他力本願とは?
「他力本願」というと、
文字の印象から、「他人の力に頼ることを本心から願う」という意味かと思います。
「そんな他人に依存する心では人としてどうか」という軽蔑的な意味を持ちます。
ところが仏教で、特に日本の最大宗派である浄土真宗、
2番目の浄土宗では最高の救いに関わる超重要キーワードなので、
下手に間違えると大変なことになります。
一体どんな意味なのでしょうか?
他力本願の本来の意味を、分かりやすく解説します。
他力本願の意味
他力本願の意味を、仏教の辞典で簡単に確認すると、
このように出ています。
他力本願
たりきほんがん
阿弥陀仏が衆生を救済する誓願が成就して、衆生の極楽往生が決定しているので、その救済は衆生の自力ではなく、阿弥陀仏の他力に基づくということ。
浄土真宗で説く。
阿弥陀仏の四十八願のうちでも、特に衆生済度を誓った第十八願が中心に考えられる。
『教行信証』行巻に、「他力といふは如来の本願力なり」とあるように、<他>とは阿弥陀仏、<力>とは本願力のことである。
また、親鸞の消息(『末灯鈔』十二通)に、「詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき」とあるように、他力本願と本願他力は同義である。
世間一般には、自己の主体性を放棄して他人の力を当てにしてものごとを成し遂げようとする依存主義・頼他主義に関して用いられることがあるが、これは誤解である。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、他力本願とは阿弥陀仏のお力のことです。
そして、他力本願と本願他力は同じ意味です。
他人の力をあてにするのは間違いです。
そして実はこの仏教辞典の、
「阿弥陀仏が衆生を救済する誓願が成就して、衆生の極楽往生が決定している」
というのも間違いです。
それはどうしてでしょうか?
この後のもっとわかりやすい解説で、それもご理解頂けると思います。
他力本願の単純な誤用
「他力」というと、あたかも他人の力のように思います。
他人のものを利用して自分の役に立てることを「人の褌で相撲を取る」とか「人の提灯で明かりを取る」といいますが、このようなことを他力かと思い、他の人の力をあてにすることを「他力本願」だと思うのです。
記者ハンドブックには、誤りやすい語句として掲載されています。
他力本願
〔注〕浄土門で阿弥陀仏の本願によって救済されるの意。
比喩の他の力を当てにする意で使わない。(引用:『記者ハンドブック』)
このような他力本願の誤用は、政治やスポーツの世界でよくみられます。
まず、大々的に誤用された3つの分野での例をみてみましょう。
1.政治の世界での他力本願の誤用
1968年、倉石忠雄農水大臣は、
「なにしろ軍艦や大砲を背景に持たなければだめだ。
他国の誠意と信義に信頼している憲法は他力本願だ」
と発言しました。
これは「他力本願」を他国の軍事力に頼るという意味で使っており、
浄土真宗各派から抗議を受けました。
この発言によって、倉石農水大臣は最終的に辞任しています。
1981年には、鈴木善幸首相が、年頭の記者会見で、
「わが国の防衛は他力本願ではいけない。
自分の国は国民の手で守っていかなければならない」
と発言しました。
これも、他力本願を他国の防衛力に頼るという意味で使っています。
それに対して浄土真宗本願寺派の宗務総長は
「一国の首相でもあり社会的影響も大きい」
と善処を要求し、浄土真宗十派の真宗教団連合も要望書を提出しています。
その結果、首相は内閣秘書官を通じて
「今後充分に注意させていただきます」
と謝罪しました。
このように、政治の世界では、他国の軍事力に頼るという文脈で
「他力本願」とよく使われます。
また、2024年には、鹿児島県選挙管理委員会の作成した、知事選への投票を呼びかけるポスターに、「他力本願知事」が登場していました。
それに対して浄土真宗本願寺派と、真宗教団連合が、本来の意味と異なると抗議し、掲載されたポスター160枚が刷り直しとなっています。
ポスターの修正版は「人任せ知事」とされたので、他力本願を人任せという意味で使っていたことが分かります。
2.スポーツの世界での他力本願の誤用
スポーツの世界でも他力本願の誤用はよくあります。
2009年、横綱朝青龍が大相撲10日目で1敗したとき、
白鵬が10連勝で単独トップに立ちました。
白鵬があと5回のうち1回以上負けなければ、もう朝青龍の優勝はありません。
そのとき中日スポーツ新聞では、
「絶好調の白鵬に他力本願は難しい」
と報じました。
これは、他人のミスによって自分が勝つことを、他力本願と使われています。
2018年のサッカーワールドカップ予選では、
日本代表はポーランドに0対1で負けていました。
ところが試合終了15分前、同時に試合をしていたセネガルが負けたという情報が入り、
この点差を維持すればワールドカップに出られることが分かります。
そのため最後の10分間、日本は攻撃せず、ボールを回すだけという作戦で、
見事ワールドカップ出場を果たしました。
ところが、この消極的な作戦に対してブーイングが沸き起こり、
俳優の石田純一などは腹を立てて
サンケイスポーツに
「情けない!他力本願で、最後は何もしないで攻めないなんて!
