唯我独尊な人は謙虚?
天上天下唯我独尊
「天上天下唯我独尊」というと、昔からよく夜中にバイクを乗り回している元気な若者たちが、橋の下にスプレーで書いたり、特攻服の背中に書いたりしてますよね。
日本が誇る世界的に有名な『東京卍リベンジャーズ』というマンガでも、特攻服に「天上天下唯我独尊」と書いてあるので、フランス人などでもマネしている人達が世界中にたくさんいます。
大変仏縁深い若者だと思います。
それというのも、「天上天下唯我独尊」という言葉は、世界の三大聖人といわれてもトップにあげられるお釈迦さまのお言葉だからです。
ただ、「唯我独尊」というのは、お釈迦さまのお言葉であることからも分かるように、
「オレが一番偉いんだ」とか、
「オラオラおめーら、虫けらどもめー」という意味ではないので、
若者たちは、何か誤解している可能性もあります。
「天上天下唯我独尊」の次に、「三界皆苦吾当安此」という言葉が続きますが、
「天上天下唯我独尊の本当の意味」は、どのようなものなのでしょうか?
天上天下唯我独尊の読み方
まず、「天上天下唯我独尊」は、どのように読むのでしょうか?
「天上天下唯我独尊」の読み方は
「てんじょうてんがゆいがどくそん」と
「てんじょうてんげゆいがどくそん」の
2通りあります。
これはどちらでも構いません。
『日本語大辞典』には、「『天下』は『てんげ』とも読む」とか
「『天下』は『天下』とも読む」
とあります。
「上下」の場合は「じょうげ」と読みますから、
「てんじょうてんげゆいがどくそん」とも読みますし、
聞いたときのイメージのしやすさは、
「てんじょうてんがゆいがどくそん」
のほうが分かりやすいという人が多いようです。
辞書での意味
天上天下唯我独尊の意味を辞書から引用してみます。
「世の中で自分一人だけがすぐれているとすること。ひとりよがり」
(引用:『広辞苑』第七版)
「自分だけがすぐれていると自負すること」
(引用:『岩波国語事典』第七版)
「世の中に自分ほどすぐれているものはないと、うぬぼれること」
(引用:『明鏡国語辞典』第二版)
「自分がただひとりの存在であるということ。〔自負・自尊の意にも、うぬぼれの意にも使う〕」
(引用:『新明解国語事典』第七版)
「自分だけがえらいとうぬぼれること。ひとりよがり」
(引用:『日本語大辞典』)
などと記載されています。
こういう意味が、一般的に使われているということです。
この言葉の語源は仏教なので、仏教の意味ということで別の意味が書いてある辞書もあります。
どんなことが書かれているかというと、このような雰囲気です。
「宇宙間に自分より尊いものはないという意」
(引用:『広辞苑』第七版)
「天地間にある我よりも尊い存在はないということ」
(引用:『明鏡国語辞典』第二版)
「宇宙の中で自分(自身)ほどとうといものはない」
(引用:『漢字源』改訂第五版)
「宇宙間で自分が最もたっとい。人格の尊厳を表したことば」
(引用:『新漢語林』第二版)
学研『日本語「語源」辞典』では、「自分だけがすぐれていると、うぬぼれること」としながら、
「本来は、生まれながらに備わる人間の尊厳を言い表したことば」と記されています。
つまり、人間は他人と比べる必要はなく、存在そのものとが尊いということです。
このように世間では、自惚れとか独りよがりという意味で使われていますが、お釈迦さまの言われたお言葉としては論外です。
そして、国語辞書より漢和辞典のほうがちょっと尊い意味が書かれていることが分かりますが、それでも辞書では、人格の尊厳、人間の尊厳を表しているという意味が限界です。
ですが、「天上天下唯我独尊」には、もっと深い意味があります。
まず、お釈迦さまはこのお言葉をどんな時に言われたのでしょうか?
