう1つは、「あの世などない、死んだら無になる」というものです。
冥土の旅も、昔の人が子供を戒めるために作った作りごとだ、というわけです。

どちらも、それなりに頷けるところがあります。
霊魂が行くと思えば、亡くなった家族とまた会えるような気がしますし、
何もないと思えば、恐ろしい冥土の旅に怯えることもありません。
ですが仏教では、そのどちらでもないと教えられています。

私たちがしてきた行いは、どれも消えてなくなるのではありません。
業力(ごうりき)となって、「阿頼耶識(あらやしき)」という蔵のような心に、
すべて蓄えられていきます。
そして死ぬと、阿頼耶識は、その業力によって、
地獄や天上界などの次の世界を生み出します。
あの世は、霊魂が引っ越していく先でもなければ、何もない無でもなく、
自分の行いが生み出す世界なのです。

そのことを、お釈迦さまは『法句経』の悪行品に、こう説かれています。
悪い行いには必ず報いがあることを、強く戒められたところです。

夫れ士の行う以(な)す所は、然る後に身自ら見る。
善を為せば則ち善を得、悪を為せば則ち悪を得。
有識は胞胎(ほうたい)に堕し、悪者は地獄に入り、
善を行うものは天に上昇し、無為は泥洹(ないおん)を得。

(漢文:夫士所以行,然後身自見。為善則得善,為悪則得悪。有識堕胞胎,悪者入地獄,行善上昇天,無為得泥洹)

「夫れ士の行う以(な)す所は、然る後に身自ら見る」とは、
人が行ったことは、後になって、自分自身がその結果を見ることになる、ということです。
これは「自業自得」ということです。
「善を為せば則ち善を得、悪を為せば則ち悪を得」とは、
善い行いをすれば善い結果を受け、悪い行いをすれば悪い結果を受ける、ということです。
これを「善因善果、悪因悪果」ともいいます。

その死んだらどうなるかについて、
「有識は胞胎(ほうたい)に堕し」とは、
心ある生き物は、人間や動物のような迷いの世界の
母親の胎内に生まれる者もある、ということです。
「悪者は地獄に入り」とは、悪い行いをした者は、地獄に生まれるということです。
「善を行うものは天に上昇し」とは、
善い行いをした者は、天上界に生まれるということです。

しかし、これらは迷いの世界です。
「無為は泥洹(ないおん)を得」とは、
煩悩を離れた者は、涅槃(ねはん)の境地に至る、ということです。

そして、空の上に逃げても、海の中に潜っても、山の岩の間に隠れても、
過去に造った悪の報いを避けられる、という場所はどこにもない、と説かれています。

人間に生まれるのか、地獄に生まれるのか、天上界に生まれるのか、
その行き先は、どこかの誰かが決めるのではありません。
自分の行いが、そのまま自分の行き先を生み出していきます。
そして、自分の行いの結果から逃れられる場所は、
空の上にも、海の中にも、山の奥にも、どこにもないのです。

天親菩薩
天親菩薩

このことを、天親菩薩(400頃−480頃)は『倶舎論(くしゃろん)』に、
生きとし生けるものや、それが住む世界に、
様々な違いがあるのは、誰が生み出したからなのか、
という問いに答えて、こう教えられています。


世の別は業より生ず。
(中略)
但だ有情の業の差別(しゃべつ)に由りて起こる。

(漢文:世別由業生。(中略)但由有情業差別起)

「世の別は業より生ず」とは、
生きとし生けるものの姿や、それぞれが住む世界の違いは、
業から生まれる、ということです。
「業」とは、行いのことです。

「有情」とは、心ある主体のことです。
「但だ有情の業の差別(しゃべつ)に由りて起こる」とは、
「但だ」ですから、二つも三つもない、ただ一つだ、ということです。
唯一、それぞれの主体の行いの違いのみによって起きてくる、ということです。

ですから、あの世の行き先は、臨終を迎えてから決まるのではありません。
生きている今、決まっていきます。
冥土の旅の初めにあるように、
仏教を聞いて、輪廻転生の原因が根本から断ち切られていれば、
どんな悪人でも死ぬと同時に極楽浄土へ往生できる、と教えられています。

では、生きている今、私たちにできることは何なのでしょうか?

私たちが今やれること

それは、仏教を聞いて、生きている今、
迷いの根本原因を断ち切り、
未来永遠変わらない幸せになることです。

その身になれば、あの世の行き先も、今ハッキリします。
心の底から大安心でき、「人間に生まれてよかった」と大満足できます。
長い修行も、特別な才能も、何十年という年月も必要ありません。
どんな人でも、生きている今、その迷いの根本原因を断ち切ることができます。
今これを読んでいるあなたも、この世から、
未来永遠に変わらない幸せになることができるのです。

では、その変わらない幸せとはどんな幸せで、
生きている今、変わらない幸せになるにはどうすればいいのか
については仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。