日本代表に失望した。くそ食らえだ」と珍しく怒りを爆発させた、
と報道されました。
このように、スポーツの世界では、
他人が負けることによって自分が勝つことを
よく「他力本願」と使われます。
3.その他のマスコミでの誤用
2002年には、オリンパスがデジタルカメラの宣伝のため、
複数の新聞に、全面広告で
「三日坊主から抜けだそう
大樹の陰から抜けだそう
井の中から抜けだそう
無芸大食から抜けだそう
その場しのぎから抜けだそう
二番煎じから抜けだそう
箸にも棒にもから抜けだそう」
という7つのよくないものからの脱却をうたった最後、
8つ目に
「他力本願から抜けだそう」
とありました。
「他力本願」を
「三日坊主」「無芸大食」「その場しのぎ」「二番煎じ」
などと同列にされた浄土真宗本願寺派は、
「本来の意味を無視した『他人まかせにする』という意味での使用は、
私たちがこの『他力本願』の教えによって力強く生きていくことと、
全く反対の生き方を示すことになる」
という抗議文を出しました。
真宗教団連合も「広告の表現は多くの門徒の心を踏みにじる」と抗議をし、
その後オリンパスは配慮が足りなかったと謝罪し、
広告を作った電通も勉強不足だったと謝罪しています。
このように「他力本願」は、他人の力に任せる悪い意味に誤用されますが、
マスコミでこの使い方をすると、苦情が殺到します。
なぜなら日本最大の宗派の浄土真宗、2番目の浄土宗では、
究極の救いに直結する重要な言葉だからです。
そして事実仏教では、出家して難行苦行ができない限り、
他力本願の意味を知らずに本当の幸せになることはできません。
一体どんな意味なのでしょうか?
他力本願の本来の意味
「他力本願」とは、日本で最大の宗派である浄土真宗や、
2番目に大きい浄土宗で使われる言葉です。
他力と言うは如来の本願力なり。
(引用:親鸞聖人『教行信証』行巻)
このお言葉は、「他力とは、阿弥陀如来の本願力のことである」という意味です。
他力の意味
このように「他力」と「本願力」は同じ意味で、
「他力」の意味と「本願力」の意味は全く一緒です。
つまり「他力」イコール「本願力」です。
ですから「他力本願」は、
「他力」といっても「本願力」といっても「本願他力」といっても同じ意味なのです。
次に、本願力とはどんな意味なのでしょうか。
本願力の意味
他力とか本願力とは何かというと、阿弥陀如来の本願の力です。
少し詳しく説明します。
「阿弥陀如来」とは地球上に現れたブッダの先生の仏で、
最強の力を持つ大宇宙の諸仏の王です。
そして「本願」とは本当の願いのことです。
つまり阿弥陀如来の本当の願いを、本願と言われているのです。
では、阿弥陀如来の本当の願いとは何かというと、
「すべての人の苦悩の根元を破り、必ず変わらない幸せにしてみせる」
という誓いのこと。
(出典:『大無量寿経』阿弥陀仏の十八願(至心信楽の願))
阿弥陀如来は、このような本願を建てられているのです。
阿弥陀如来と阿弥陀如来の本願についてさらに詳しくは下記をご覧ください。
➾阿弥陀如来とは?