天上天下唯我独尊の由来
このお言葉は、お釈迦さまがお生まれになられたときのお言葉です。
ルンビニー園という花園で、この世にお生まれにられたお釈迦さまは、つぶらな瞳をはっきり見開かれ、よちよちと東西南北に7歩ずつ歩かれます。
そしてもみじのような右手で天をさし、
左手で地を指さされ、はっきりと
「天上天下唯我独尊」
と言われたと説かれます。
これを「七歩の行人」ともいいます。
あの花祭りのときに甘茶をかける右手で天を、左手で地を指さされた、生まれたばかりのお釈迦さまが言われたお言葉です。
でも、お釈迦さまのお言葉ということは、もし天上天下唯我独尊が
「この世でオレが一番偉いんだ」
という意味なら、お釈迦さまが言われたことと合わなくなります。
普通、自分で自分を偉いという?
普通、「自分は偉い」と自画自賛する人は、あまり偉い人ではありません。
「実るほど頭をたれる稲穂かな」
という歌もあります。
稲も、まだ若くて青いときは、ツクンツクンと天に向かって突っ立っていますが、だんだん秋になって実ってくると、頭が下がってきます。
それと同じように人間でも、まだ若くて青二才といわれるときは、自惚れて頭が高く、反り返って虚勢を張っているものですが、だんだん円熟してくるほど、頭が低く、腰が低くなるということです。
「自分で自分が偉い」という人は、まだそんなに人格を高めているとはいえないのです。
ところがお釈迦さまといえば、世界の四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられる方です。
こんな、大人なら誰でも知っているようなことが分かられないはずはありません。
「天上天下唯我独尊」は、
「オレがこの世で一番偉いんだ」
という意味ではないのです。
では、どんな意味なのか。
「天上天下唯我独尊」の本当の意味について解説します。
天上天下唯我独尊の本当の意味
天上天下唯我独尊の本当の意味を明らかにする上で、少し細かく区切って、分かりやすく説明します。
天上天下の意味
まず「天上天下」とは、
「天の上にも天の下にも」ということで、
「大宇宙広しといえども」ということです。
唯我の意味
次に「唯我独尊」の唯我の意味ですが、
「我」は、オレとか私という意味ではありません。
我々とか私たちということです。
なぜそんなことが分かるかというと、このあとお釈迦さまは、
「三界皆苦 吾当安此」(三界は皆苦なり。吾まさに此に安んずべし)
といわれて、この一節では、ご自分のことを「吾」と言われているからです。
ですから「唯我」とは、ただ、私たち人間だけに、ということです。
人間以外には何があるのかというと、仏教では、私たちは、果てしない遠い過去から、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの迷いの世界「六道」を、生まれ変わり死に変わり、輪廻転生を繰り返していると教えられています。
「唯我」とは、その六道の中で、ただ私たち人間に生まれたときだけ、ということです。
六道について詳しくは下記をご覧ください。
➾六道の意味と六道輪廻とは?輪廻から抜け出す(解脱する)方法
独尊の意味
「独尊」とは、たった一つの尊い使命がある、ということです。
「使命」とは、「命を使う」と書きますように、
「命の使い道」のことで、究極の目的のことです。
「独尊」とは、たった一つの究極の目的がある
ということですから、
「唯我独尊」とは、「私たち人間に生まれなければ果たすことのできない、たった一つの究極の目的がある」ということです。
ですから、「天上天下唯我独尊」とは、
「犬や猫、虫けらに生まれたら果たすことのできない、
私たち人間に生まれたときしか果たすことのできない、
たった一つの目的がある」という意味です。
だから、「どんなに苦しくても自殺してはいけませんよ、その目的果たすまで、生き抜きなさいよ」とお釈迦さまは教えられています。
ではそれはどんな目的でしょうか?
唯我独尊の目的とは?
それは、お釈迦さまがお生まれになって、
「天上天下唯我独尊」といわれるとき、7歩ずつ歩かれたことに関係があります。
7歩とは、6歩+1歩です。
「6歩」は、「六道」を表しています。
私たちが果てしなく遠い過去から、生まれ変わり死に変わり輪廻転生を繰り返している地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の「六道」です。
その苦しみ迷いの「六道」を出て離れることを6歩+1歩の7歩で表されています。
この六道輪廻から離れることは、仏教を聞かなければできませんが、仏教は人間に生まれたときしか聞けませんので、人間に生まれた目的は、仏教を聞いて果てしない苦しみ迷いの輪廻を離れ、未来永遠の幸せになることなのです。
それが本当の生きる意味なのです。
では「天上天下唯我独尊」の次の「三界皆苦吾当安此」とはどんな意味でしょうか?