そして、この阿弥陀如来の本願には力がありのますので、その本願の力を、他力とか本願力というのです。
まとめると、他力本願の本来の意味は、すべての人の苦悩の根元を破る働きのこと。
他力といっても、他人の力ではなく、この本願力だけを言うのです。
これ以外は他力とはいいません。
他力本願とは、どんな極悪人も救う究極の救済力のことなのです。
他力本願の正しい使い方
では、「他力本願」はどのような文脈で使えばいいのでしょうか?
浄土宗や浄土真宗の救いに直結する、超重要キーワードですから、
正しい使い方は、浄土宗の法然上人や浄土真宗の親鸞聖人に聞くのが一番です。
浄土真宗の8代目の蓮如上人も含めて3人の方に聞いて見ましょう。
1.法然上人
浄土宗を開かれた法然上人は、他力本願をこのように使われています。
往生を遂ぐべきとおもう時に他力本願に乗ずるなり。
(法然上人行状絵図)
このように、法然上人は、「他力本願に乗ずる」という使われ方をしています。
「他力本願に乗ずる」の意味は、阿弥陀如来の本願力に救われる、
ということです。
ちなみに「往生を遂ぐべきとおもう時」といわれているように、
浄土往生間違いなしとハッキリしたときが、
他力本願に救われたときです。
念仏を称えれば救われるのではありません。
2.親鸞聖人
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、このようにいわれています。
名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生まるべし。
本願他力を深く信ぜん輩は、なにごとにかは辺地の往生にて候べき。(引用:親鸞聖人『末灯鈔』)
親鸞聖人は、「他力本願を信ぜざらん」「本願他力を深く信ぜん」と使われています。
ここで言い換えられて使われているように「他力本願」も「本願他力」も同じ意味で、阿弥陀如来の本願力のことです。
「他力本願を信ぜざらん」は、阿弥陀如来の本願力に救われていなければ、という意味です。
そして「本願他力を深く信ぜん輩は」の意味は、阿弥陀如来の本願力に救われた人は、ということです。
全体の意味
もう少し詳しく説明すると、「名号をとなう」とは、念仏を称えることです。
つまり全文を現代語訳すると、念仏を称えても、阿弥陀如来の本願力に救われていなければ、
どんな善人でも極楽浄土の片田舎の辺地にしか生まれられません。
ところが、阿弥陀如来の本願力に救われていれば、
どんな極悪人でも極楽浄土のど真ん中に生まれられるとハッキリする、
ということを親鸞聖人はおっしゃっているのです。
3.蓮如上人
浄土真宗を日本最大の宗派にまで広めた蓮如上人は、
他力本願をこのようにいわれています。
一心一向に阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、後生たすけたまえと申さん人をば、
みなみな御たすけあるべしと思いとりて、さらに疑いの心、ゆめゆめあるべからず。
これすなわち弥陀如来の御ちかいの他力本願とはもうすなり。(引用:蓮如上人『御文章』)
蓮如上人は「弥陀如来の御ちかいの他力本願とはもうすなり」と使われています。
全文を現代語訳すると、阿弥陀如来に救われた人は、いつ死んでも極楽往き間違いなしとハッキリして、
苦しみ迷いの根元はまったくなくなる、これが他力本願なのだ、
ということです。
他力本願を他人の力に任せるという意味に使うのは論外で、
いずれも「阿弥陀如来の私たちを救う働き」という意味で使われています。
このような本当の他力本願の意味は、普通はほとんど知ることができません。
世間ではどのように言われているのでしょうか。
仏教辞典の間違い
例えば仏教辞典には、こうありました。
「阿弥陀仏が衆生を救済する誓願が成就して、衆生の極楽往生が決定している」
これは、これまでに挙げた法然上人、親鸞聖人、蓮如上人のいわれていることと異なることに気づかれたのではないでしょうか。
法然上人なら、往生を遂ぐべきと思ってはじめて他力本願に乗ずるので、それまでは極楽に往生できません。
親鸞聖人なら、名号をとなえていても、他力本願を信じなければ、極楽往生はできません。
蓮如上人なら、一心一向に阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、後生たすけたまえと申さなければ、極楽往生はできません。
極楽往生は決定していないのです。
このような間違いを、浄土真宗では十劫安心といわれます。
阿弥陀仏の誓願が成就して、苦悩の根元を断ち切って、未来永遠の幸福にする働きは成就したのですが、その働きによって、苦悩の根元を断ち切って頂かなければ、極楽往生はできないのです。