三界皆苦の意味
「三界皆苦 吾当安此」の
「三界皆苦」は「三界は皆苦なり」と読みます。
「三界」とは「欲界」「色界」「無色界」のことで、いずれも迷いの世界です。
それぞれどんな意味でしょうか?
欲界の意味
まず「欲界」は、五欲のみで生きている世界です。
五欲とは、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五つの代表的な欲をいいます。
食べたい飲みたい楽がしたい、どうすれば楽に儲かるか、人から褒められるか、愛されるかと欲望のままに生きている世界です。
欲について詳しくはこちらをご覧ください。
➾欲とは?仏教でいう欲望(五欲)の意味や種類、なくす方法、対処法
色界の意味
次の「色界」の「色」とは物質のことです。
色界に生きる人とは、絵画や彫刻、書道や華道などの芸術に生きる意味を求める人です。
欲界で、お金や名誉、愛情を求めて努力しているうちに、欲望を満たす快楽は、やはり刹那的で続かないと分かってきます。
すると、芸術を求めたらいいのではないかと、芸術にも興味を持ちます。
五欲のみで生きるより高尚な世界です。
ところがこの世は諸行無常の世界です。
それは色界も変わりません。
形あるものはいつかは必ず滅びますので、芸術の感動も続きません。
どんなにすばらしい芸術を残した芸術家の人たちでも、やはり人生に満足できてはいないのです。
芸術もやはり、これ一つ果たせば、人間に生まれてよかったと大満足できる本当の生きる意味にはならない、ということです。
無色界の意味
最後の「無色界」は物質を超越した世界です。
無色界に生きる人とは、哲学や思想など、精神的なことに生きる人です。
諸行無常の世界では、形あるものは必ず崩れるとすれば、形のない、精神的なことに生きる意味を見いだせるのではないか、と考えます。
ところが哲学や思想の世界にも、結局、本当の生きる意味は見つかりません。
哲学者の人たちも、みんな生きる意味は分からないと言っています。
三界はみな迷いの世界ですから、
「三界は皆苦なり」とは、
どんな人の人生も苦しみである、ということです。
吾当安此の意味・お釈迦さまの宣言
次の「吾当安此」は
「吾、まさにここに安んずべし」と読みます。
「吾」とはお釈迦さまのこと、
「此」とは三界のことです。
「三界はみな苦しみの世界だから、ここでは幸せになれない、どこかへ行って幸せになろう」
というのではなく、
「この釈迦は、この三界にいながら仏のさとりを開こう。そして、苦しみ悩む人々を本当の幸せに導こう」ということです。
いまだかつて誰も行ったことのない前人未踏の道を自ら開拓し、すべての人が救われる道を切り開くぞ、という確固たる決意を示されたのです。
そのお釈迦さまのお言葉をまとめると、こうなります。
天上天下
唯我独尊
三界皆苦
吾当安此
(出典:『修行本起経』)
天上にも地上にも、ただ人間に生まれた時しか果たすことのできない唯一の尊いことがある。
どんな人の人生も苦しみである。
この釈迦は、この三界にいながら仏のさとりを開こう。
そして、苦しみ悩む人々を本当の幸せに導こう、
ということです。
これをお釈迦さまはお生まれになられてすぐに言われたと聞くと、
「生まれてすぐ歩いたりしゃべったりできるの?」
と思う人がありますが、そんなことができるかどうかは別として、お生まれになられたときのこととして説かれたのは、仏教にお釈迦さまは、そのような
「苦しみ悩むすべての人を本当の幸せに導く教えを説くぞ」
という一大宣言なのです。
ではどうすれば、生きているこの世で、苦しみ悩みを離れて、本当の幸せになれるのか、ということは、仏教の真髄ですので、分かりやすいように電子書籍とメール講座にまとめておきました。
今すぐ読んで見てください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)