分かりやすくいいますと、薬のでき上がったのを、病気の治ったことと早合点した間違いです。
薬ができていても飲まねば病気は治りません。
このような誤解は昔からあったため、蓮如上人はこのようにいわれています。
「十劫正覚の初より我等が往生を弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬがすなわち信心のすがたなり」といえり。
これさらに弥陀に帰命して他力の信心を獲たる分はなし。(引用:蓮如上人『御文章』)
阿弥陀仏は、十劫という遠い昔に私たちの往生を定めてくだされたと知っていればいいと思うのは大間違いだということです。
実際、遠い昔から極楽往生が決定しているとすれば、なぜいまだに迷いの世界である人間界に生まれて、極楽に生まれていないのか、説明がつきません。
このように、仏教辞典を書くような専門家でも間違ってしまうのですから、一般の人が他力本願について聞いても、みんな間違ってしまいます。
他力本願の意味を聞いた人の誤解
一般的には、他力本願を他人の力に任せるというのは間違いだと聞いても
このような誤解をする人が多くあります。
たとえば
「ああなりたい、こうなりたいという願いやはからいを捨てるのが他力、
はからいをすてれば浄土へ往ける」という誤解です。
これは「はからいをやめて何もしない無力こそ他力だ」という誤解です。
また、「あれが足りない、これが足りないと不足に思うのではなく、
今あるものに感謝する……生かされていることに感謝というのが他力」
という誤解もあります。
「周囲のご恩に感謝しながら生きることが他力だ」と誤解しているのです。
一般人でもそうですが、本を書くような知識人でも、
自分を超えた大いなるものの力だと思っている人もあります。
他力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が、
自分の生き方を支えているという考え方なのです。
(五木寛之『他力』)
五木寛之氏が言うような、自分の考え方というのは「自力」であって、他力ではありません。
自分の考え方はもちろん自力ですし、
阿弥陀如来を疑わないように信じるのも自力なら、
はからいを捨てようとするのも自力です。
捨てようとする心も自分の心だからです。
他力と自力については重要な内容ですので、以下で詳しく解説しています。
➾自力と他力の違い
他力本願を誤解する原因
世間ではなぜこのような誤解ばかりが蔓延しているのかというと、それには理由があります。
それは、仏教には、苦悩の根元が教えられており、それは一人一人の心の中にあるのですが、それがどんな心か分からないからです。
そして、苦悩の根元が分からなければ、それがたちきられたらどんな幸せになるのかも分かりません。
それで、苦悩の根元を解決して未来永遠の幸せになったわけでもないのに、これが仏教に教えられている幸せだろうと思い込んで考えているから、他力本願も誤解してしまうのです。
他力本願は正しくは、苦悩の根元をぶち破り、未来永遠の幸福にする働きです。
苦悩の根元も未来永遠の幸福も分からず、
他力は、感謝して生きるとか、自然の力とか、自分の考え方というような誤解をしてしまい、
他力で獲られる幸せを、快適に生活できるという程度の、続かない幸せだと思ってしまっていまい、
仏教辞典にまで載せて間違いを広めてしまうのです。
他力をこんなものだと思っていたら、本当の幸せにはなれません。 まずは、他力本願の正しい意味をよく聞くことが、非常に大切です。
他力本願とは永遠の幸福にする働きのこと
今回は、他力本願の本来の意味を、詳しくわかりやすく解説しました。
他力本願とは、他力も本願も同じ意味であり、阿弥陀如来の本願力のことです。
阿弥陀如来の本願力とは、苦悩の根元をぶち破り、未来永遠の幸福にするお力のことをいうのです。
また他力本願の使い方について、法然上人、蓮如上人、親鸞聖人のお言葉を通して解説しました。
いづれも他力本願を「阿弥陀如来に救われた」という意味で使われています。
さらに他力についての誤解もいくつか紹介しました。
他力本願の意味を正しく理解して、
未来永遠の幸福になっていただきたいと思います。
では、他力本願によって破られる苦しみ迷いの根本原因とは何なのか、
どうすれば他力本願に救われるのかについては、仏教の真髄ですので、
分かりやすいように以下のメール講座と、電子書籍にまとめてあります。
一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)